【一巻発売中】たのしい異世界ハクスラ生活、あるいは超紳士的英雄譚   作:いらえ丸

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 感想・評価など、ありがとうございます。お陰で執筆を継続できております。
 誤字報告も感謝です。ありがとうございます。
 キャラ・ボスのご応募もありがとうございます。

 今回は三人称。リンジュ共和国、一般庶民視点。
 よろしくお願いします。

 あと、このエピソードに以前登場したキャラクターが出てきます。
 バンキコウです。「発気幼々」「ロリとロリコンの決意表明」に登場した女天狗です。


二年目・聖輪郷の天使編
すばらしきかな聖者達の故郷


 リンジュの夏は暑い。

 雲一つない青空は、人を太陽から守ってはくれない。ただでさえ暑いというのに、東の都に民の熱気は絶える事なく、猛暑に弱い馬人車は休業中の看板を掲げていた。

 

「はい号外号外! 今朝出たばっかの大特報だ! これ読んどかねぇと明日の話に乗り遅れるぜ! ほら買った買った!」

 

 リンジュ共和国は首都カムイバラ。東区。

 多くの人が行き交う広場の真ん中で、客を呼び込む鬼人男の声が響き渡る。すると、男の周りに多種多様な人々が集まってきて、数枚の貨幣を置いて出来立ての瓦版を買っていった。

 

「これは、本当にござるか?」

「いや、あり得なくはないだろ。だってよ、元々あそこは……」

「にしたって急すぎるぜ。ホラ吹いてんじゃねぇだろうな?」

 

 そして、瓦版に書かれた記事を読んだ者達は、大なり小なりその内容に驚愕していた。

 あまりに突飛な内容に、性質の悪い冗談なんじゃないかと思われたのである。

 

「なに言ってんでい! うちは天下の猫万屋だぜ? この角に誓って、嘘なんざ載せてねぇや!」

 

 記事の内容を訝しむ男に、瓦版の売り子は自信満々に言ってのけた。

 鬼人売り子の言う通り、この瓦版を書いたのはリンジュ屈指の読売だった。猫万屋と言えば、これまで地味ながら堅実な情報のみを報じてきた所である。

 

「まさか、九尾の家が没落するなんて……」

 

 その瓦版に書かれていた記事こそ、リンジュ建国の祖たる九尾家没落の報であった。

 九尾の枝の御家騒動は、さほど一般には浸透していない。家の中身がそっくりそのまますげ代わっても、パンピーからすりゃ変わりが無いように見えるのだ。

 とはいえ、今は地味でも名家は名家。由緒正しき九尾一族が墜ちたとあらば、一般人にもセンセーショナルなニュースだった。

 

「すみません。私にも一つ頂けますか?」

 

 その時、鬼人売り子の前に、一人の翼人男が現れた。

 髪は艶やかな夜色で、太陽を照り返す肌にはシミ一つない。長身痩躯の背中には、左右一対の純白の翼が生えている。

 また、彼の頭上には種族を象徴する光の輪が浮かんでいた。

 

「あいよ! おっ、エミール先生じゃねぇですかい! あんたならタダでいいぜ! オレが払っといてやるよ!」

「そうは参りません。素晴らしい物は、価値ある物と交換しなければ」

 

 そう言って、エミールと呼ばれた青年は料金を支払い、近くの縁台に座って件の瓦版を読み始めた。

 瓦版の見出しには、大きな文字で九尾家没落の報が書いてあった。内容はというと、常の猫万屋と変わらず第三者視点の冷静な文字列が並んでいる。

 黙々と読み進める中、九尾家が犯したという罪状を見て、エミールは目を丸くした。賄賂や横領といった「まぁやってそうだな」と思える罪に加え、人身売買や違法娼館の経営。私刑に女衒に裏賭博など、正直信じられない内容が記されていた。一言で言うと、軽重問わず犯罪のフルコースだったのである。

 感覚的に、先の買い手が訝しんでいた気持ちは分かる。しかし、この瓦版を作った猫万屋はエミールが信用している読売の一つであり、記事の隅には武行法院長の印まであるのだ。少なくとも、全てが嘘ではないのだろう。

 

「ふむ……」

 

 それらはまだ理解できるのだが、この内容についてエミールには引っかかるところがあった。

 驚くべき事に、九尾家への刑罰は既に実行済みだというのである。発覚から刑の執行まで、あまりにも早すぎるのだ。明らかに、敵対派閥の勢力が最初から九尾を潰す気だったとしか思えなかった。

