結月ゆかり「私のマスターは自称神様」   作:またたび日和

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閑話と本編のどっちを更新するか悩みましたが
マスターと増田さんとの同調が足りていないと思ったので本編です。


15話 4日目

この家にやってきて早四日が経過しました。

昔は本当に一日が経つのが遅く感じましたが、あの時間感覚が普通なんだと思ってました。

楽しい時間は過ぎるのが早いというのは、比喩や慰めじゃないんだとしみじみ思います。

 

そんな私は今、リビングで朝食が出来上がるのを待ちながら、タブレット端末を操作して動画を見ています。

件の世紀末格闘ゲームで上位の人達が、キャラの特性や弱点を解説しているものです。

次の配信では一度で良いから本気のマスターから白星を取りたい、その一心で改めてゲームの勉強をしているのです。

その結果分かったのが、私が使ってるのが最強クラス、マスターが使ってるのが最弱クラスのキャラという現実でした。

負けたら恥とまで言われる程のキャラ差があるらしいです。嘘でしょ・・・?

 

「随分と古い動画を見てるのだな」

「えっ?そんな古いですか?一応半年前の動画なんですが」

「その後にアイツが全キャラのコンボ解説の動画を上げたからな。キャラの評価がかなり変わったぞ」

「ゲームの評価に影響及ぼしてるぅ・・・」

 

少し調べてみたら、マスターが動画を上げたと思しき期間からキャラの評価が一変してました。

ホント、私のマスターは多芸多才が過ぎませんか。

ですが、マスターの動画を参考にしたり、ましてや本人に教えてもらうのは何だか負けた気がします。

 

「・・・何やら考えているようだが、変に自己流で覚えるよりアイツに教えを乞う方が上達も早いぞ」

「な、何で私の考えが分かるんですか!?」

「ゆかちゃんの思考が単純なだけだ」

 

何か凄い失礼な事を言われた気がするのですが!?

マスターも普通に私の思考を読んできますし・・・あれ?もしかして私が単純なだけ?

 

「誰かに教えを乞う事は悪い事ではないぞ。一人で試行錯誤をするのも良いが、最短で覚えたいなら先達者に聞いた方が効率がいい」

「増田さんも、マスターに何かを教えて貰った事があるのですか?」

「料理だ。私も回数を重ねてきたが、アイツの料理には遠く及ばないな」

 

あまりの衝撃に言葉を失ってしまいました。

初めて食べた時は涙を流し、未だに食べると意識を持っていかれる増田さんの料理ですら遠く及ばない・・・?

マスターの料理を食べたら、私は本当に壊れてしまうのではないでしょうか。

・・・逆に壊れる前に一度食べてみたいですね。

 

「料理も超一流なんて、マスターは万能過ぎじゃありませんか?」

「できない事を挙げた方が早い程、様々な知識を網羅している。後は精神面さえ何とかなればなぁ」

 

そう言ってため息を吐く増田さん。

マスターの精神がどうしたのだろうと思い、ハッとなりました。

一昨日にお風呂で語ってくれた、大切な人に裏切られたという過去。

その時の一件が彼の強さの原動力にすらなっているのです、その傷は未だに癒えていないに違いありません。

・・・少しでも心の傷を癒すにはどうしたらいいでしょう。

 

「増田さん、私がマスターにしてあげられる事はありませんか?このままでは何もかも貰うばかりになってしまいます」

「その心を忘れずアイツに寄り添ってやればそれでいい・・・では納得しないか。ならそうだな、マッサージで返してやるのはどうだ?」

「マッサージですか・・・肩もみ程度なら経験はありますが、全身となると簡単にはできません」

「それこそアイツに教わりながらやればいい。アイツのアンドロイドであるなら、マスターのツボを知っておいた方がいいだろう」

 

確かに、と私は頷きました。

相手の好みを知るには当人から教えてもらうのが一番です。

そしていつかは一昨日の仕返しを、私がマスターをヒィヒィ言わせてみせます!

