彼は逃げ続けた。
何故逃げているのか。恐ろしい何かに追われている訳でもなく、情けない自分から目を逸らしたいからでもない。
望まれたからだ。逃げて欲しいと。
決して本人が逃げ出したいと思った訳では無い。
そう、だからこれは仕方の無いことなのだ。
勝てる訳がない敵と戦って。
仲間が次々にいなくなっていき。
最後に残った大切な人から逃げてくれと言われて。
ならば逃げるしかないのだ。
そうするしか他になかったのだ。
なんて言い訳の声が彼の心の中に響いていく。
そんな自分を、ああ情けないと思う。仕方がない? 何を言う、最後まで戦う選択肢もあったのにどうだ。自分の足は望んでいるかのように逃げているではないか。
周りからお前は強いと評されて、いつしかみんなに頼られて。
調子に乗っていたのだ。今の逃げている自分が本当なのだ。
ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!
胸が熱い、全身が熱い、顔に熱い何かが伝っていく。
泣きながら男は叫んだ。
逃げているというのに、周りに聞かせてやると言わんばかりに空に向かって吠えた。
ああ、俺は逃げた。逃げてしまった。
でも、次は逃げない。逃げるものか。
こんなもので心が折られてたまるか。情けない自分に絶望したりするものか。
彼は決めた。いつか挽回してみせると。
折れかけていた心が、固い決意によって、強靭な精神へとなっていく。
少し前にいた逃げるだけの男は消えた。今いるのは、次へと向けて走る男だ。
その日のことを男──ジーク・ワーグナーは二度と忘れないだろう。
□■□
迷宮都市オラリオ、世界の中心とも称されるその都市には世界中から物が流れ込み多種多様な種族が集まる。
世界で一番富んでいる都市とも言われる。
だが、一番の特徴は迷宮都市とあるように。
『ダンジョン』があるということだ。
オラリオの中でも一際目立つ白亜の巨塔、バベル。その地下に存在する穴がダンジョンだ。
ダンジョンには珍しい鉱石や植物など、人に恵みをもたらす物がある一方でモンスターといった人に害をなす物もある。
そんな危険と隣合わせのダンジョンに潜る者達のことを人々は『冒険者』と呼ぶ。
そして今日も、冒険者になるために一人の男が迷宮都市オラリオへと足を踏み入れたのだった。
──ジーク・ワーグナーは困り果てていた。
何故か? 初めての場所が緊張するから? 他の都市と比べ人が多いから? いいや、違う。
何日間もオラリオへ入れず止められていたからだ。
事の発端はジークが門での質問に答えた時だった。
列に並び、やっと自分の番が来たジークは門番にステイタスの有無を問われ、そして自分はLv2だと答えたのだった。
門番の態度が少し警戒されたものを感じ、なにかしてしまったんだろうかと考える内に部屋へと通され、少し待っているとギルドの職員がやってきてあれこれ話を聞かれた。
前に所属していたファミリア名になぜここに来たのかなどなど。
そして【ステイタス】、自身のレベルもだ。
ジークはLv2と答えた。
人間は弱い。モンスターに容易くやられてしまうほどに弱い。
遥か昔に神々が天界から降りてきた。彼らは力を封印していたが、唯一行使出来るのが人間をモンスターと対等以上に戦えることが出来るようにする奇跡、それが『神の恩恵』だ。
戦うなどをして『経験値』を得ると神の手によって自身の強化、【ステイタス】が上がることへと繋がる。
そして偉業により上位の『経験値』を獲得すると、Lvが上がる。器が昇華──神に一歩近付くということ。
それが『神の恩恵』だ。
ジークはLv2、過去に一度【ランクアップ】を経験したことがある。
【ランクアップ】は難しい。並の人間ならば成し遂げることが出来ない。それを達成することが出来るのは一部の人間だ。
ましてや、常にモンスターがおり危険が隣合うが故に『経験値』を得やすいダンジョンならまだしも、モンスターが少ない地上では極僅かだ。