 

 絶対王政のラリス王国と違い、リンジュ共和国は各種族の代表を集めた議会制を取っている。いくら独立した勢力を持つ武行法院でも、議会の承認も無しに刑罰は執行できない。

 こんな事は、リンジュ内の勢力だけでは不可能だ。陰ながら支持する者が、実力行使の背景に圧倒的な強者がいるのは確実だ。間違いなく、ラリス王家が絡んでいる。今のところ証拠はないが、エミールの勘はそう言っていた。

 

「エミール先生、どうです? うちの記事は」

「え? あぁ……そうですね。とても分かり易い内容だと思います。少し衝撃的に過ぎて、驚いてしまいましたが……」

 

 名を呼ばれ、エミールはハッとなって声の主を見た。売り子をやっていた鬼人が話しかけてきたのである。

 ついボーッと読みふけって、反応が遅れてしまった。最近、エミールはよくこうなるのだ。

 

「なんだい、先生も疑ってんのかい? まぁ俺も最初聞いた時はビビッたがよ。だが、それがマジなんでぇ。先刻、現地の奴が来てな。明日の瓦版を読めば、間違いねぇと思えるぜ。これより詳しく書かれる予定だ」

「なるほど……」

 

 快活そうに語る鬼人の様子を見て、どうやら猫万屋が上から圧力をかけられている訳ではなさそうだとエミールは内心で安堵していた。

 国に近づきすぎた読売がどうなるかは、長寿の天使はよく知っているのだ。

 それならばと、エミールは声色を改めて口を開いた。

 

「ところで、この記事についてですけれど、本日の教材にしてもよろしいでしょうか?」

「そりゃ構わねぇよ。なんだ、センセんとこの弟子はそんな事まで習うのかい」

「弟子ではありません、生徒です。まあ、分かり易く教えるのが、腕の見せ所ってやつですね」

 

 禅知塾と言えば、近所では評判の良い私塾である。そこの塾長こそ、エミールその人であった。

 エミールの塾は、生徒の心と思考に成長を促す事を主眼に置いている。読み書き計算を基礎とし、時たまこういったニュースを解説して議論させるといった授業を行っているのだ。

 

「いいねぇ。オレも先生みてぇな人に教わりたかったぜ。オレのガキなんざ、迷宮潜るとか言って最近はずっと道場通いだよ。なんだっけ、この前の桜闘会のさ。ラリスの小っせぇのにハマッちまって……」

「ラリスの剣豪。イシグロ・リキタカさんでしょうか?」

「そうソレ! なんか前に助けて貰ったとか言ってんの、ホントかねぇ? それによ、父親的にゃあ剣より筆で生きてってもらいてぇもんなのよ。これは、親の我儘なんかね?」

「いいえ、父としては健全な願いと思いますよ。ですが、迷宮はともかく道場自体は悪くないかと」

「それは……先生もそう思うのかい?」

「ええ。結局、筆じゃ剣には敵いませんから」

「違ぇねぇ! はっはっはっ!」

 

 言いつつ、エミールは手に持った瓦版を振ってみせた。対する鬼人は爆笑した。記事を読んだ際、同じ事を考えたからだ。

 

「まっ、あんまガキ共甘やかすもんじゃねぇぜ。この渡世、軽く脅かすくらいが丁度いいってなもんで」

 

 そうして、鬼人の男は上機嫌そうに去って行った。

 エミールも席を立ち、自宅兼私塾の方へ歩き出した。

 

「さて、どこからお話をしましょうか……」

 

 道中、授業の内容を考えながら。

 

 

 

 

 

 

「「「先生さよーならー!」」」

 

 時は進んで夕暮れ時。その日の授業を終え、エミールは塾の子供達を家の近くまで送っていた。

 

「ええ。また明日」

 

 元気よく走り去る塾生達に手を振るエミール。その顔には、穏やかな微笑が浮かんでいる。

 王都アレクシストに比べると刃傷沙汰の少ないカムイバラだが、いつ何が起こってもおかしくないのは事実である。そういう理由もあり、エミールはこうして子供の安全を守っているのだ。

 なお、当人は近所の喧嘩自慢に負ける程度の武力しか持ち合わせていない。種族柄、頑丈なだけである。

 

「では、行きましょうか」

「うん……」

 