フンスと鼻息を荒くしながら今後の目標を立てる私の姿を見て、増田さんがため息交じりに「まあ頑張れ」と言ってくれます。

さあマスター、早く起きてきて下さい。

 

 

 

そんな私の気持ちとは裏腹に、リビングのドアが開いたのはそれから三時間が経過した頃でした。

今日は随分と遅い起床ですねと思いながら朝の挨拶をするためにソファから立ち上がってマスターの方を向きます。

 

「マスター、おはようございます・・・マスター・・・?」

 

私の呼びかけにマスターは反応しません。

目の下の隈にボサボサの髪は一昨日も見ましたが、今日のマスターは一段と酷い姿をしています。

右目は焦点が合わず虚空を見ており、頬には薄っすらと涙痕が付いています。

呼吸も不規則に荒く、佇んでいる時の姿勢も歪で、普段の彼とはまるで別人です。

 

「・・・ゆかちゃん・・・」

 

私を呼ぶその声はガラガラに掠れていて、今にも消えてしまいそうな程に弱々しいものでした。

ゆっくりとこちらへ歩いてくるマスターですが、その足取りはまるで骨折でもしてるかの様に踏ん張りがありません。

右へ左へ揺れながら力無く歩くその姿はまるでゾンビのようです。

何とか私の元へ辿り着いたマスターは、ゆっくりとした動作でそっと私に抱き着きました。

今までとは違う、まるで割れ物でも扱う様に力の入っていない抱擁です。

 

「・・・ごめん、ゆかちゃん・・・すぐに退くから、もう少しこのままで・・・」

 

私の左肩に顔を埋めたまま、マスターが語り掛けてきます。

その声も体も震えていて、彼の体臭からは洗剤と石鹸の匂いに交じって仄かに胃酸の様な酸っぱい臭いが漂ってきます。

・・・まさかマスター、先程まで吐いていた、のですか・・・?

 

そっと増田さんの方を見れば、彼は静かにマスターの方を見ていますが、何となくその眼に私は映っていない気がしました。

このまま何もしないわけにもいきません。いっそ抱き締め返した方がいいでしょうか。

そこで初めて増田さんと目が合った気がしました。彼は何も言わず、無言で頷きます。そうしてあげた方が良いのでしょう。

そっとマスターを抱き寄せれば、最初はびくりと体を震わせましたが、ほとんど抵抗無くこちらに体を預けてくれました。

 

「マスター、私でよければいつでも頼ってくれて良いんですよ」

「・・・うん・・・ごめん、ゆかちゃん・・・」

 

私を抱き締める力が強くなりました。

頼ってくれる事に安堵して、少しでも楽になるように彼の背中をさすってあげます。

それが最後の一押しになったのでしょう、押し殺すようにすすり泣く声が微かに聞こえてきます。

今までの得体が知れない存在ではない、傷心に涙を流す弱々しい一人の人間の姿がそこにあります。

 

「もう辛いの嫌だ・・・嫌だよぉ・・・」

 

消え入りそうな声でしたが、雑音の少ないこの部屋では十分に聞き取れる声音です。

詳しい事情を知らない私ですら胸が締め付けられる程に、その言葉からは悲痛さが伝わってきます。

成り行きを見ていた増田さんの顔が、僅かに下を向いたように見えました。

増田さんですらどうにも出来なかったマスターの傷心を私が癒せるとは思っていません。

それでも、私がこうしてあげることでマスターが落ち着けるなら、何度でも体を貸しますからね。

左肩に浸透してきた冷たい感覚も全て受け入れ、私はマスターの背中を撫で続けました。

 

 

 

 

「本当ごめんゆかちゃん!せっかくの服を汚しちゃって・・・!」

「そんな、全然気にしていませんから!だから頭を上げて下さい!」

 

いつも通りにまで回復したマスターが、私の服を涙で濡らした事を平身低頭で謝ってきます。

謝られても困ります、私は全て承知で受け入れたのですし、この服だって元々マスターが買って下さった物ですし。

そんな私達の攻防を見ていた増田さんが、そっとマスターの肩を叩きます。

 

「その辺にしておけ、ゆかちゃんが困っている。償いがしたいなら、ゆかちゃんの願いの一つでも聞いてやればどうだ?」

 

そう言いながら、増田さんはこちらを見て軽く頷きました。

なるほど、これを利用してマスターにマッサージを施してあげれば良いんですね。

増田さんの意図を汲み取った私も分かりましたと頷き返します。

 

「確かに一理ありますね。ゆかちゃん、何か叶えて欲しいお願いはありますか?」

「はい、私はマスターにマッサージをしてあげたいと思っているので、やり方を教えて下さい」

 

