汗だくのトレーニング着のままアルルバの四人が廊下を小走りで過ぎていく。四人の表情には懸念の色が浮かんでいる。
通路の天井から垂れた案内板に「医務室」の文字を認め、こっちだ、とシルクが先導した。目指す場所は合宿所内にある救護室だった。合宿シーズンは、利用者の怪我等に備えた医療スタッフがそこに常駐している。
通路を往くと、学校の保健室然とした小部屋が目に留まった。
「ここか。入るぞ」
ノックしたシルクが、医務室のプレートの架かった戸を引き開ける。
浜野の負傷を知ったのはその日の昼過ぎのことだった。二日目のトレーニングに打ち込んでいた四人だったが、午後になって、同じ練習場に居合わせたウマ娘から「浜野という人が医務室で手当てを受けている」という話を聞いたのだ。さらに聞けば、浜野は負傷した体で車を操縦し、ほうほうの体で合宿所まで戻ってきたというではないか。
さすがに心配になり、練習を中断して見舞いに馳せ参じたのだ。
「おい浜野さん、いるか?」
シルクは三人を引き連れて医務室へ入った。入室してすぐのところに診察用の椅子があり、奥にはカーテンで仕切られたベッドが数台置かれている。その中の一つに、上半身を起こしている浜野の姿を認めて駆け寄った。
四人に気付いた浜野は、気恥ずかしそうに苦笑いを浮かべる。
「やあ、君達か。いやはや、どうも見苦しい姿を見せてしまい恐縮だ」
薄い青色の患者衣を着た浜野は、ベッド上に伸ばした自身の左足に視線を落とした。つま先から太腿あたりまでを、ぐるぐる巻きの包帯が覆っている。
「これ、どうしたんですか」
痛々しい表情でランが訊ねる。
「骨折だよ」浜野は何食わぬ顔で云った。「外を歩いていたら……
四人は表情を曇らせた。特にランは、悔いるように頭を俯かせる。
「……それって、昨日言ってた、合宿所の周辺の見回りをする時に? だとしたら、私が浜野さんにあんな話をしなければ……」
「いやいや、ラン君の所為じゃない。私がひとりで転んだだけだ。君が気に病むことはないんだよ」
浜野は落ち着いた声で言い諭した。それでもランはしょげた様子だった。自分がスコップ男の話をしたことで間接的に浜野の怪我に繋がったのだと、負い目を感じているのだ。
「どのくらいで治るんだ? まさか一生ギプスつけたままなのか……?」
「はは、そんなわけないだろう」おずおずと訊ねるダッツを浜野は爽やかに笑い飛ばす。「お医者さんからは、一か月もあれば治ると言われたよ。松葉杖を使えば歩くことも出来るしね。ただ、合宿中の君達のサポートは、この状態では満足に出来そうにない。すまないね」
そんなこと気にすんな、とシルクは首を振った。
「アタシたちはてっきり、例のスコップ男に浜野さんが怪我を負わされたんじゃないかと心配だったんだ」
神妙な顔でシルクは告げた。
それは、浜野負傷の報を受けた時から四人が考えていた事だった。合宿所周辺の見回りに出た浜野が、早々にごま塩頭と遭遇、声を掛けたところトラブルに──そんな展開になったのではと危惧していたのだ。
「それならまだ格好もついただろうが、私は
浜野は、またも何食わぬ顔でそう云って自嘲した。
シルクは質問を続ける。細かな状況が気になった。
「車を運転して戻って来たって聞いたが……どういう状況で怪我したんだ?」
「早朝に車で合宿所を出たんだ、見回りをするためにね。周辺を何度か巡回して戻ろうとした時、
「ランニングコースのある河原までの道中か。何だってそんな所で……」
「面目ない。ただ、怪我をしたのが左足で幸いだった。何とか車を動かせたからね。徒歩ではまともに戻れなかっただろう」
浜野の車はAT車だ。クラッチ操作が無く、右足だけでアクセルとブレーキを使える。
「ふうん。それで、肝心のスコップ男は見つかったのかい」
「いや、残念だが見当たらなかったよ。時間帯が早過ぎたかもしれない。朝霧で視界も良くなかったからね」
「そうか……」
一通りの状況を浜野は澱みなく説明した。聞いた四人からすれば、話として矛盾は無い。
「さあさあ、僕のことなら心配要らないから、練習に戻りなさい。練習時間が勿体ないよ。例のスコップ男については、合宿所の職員に伝えるなりして対応するよう頼んでおくから」
一段落したところで浜野がそう促した。
彼の言う通り、今は練習を中断している。この日のトレーニングを十分消化しきらねば、以後の行程にも支障が出てしまう。
何となく腑に落ちないものがあったが、浜野がそう言うのなら、と四人は練習に戻ることにした。
「まあ、何か困ったらアタシ達に頼れよ」
「移動が大変でしょうから、遠慮なく言ってくださいね」
「オイラ、おんぶしてあげるぞ!」
シルク・ラン・ダッツに励まされて浜野は「これじゃ立場が逆だな」と苦笑いした。当初、困ったら頼ってくれと言ったのは大人である彼の方だ。
そうしてその場は解散すると思われた。アルルバの四人は医務室を退室するべく踵を返す。
だが、最後に退室しようとしたエリモが、ふいに立ち止まって振り返った。
「あの、浜野さん」
「どうしたんだい。エリモダンディー君」
エリモはしばし浜野の顔を見つめていたが、
「……いえ、それでは」結局何も問うことなく医務室から去っていく。
しかしこの時、浜野は内心動揺していた。自分を見つめてきたエリモの透徹した眼に、こちらの胸中を推し量られるような感触があった。
彼はベッドにもたれこみ、太く息を吐く。
(島原から聞いた通り、勘が鋭そうな子だ。この先注意せねば──)
***
夜風が吹いている。
その合間に、ざく、ざく、と一定間隔で音がしてくる。
灯火類も無く、月光だけが降り注ぐ山奥。
その明かりを頼りに、汗にまみれながら一心不乱にスコップを振るう影。
一体いつからそこにいるのか。どこからここへ来たのか。彼の中にそうした意識は薄い。
もう数週間もまともに寝食をしていない。疲労が溜まれば山を下り、街で最低限の物資を調達したら戻る。そんなことを繰り返している。
その道中で意図せず、麓の合宿施設のウマ娘と出くわすことがある。そのたびに男は、胃の底に鈍い痛みを覚える。この痛みの意味を思い知るたび、愕然と立ち尽くす。
何のために自分は此処へ戻って来たのか。
復讐か。
それとも──。
男はスコップを止めた。肩に掛けたタオルで汗を拭った。
塩水を飲む。味がしない。夜空を見上げると、星が煌々と輝いている。
否、迷うことなどない。
ただ一つの目的だけが、彼を衝き動かしている。