【一巻発売中】たのしい異世界ハクスラ生活、あるいは超紳士的英雄譚   作:いらえ丸

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 感想・評価など、ありがとうございます。継続の励みになってます。
 誤字報告もありがとうございます。マジ感謝です。
 キャラ・ボスのご応募もありがとうございます。ご応募も釵はレギュレーションをお読みの上でどうぞ。

 今回は前半一人称、後半三人称です。
 よろしくお願いします。


ずっと貴方の傍に(下)

 布団の中が寒い。

 

 スマホのアラームが鳴ると同時、俺は反射的に上体を起こしていた。意識がぼんやりしている。謎の違和感を覚えて周りを見渡すが、これと言って特に変わったところは無かった。

 ベッドから降りると、フローリングの冷たさが素足に染みた。寝室を出て洗面所に行き、冷たい水で顔を洗う。

 鏡には、ずいぶん痩せた男が映っていた。一瞬誰か分からなかったが、それは俺だった。適度な運動と食事制限により、身体を引き締めた成果である。

 

 リビングのカーテンを開け、日光を取り入れる。コーヒーメーカーを起動し、野菜を切ってサラダを作り、全粒粉の食パンをチンした。流れるようにPCの電源を入れ、朝食を摂りながら毎朝のルーティンをこなす。

 全ての確認を終えると、仕事用のブラウザを閉じてデスクトップ画面に戻った。壁紙は綺麗な森の写真に設定してある。とある書籍に曰く、そうする事でメンタルに良い影響を与える事ができるらしいのだ。

 

 大きなモニターのデスクトップ画面には、ごく少ないアイコンが並んでいる。

 前のパソコンには沢山のゲームをインストールしてあったのだが、そういうのは大学進学を機に卒業した。

 

 質の高いオフィスチェアに背を預け、リビングを見るでもなく眺める。無駄な物が一つもない、洗練された空間である。

 持ってたゲーム機は親戚の子供に譲ったし、バイトして買ったフィギュアも売却した。アニメグッズとかプラモとか、その辺は全部捨てた。

 本棚には電子化されていない実用書や教養諸学の本が並んでいる。ラノベも漫画も、全部本屋に売り払った。

 

 最近はアニメを見ていない。特撮も平成で止まっている。少年漫画のサブスクも解約した。

 日曜の朝はオンラインサロンで英会話を練習している。資格の勉強もしなきゃいけない。健康促進の為、ヨガの教室にも通っている。

 たまの遊びは、生産的で有意義なものを選んだ。

 

 色んな事を切り捨てて、俺はようやく大人になった。

 それなりの大学を出て、良い企業に入った。ちゃんと社会の中にいる。世間と繋がっている。マジョリティに入ってみて分かったが、やはり安心感が違った。

 

 以前までの俺はオタ活とか何とか言って好き放題やってたが、ああいうのは子供の時分に済ませておくべきなのだ。

 いい歳してアニメだのゲームだの。目の大きい女性キャラの絵にガチ恋なんてのは、どだい異常なのである。それも幼い女の子になど、気持ち悪いにも程がある。

 そう、ロリコンは病気なのだ。努力して、治療した。俺はもうロリコンじゃない。これでお天道様に胸張って生きられる。

 

「ん?」

 

 ふと、スマホに着信があった。

 メッセージアプリを見てみると、待ち合わせに遅れるとの連絡。相手は俺の彼女である。

 そうだった。何故か忘れていたが、今日は付き合っている女性とデートの約束をしていたのだった。

 

 相手は大学の課外活動で知り合った女性で、今は幼稚園の先生をやっている。

 彼女とは上手くやっている。互いの両親とは顔合わせ済みだ。現在は結婚を前提に同棲を予定している。順調にいけば、遠からず両親に孫を見せてやれるだろう。

 

 時刻を確認する。デートまでにはまだ余裕があった。

 何となしにプライベート用のブラウザを立ち上げ、動画配信サイトを開いてみる。とある書籍によると、猫の動画を見るとストレスが緩和されて生産性がアップするらしいのだ。

 良い感じの猫動画を探していると、ホームのおすすめ動画覧に何故だか小柄な金髪美少女のサムネがあった。

 

 どうやら、この金髪娘は動画配信者であるらしい。初めて見るレベルの超絶美少女である。

 何でそんなのがおすすめに表示されてるのか分からないが、彼女の容姿には何故か既視感があった。

 

『ご主人♡』

 

 ゾクッとした。突然、スピーカーから少女の声が聞こえたのだ。

 頭を振り、サイトを離れる。何か他に良い暇つぶしはないか。

 以前までなら、適当にソシャゲなんかやってたが……。

 

「……あれ?」

 

 俺、何を趣味にしてるんだっけ……?

 空いた時間には……そうだ、瞑想とか筋トレとかしなきゃいけないんだった。

 心身共に健康じゃないと、ちゃんとした大人として認めてもらえないからな。

 

「ん? 今度は何だよ」

 

 再度、スマホに着信があった。

 彼女から、やっぱり間に合いそうとの連絡。なら、もう準備を始めるべきだろう。

 俺は何かから逃げるようにPCの電源を落とした。

 

『ご主人♡』

 

 あの声が、耳から離れなかった。

 

 諸々の準備を整え、着替えを完了して鏡の前に立つ。

 普段からトレーニングは欠かしていないので、我ながらスラッとしたカジュアルスーツがよく似合う。

 似合ってはいるのだが、鏡に映る俺自身に得体の知れない違和感があった。

 

「俺こんな痩せてたっけ?」

 

 そういえば、今朝もそんな事を思った気がする。

 腹といい腰といい、脂肪が無いだけで筋肉が薄い。脚も……なんだこれ? 殆ど骨と皮だけじゃないか。

 背中もペラペラだし、腕も細い。これじゃ剣を振れない。いや、ステータスがあるから大丈夫か? いやいや、ゲームの話じゃないんだから……。

 ていうか、街に出るというのに武器一つ持っていかないってのは不用心が過ぎないか? 王都は治安が悪いんだから、いつ同業者にインネン付けられるか分からない。素手でやれない事はないが、できればナイフ以上の刃渡りがある剣が欲しいところ。

 俺には、皆を守る義務があるのだ。

 

「皆……?」

 

 皆って誰だ?