その言葉を聞いたマスターが、笑顔のままピキリと固まりました。

ゆっくりと口が閉じられていくのは、それだけ熟考しているという事でしょうか。

ですが、私だってマスターにお返しをしたいのです。マスターとて譲れません。

 

「え、っと、ゆかちゃん、それはお願いとはちょっと違う様な、ほかに何か」

「おっとまさか、神が自ら口にした約束を反故になんてしないだろうな?」

「教えて下さらないんですか・・・?」

「ぬ・・・ぬぐぐぐ・・・!」

 

マスターの言葉に増田さんと一緒になって反撃します。

私の言葉に何も言い返す事が出来ないマスターというのは何だか新鮮ですね。

普段とは真逆のやり取りに、思わず笑ってしまいます。

 

「ごめんなさい、面白くてつい。でも、マスターに何かをしてあげたい気持ちは本当ですよ」

「さてどうする?ゆかちゃんにここまで言われて尚、貴様は断り続けるのか?」

「・・・ああもう、分かりました。僕の負けです。煮るなり焼くなり好きにして下さい」

「はい、好きにしますね」

 

投げやりな態度ですが、確かにマスターから許可は頂きました。

さて、どうしてあげましょうか。いきなり全身マッサージは難易度が高いですよね。

うーんと唸る私を見ていた増田さんから提案が挙がりました。

 

「まずは手から始めて、少しずつできる範囲を増やしていけばいいだろう」

「そうですね。ではマスター、まずは手のマッサージから教えてください」

「分かりました。ではとりあえず対面に座って__」

「ゆかちゃん、膝枕をすればコイツの睡眠も確保できて一石二鳥だと思わないか?手だけならマッサージに支障はないだろう?」

「・・・最初からそうさせるつもりだったでしょう増田さん」

 

成る程と手を打っている私の隣で、マスターが苦笑しながら増田さんを見ています。

増田さんのスマートな誘導に感謝しながら、ソファに腰を下ろします。

さあマスターカモン!と太ももをポンポンと叩けば、彼も観念したのか大人しく頭を預けてきてくれました。

 

「よし、私は買い出しにいく。ゆかちゃん、後は頼んだぞ」

「はい、頼まれました」

 

もう大丈夫と判断したのでしょう、増田さんは大きく頷くと出掛けて行きました。

まだ落ち着かないのか、頭をモソモソと動かし微調整を続けているマスターをそっと撫でます。

撫でられると落ち着くのか、少しずつ太ももに掛かる重さが増えてきます。

 

「それじゃあ、左手のマッサージをしてもらおうかな。右手はやっても意味が無いからね」

「意味が無い、ですか・・・?」

「右手は神体ですからね。凝る筋肉が無いんですよ」

 

これも彼の設定なのでしょうか、それとも実は触れられると痛いからとかでしょうか。

とりあえず、本人が嫌がってるので右手に触るのはやめておきましょう。

差し出された左手をゆっくり握ります。眠気が強いのかいつもより暖かいですね。

マスターからの助言を聞きながら、恐る恐る指に力を入れます。

 

「いい感じですね。もう少し強めにして大丈夫ですよ」

「もう少し・・・このくらいですか?」

「お、丁度良いですよ。その力で指から手首まで揉んでいって下さい」

「分かりました」

 

少しゴツゴツしてて筋肉質、それなのに肌はスベスベツルツルというアンバランスさに笑いそうになりながらマッサージを続けます。

呼吸のリズムが段々と安定してきて、彼がリラックスしてくれているのだと思うと嬉しくなります。

気持ち良さそうに目を細めるマスターと目線が合い、私がニコリと微笑むと恥ずかしそうに目線を逸らしました。

おや?いつもなら微笑み返してくれるハズですが、この反応は新しいですね。

 

「どうして目を合わせてくれないんですか?」

「いやぁ、随分とお見苦しいものを見せてしまったなと恥ずかしくなりまして」

「恥ずかしい・・・?」

 

やはりマスターの感覚は少しズレているのではないでしょうか。

あれほどフラフラになって、抱き締められて悲痛な言葉を紡いでしまうほど弱った姿を見せるのが恥ずかしいのですか。

弱った姿を見せたくない気持ちは分からなくは無いですが、あの言動を恥ずかしいと思うのは違うのではないでしょうか。

今後も恥ずかしがって私には弱った姿を見せないようにするつもりですか?