 最後の塾生を伴って歩きつつ、エミールは本日の授業について振り返っていた。ちょっと失敗しちゃったかな、と。

 その授業内容はというと、子供達に件の瓦版を読ませた後に何故こうなってこのような顛末になったのかを、エミールが分かり易く解説するというものだった。時折、この国の歴史のおさらいを挟みながら。

 けれども、善悪の区別はつく子供達でも法と情は切り離せないようで、そこらへんの説明に難儀してしまったのである。そのうち、狐さん可哀想派と狐さんざまぁ派に分かれて子供らしい議論が交わされる事となった。

 こういう言い合いも勉強の一環と静かに見守っていたエミールだったが、最終的には授業とは全く関係のない話題にシフトして終了してしまったのである。

 

 エミール自身、今回の件については思うところが無い訳ではなかった。

 成り立ちから現在に至るまで、いくらリンジュが王家の子分とはいえ他国の法に介入するのはやり過ぎと思えるのだ。例え九尾の家が務めを果たさず如何なる悪事を働いていようとも、それはリンジュの民が対処すべき問題であるはずだ。

 ラリス王家は強い。強いから敬われ、強いからこそ貴族や文官が腐敗しない。しかし、強者が賢者であるとは限らないし、賢者が間違いを犯さない訳がない。事実、どうしようもない愚王が世界を混乱させた歴史は存在するのだ。

 エミールからすると、腐敗しないラリスより腐敗したリンジュの方が国としては健全に思える。王が纏めねば世界が守れないという事も、当然として知ってはいるのだが……。

 

「先生……?」

「ん?」

 

 ふと、着物の袖を引かれた。どうやら、考え事をしていたエミールが無意識に立ち止まってしまったらしい。

 天使を見上げる少女の顔には、心配と不安の色が半々に浮かんでいた。

 

「どうしたの? 道あっちだよ?」

「申し訳ありません。歳のせいかな。ボーッとしてしまって……」

 

 実際、最近のエミールは何かあるとすぐに呆けてしまうようになっていた。

 これが生まれ持っての癖なら個性の一つとして許容できただろうが、何故かここ最近そうなったのである。

 

「そうなんだ……」

 

 冗談めかして返すエミールに対し、少女はなおも心配そうな……否、不安げな表情をしていた。

 そういえば、この少女は授業中あまり声を発していなかった。無口な性質という訳でもない。その事を思い出したエミールは、優しい塾長の顔になって口を開いた。

 

「どうかしましたか?」

 

 すると、少女は言葉を迷うような素振りをして、長い影を見ながら呟くように云った。

 

「なんだか、怖いの……」

 

 怖いとは何だろうか。そう思いつつ、黙って言葉の先を促す。

 

「よく分かんないけど、あの瓦版に書かれてた事がすごく怖いの……」

 

 それから、少女は心の内のモヤモヤを少しずつ吐き出していった。

 九尾の腐敗と、それに対する苛烈な刑罰。悪い事をしたら怒られる。それは分かるが、九尾の当主だけでなく一族郎党に至るまで罰を受けるのが理解できずどうしようもなく怖いのだ、と。

 賢い子だと、エミールは思った。九尾の家に感情移入しているというより、法の在り方について思い悩んでいるようだった。それが上手く言語化できず、恐ろしい心地になったのだろう。

 

「大丈夫ですよ」

 

 当然だが、エミールは生徒達に特定の思想を吹き込む事はしない。ただ知恵を与え、思考する力を育み、見守るだけである。

 エミールは人好きのする笑みを浮かべ、安心させるように翼を広げてみせた。

 夕陽に輝く純白の翼を見て、さっきまで怯えていた少女は目を輝かせて見入っていた。

 

「もし怖い事が起こっても、先生が守ってあげますからね」

 

 きれいめイケメンからのウィンクひとつ。現代日本ではウケただろうが、異世界だと滑ってしまう。

 強種族ランキング三位の天使族とはいえ、エミールは如何にも弱そうなヒョロガリ君である。わざとらしい頼りがいアピールに、ややあって少女は微笑んだ。

 

「先生、そんなに強くないでしょ」

「はは……まぁ、その通りですね」

 

 エミールは故郷での事を思い出し、翼を畳んで苦笑した。

 リンジュに来るまでの遠い記憶。広い部屋で、並んで訓練して、点数をつけられた。家に帰って、冷たい水槽に入って、それから……。

 エミールは内心首を傾げた。そういえば、両親はどんな顔をしていたのだったか。

 