 あ、いや、そんなのはどうでもいい。

 そもそも日本はそんな治安悪くないし、俺の身体は言うほど細い訳でもない。王都民が厳つ過ぎるだけだ。だから王都って何処だよ。

 溜息を吐き、頭を振る。仕事続きで疲れているのかもしれない。

 

 ふと、視界の隅に本棚が見えた。

 大きめの本棚には、人生に役立つ書籍が並んでいる。前はぎっしり詰まっていたのに、今の棚はスカスカだ。

 子供の頃から好きだった漫画も、中学生の時にハマッてたラノベも、好きな映画のDVDも。

 全部、捨てたのだ。

 

 俺はオタクを止めた。

 性癖も矯正した。

 遊んでた分しっかり勉強して、大学に通って、ちゃんとしたとこに就職した。

 彼女もいる。友人も沢山いる。快適な部屋に住んでるし、健康に気を遣って運動も継続している。仕事だって順調だ。

 

「幸せなんだよな……」

 

 そのはずだ。疑う理由はどこにもない。

 だというのに、余白の目立つ本棚を見ると、何とも言えない虚しさに苛まれてしまう。

 

 小学生の頃、俺は俺が普通じゃない事を知った。

 それから、俺はずっと周りとの間に疎外感を覚えていた。

 社会の外れ者。犯罪者予備軍。異常性欲の病人。

 俺はそういう生き物だったのだ。

 

 普通の人になりたかった。

 今時、オタク趣味の一つや二つおかしくも何ともない。それは分かってる。

 性癖は人それぞれ。法を犯さない限り、罰される事はない。それも分かってる。

 それでも俺は、両親のようなマトモな人でいたかった。

 

 父は普通のサラリーマンで、汗水たらして立派に働いてくれていた。

 母は家事に追われながら、パートで家計を支えてくれていた。

 姉は結婚して、もう子供がいる。義兄はフットサル好きの爽やか消防士さんだ。

 弟は偏差値の高い学校に通って、今は受験の為に猛勉強している。

 

 うちの家には、良い人しかいなかった。

 オタクやってても何も言ってこなかった。「趣味があるのは良い事だ」と、穏やかに見守ってくれていた。

 部活も勉強も強要されなかった。ハブられてもない。とても理想的な家庭と言えるだろう。

 その中で、俺だけが異常だった。

 

 マトモにならなきゃと思った。

 親に、兄弟に、親戚に、恥じる事のない立派な人間になるべきだ。

 だから捨てた。努力した。仕事も頑張ってる。

 

 周りからすれば、俺のやった事なんて大した事じゃないのかもしれない。

 何かを捨てて、何かを選ぶ。それが大人になる事なのだろう。

 それが、俺には、どうしようもなく辛かった。

 

『ご主人♡』

 

 あの声が聞こえた。

 周囲を見渡す。スピーカーはオフになってるはずだ。さっきの声は、一体どこから聞こえたんだ?

 

「え? な、何だ……?」

 

 いつの間にか、本棚の中が見たことない背表紙の本で埋め尽くされていた。

 吸い寄せられるように手に取った。表紙には、大鎌を持った金髪メスガキが描かれていた。

 ていうか、随分と肌面積が多い服装だ。しかもロリ。世も末だ。

 

「こんなんいつ買ったんだよ……」

 

 ぼやきつつ、何となく開いてみる。中身は漫画だった。

 本の内容は、何の脈略もなく異世界転移したペド野郎が美少女ロリ奴隷を買って好き放題するというものだった。

 ダンジョン潜って、美味い飯食って、たまにデートなんかしたりして。

 夜はベッドで組んず解れつ。話が進むと、冴えない変態主人公はロリのハーレムなんかを築いていた。

 

「なんだよこれ」

 

 なんて頭の悪い話なんだろう。アホだ、クソだ、あり得ない。創作にしたってファンタジーが過ぎる。

 作画は良いが、ストーリーがゴミクソだ。主人公こいつ何もしてないじゃん。ロリ奴隷とイチャついてるばっかりで、ただただ幸せそうにしてるだけ。

 ヒロインもヒロインだ。何でこんなクソ野郎の事が好きなんだよ。いくら何でもチョロ過ぎるだろ、よく考えろ、そいつロリコンの屑だぞ。

 

 とんでもないクソ漫画だ。世が世なら焚書モノだ。

 なのに、だというのに……。

 

「なんだよ、これ……」

 

 読んでいると、何故か涙が溢れてくる。

 ページをめくる手が止まらない。一巻の最後のページに、涙が一粒落っこちた。

 気付けば、俺は続きの巻を手に取っていた。

 

「ルクスリリア……」

 

 金髪赤目、あまり性格のよろしくない三下メスガキロリサキュバス。

 そんな彼女だが、序盤からずっと主人公を一途に想ってくれていた。享楽的で刹那主義なくせに、意外と仲間想いだったりする。

 もう愛おしくて堪らない。

 