そう思うと無意識に指に力が入ってしまいます。マスターから「ゆかちゃん・・・?」と困惑の声が漏れ出ました。

 

「マスター、私は貴方のアンドロイドです。誰もが呆れる様な弱音も、誰もが笑う様な本音も、その全てを親身に受け入れるのが私達です。

だからマスター、一人で悩まないで下さい。溜め込まないで下さい。貴方の苦しみや悲しみも、私に分けてください。

例えどんなにつまらない事であったとしても、私は貴方の言葉を真剣に受け止めますから」

 

言いたい事は全部言い切りました。

最初は驚いた顔をしていたマスターがギュッと目を閉じて一度深呼吸をすると、何とも言えない表情で私の目を見ました。

 

「ありがとう、ゆかちゃん。これから少しずつ、君に色々と話していくよ」

 

今のマスターがどんな感情を抱いているのか、私には分かりません。

ただ、嬉しいという感情よりも、諦めや哀しみの気持ちが読み取れた気がするのです。

先の私の言葉は、単にマイナスの感情を増やしてしまっただけなのではないでしょうか。

隠していたつもりでしたが、感情が顔に出ていたようで、マスターが慌てて弁解してきました。

 

「違うんだ、ゆかちゃんの言葉はとっても嬉しいよ。

言い訳をすると、昔同じ様な事を言われたんですよね。結局相手は受け止めきれずに拒絶されちゃいました」

 

あははと軽い感じで言ったのは私に気を遣わせない為なのでしょう。

私は悔しさに顔を歪めました。決意を込めた言葉ですら、彼にはトラウマになってしまっているのです。

マスターを癒してあげる事が出来ない、安心させてあげる事が出来ない。それが堪らなく悔しいのです。

マッサージをすることも忘れ、ギューッとマスターの手を両手で握ります。

 

「ゆかちゃんが気にする必要は無いよ。心配してくれてありがとうね」

 

そう言われ手を優しく握り返されます。先程からずっと気を遣われっぱなしじゃないですか・・・。

けれど、私ではマスターを安心させられる言葉を紡ぐ事ができません。

悔しさで泣きそうになった顔をマスターに見せない様に視線を上げ、一心不乱に手をマッサージし続けます。

マスターから私の顔は見えませんが、私も彼の顔を見る事ができません。

そうしている内に下から聞こえてくる呼吸音が小さく規則正しいものになりました。

彼を癒す事ができたという達成感は微塵も無く、下を向いた途端に目尻に溜まっていた水滴が零れ落ちました。

 

 

 

 

「ただいま」

「あ・・・おかえりなさい増田さん」

「ふむ・・・とりあえずコーヒーを淹れる。砂糖は多めが良いか?」

「・・・はい、お願いします」

 

以前に膝枕させた時と様子が違う事に気づいたのでしょう、増田さんの声がいつもより優し気に感じました。

増田さんにまで気を遣わせてしまいました。ゆかりさんはダメダメアンドロイドです・・・。

目の前にコトリと置かれたコーヒーとケーキ。美味しいはずのケーキも今は食が進みません。

 

「重症だな。何があった?」

「実は__」

 

ポツリポツリと、先程のマスターとのやり取りを増田さんに伝えます。

私ではマスターの力になってあげられない。私は無力ですと。

その言葉を聞いた増田さんが首を横に振りました。

 

「ゆかちゃんが気負う事は無い。コイツの闇は一朝一夕で振り払えるほど浅く無い。

寧ろ、こうして穏やかな睡眠を提供している時点で十二分にコイツの役に立っている」

「役に立ってるだなんて、膝枕とマッサージくらいしかやってないですよ・・・?」

「無償でコイツの為に何かをしてやりたいと思ったのだろう?その気持ちを持っているならそれで十分だ」

 

そんな事で十分だなんて言われても困りますよ、増田さんのハードルが低すぎます。

マスターを癒してあげる事に対価を求めると思われているのでしょうか。だとしたら心外です。

不満な顔が隠せていなかったのか、増田さんが軽くため息を吐いてこちらを見ます。

 

