外に出ると生暖かい雨風が吹きつけてきた。夜には台風はほぼ抜けきると報じられていたが、まだ余波が続いている。それはこれから訪れる不穏な展開を暗示するかのようだ。
「ジャスティスちゃん、どこ!?」
「おうい、シルク! 返事しろー!」
合宿所の門の外で、エリモとダッツは森に向けて声を張り上げた。だが二人の声は雨風に搔き消され、全く響かない。
「二人とも!」
正門からランが切迫した表情で駆け出してきた。後ろには、松葉杖でぎこちなく歩いてくる浜野の姿も見える。
シルクが部屋から飛び出してまだ数分。エリモとダッツはすぐさま外に出てシルクの消えた方向を探していた。ランは事態を報せるべく浜野のもとに赴いていたのだ。
「シルクはいた!?」
「いないぞ! 多分、森の奥に入っちゃったんだ」
「アイツったら、なんで急に……」
ランとダッツが当惑していると、ようやく杖つきの浜野が辿り着いた。彼も事態の切迫を感じ取ったのか、険しい表情を浮かべている。
「君たち、シルク君はどこへ向かったんだい」
「あっちだぞ。部屋のベランダからジャンプして、森の中に……」
ダッツがぶんぶんと指を差す。
(あの方角は……)浜野は眉間に皺を寄せた。
「シルクの様子が、またおかしかったの。出ていく前にも、うわ言みたいに『チョウセイしないと』ってぶつぶつ言ってて……」
ランの補足を聞き、浜野の渋面が一層濃くなる。
(目覚めようとしているのか。引き金はやはり、あのスコップの男……)
暫しの間浜野は思案に耽る。やがて彼は意を決したように顔を上げた。
「追い掛けよう。車を出すから手伝ってくれるかい」
三人は大きく頷くと行動に移った。歩行に時間の掛かる浜野を抱えて駐車場まで駆け、皆でワゴン車に乗り込んだ。エンジンのかかった車は合宿所から飛び出すと、一目散に河原への道を激走する。
「何処へ行くの?」ランが訊く。
「君たちの部屋から森を突き進んだとしたら、必ず例の河原に突き当たる筈だ」
暴れるハンドルを制御しながら浜野が云う。路上には強風で飛来した木の枝や土砂が散乱しており、さながらオフロードになっていた。
「だからまずは河原に出る。しっかり掴まっていなさい」
揺れに揺れる車内で、三人は酔いを堪えながら頷いた。
ほどなくして河原の沿道に出る。しかしそこに広がる光景を見て一同は思わず呻いた。
河原の水かさが激増し、あと数メートルで堤防に達するところまできていた。大雨で、山からの水が一挙に流れ込んだためだろう。濁流が、大小様々な流木を含みながら流れていく。
「まるで一年前と同じだ……」
青ざめた顔でダッツが呟く。
浜野は注意しながら河に沿って車を進めた。本来なら決壊寸前の河原になど来るべきではない。こんな状況下でシルクはどこへ向かったというのか。
もっとも浜野にはおおよその当たりがついていた。シルクが何処を目指しているのかを。
(やはり例の跡地か……?)
不穏な想像が脳裏に浮かんだその時、助手席のエリモが短く叫んだ。
「待って、あれ!」
車がキッと止まる。エリモが窓の外を指差すので、一同がその先に視線を注いだ。
河原を渡る古びた沈下橋があった。沈下橋というだけあり、河の増水時に沈むことを前提に作られているので、濁流が時折橋上路を洗い流し今にも呑まれそうになっている。
その橋をシルクがふらふらと歩いているではないか。それも、合宿所のある側と対岸となる山手の方向へと。
「ジャスティスちゃん!」
エリモが弾かれるように車のドアを開け飛び出した。そのまま橋に向かっていく。
「エリモちゃん待って!」
「わわ、皆待てよ!」
ランとダッツも慌てて続く。
「待ちたまえ、危険だ、戻りなさい!」
浜野は大声で制止しようとする。
その間にもシルクは橋を渡っていく。雨風に晒されても構うことなく、そのまま一顧だにせず対岸へと渡り切ってしまった。
エリモも追い縋るように一目散に橋を渡っていく。
ランとダッツも危険を認識しながら沈下橋へ踏み入りかけた。
だがその直後。
上流から巨大な物体が流れてきた。それは強風で薙ぎ倒された木々が重なり合った、ひとかたまりの流木群だった。濁流に流されてきた流木群はメリメリと音を立てて橋の側面にぶつかると、そのまま引っ掛かるように押し留まり、針山のような無数の木の枝が障害物として橋上路に覆い被さった。
「きゃあっ!」
「うわああ!」
ランとダッツは慄いて橋の袂に逃げ戻った。これではもう橋を渡れない。
橋を渡りきったエリモは振り返り、もと来た道が塞がれたことを認識する。
車を降りた浜野は「なんてことだ」と呻いた。流木群により橋の往来は不可能になった。よって、シルクとエリモだけが対岸に孤立してしまったのだ。
「…………」
エリモは引き攣った表情で橋を見下ろしていた。如何に危険な状況に陥ったのかを彼女も十分理解していた。
が、不意に対岸に向けて大きい声で叫んだ。そしてすぐさま踵を返すと、シルクが消えた山手の森へと踏み込んでいった。