「先生?」

「あぁ……なんでもないよ」

 

 成長途中の幼い生徒が見上げている。

 頭を振ったエミールは、強いて朗らかに笑ってみせた。

 

 エミールは思う。

 リンジュ共和国に住む、しがない塾長。自分はこれでいいのだ、と。

 禅知塾。そこが、エミールの帰る場所なのだ。

 

 

 

 

 

 

 太陽が沈み切った後の事だった。

 突然、エミールの自宅である禅知塾の戸が叩かれたのである。

 

「はい、どちら様でしょう?」

 

 狭い家である。書き物をしていた家主は、音に反応して警戒する事なく戸を開けた。

 そこには、あからさまに怪しい黒ずくめの二人組が立っていた。頭からつま先まで真っ黒な布で身体を隠していて、わざとらし過ぎる泥棒ファッションである。

 片方は翼人の女性――身体は隠しても胸の膨らみは隠せていなかった――で、もう片方は大柄な男性だった。

 

「エミール殿だな。すまんが、入らせてもらうぞ」

「あ、はい」

 

 すわ押し入り強盗かと身構えたエミールだったが、女性の方から甘く透き通った美声が聞こえた影響で、つい警戒心が緩んで家に上げてしまった。

 流石に不用心に過ぎる行いだったと内心反省するエミールに対し、丁寧な所作で履き物を脱いだ黒ずくめの女性は、やけに呆気なく素性を隠す布を外してみせた。

 そうして現れた美貌を見て、エミールは目を丸くした。艶やかな黒髪に、切れ長の瞳。その胸は豊満で、スラリと伸びた手足にはムッチリとした肉が付いている。

 

「ば、バンキコウ様……!」

「お忍びだ。すまないが、静かに」

 

 突然の大物来訪である。一般庶民のエミールは暫し唖然としてしまった。

 バンキコウといえば、リンジュの治安維持を担っている守長組合の一人で、天狗族の副族長も兼任している。何より、彼女はカムイバラの東区を治める区長なのである。あまつさえ元金細工持ち冒険者だった。どう考えても盛り過ぎである。

 

「どうぞ、粗茶ですが……」

「ありがたく」

 

 ひとまず、エミールはこの家で出来る範囲のもてなしをする事にした。

 三人分のお茶を淹れようとしたが、バンキコウの後ろに控えている黒ずくめの男には断られた。彼の方は素顔を晒すつもりはないようだ。

 

「して、御用とは?」

「うむ」

 

 しばらく後、落ち着いたエミールは区長程の者がわざわざ訪ねてきた用件を尋ねた。

 ひとつ頷いてから一拍置いて、バンキコウは神妙な面持ちで言った。

 

「エミール殿の病についてだ」

「病、でしょうか」

 

 予想外というか、何というか。病と言われて特に心当たりもないエミールは、首をかしげるばかりだった。

 対し、東区長の天狗は腕を組んで言葉を継いだ。

 

「組合を通じ、ここの周辺の民達から情報が届いたのだ。最近、エミール殿の様子がおかしいとな」

「さ、左様で……」

 

 エミールはちょっぴり傷ついた。そういう風に見られていたのかと。

 ラリスに比べて余所者に厳しいリンジュとはいえ、それなりに長く暮らしてきた。自惚れでなければ、禅知塾の評判だって悪くないはずである。まさか、そんな風に思われていたとは……。

 

「いや、怪しまれているのではないよ。ただ、心配されているのだ」

「心配ですか? 何をでしょう……」

 

 これまた、分からない事を言われてしまった。

 確かに私塾の経営は火の車だが、食うに困っている訳ではないのだ。教材を買う為に副業こそしているが、病に罹るほど忙しく働いている訳ではない。

 どだい天使族は頑丈なのだ。多少痛めつけようが、身体が壊れる訳もなし。

 

「……考え事をした時やショックを受けた時に、上の空になるという経験はないか?」

「それは……」

 

 これには、思い当たる節があった。

 エミールが知らないだけで、何かの病の前兆だったのだろうか。しかし、天使族の罹る病にそういったものは無いはずだ。あるいは、リンジュ特有の土地の病か。

 

「ここ最近、リンジュに住む天使族から報告があってな。エミール殿もそうなのではないかと」

「なるほど、そんな事が……」

 

 ふと、ここにきてエミールは目の前の要人を訝しんだ。

 彼女の言う事が事実だとしても、何故に区長であるバンキコウ自らこんな場所まで来たのだろうか。適当に使いを寄越すなり、そうでなくとも向こうから呼び出せばいいだけである。

 エミールは、ふいに今日読んだ瓦版に書かれた記事を思い出した。九尾の没落。早すぎる刑の執行。リンジュ共和国内の派閥争い。いやしかし、自分如きに何故……?