「コイツがまともに眠れている事自体が珍しいのだ」

「・・・え?」

「トラウマが多すぎてな、二時間寝続けられれば良い方な程、普段から悪夢にうなされ続けている」

 

私は唖然とした表情でマスターに目線を下げました。

先程よりは険しい顔は(ほぐ)れて、多少穏やかになった表情で寝息を立てる彼の横顔を見ます。

まともに眠れない程に弱りきって、それを見せない様にして。

一体、どれだけ苦しんできたのですかマスター。

 

「何か返したいと思うなら、何日かに一度で良い、膝を貸してやってくれ」

「その程度の事、毎日だってしてあげますよ。他には無いのですか?」

「・・・ならば、決してコイツを裏切るな。これ以上のトラウマを増やすな」

「そんなのは当然です。私はマスターのアンドロイドなんですよ」

 

未だに過去に何があったかは教えてくれませんが、私がマスターを裏切る可能性があると思われているのはあまりにも心外です。

それほどまでに私は信用なりませんか、と不満げな顔を露わにして増田さんを睨みます。

当然増田さんが怯むハズも無く、手を体の前に組み、真っ直ぐにこちらを見据えてきます。

や、やっぱり怖いですね。表情が見えないのでどんな感情でいるのか全く分からないんですよね。

 

「ハッキリ言う、私はゆかちゃんにコイツを完全に任せられるか見定めている最中だ」

「まだ私は信用されていないという事ですか?やはり、私が無差別破壊行動をしてたから」

「それは否だ。その程度の事は警戒に値しない。ゆかちゃん、もといアンドロイド全般がマスターの言葉を絶対視していない疑惑がある」

「ちょ、ちょっと待ってください!私達がマスターを絶対視していないって、どうしてそうなるのですか!?」

 

一体どうしてそのような結論に至ったのか。

とにかく、この誤解は私達の沽券に関わっているのです、絶対に解かなければなりません。

膝の上で寝るマスターの存在も忘れ、私はじっと増田さんの回答を待ちます。

 

「初日に服を譲渡された際に遠慮をした事、きりたん型と識別されるアンドロイドがマスターの制止を無視していた事。主にこの二点だ」

「・・・・・・ん?あの、増田さん?それが疑惑が生じた一件ですか?

でしたら増田さん、その認識は誤解です。そもそもとして、私達はその状況を()()と判断していません」

 

こちらを見つめていた増田さんの顔が僅かに後ろに下がり、驚いた様なリアクションを見せます。

唖然としている(と思われる)増田さんに向けて、私は体を僅かに前のめりにして畳み掛けます。

 

「最初のマスターの言葉は、私へ衣類の所有権を譲渡する為の発言と私は認識しています。

これが[これを着ろ、使うように]といった明らかな命令形であれば私はそれに従いました。

あの時は譲渡の是を提示するものであり、その物を受け取る事に対して私に可否を判断できる猶予があった為、譲渡を最初は遠慮しました。

きりたんの件も、マスターさんは[走ると危ないよ]と彼女の身を案じた制止の言葉を発していましたが、それも命令ではありません。

確かに、あの大勢の中では命令口調で喋るのも、それを聞いて急に大人しくされるのも不自然ではありますし、結果として転んでるのは彼女の注意不足ですが」

 

言いたい事を言い切った私は「ふぅ・・・」と一息吐き、増田さんからの返答を待ちます。

増田さんはしばらく固まってた後、顔を上へ下へと動かして、何だか熟考しているみたいです。

動くたびに、ペスト医師のマスクの嘴も大きく上下に動き、そういうオモチャみたいだなと思ってしまいます。

当然、真剣な話し合いの場なのでそんなふざけた事は口が裂けても言いませんが。

しばらく上下に動いた後、気を落ち着かせる為か一度大きく深呼吸をして増田さんは口を開きました。

 

「確かに、絶対視していないと判断に至った事例は、そもそも命令では無かったな」

「勿論私達はマスターの命令は絶対ですが、それが無い場合はある程度の自由は許されていますからね」

「すまなかった。少々認識を改める必要があるようだ」

 

スッと頭を下げて謝罪をする増田さん。

私は相変わらず謝罪を受ける事には慣れていないので、やっぱりあたふたと焦ってしまいます。

顔を上げた増田さんからは、先程の突き刺す様な視線は感じられません。

 