「エリーゼ……」

 

 銀髪青目のお嬢様で、頭に角のあるノーブルブラッド竜族。

 普段は貴人然と振る舞い、迷宮では戦士然とした表情を浮かべている。それでいて、主人公には母や妹や恋人のように甘えるのだ。

 最高の女である。俺は夢中になっていた。

 

「グーラ……」

 

 褐色肌の黒髪ケモミミ文学少女で、ハラペコ属性とパワー属性を持ち併せている。

 基本的に引っ込み思案であまり自分の意見を言わない彼女だが、いざ戦いになるとすっごく頼もしいのだ。それでいて、ご主人様を純粋に慕っている。

 あまりにも可愛い。父性が湧いてきそうだ。

 

「イリハ……」

 

 桜髪の狐っ娘で、古風な言い回しをするのじゃロリだ。

 お世話好きで、褒められたがりのお調子者。そのくせ見た目不相応に高貴な気質を持っている。窮地を救ってくれた主人公には、深い恩義と愛情を抱いているようだ。

 良妻賢母のお狐様。好きにならない理由がない。

 

「あぁ、クソ……めっちゃいいじゃん……」

 

 愛しい。寂しい。何で俺はこんなところに居て、この世界に居ないのだろう。

 彼女達に会いたい。ひと目見るだけでいい。少しでも言葉を交わせたら、俺の人生に悔いはないと思える。

 彼女達のいない世界で、生きたくなどなかった。

 

「皆に会いたい……」

 

 その時、スマホに着信があった。

 現実に戻る。彼女からだ。他にも色んな人からメッセージが届いている。

 

 昇進祝いに飲み会に、子供の運動会。海開きの日に出かけて、大きな車で旅行に行った。

 今より老けた俺が、今より老けた両親と並んで写った家族写真。両親はとても幸せそうな顔をしていた。俺を産んで良かった。俺を育てて良かったと顔に書いてある。

 後悔のない世界。理想の俺は、親に顔向けできる大人だった。

 

 次々と、幸福に満ちた写真が送られてくる。

 そうだ。これがこれが幸せなのだ。

 このままなら、幸せになれるのだ。

 

 妻と、子供と、友人と。父と母と姉と弟。仕事仲間。それから孫。

 恥を知らずに生きてはいけない。恩を返さず死んではいけない。愛を以て、罪を犯さず、ちゃんとマトモに普通に生きて、それでようやく……。

 幸せに……!

 

「んな訳! ねぇだろうがぁあああああ!」

 

 力いっぱい、床にスマホを叩きつけた。

 スマホが砕け、そこから目を開けていられない程の光が広がった。

 

 光が収まる。気付くと、俺はジャージを着ていた。場所も転移前に住んでた安アパートに変わっている。

 本棚には素晴らしい名作書籍がぎっしり満載されていた。爆裂魔法の申し子。女流棋士幼女。ロリババア異能力者。みんなみんな、俺を救ってくれた恩人だ。A山先生、最高の作品をありがとう!

 漫画もある。ヘルシング。バオー来訪者。バナナフィッシュ。DVDもあった。ジブリ作品に種自由。ジョンにデップーにアンドリュー。あっ、シュワ映画だ! シュワッチシュワッチ!

 リビングには最新のゲーム機に加え、ちょっと古めのハードもある。デスクトップPCの上には、真レイヴンとSDバルバトスが鎮座していた。ガラスケースの中、大枚叩いて買った美少女フィギュアが並んでいる。

 

 そうだ、俺はこれでいい。

 こんな俺を、皆は愛してくれるのだ。

 

 理想郷には希望が無い。ルクスリリアがいない。エリーゼがいない。グーラがいない。イリハがいない。

 なら、そんなところに俺の居場所は存在しない。

 

「ご主人~! まだッスか~?」

 

 ピンポーン。チャイムが鳴った。ドアの方から声が聞こえた。

 幼気を感じる。香しいメスガキの匂い。ルクスリリアが待っているのだ!

 

「リリィーッ!」

 

 迷う事なく、俺は玄関の方へ駆け出した。

 走る、走る、走る。廊下は短いはずなのだが、どれだけ走っても玄関ドアに辿り着けなかった。それどころか、徐々に遠ざかっている気がする。

 現実が、後悔が、俺を捕らえて離さないのだ。

 

「はぁ、はぁ! ぁあああああッ! クソが! 動け、動けよ……!」

 

 まるで、夢の中で走っているかのようだった。

 足が重い。身体が怠い。焦りばかりが重なって、全く前に進まない。

 

 ていうか、身体がよろしくない。

 こんな足じゃ、追いつけない。

 こんな腕じゃ、剣を握れない。

 

 俺は、俺の身体は、こんな運動不足貧弱ボディじゃないはずだ。

 腕力だけで巨岩を砕き、剣のひと振りで魔獣を斬る。ただの走りで駿馬を追い越し、熊に殴られても余裕で生き残る。

 異世界チート転移者。銀細工持ち冒険者。イシグロ・リキタカ。ルクスリリア達の主人、恋人、後の旦那。ロリコンの王。それが本当の俺なのだ。

 

「うぉおおぁあああああああッ!」

 

 叫ぶ、思い切り叫ぶ。声を枯れよと咆哮する。

 一歩、二歩、歩く度に魂の殻が剥がれ、真の肉体が蘇る。ジャージが破れ、革の鎧を再び纏う。

 思い通りに身体が動く。疾走する疾走する。やがてドアに辿り着く。

 開ける直前、振り返った。

 

