携帯電話の受話口から呼出し音が続く。十回以上鳴ったのち、ようやく通話が繋がった。
通話相手がものぐさなのか、それとも着信を躊躇していたのか、浜野には察しがついている。
「やあ、島原。店番中だったかな。……筋肉痛で今日は休み? ははあ、それは何より。
それより今日の昼のことなんだが、シルク君が『彼』と接触した。合宿所近くの河で地元の子供達と交流していた際、子供が一人溺れたらしくてね。それを助けようとシルク君が河に入って、岸に上がる際に彼が現れて手助けしたようだ。
ああ、うん……大事にはなっていないよ。怪我をした者もいないし、穏便に済ませている。
シルク君かい? ……ああ、そうだね……平静を装っていたが、動揺しているようにみえた。『兆候』こそまだ表れていないが、接触の影響は今後懸念すべきだろう。
やはり心配かい? 一応君が担当トレーナーだものな。……ふふ、そうだな。シルク君を守り抜くことがアイツとの約束だものな。
やはり、こちらに来る気は起きないかい。……うん……うん……そうかい。別に謝らなくていい。君の事情は分かっている。こっちの処理は任せてくれ。
合宿期間はあと一週間だ。無事に済むよう尽くすよ。
それではまた」
電話を切った浜野は畳の上に横になった。合宿所の自室である。夜も更けて窓の外は暗い。
動き出している。目に見えない大きな何かがゆっくりと。天井を見つめながら浜野はそんな風に思い浮かべる。自分たちはそんな大きな力の前に、右往左往してさまよっているだけなのではないかとも思う。
それでも為すべきことは果たさねばならない。
自分たちには使命がある。賭博化により競走界を暗黒に引き摺り込もうとしている黒霧とは全く異次元の、破局をもたらす使命が。たとえ大罪人の誹りを受けることになろうとも進まねばならない。
さもなくば、あの子は報われない。志半ばで純真無垢な魂をターフに散らせた我が子が──。
浜野は感傷を振り払うように身を起こした。夜も更けている。大浴場にも門限があるので、着替えを取り出し入浴準備を始めた。
骨折した左足は今も治療中だ。包帯を巻いたままなので入浴には面倒だが、夏場に風呂に入らないわけにもいかない。
自室を出る前にテレビの電源を落とそうとリモコンを手に取った。気を紛らわそうと、音量を落としたままずっと点けていたのだ。
しかし電源ボタンを押そうとしてとどまった。画面には民放のニュース番組が映っている。その内容が浜野の気に掛かった。
『次に気象情報です。マリアナ諸島で発生した超大型の台風13号は非常に強い勢力を保ったまま、南西諸島に接近しています。進路予測では来週末に日本へ最接近するとされ、各地への被害が懸念され──』
***
その日は朝から悪天候だった。大型の台風が接近しているらしく、明け方から雨が降りしきり風も強まってきている。合宿所のインフォメーションボードには屋外練習禁止の貼り紙が張られ、職員が屋外の物品収容や耐風シャッター展開に奔走していた。嵐に備え警戒態勢に入ったといえる。
非常に強い勢力を保ったままの台風はこの日、合宿所の所在する地方に最接近する予報だった。既に通過した地域では多くの被害が確認されていて、今後の進路上でも爪痕を残すことは必至とみられている。
そんな状況下でも一応、屋内のトレーニング施設は開放されていた。外に出られなくなったウマ娘はせめて体を訛らせないようにと、各アリーナやジム、プールなどで練習をしていた。とはいえ彼女達の姿はいつもより覇気が欠けて見える。嵐が迫る中、仄暗く湿気の増した屋内での活動は気が塞ぐのだろう。
アルルバの四人もジムでトレーニング器具相手に格闘していたが、やはり他のウマ娘達と同様に身が入らない。
「ふう。これで午前の調整メニューは終わり。それにしても合宿の締め括りがこれじゃ、なんだか締まらないわねえ」
浮かない表情のランがバーベルをラックに戻し汗を拭う。
その横で耳の萎れたダッツが相槌を打った。
「ホントだぞ。なんでこういう日に台風が来ちゃうかなあ。オイラ、最後は外で走り回りたかったのに!」