「ふむ、少しは警戒度を下げても良いか」

「えぇ・・・今のは完全に心を許す流れですよ」

「その程度でコイツは任せられん」

 

完全に親の台詞ですよそれは。そういう言動をするから視聴者の皆にお母さんって言われちゃうんですよ。

・・・いえ、きっと、過保護と言われるくらいの気遣いがマスターには必要なのでしょう。

先の私の渾身の言葉さえ悲しい思い出になっているマスターです、日常の中でトラウマを思い出す事も多いのではないでしょうか。

そう考えて、私は怖くなってしまいました。何気ない会話がマスターを知らず知らずのうちに傷つけてしまっていたのではないかと。

 

「ゆかちゃんは思い詰め過ぎだ。一言一句の全てに気を遣うつもりか?日常会話すらままならなくなるぞ」

「ですが、どんな言葉が嫌がられるか分かればそれを控えるくらいは」

「それを言われるくらい承知の上だ。あまり気を遣い過ぎるとハゲるぞ」

「は、ハゲませんよ失礼な!」

「そうですよ僕が手入れをしてるんですから」

「ぴゃあああああああっ!?」

 

不意に膝元から声が聞こえ、驚愕のあまりに私の体がソファから跳ね上がりました。

もう、急に喋られるとびっくりするじゃないですか!起きてたなら言ってくださいよ!

あまりに驚き過ぎて理不尽な怒り方をしてしまいます。

流石にそれを表には出しませんけど、本当にびっくりしたんですからね!

ドキドキしてる胸を押さえ、抗議の意味も込めてマスターの手をグニグニコリコリと握ります。

マスターにはくすぐったい程度の握力だったらしく、膝の上でもぞもぞと動いた後、なんとお股の間に顔を埋めてきたのです。

 

「きゃあっ!?ななな何をするんですかマスター!」

「えー、くすぐられた不可抗力ですよー」

「もうくすぐるのやめましたから顔を離して下さい!やっ、匂いを嗅がないで下さいっ!」

 

何という蛮行でしょう、信じられません!そんなところの匂いを嗅ぐなんてマスターは変態です!

かといってマスターを突き飛ばすなんてできません。まさか、それすら計算に入れてこの蛮行に及んでるんですか!?

それならと、握っていた左手を逆側に押し込みます。肩の痛みに怯んで体勢を元に戻して下さい!

そう思ったのも束の間、ゴキンとマスターの肩のあたりで音が鳴ったかと思うと、先程まで感じていた抵抗が一切無くなりました。

 

「フハハハハバカめ!そんなもの関節を外してしまえばどうという事は無いわ!」

「バカはマスターでしょ!?こんな事の為に肩の関節を外すなんて!」

 

思わず罵声を浴びせてしまいましたが、これは誰が見ても仕方ないと言ってくれるに違いありません。

関節を外す行為に痛みが伴わないわけが無いのに、私の股の間に顔を埋める為だけにこんなバカな事をするなんて。

想定外の事をされた驚きと呆れで、抵抗する気力が完全に持っていかれてしまいました。

まさかそれすら織り込み済み?いやいや、流石にそれは考えすぎですね。

まるで岩の隙間に引っ付くタコかイソギンチャクの如く嵌って動かないマスター、どうしたらいいのでしょうと増田さんに目線で助けを求めます。

 

「本気で嫌がれば流石のソイツも離れると思うぞ」

 

完全にこの状況を楽しんでる声色です。もう増田さん!

・・・本気で嫌がれるわけないじゃないですか。確かに恥ずかしいですけど、先程の状態を見た後だと素直に甘えてくれるのが嬉しいんですから。

増田さんは肩を竦めるとソファから腰を上げ、キッチンに向かいました。本気で嫌がってないから助けるつもりがないという事ですね・・・。

全く、それでも恥ずかしいものは恥ずかしいんですからねと、マスターのこめかみ辺りを軽くグリグリします。

マスターが笑いながら痛い痛いと声を上げますが、息が当たるのでその状態で喋らないで下さい!

結局、お昼が出来て増田さんに呼ばれるまでの間ずっと、マスターは私のお股の間に顔を埋めたままでした。




心が壊れそうになってるマスターですが
マスターの心が壊れる事は決してありません。
今後どんなことがあろうとも、絶対に。
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