 改めて、思う。

 俺を形作った思い出が、悪い過去であるはずがないのだ。

 

「行ってきます……!」

 

 息を整え、俺はゆっくりと扉を開いた。

 純白の光が視界を覆う。光の世界へ足を踏み入れ、やがて彼女と向かい合う。

 

「うッス、ご主人!」

 

 目の前に、厳密に言うと少し視線を下げたところに、金髪のロリ淫魔がいた。

 彼女は常と変わらぬ様子で、ナチュラルメスガキスマイルを浮かべていた。

 あぁやっぱ、可愛い。

 

「リリィ!」

「おわ!? いきなり何スか!」

 

 溢れる感情に押され、俺は彼女の身体を抱き上げた。

 痛くないよう優しく、且つ力いっぱいに。

 

「ルクスリリア! ルクスリリア! ルクスリリアぅぅうううわぁああん! ルクスリリアぁああ! あぁクンカクンカ! クンカクンカ! スーハースーハー! いい匂いだなぁくんくん! んはぁっ!」

「もう、ちょっと会わなかっただけッスよ? そんなに寂しかったんスか?」

「ああ。ああ……!」

「ったく、情けないんスから……」

 

 呆れたような声の後、ルクスリリアも優しく抱き返してくれた。

 これが幸せだ。何度も思うが、俺は心底彼女に惚れているのだ。

 やっぱり、俺はロリコンだった。ロリコン以外の何者でもないのだ。ロリコンじゃない俺は俺じゃないのである。

 

「ルクスリリア、どうしてここに?」

 

 クルクル回ったり、貪り合うようなディープキスをしたり。

 ひとしきり互いの存在を確かめ合った後、俺は改めて彼女と向かい合った。

 

「さぁ? 知らねッス」

 

 問いに対し、彼女はあっけらかんと答えた。

 

「多分、純淫魔契約のお陰かなぁって思ってるんスけど……」

 

 次いで自身のお腹に手を当て、悪戯っぽい笑顔を浮かべてみせた。

 

「ここはひとつ、愛の力って事にしとくッス♡」

「ああ、そうだな」

 

 激しく同意。そうだ、こういうのは理屈じゃないのである。細けぇ事ぁいいんだよ。

 と、それはいいとして……。

 

 軽く周囲を見渡してみる。

 扉を開けた先は、どこまでも真っ白な空間だった。どことなく神様転生モノのプロローグって印象の場所だ。ロリ女神とか出てこんもんかね?

 まぁそんな気の利いたイベントは起こらないだろう。そもそも、ここに来たのは恐らくあのクソ熾天使のせいだろうし。

 

 何となく見当はつく。此処、たぶん精神世界的なアレだ。

 俺達はそこに閉じ込められたんだろう。なるほど、奴が古のラリス王を倒したってのは間違いなさそうだ。初見殺しが過ぎる。

 さて、こういう精神世界の脱出方法には、いくつかパターンがあるもんだけど……。

 

「できれば首は斬りたくないなぁ」

「首? なんでッスか?」

「俺は長男だけど姉いるからなぁっと……あっ」

 

 なんて思っていると、真っ白な空間に変化があった。

 いつの間にか、俺達の目の前に三つの扉が現れたのである。

 

 豪華な拵えの両開きの扉。

 補修の跡がある年季の入った木の扉。

 質の高い木で出来た古い引き戸。

 ゆめにっきかな?

 まあ、ここまで来ればだいたい分かる。

 

「じゃ、皆を迎えにいこうか」

「んー、それはいいんスけど。ご主人」

「ん?」

 

 ルクスリリアは俺の後ろを指差した。

 彼女の指し示す方には、俺が住んでいたアパートの扉。その隣に、俺の実家があった。

 おぉ、懐かしい。どれくらい帰ってないんだっけか。

 

「いいんスか?」

「ああ、大丈夫だ」

 

 小首をかしげるルクスリリアに、俺は一切惑う事なく返した。

 確かに、前の世界には置いてきた物が沢山ある。

 悔いや負い目こそあれ、強がりでも何でもなく、あの日の俺は幸せだったのだ。あのまま生きてたとしても、俺はそれなりに幸せな人生を送れたと思う。

 それでも、俺の帰る場所はあっちじゃない。

 

 捨てるんじゃない。卒業するんでもない。

 過去の思い出は俺を作ったもので、感謝と共に心の奥で大切にするべきものなのである。

 強いて言えば、皆を家族に紹介できないのが唯一の後悔かな。

 

「ルクスリリア」

「あいッス!」

 

 手を繋ぎ、今度こそ歩き出す。

 皆を迎えに。

 

 

 

 

 

 

 蒼い月の夜。

 エリーゼ・フラム・ミラヴィーカ・アヴァリツィアは、“愛”と共に生まれた。

 

 その日、父は我が子の誕生を寿いだ。

 その日、母は我が子の健勝を祈った。

 

 エリーゼは、愛で以て生まれ、

 情と共に育まれ、幸せの中にあった。

 

 弱き竜、儚き娘。

 力を持たぬ小さき子。

 誰でもないエリーゼは、思う。

 

 ――愛が足りない。

 

 

 

 青空に聳えるフラム城。

 麗らかな春の陽だまりで、竜の親子が茶会を開いていた。

 鋭い眼をした竜族の男性と、銀髪の竜族美女。

 

「まぁ、お父様ったら……」

 

 そして、銀の髪をした幼竜の令嬢。

 高貴なる三人を守るように、大勢の騎士や従者が控えている。

 テーブルを囲み、談笑しながら茶を楽しむ親子は、まさに幸福の家庭そのものだった。

 