 

「エミール殿?」

「え……あっ、申し訳ありません」

「報告通りだな。アレを」

 

 すると、バンキコウは後ろの護衛に命じ、机の上に小さな物品を置かせた。

 それは脚のある小さな鏡だった。エミール視点、鏡の縁に不可思議な魔力が渦巻いて見える。何かの魔道具だろうか?

 

「これは何でしょうか?」

「魔道具の一種でな、件の病を診る機能がある。使用すると、その病を治療すべきかどうかが分かるのだ。早速だが、触れてみてくれないか? それだけでいい」

「なるほど」

 

 正直ちょっと怪しいが、流石にここで殺されるとは考え難い。もしそうなら、エミールは今頃死んでいるはずだ。

 覚悟を決めたエミールは鏡の縁に指を触れさせ、離れた。

 

「……どうした?」

「え? いえ、どうしたという訳では……」

「害を与えるものではない。どうか安心してくれ。軽く触れてみるといい」

「はあ」

 

 首を傾げるエミール。いったい、この人は何を言っているのだろうかと思った。さっき一度触れただろうに。

 仕方ないので、エミールはもう一度件の鏡に触れ、すぐに離れた。

 その時、バンキコウの目が細められた。

 

「エミール殿……」

「特に、何もありませんが」

「否、エミール殿は鏡に触れていない。触れたつもりで、ほんの僅かに隙間があった」

「えぇ……?」

 

 両者ともに、お互いを訝しむ目になった。

 事実、バンキコウと護衛男の視点では、エミールは鏡に触れていない。しかし、エミールの視点では一度目も二度目もしっかり鏡を触っていたのである。

 

「……おい」

「えっ。何なんですか!?」

 

 鋭い声に反応し、エミールの背後に回った護衛の男は彼を拘束した。それから、エミールの腕を掴んで力ずくで鏡に触れさせようとした。

 天使の指と魔道具の鏡。あと少しで触れそうになると、凄まじい力で抵抗される。ミシミシと、エミールの脆い身体が悲鳴を上げていた。

 

「痛い! 痛いです! 何を!? 何なんですか一体! いくら区長とはいえ、民への暴行は犯罪なはずです!」

「おい、早くしろ」

「それが、この男力が強く……!」

「仕方ない」

 

 埒が開かぬと、鏡を手に取ったバンキコウは、無理やりエミールの手に鏡を触れさせた。瞬間、鏡面が光を放つ。

 光の色は、赤。それは陽性の反応だった。

 

「こ、これで何が分かったというのですか!? 武行法院は権力に屈しませんよ!」

「いいや、武行が裁くのは妾ではない。まさか、エミール殿がそうだったとは……」

 

 エミールを解放すると、バンキコウは項垂れるようにしてその場に深く腰を下ろした。

 そして、切れ長の瞳に、刃のような鋭さが宿る。

 

「そうか、貴様が監視者(・・・)だったか……!」

「……え?」

 

 意味が分からなかった。

 何がどうしてそう言われたのか、エミールにはさっぱり分からなかった。

 監視者? 病? その敵を見る目は何なんだ?

 疑われている? 何の罪で? エミールにやましいところはない。さっぱり意味が分からない。

 意味は、分からなかったが……。

 

「うぐっ……!」

 

 ドクン、と。

 その時、天使の心臓が跳ね、エミールの奥底にある何かが強く反応した。

 今、確実に、誰かに見られた感覚がした。遥か遠い空の彼方から、この街を、エミールを、バンキコウを……。

 

「ぐぅぅぅ、うぁああああ……!」

「エミール殿!? 呪術の類いか? ええい、この場でやるしかないか……!」

「だ、ダメです! 呪術の反応は無し! 効果がありません!」

 

 ぼうと、エミールの瞳が夕焼け色に発光した。

 そして、震える喉の奥底から、彼らしからぬ無機質な声が漏れ出た。

 

「……偉大なる()は、いつも我等を見守っている」

「なに……?」

 