ジャスティスちゃんは私が連れて帰るから。エリモはそういったのだ。
振り返ること無くエリモは山手を目指した。ラン達の制止の声が聞こえた気がしたが、今ここで立ち止まってはシルクを見失うことになる。
橋を渡り切った先には、山の中へ続くあぜ道が続いていた。足を踏み入れるのも躊躇われる、獣道のように状態が悪い道だ。思った通り、どろどろの地面に一足一足が阻まれてスムーズに進めない。沼地の上を歩いているようだった。
前方に目を向けると、同様に歩を進めるシルクの姿があった。悪路に足を取られながらも、何かに吸い寄せられるように木々の奥へ分け入っていく。
「ジャスティスちゃん、待って」
泥に塗れていく足を差し出しながら、エリモは一度呼び掛ける。
聞こえているのかいないのか、シルクはその間にも進む。部屋のベランダからそのまま飛び出した彼女は裸足のままだ。それを意に介する様子もなく、往こうとする。
「どこへ行くの、ジャスティスちゃ──」
もう一度呼び掛けようとした時、エリモの足が何かを踏みぬいた。同時に視界が急に上へ飛んだ。
ずずず、と地面ごと落ちる感覚。周囲のぬかるんだ泥とともに、エリモは咄嗟に理解した。穴に落ちたのだ。
地面が柔らかくなっていたおかげで大した衝撃はなかった。体じゅうに泥を被ったが怪我もない。すぐ身を起こして穴から這い上がった。
よく見ると、その周囲には同じような穴が無数に出来ていた。夜の雨風で視界が悪く、よく目を凝らさねば分からなかった。
それらは自然に出来たものにエリモは思えなかった。こんなに多くの穴がなぜあるのだろう。落とし穴を仕掛けたかったのか。それとも何かを探すため手当たり次第に掘り返したものか。何らかの作為があるように思えてならない。
あのスコップ男と何か関連があるのだろうか──。
気を取り直してエリモは立ち上がる。こうしている間にもシルクは先に行ってしまう。
幸か不幸かシルクは覚束無い足取りながら、落とし穴に嵌まることなく進んでいた。裸足であるが故に、かえってぬかるみに足を取られにくくなっているようだ。
「父さ……、…………母……さ、…………」
ぼそぼそと独り言を漏らしながらシルクは、先にあぜ道を抜けた。その先には群生した木々が不気味に風に揺られ待ち受ける。まともに歩けそうになく、道はどんどん悪化していく。
「待ってジャスティスちゃん!」
いま一度エリモは呼び掛けた。必死にあぜ道を抜け、木の根で凸凹した斜面を駆け上がってシルクのもとへ迫った。
それに気付いたシルクが振り向く。茫然自失といった表情をしていた彼女は、エリモを目にした途端、悲痛に顔を歪めた。
「ぐ、あ、頭が、痛い……」
「ジャスティスちゃん……」
「お前は……うぐ、く、来るなぁっ」
駄々っ子のように手足を振り乱し、シルクは駆けだした。エリモから逃れるようにさらに森の奥に飛び込んでいく。
「だめ、止まって!」
「うう、ううっ」
やがてシルクは大きな岩の前で立ち止まった。さすがに疲労が溜まったのか、岩盤に手をついて荒い息を吐く。
同じく肩で息をしながらエリモも追い付いた。雨風吹き荒れる森を通ってきたので、お互いずぶ濡れだ。
ここでエリモは違和感を覚えた。目の前に聳える大きな岩に対してだ。一見すると山中によくあるものだが、何故か周囲の自然に溶け込んでいない感がある。
「ぁ……? アタシは、なに、を……?」
頭を抱えながらシルクは岩を背にした。まるで近付いてくるエリモに怯えるような格好だ。
この変りようは何なのか。クールな不良節はどこにいったのか。今の彼女はまるで異常言動者だ。
もっともその親友の変貌ぶりに、エリモは思い当たるものがあった。峠のレースでの再会時に一度、『シルクの心に触れている』彼女には。
「ジャスティスちゃん、戻ろう」
エリモが毅然と手を差し出す。
「もど、る……?」
「私と一緒に戻ろうよ」
「ひっ……」
忌避するようにシルクは後ずさり、背後の岩盤に背をぶつけた。
その時だった。シルクの手の平が岩の表面に触れた途端、何か電子音らしきものがした。直後、轟音とともに岩盤が真っ二つに割れた。
「うあっ!?」
岩に背を預けていたシルクは、そこに生じた穴に飲み込まれた。
「ジャスティスちゃん!」
咄嗟に手を伸ばしたエリモが、落ちるシルクを掴みにかかる。が、その時には既に二人は宙を舞っていた。
全身を揺さぶる衝撃を味わいながら、二人は奈落の底へ消えていった。
その様子を、少し離れた木陰から見ている者がいた。
雨水を全身に滴らせたごま塩頭の男は、能面を夜闇に浮かび上がらせると二人が転落した岩の割れ目をじっと覗き込んだ。そしてぶつぶつと独白を漏らす。
──コンナ所ニ在ッタノカ。
──ヤハリ、マダ機能シテイタ……。
彼は、地面に寝かせてあった巨大なスコップを担ぎ上げる。同時に雷鳴が轟き、一帯の景色をストラボで染めた。白黒のコントラストに浮かび上がった、長物を担ぐスコップ男の姿は、不吉な処刑人を想起させた。
そして彼は、おもむろに岩盤の穴に足をかける。