 ごく当然の事として、

 親は娘を愛し、

 娘も親を愛していた。

 竜族は、何よりも身内を大切にするのである。

 

「きゃっ……」

 

 しかし、その幸福に水を差す者が現れた。

 

「おや、今のは?」

「門の方ね。翼竜兵共は何をやっているのかしら」

 

 静かで満ち足りた空間に、剣呑な爆発音が響き渡る。

 城門の方向から耳を劈く爆発音が聞こえ、次いで激しい剣戟と戦の気配が漂い始めたのだ。

 

「黒竜共が攻めてきたのかしら」

「分からぬ。まぁ、軽く戦ってくるとしよう」

 

 魔力を漲らせ、雄々しく立ち上がる父。

 戦の気配を察し、エリーゼの意識も戦士のソレへと変化していった。

 

「お父様、私も出ますわ。後ろから援護します」

「いや、お前は来るな」

「……え?」

 

 父の命令に、エリーゼは困惑した。言葉の意味が分からなかったのだ。

 母はエリーゼを訝しむような表情を浮かべている。

 

「お前は魔法が使えないのだから、戦場に出るべきではないだろう」

「そうよ。落ち着いて父の凱旋を待ちましょう?」

 

 確かに、エリーゼは生まれつき魔法を使えない体質である。

 その上、竜族にあるまじき事に力も技も貧弱で、戦いの才というものを持たずに生まれてきた。

 だが、武器さえあれば戦えるはずなのだ。何度も迷宮を踏破し、仲間を守ってきた自負がある。

 その心意気を、尊敬する祖父に認めて貰えたのである。

 

「い、いいえ! 私は戦えます! あの杖さえあれば……」

「何を言っているんだ」

 

 なおも戦いに出ようとするエリーゼを窘めるように、父はあえて笑ってみせた。

 竜族らしい、傲慢な笑顔だった。

 

「お前は私達の宝なのだから、この父が守ってやるというのだ」

「宝……?」

 

 ああ、そうだった。

 親竜にとって、仔竜は宝に外ならないのだ。

 しかし、父の言う宝とエリーゼの思う宝の間には、大きな隔たりがあった。

 

「そうよ。可愛い可愛いエリーゼ。貴女が戦う事なんてないの」

「此処は戦場になる。大人しく宝物庫に入っていろ」

「そんな、宝物庫など……」

 

 ふと、気が付く。

 父も母も、こんなに平坦な魔力をしていただろうか。

 

 周囲を見る。誰も彼も、エリーゼを単なる宝としてしか見ていない。

 それも、厳重に管理すべき珍品として。

 傷が付けば、値が下がるとでも言うように。

 

 口に残った茶は、どうにも味気が無かった。

 甘さも、苦みも、香りも足りない。

 畢竟、ここに愛は無かったのだ。

 

「……なるほど、やってくれたわね。腐れ熾天使!」

 

 瞬きの後、聡明なエリーゼはこの世界の違和感の全てを看破した。

 理想郷を模した贋作世界。対象の記憶を読み取って築く、自ら抜け出る気を起こさせない魂の牢獄。僅かに、別の世界とも繋がっているだろうか。

 であれば、破壊する事に躊躇いはなかった。

 

ぶっ壊れろ(・・・・・)……!」

 

 魂の底から愛杖を取り出し、【斬滅の魔導剣】を起動。

 一閃。周囲の建造物諸とも、偽物の両親を一刀両断した。

 葛藤一つなく親の幻を消し去ってのけたエリーゼは、紛れもなく銀竜の血族だった。

 

「我が名はエリーゼ! 月夜に生まれし竜! 銀竜剣豪ヴィーカの孫!」

 

 高らかに、誇らかに、腹の底から名乗り上げる。

 ずっと遠くにいる主人に聞こえるように。

 否、それじゃ足りない。自分の足で、いや翼で向かうべきなのだ。

 

 ――我に鱗はなかった。故に、折れぬ翼を求めた。

 

 祖父の言葉を思い出す。

 竜の翼が心の在り様と言うのなら。己が古の竜であるならば。

 できるはずだ。心の翼で飛ぶ事が。

 

「我が英雄! 我等が王! イシグロ・リキタカ、至高にして無二の財宝!」

 

 (リン)、と。鈴を鳴らしたかのような音。

 幼銀竜の背に、月光を束ねたかのような竜族魔翼(・・・・)が生成された。

 それは、根元から先端まで純粋魔力の奔流によって出来ていた。

 

 彼女の翼に通常の飛行能力は必要ない。彼女の翼に空戦の優位性を取る思惑はない。

 ただ最短距離で主の下に向かい、彼と彼女等を守るに肝要な翼。

 誰でもない、エリーゼの翼である。

 

「ふっ……!」

 

 魔力の翼が撓り、羽ばたく。

 瞬間、銀の令嬢は月光の残滓を伴い、一直線に飛翔した。

 光に向かって、手を伸ばす。

 

「遅すぎよ、アナタ♡」

 

 その手を、二つの手が掴み上げた。

 

 

 

 

 

 

 その日、静かな森で決死の戦いが繰り広げられていた。

 炎が舞い散り、鋭利な針が降り注ぐ。近づくだけで死を確信するような戦場で、村の戦士団は息も絶え絶えに彼女の勇姿を見ていた。

 

「そこ! やぁあああ!」

 