アルルバの四人はこの日が合宿最終日だった。翌日朝には帰路につく段取りなので、この日の練習が最後となる。元々は合宿の成果を確認するため屋外コースで模擬レースを予定していたが、台風接近につき白紙となった。よって、最終日は無難な調整メニューのみに留めるという、物足りない締め括りとなっていた。
「二人とも、お待たせ……」
ルームランナーをしていたエリモもメニューを消化し、タオルで顔を拭きながら近付いてきた。
「エリモちゃんも午前のメニュー終わったのね。じゃ、少し早いけれどお昼にする? 今ならまだ食堂も空いてるだろうし」
「うん……そうだね」
「オイラ、まだイマイチお腹が空かないなあ」
万年空腹のダッツがらしくないことを言うので、二人は苦笑する。しかし内心では同感だった。最終日はもっと体を動かすつもりで調整してきたのが、屋内調整で茶を濁すのみとなったので、思うように腹が空かないのだ。
「まあ、取り敢えず行きましょう。おーい、シルク!」
ランが声を張った。ジムの隅の休憩用ベンチで、窓の外を眺めていたシルクがおもむろに顔を上げた。どこかぼんやりした表情をしている。
「皆揃ったから、お昼に行きましょうよ」
「ああ……」首に巻いたタオルを取りシルクは腰を上げた。彼女は三人より一足早く練習メニューを終えて黄昏れていたのだ。
合流した四人は食堂へ向かう。通路を行き交う人数の少なさから、まだ混雑はしてなさそうだ。
「ご飯の前にお手洗いに行くぞ」
食堂目前でダッツが云った。
「私もそうするわ」
「あ、私も……」
ランとエリモも手を挙げる。
「アタシは席を押さえておくよ」
シルクは手を振って先に行ってしまった。どうやら手洗いも既に済ませていたらしい。
お言葉に甘えて三人は手洗いに向かうことにする。しかし一旦別れて通路の角を曲がった直後、ランが不安げに切り出した。
「やっぱりシルク、最近様子が変よね。さっきも練習後、ひとりでぼうっとしてたみたいだし」
「そうだなー。なんか、らしくないぞ。いつもなら暇があれば追加で自主トレとかしてるのに」
ダッツが同意し、エリモも伏し目がちに首肯した。
近頃、シルクが物思いに耽るような姿が度々みられるようになった。冷静沈着で動くときはきびきびと何でもこなす従来の彼女からすれば、不自然なことだった。
様子がおかしくなった時期もラン達には分かっていた。河原で流されかけて例のスコップ男に救われた時からだ。
たしかにあの時は騒然となった。不慮の事故で子供が一人流されかけたのだ。他の子供達は慌てふためき、自分達も気が動転した。シルクが咄嗟に潜ることで最悪の事態は免れ、その後は一応監督者の浜野にあらましを報告したが、話が大きくならないようにうまく纏めてくれたらしい。
だがこの時──スコップ男と接触した時だ──のことを、シルクはあまり話そうとしない。救出された際に二言三言喋ったらしいが、「その時は必死だったからよく覚えていない」とシルクは曖昧に濁すのだ。
必死なのは確かにそうだっただろう。しかしそれ以来、しばしば隙をみせ何かを心慮するようなシルクの姿をみて、奇妙に思わずにはいられない。あのスコップ男と接触した際、シルクの心境を揺さぶる何かがあったのではないか。というより、シルクは意図して明言を避けているのではないか。そんな気配すら感じられるのだ。
とはいえ溺れかけた子供を救った功労者に、それ以上のことを無理に聞き出すのも野暮だ。よってスコップ男に関する追及はさして行われず今に至っていた。
手洗いを済ませて三人は食堂に入った。タイムラグがあったので、混み始めて席が埋まりかけている。
シルクはテーブル席にぽつねんと座っていた。宣言通り席取りをしてくれたようだが、頬杖をつき先程のように茫然と窓の外を眺めている。よく見ると口が半開きになっていた。
三人は躊躇いがちに席につく。気付いたシルクはおう、と応じた。
「昼食、もうオーダーしといたよ。今日はみんな日替わりセットでよかったよな」
「あぁ……ありがとね」
「段取りいいなー、いつもながら」
