午後からの練習は気まずいの一言に尽きた。
昼食以降すっかりへそを曲げたシルクは、それから仏頂面で調整メニューを黙々と消化した。トレーニング上必要なやりとりには応じるが、それ以外はむすっとして距離を取り、そしてやはり時々思い出したかのように漫然と遠くを見るような仕草をみせた。
ダメ押しでその晩、合宿所での最後の食事はもはや通夜同然になった。
打ち上げの意味を込め、最後ばかりはカロリー計算抜きにたらふく食べる魂胆で、アルルバ一同はバイキングで大量の料理を取ってきた。今後への決起会を兼ねた晩餐にしようと、もとよりそう決めてあったのだ。ところがその場の空気も、依然物憂げなシルクが早々に「疲れてるから、先に部屋へ帰る」とイチ抜けしたことで尻すぼみに終わった。
どうもただ事ではないようにラン達三人は思い始めた。先程のやり取りでも、例のスコップ男を話題に出した途端にシルクの態度が険しくなった。やはり彼に関わったことにより、何らかの影響があったのではないか。
とは言えこれ以上シルクを追及しても、火に油を注ぐだけだ。ひとまず現状維持のまま、合宿を終えてから追々確かめようという結論に落ち着く他なかった。
最後の晩餐に残った三人も、食欲はすぐ引っ込んでしまった。目一杯食べようと意気込んでいたデザートも一皿で済ませると、何とも言えない沈黙に包まれた。
窓の外では雨がしぶついている。暴風圏は抜けつつあるようだが、荒天はもうしばらく続くらしい。
食堂のテレビは今なお台風関連のニュースを流し続けていた。それによるとやはり各地に被害が出たようで、風水害で破損した建物や、崩落した土地の映像が続々と映し出されている。被害を免れた地域でも以後、雨風で地盤が緩んだことによる土砂崩れが起こり得るという旨の注意喚起がされていた。
「私達も、もう部屋に戻ろっか」
ランが小さく溜め息を吐きながら云った。晩餐会が当初の目論見通りにいかなかったことへの不足感と、シルクへの憂患が綯い交ぜになった溜め息だった。
「うーん、そうだなあ」
食いしん坊のダッツもここは首を縦に振る。
心配そうな表情のエリモも黙って顎を引いた。
「おや、皆。もう食べ終えてしまったか」
そこへ、こつこつと音を立てながら浜野が現れた。
「遅くなったね。内職がどうもきりのいいタイミングが無くて。おまけにこの足だ、未だに慣れず食堂に辿り着くだけでも時間がかかってしまった。本当に申し訳ない」
両手に持った松葉杖をこつこつ鳴らしながら、彼は頭を下げた。
三人は浜野の事をすっかり忘れていたので苦笑いを浮かべた。合宿中の活動は放任されているが、一日一回は連絡のために会う取り決めがあった。それを失念するほど、この日はシルクへの懸念が膨らんでいたのだ。
その三人の雰囲気と、シルクの不在で察したのか、浜野は視線を巡らせた後に嘆息して席に座った。
「どうやら揉め事かな。やはりシルク君のことかい?」
三人は黙って首肯した。そうか、と浜野は唸りながら側頭を掻く。
シルクの異変について浜野は承知済みだ。三人は既に一度、シルクが席を外したタイミングでそれとなく相談したことがあった。スコップ男との接触でシルクの様子がおかしくなったことは把握している。
「彼女はもう部屋に戻ってしまったようだね。また思い詰めていたのかい?」
「そうみたいです。でもどうしてシルクがあんなに気を揉むのかな。仮にも流されそうになったところを助けてくれた相手にさ」
「そうだなー、なんか、あのオジサンの話題に触れたくないような感じだぞ」
もっというと、まるで必要以上に怯えているようにもみえる。変質者じみた相手とはいえ、あのシルクが身じろぎするのはやはり不自然に思えた。
しばらく浜野も交えて会話が続いた。それでもやはり、現状ではこれといってシルクのためにしてやれる策は浮かばない。
「シルク君のことは、無理に刺激せず見守ってあげるのが一番だと思う。帰ったら島原にも、フォローするよう伝えるよ。今日はこれで解散しよう。シルク君を一人にしておくのも悪いし、君達も部屋に戻って休みなさい」
自分の食事を食べ終えた浜野はそういって脱力した。
浮かない顔をしたラン達だが、頷く他なかった。
「明日は早めに出発するよ。台風の余波で、道路の通行止めが各地で発生しているみたいだ。府中まで時間が掛かるかもしれないからね」
明朝の行程をざっと説明したのち、浜野は解散を告げた。
おやすみなさい、とラン達も部屋に戻ろうとする。
「ジャスティスちゃんは」しかし別れ際、エリモがぼそっと浜野へ問い掛けた。「あのスコップのおじさんのことを、本当は知っているんじゃないでしょうか。この合宿所に来る、前から」
浜野は足を止めた。慎重な面持ちで振り返る。
「どうしてそう思うのかな」冷静に問い返す。
エリモはすぐに応じず、じっと浜野の顔を凝視していた。何かを見定める表情だった。