 一瞬の隙を突き、雷の蹴撃が針鋼猛犬の横腹に叩き込まれる。

 押し込む、押し込む。尋常ならざる膂力が唸り、ついに魔物の命を刈り取った。

 

「ふぅ……皆さん、無事ですか?」

 

 振り返り、仲間の無事を確認する。戦の疲れを感じさせずに佇む影は、矮躯の少女だった。

 彼女こそ、村一番の戦士・グーラである。

 

「ありがとうグーラ!」

「流石だぁ!」

「全く、最高の英雄だよ」

 

 笑顔の村人たちは、口々に彼女を褒め称えた。

 以前までは腫物扱いをされていた彼女だが、今や村にとって欠かせない存在になっていた。

 

「後の事は俺達に任せろ。フェレライんとこに行ってやれ」

「はい。では、ボクはこのまま帰りますね」

 

 戦いが終わり、グーラは足取り軽く帰路を歩いた。

 途中、豊かに実っている木苺を取った。父は喜んでくれるだろうか。

 

「ただいま」

 

 程なく、グーラは小さな木の家に帰宅した。

 この狭い家には、グーラとその父親の二人だけが住んでいる。

 彼女にとって、此処が一番安心できる場所だった。

 

「ああ、お帰り。グーラ」

 

 グーラの父は、帰宅した娘に背を向けたまま返答した。見ると、彼は床に座り込んで何か作業をしていた。

 何をやっているのだろうか。グーラが覗き込んで見てみると、父は麻袋の中に色んな物を収納していた。

 必要な物と、そうでない物を選別しているようだ。

 

「何をしてるんですか? お父さん」

「ああ、旅の支度をね」

「旅、ですか……?」

「あぁ……」

 

 そう言った父の前には、一人分の荷物が置いてあった。

 その時、グーラの胸の中に、言葉にならない不安の波が押し寄せてきた。

 父の背中が、どこか遠い。

 

「ちょっとドタバタしてて、準備をする暇がなかったからね……」

 

 袋の紐を縛り、振り返った父の顔には穏やかな微笑が浮かんでいる。

 直感があった。違和感があった。グーラは敏い子である。感性が鋭く、情緒も豊かだ。愛によって育まれたソレ等は、父の言わんとしている事の意味をはっきりと理解した。

 別れの時が近いのだ。

 

「い、嫌です……! ボクはずっとお父さんと一緒がいいです……! また置いていくなんて、あんまりじゃないですか……?」

 

 逃げられない不安を前に、グーラは弱々しく感情を吐き出した。そんな娘を見て、父は眉根を下げてゆっくりと立ち上がった。

 片手に袋を持ち、空いた手でグーラの頭を撫でる。父とて、思うところが無い訳ではないのだ。その顔には、慈しみの他にも様々な感情が混ざっていた。

 

「ごめんね。父さんは、君の優しさに甘えていたよ……」

 

 喉の奥から発された言葉には、過去の行いを悔いる響きがあった。

 俯いていたグーラが恐る恐る父を見上げる。父の瞳にもまた、グーラと同じ感情が揺蕩っていた。

 

「親として、もっと色んな事をしてあげられたはずなんだ。本当にごめん」

「そんな事ありません……! お父さんは優しくて、ボクの事を想って……! 読み書きだって、教えて下さいました……!」

「いいや、間違えたんだよ。勇気と、決断力がなかったんだよね。僕は……君と一緒に、この村を出るべきだった。それが、できなかったんだよ……」

 

 親として情けない。そう続けた父は、娘の中に愛する妻の面影を見出していた。

 何故、父が村を離れられなかったのか。その理由が分からない娘ではなかった。

 

「でも、僕と違って、グーラには勇気があるんだね……」

 

 言って、父はその手に持っていた荷物をグーラに手渡した。

 両手で抱える程の荷を受け取ったグーラは、涙に濡れた瞳で父を見つめていた。

 謝り合う最後は、あまりにも悲しい。娘は強いて心を制御しようとした。

 

「僕は、いつでも君を見守っているよ。母さんと一緒にね」

「……はい。お父さんも、お母さんも、お元気で」

 

 優しく微笑んだ父は、娘の涙を指で拭った。

 その時、グーラの手にあった袋が光を放ち、瞬きの後にそれは分厚い大剣へと変じていた。いつの間にか、グーラの身に愛用の革鎧が纏われている。

 立派な戦士に成長した娘を見て、父は誇らしそうに目を細めた。そうだ、そうなのだ。グーラは戦士の才に溢れている。どんなに苦しい事があっても、必ず立ち上がれる強い心を持っているのだ。

 

「おと、お父さん……!」

「なんだい?」

 

 それでも、まだ成熟した訳ではなかった。

 幼い心が叫んでいる。このままだと後悔を置いていく事になる。祝福と共に、笑顔で以て別れようと思っていた。

 けれど、今まで抱えていた思いを吐き出さずにはいられなかった。

 

「お、お母さんは、ボクのせいで亡くなったと……聞きました。本当に、ごめんなさい……!」

 

 生まれてずっと、言えずにいた告解である。喉を引き吊らせて言い切って、グーラは罰を受け入れるように頭を下げた。

 呆気に取られて目を丸くした父は、やがてちょっと困ったような表情になった。

 

「そっかぁ。気にしちゃうよね、グーラは」

 

 ごほんと咳払い。膝をつき、目線を合わせる。

 真に偉大なる父は、娘の存在を疎んじる事などあり得ない。

 例え、何があったとしてもだ。

 