ジークは地上で多くのモンスターを倒し、【ランクアップ】を経験した紛れもない強者。
故にこうもこんなところで引き止められ警戒されている。
他国のスパイでは無いのかと勘繰られているのである。
□■□
「いつになったら出られるんだろうか」
「すいません、事実確認が終わりましたらすぐオラリオに入れますので」
何回目と数えるのも億劫になってきたやり取りをして、ため息が出た。
俺の目の前にいるのはギルド職員という容姿の整った真面目そうな女性だった。
普段であればこんな部屋の中で可愛い女の子と居られるとなれば嬉しい気分だろう。
しかし、何日間も同じ場所に閉じ込められて挙句の果てにいつ出られるか分かりませんなんて言われれば流石にうんざりしてくる。
俺の気持ちが伝わったのか、ギルド職員の女性が申し訳なさそうな顔になる。
「多分そろそろ出られると思います、本当に。今日中には色々と確認も終わると思うので」
「似たような言葉は昨日も聞いた。……今日までは待つとする」
とは言いつつもやることが無い現状は辛い。
持っていた本も全て読み終えてしまったし、素振りをしようにも周囲がなにかやらかさないかチラチラこちらを見てきて集中出来ないのでやれない。
ましてや目の前に職員がいるのだから、やれることと言えば話す事くらい。本当に困った。
と思っていたら職員が口を開いた。
「ワーグナー様はここを出られたらどこの【ファミリア】に入るのか決めておられるのですか?」
「いや、特に決まってない。オラリオに入ってから適当なところを探そうと思っていた」
俺が所属していたファミリアは壊滅している。いや、正確には壊滅していないだろうが最早ないのと同じだ。
だから新しく他のファミリアに入らなければいけない。だが俺はあまりオラリオ内のことは詳しくは無いのでどのファミリアがあるのかは分からない。
知っていたファミリアは2つ、【ゼウス・ファミリア】と【ヘラ・ファミリア】だ。この2つはオラリオ内外でも有名だ。なにせ最強のファミリアだと言われていたのだから。
しかし、その2つのファミリアは2年前に『黒竜』の討伐失敗によりもうない。
神共々追放され、もはや過去の存在だ。だから別のところを一から探さなければいけない。
というのは面倒なので手っ取り早く入るために職員さんに聞いてみよう。
「うーん、そうですね。【ロキ・ファミリア】【フレイヤ・ファミリア】【ガネーシャ・ファミリア】なんかが今は良いかもしれないですね。この3つのファミリアなら、他のところからちょっかいかけられないでしょうし。ただ……」
何かを言い淀むような、悩んでいる表情のギルド職員。
もしかしてお前みたいなやつは無理だよとか言われてしまうんだろうか。
だとしたらショックだ。こう見えても力には自信があるし、結構活躍出来る。
「……ジーク様はオラリオで何をしようと思ってるんですか?」
一瞬、心臓の音が強くなった気がした。
……何をする、か。そりゃダンジョンに潜るため、と言うのが普通なのかもしれないが職員の目が真剣で、そうじゃないと思った。
強くなりたい。強ささえあればなんでも出来るから。……いいや、違うな。そうじゃない。
俺は、きっと──。
「いざっていう時に弱ければ、何も出来ない。そんなことはもううんざりなんだ。ダンジョンに潜ってそんな思いをしないように俺は強くなる」
そうだ。俺はもう逃げたくない。あんな思いはこりごりだ。弱いせいで、神様と仲間を置いて逃げるのは。
もっと強ければ、なんて事を思いたくない。
「……そうですか。では、私の個人的な意見なんですが良い【ファミリア】がありますよ」
俺の言葉に何かを感じたのか、少し悩んだあと職員が真剣な声音で告げた。
「その【ファミリア】の名前は?」
「【ニュクス・ファミリア】です。……多分、ジークさんに合うと思いますよ」
そう言う職員の顔は少し悲しげな感じがした。