「なんとなく、そんな気がしただけです」やがてそう答える。
会話は途絶えた。浜野は踵を返そうとする。
「浜野さんは」そこでまたエリモは口を開いた。「スコップのおじさんと──」が、何かを尋ねかけて途中で口を噤んだ。
「どうしたんだい」
「いえ……何でも」エリモは首を振った。
「そうかい」
「すみません。変な事訊いちゃって」
「いいんだよ。おやすみ」
「おやすみなさい」
今度こそ両者は別れ、食堂前の廊下を別方向に進んでいった。
一つ目の角を曲がったところで、浜野は壁にもたれ掛かった。じわりとこめかみに汗が流れている。
やはり勘付かれている、と浜野は思った。
先程エリモは一つ目にこう尋ねた。シルクはスコップ男のことを本当は以前から知っているのではないかと。
はぐらかしたが図星だった。浜野はそれについて実は深く認知している。
そして二つ目の質問だ。浜野さんはスコップおじさんのことを──と途中で言葉を切ったが、本当はこう尋ねようとしたのではないか。
浜野さんはスコップおじさんとどういう関係なんですか、と。
要するにエリモは、あたりをつけているのだ。シルクとスコップ男、そして自分との関係に。
(やはり油断ならない子だ)
腕を組みながら、浜野は自室へ歩き出した。
通路の窓の外は夜闇が覆っていた。まだおさまらない雨風の音が不気味に響いてくる。
***
その夜は早めの就寝となった。三人が部屋に戻ると既に布団が敷かれていた。合宿所にベッドメイクのサービスなど無い。先に戻ったシルクが気を利かせて全員分済ませておいたのだろう。当のシルクは先に布団に横たわり茫然と天井を見上げていた。
さして会話も弾まず、早々に消灯することになった。各々布団に潜り込み、電灯を消す。今日までの疲れが出たのか、ダッツはすぐに寝息を立て始めた。それに苦笑しつつ、ランとエリモもすぐ眠りに落ちていく。
シルクはなかなか寝つけなかった。雨風の音がどうも耳障りに感じる。疲れはある筈だが妙に目が冴えて仕方ない。
彼女の脳裏に、様々なものが渦巻いていた。あのスコップ男のこと。彼と邂逅してから去来する胸のざわつきと頭の鋭い痛み。
昼間、エリモにずばり問われた。自分はスコップ男のことを知っているのではないかと。言下に否定したが、心の狼狽は隠せなかった。
知らない筈、会ったことなどない筈だ。その一方で、河で手を差し伸べられ間近で対面した際、頭の奥で何かが反応した。アタシはこいつを知っている。いつか、どこかで、会ったことがあるような──。それを思い返すたび、頭の中で灰色の砂嵐が渦巻く。
(クソッ)
口の中で毒づき、乱暴に寝返りをうった。何を思い患っているのか。あんなヤツと関係などない。そう念じて仰向けになり目を瞑る。
その時再び、頭の奥がツンと痛んだ。万力できりきりと締め付けられるような鋭痛だった。
またかよ。手で額を押さえ、これまでのように痛みをやり過ごそうとする。
ところがこの時、唐突に脳裏に浮かび上がる光景があった。それは非常に短い間隔で次々とフラッシュバックし、瞼の裏でスライドショーのように流れた。
──見知らぬ大人達に囲まれた、自動車の後部座席。
──どこか山奥の、古ぼけた建屋の玄関。
──仰向けの視界に映る、手術衣を纏う者たちと眩い医療照明灯。
──『引き続き調整を要します』という誰かのくぐもった声。
──薄暗いコンクリート造りの廊下。
──ブロンズ鋳造の銘板に刻まれた『ウマ娘綜合科学研究所』の文字。
(なんだ、こ……れ)
いずれも靄がかかったように曖昧な光景の数々だが、それらは幾度も繰り返し再生される。それに併せて徐々に頭痛が加速していく。きん、と遠い耳鳴りも始まった。
「ぐ、……あぐあぁぁ」
堪えきれずシルクは布団の上で悶絶した。脳が焼き切れるかと思わんばかりの苦痛だった。
「ジャスティスちゃん……!?」
飛び起きたエリモが、どうしたの、と覗き込んでくる。
「なに、どうしたの」
「わ、シルク、どうしたんだ」
ランとダッツも目を覚まし、心配そうに近寄ってきた。
「チョウセイ、しな、きゃ……」
三人に見守られる中、悶絶するシルクは絞り出すように云う。目の焦点は合っていない。
「調整? 調整なら今日のトレーニングでやったぞ!」
ダッツが真顔で返す。そういうことじゃない、と突っ込める者はこの状況ではいない。
やがてシルクは顔を顰めながら這うようにして布団を出た。悠然と立ち上がると、寝室のべランダへふらふらと歩み寄り、戸を開け放つ。
「ちょっと、シルク」
「お手洗いならそっちじゃないぞ!」
仲間の声にも耳を貸さず、シルクは覚束無い足取りでベランダに出た。ベランダより外側はすぐ合宿所の敷地外となり、夜闇に覆われた森林が広がっている。
「いかな……きゃ」
まさか、と思った時には、シルクはベランダの手すりに足を掛けていた。ふわりと跳び上がったと思うと、彼女の身は夜闇に舞った。