「僕はね、グーラ。君と一緒に暮らしてきて、君が居なかったら良かったなんて思った事、一度も無かったよ」

「で、でも、お母さんが亡くなってしまったのは事実で……」

「嘘じゃないさ。だから、お別れの前に伝えさせてくれ。僕に詩の才能はなかったから、少し陳腐な言葉になっちゃうんだけど……」

 

 肩に手を置き、見つめ合う。

 娘を見る父の眼は、強い漢の眼差しをしていた。

 

「……グーラ、生まれてきてくれてありがとう。生きててくれてありがとう。君が幸せそうで、安心した」

「は、はい……お父さん……はい。ぼ、ボクも……うぅ、ひっ……くっ……!」

 

 何か、気の利いた言葉を返そうとして、できなかった。戦士の証が地に落ちて、グーラはか弱い少女に戻った。

 そして、小さな娘は父の胸に飛び込んだ。

 

「うわぁああああああああ! お父さぁぁぁん!」

 

 父が死んで、一年以上の時が過ぎた。

 これまで胸に秘めていた涙が、惜別の涙が、感謝の涙が、愛する父の胸に染み込んでいく。

 

「愛しているよ、グーラ」

「はい! はい! ボクもです! お父さんの娘で良かった!」

「……あぁ、そう言ってくれるんだね」

 

 同じく涙を我慢していた父は、泣きじゃくる娘の背を撫でていた。

 父の眼から、一筋の雫が落ちた。

 

「迎えが来たみたいだ……」

 

 泣き止んだ娘を放し、父は玄関扉の方を見た。

 重厚に過ぎる剣を取り、戦士に戻った娘は扉に向かって歩いて行った。

 ほんの少し、扉を開く。振り返って、グーラは心からの笑顔を浮かべてみせた。

 

「その……ボク、今とっても幸せです!」

「うん……」

 

 感慨深そうに頷く父の後ろで、グーラ似の美女が微笑んでいる。

 それから、父は扉の奥を見た。

 

「うちの娘を頼んだよ」

 

 小さな家に、光が満ちた。

 

 

 

 

 

 

 西に傾いた太陽が、木々の生い茂る山に沈んでいく。

 リンジュ共和国、辺境。山のほとりにある村を一望できる場に、天狐の母娘が住む屋敷があった。

 決して広くはない屋敷の中に、律動的に野菜を切る小気味よい音が響いている。

 

「ふんふふ~ん♪」

 

 薪と鍋の合唱に、天狐の鼻歌が混じる。柔らかい尻尾が機嫌よく振られていた。

 竈の火加減を見て、鍋に野菜を投入する。山菜入りの炊き込みご飯に、先日狩った鹿肉のつみれ汁。なかなかに豪勢な献立だった。

 

「よし……」

 

 つみれ汁の味見をした天狐は、陰陽術を使って竈の火を消した。

 それから、草履を脱いで母のいる居間に上がって行った。

 

「母上~、夕餉の準備が出来たのじゃ~」

 

 襖を開け、声をかける。

 桜色の髪が、さらりと揺れていた。

 

「おぉ、ありがとうのぅ」

 

 夕陽に照らされた縁側に、イリハをそのまま大きくしたような美女が座っていた。誰あろう、イリハの母である。

 どうやら、彼女は何をするでもなく落ち往く太陽を眺めていたようだ。

 

「母上……?」

 

 そんな母を見て、イリハは違和感を覚えた。娘だからこそ、気づいたのだ。

 覚悟を決めたイリハは、始祖譲りの魔眼を開き、ややあって全てを悟った。

 

「ん~? どしたんじゃ~?」

 

 逆光に隠れる背中が、やけに小さく薄く見える。

 否、実際にそうなのだ。イリハに宿った仙氣眼は、事実彼女が儚い存在である事を見抜いていた。

 いっそ残酷なほど、イリハには()えてしまったのである。

 

「のぅ、イリハよ……」

 

 その事を、イリハの師である母自身が気付けぬ訳もなし。

 けれども、漏れ出すように言葉を発した母は、年の功か落ち着き払っていた。

 

(ちこ)う寄れ、膝枕をしてやろう」

「……はい」

「おぅおぅ、随分と素直じゃのぅ」

 

 言われるまま、イリハは縁側に座る母の膝に頭を乗せた。

 イリハの髪を、細くたおやかな指が撫でる。物置小屋で想像していたものより、その手はずっと温かかった。

 母娘揃って、暗くなりはじめた景色を眺める。恐らく、あの太陽と共に別れの時が来るのだろう。イリハはそのように直感し、それでいいと思った。

 

「こうして甘やかしてやるのも久しいのぅ。どうじゃ、寂しかったじゃろ?」

「そうじゃな。わしは、寂しかったんじゃ……」

「その喋り方も、もう癖になっとるではないか」

「うむ。母上譲りじゃし」

「ふふっ、愛い奴め」

 

 二人の間に、優しい風が吹く。

 思い出の屋敷には、生命の匂いが無かった。

 何も言わぬまま、イリハは涙を流していた。

 

「天使様も、随分と惨い事をなさる……」

「……大丈夫じゃ、これくらい」

「後で寂しくなったりせんか?」

「その時は主様に慰めてもらうのじゃ」

「こやつ、いつの間にか色気づきおって……」

「もう二百歳越えとるし」

「ああ、そうじゃった。そうじゃったのぅ……」

 

 夢の終わりを悟る親子の会話は、そう長くは続かない。

 偽りの太陽が沈む。夕闇が屋敷を覆うと、月の無い夜が訪れた。

 

「……遺宝の事は、すまんかった。アレはわしが元気なうちに済ませておくべきじゃった。できるだけ手元に置いておきたかったんじゃが……わしとした事が、娘の心根に甘えてしもうた。長い間、苦しかったじゃろう。すまんなぁ……」