 臨戦態勢を取る二人を置いて、エミールの声は何度も同じ言葉を続けていた。

 かくり、かくりと、エミールの身体が不可思議な動きをみせ、その身体がゆらりと浮いて宙吊りにされた人形のような姿勢になった。

 決して広くはない部屋に、天使の光が満ちていく。瞳孔が細まり、翼が開かれ、肥大化した光輪が異常な熱を発している。

 

「偉大なる主はいつも我等を見守っている。偉大なる主はいつも我等を見守っている。偉大なる主は、いつも我等を見守っている」

 

 エミールの首に、不可思議な文様が浮かび上がり、やがてそれは全身に広がった。

 次の瞬間、彼の身を包むように光の膜が形成された。まるで内と外を分かつ境界のように。

 

「バンキコウ様!」

「攻撃はするな! ひとまず拘束する……!」

 

 バンキコウの放った陰陽術。しかし、それは光の膜によって阻まれてしまった。

 驚愕する二人の前で、エミールの輪から光が漏れていく、それはさながら、蛍の群れが去りゆく光景に似ていた。

 一つ、二つ、漏れ出る光の粒が天に昇って消えていく。歴戦の戦士であるバンキコウも、こんな光景は見た事がなかった。

 

「自決の類いか! 拙い、死なせるな!」

 

 そして気づく。光が漏れ出るにつれ、エミールの身体から生命力が抜けていく事に。

 慌てて回復魔法を施そうとするも、膜に阻まれて効果がない。少しずつ、彼の身体から氣が減っていった。

 

「チッ! 触れられぬ! 独自魔術の一種か! もうよい届かぬ、手を離せ!」

「しかし! ぐぁああああ!」

 

 光の流出を抑えるべく、結界を張るが弾かれる。ならばと手で触れてみるも、すり抜けるようにして掴めなかった。

 一方、護衛の男はエミールを取り押さえようとしていたが、光の障壁に阻まれて文字通り手も足も出なかった。それどころか、膜に触れた手が火傷している有様である。

 

「偉大なる主が、見ている。偉大な主は、いつも見ている。見守って、見守って、主が、私を……」

 

 光を失いつつあるエミールの身体が、水袋を絞るようにして痩せていく。

 その時だ。ギロリと、突然エミールの首が半回転し、バンキコウの方を向いた。その瞳に、先の彼らしい理知は見受けられなかった。

 夕陽色の節穴が、地を這う羽虫を見下ろしていた。

 

「偉大なる()は、いつも貴様を見ているぞ」

 

 プツンと、糸が切れた操り人形のようにエミールの身体が床に落ちた。翼も瞳も光の輪も、そこに生命らしい力は感じられなかった。

 バンキコウは慌てて彼の首に手を当てた。熱がない。脈も僅か。死が近いのだと直感で分かるが、そうはさせない。させてはいけないのだ。

 

「連絡! 何としても死なせるな!」

 

 光を失い、生命の灯火が失せた天使の眼は、血相を変えて術を行使する東区長を見ていた。

 天使の唇が、僅か震えた。

 

「どうか、あの子達を……」

 

 そう言い残し、エミールは自身の死を受け入れた。

 罪には罰が下されると、子供達にそう教えていたのである。

 受け入れない訳はなかった。

 

 

 

 紛れもなく、エミールは天使だった。

 死した天使の身体は、天に還ると言われている。

 しかし、その魂は地に落ちるようだった。

 

 沈む、沈む。

 記憶の底へ、魂の在処へ。

 不思議と、どこか懐かしい気がした。

 

 死が近づくにつれ、エミールはこれまでの全ての記憶を思い出していた。

 故郷の事。親の事。そして、リンジュに生きる人々の事を……。

 

 だから、まだ死ねなかった。

 彼の名を、誰かに伝えなくてはならない。

 それが、最後の務めだと確信したのだ。

 

「【念力(サイコキネシス)】……!」

 

 決して得意ではない、一世一代の権能行使。

 途切れ途切れに、こぼれた茶を操作して机の上に文字を書く。

 気合か使命か執念か。何でもいいが、エミールは全身全霊を籠めて、書き上げてみせたのだ

 

 ――パレエス。

 

 そうして机に記されたのは、とある天使の名前だった。

 

 熾天使パレエス。

 史上最古の天使にして、聖輪郷を治める天使長の一人。

 エミールという廃棄物の、陰の繰り手の名であった。




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