ランとダッツに囃されながら、シルクはセルフの水とお手拭きをさっさと配った。無愛想ながらこういう気遣いをする点は以前と変わらない。
しかしこの後もシルクは、いつの間にか話の輪から離れあらぬ方向をぼうっと眺めるという仕草を繰り返した。料理が届いてからも、食事中にふと箸が止まって何かを思案するような顔を何度もした。
「……スティスちゃん。ジャスティスちゃん、聞いてる?」
エリモに呼び掛けられ、シルクは肩を小さく跳ねさせた。午後のトレーニング談義をしていたところだった。
「な、なんだ」相手がエリモだったからか、少し眉を寄せてシルクは応じる。「おどかすな。聞こえてるって」
「じゃあシルクは何がいいと思う?」ランが横から挿し込む。
「何がって?」
「午後練をどうするか話してたの。あなた、話聞いてなかったでしょう」
ランにため息を吐かれ、シルクはむっとした。「何だよ。アタシはなあ──」咄嗟に何かを言い返そうとする。が、結局そのまま黙り込んだ。話を聞いていなかったのは図星だからだ。ばつが悪いのか、視線を逸らして髪を弄りだす。
ランはダッツとエリモにさっと目配せしたのち、意を決して訊ねた。
「ねえ。最近のあなた、ちょっと変よ。なんだかぼうっとしがちというか。いつものシルクらしくないなって思うわ」
少々強引だがこの際だ。三人はシルクがスコップ男と接触後に様子がおかしくなったことについて深く聞こうと考えた。その口火をランが切ったのだ。
「変って、別にどうもしねえよ」
「そうかなあ。さっきだって、何か考え込んでるみたいだったぞ」ダッツもいう。
「アタシが何か考え込んだりしちゃ悪いのかよ」
シルクは苛立たしげに机を指で小突きながら応じる。
「ずばり聞くけど、あなたの様子が変わったのは、この前スコップおじさんに助けられた時からじゃない。あの時本当は何かあったんじゃないの」
直截にランが訊ねた。ここしばらく誰も踏み込まなかった疑問をぶつけた。
だがこの問いにシルクは目を大きく開け、軋らせた歯を剝いた。
「しつけえなっ。あんなみすぼらしいオッサンのことなんか、アタシは知るわけ……」
突如語勢を荒げたシルクに、三人は身を竦ませた。不良節のシルクだが、こうも短絡的に沸騰することはまずない。何が気に入らなかったのか。
しかし直後、そんな懸念を霧散させる予想外のことが起きた。続けて怒声を発するかと思われたシルクがふいに口を噤むと、顔を顰めてテーブルの上に突っ伏した。頭痛を堪えるように、両手で頭を抱えている。
「ちょっと、どうしたの?」
「シルク、どうしたんだ。頭、痛いのか?」
心配になって覗き込むランとダッツ。
シルクは小さく唸り声を上げている。
「っ……、なんでもねえ」
時間にすると十秒足らずだったろうか。シルクはおもむろに顔を上げた。額からは変な汗が滴っている。
「ほ、本当に大丈夫なの?」
「頭痛薬なら、オイラ持ってるぞ。部屋から取ってこようか?」
「なんでもねえって。これまでの疲れが出ただけだ」
シルクはふんと鼻を鳴らしていう。だが無理に平静を装おうとしているのが見て取れる。
「ジャスティスちゃん」
エリモがいった。凛とした声だった。
思わずシルクは顔を向けた。エリモと目が合う。そして瞬間的に怯んだ。
エリモの澄み切った、心を見透かしてくるような眼差し。それが本能的に、シルクに拒絶反応を呼び起こそうとする。
「ジャスティスちゃん」もう一度エリモは問う。「本当は、何か知っているんじゃないの。あのスコップのおじさんのことを──」
「知るか! 知らねえったら知らねえ」
質問を押し退けるようにシルクが云い返した。思わず身を乗り出しての激発した声だった。
勢い余り、テーブルが揺れてシルクのコップがひっくり返った。零れた水が机上に広がり、床へと滴っていく。
「……ったく!」
シルクは舌打ちして備付けの紙ナプキンを掴み取った。それで自分が零した水を拭い取る。机上を拭き終えると、四つん這いになって床に滴ったものも清掃する。
手伝うことも憚られ、三人はその様子を気まずそうに見守っていた。身を屈めて床拭きするシルクの背が、心なしかいつもより心許なくみえる。