 

 イリハは何も言わず、終わり行く世界を眺めていた。

 否、返せなかったのだ。声を出すと、無粋な涙が混じってしまいそうだったから。

 

「わしには、師として厳しさが足らんかった。導く者の才が無かったんじゃのぅ……。お前さんが可愛くて可愛くて、戦に連れてく事を恐れてしもうた」

 

 イリハの中には、彼女の魂が宿っている。

 だから、この母は娘の知らぬ真実さえも言えるのだ。

 

「離れてほしくなかったのじゃ。ずっと、一緒にいたかったのじゃ。でなきゃ、わしは一人になってしまう……。独りというのは、耐えがたいのじゃ……」

 

 常になく弱った母の謝罪には、抑え切れぬ後悔が混じっていた。

 ぽたりと、娘の頬に雫が落ちる。それが誰のもので、何であるかを、娘は沈黙で以て流した。

 

「……どうやら、ここまでのようじゃな。思いの外、強く育ってくれとったんかのぅ。いや、男の影響かの?」

 

 わざとらしく声色を戻し、母は揶揄うようにして云った。

 

「うむ。そうじゃな。そうなんじゃよ、母上……」

 

 ゆっくりと、イリハは母の膝から起き上がった。

 縁側を下り、立ち上がった彼女は、戦を生業とする者の装束を身に纏っていた。

 その腰に、剣士の証たる太刀が下げられている。

 

 振り返る。母と目が合った。

 母は、娘の成長した姿を見て、嬉しそうに目を細めた。

 娘は、鏡に映った幻よりずっと美しい母を見て、感嘆するように微笑した。

 

「やはり、敵わぬのぅ。母上には……」

「当然じゃ。何たって、わしはイリハの母故な」

 

 くすくすと、親子そろって笑い合う。

 娘の門出には、祝福こそが相応しい。

 

「……行っておいで」

「うむ……!」

 

 イリハは、母に背を向け、歩き出した。

 迎えてくれる新たな家族の方へ。

 

 イリハの背に、新たな力が宿る。

 始祖の天狐さえ超える、尊くもありふれた力が。

 

 

 

 

 

 

 薄暗く、不気味な静寂が墜ちた格納庫には、二人の天使だけが立っていた。

 片や最高位の熾天使。片や翼を捥がれた小さな天使。

 二人の間には、無残に倒れ伏す冒険者一党の姿があった。

 

「はぁ……しかし、なんでこんなのを奪う為に聖輪郷まで来たんでしょうね。翼も無いというのに……」

 

 熾天使パレエスは、何も成せず無様に敗れた者達を見下ろしていた。

 敵に竜族がいた手前、用心して秘匿された権能を使ってはみたが、光力の無駄になったかもしれない。パレエスは少しばかり損をした気分になっていた。

 

「ちょっと~、助けてほしいんニャけど~」

「ん?」

 

 そろそろ用事を済ませようかと歩き出した時、パレエスのすぐ近くから妙に甲高い声が聞こえてきた。

 声の方を見る。すると、小太刀を握ってうつ伏せに倒れる森人の近くに、横倒しになったガラス瓶が転がっていた。その中の虫が短い肢をバタバタ動かしている。

 

「ここニャ! あたしニャ!」

 

 パレエスは顔をしかめた。この男、虫が大の苦手なのだ。

 

「ちょっとまずっちゃったんだニャ! この瓶の蓋を取って欲しいのニャ! あと治癒かけてほしいニャ~!」

「嫌ですよ、汚らしい……」

 

 パレエスは心底嫌そうな顔をして、何となくその瓶を蹴った。

 

「ニャァアアア~! 目が回るニャ~!」

「はははっ、お似合いですよ。私を困らせてきた事、せいぜい反省なさい」

 

 虫の入ったガラス瓶は、コロコロ転がって格納庫の壁にぶつかった。割れれば助かったのだろうが、そう上手くは行かなかったようである。

 振り返り、パレエスは今度こそ用事を済ませようとした。

 

「さて……」

「ひ、あっ……!?」

 

 短距離転移。背の高いパレエスは、十三番の首根っこを掴んで宙吊りにした。

 無造作に首を絞められた十三番は空中で脚をバタつかせている。

 

「こんなのを式場に連れて行くのは嫌ですからね。必要な分だけ頂く事にしますよ。安心してください。運が良ければ生きているかもしれませんから」

「や、やめて……!」

「ほう、拒絶の機能が残っていたとは。あの猫又も調教が甘い」

 

 十三番の願いを聞き入れるはずもなく、少女を掴むパレエスの手に禍々しい光が凝集していった。

 大災厄前に生まれた、古代の最高位天使のみが扱う天使権能。それによって、十三番の魂を収奪しようというのである。

 

「おやおや、随分と複雑な魂をしていますね。ここから綺麗なところだけ抜き出すのは少し手間ですが……。まぁ多少乱暴にしてしまっても構わないでしょう」

「ひぁ……! 嫌! やめてぇ……! ひゃああああ……!」

 

 この時、十三番は絶望しかけていた。

 自分のせいでイシグロが死んだ。熾天使が殺しに来たのである。

 死を間近にした恐怖より、罪の意識が彼女の心を苛んでいた。

 

 痛みなど、とうに隣人である。

 悔恨によって、眼を閉じる。

 こうして回収に来たという事は、大好きな家族を守り切れなかったと気が付いたのだ。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……! うわぁああああ……! ごめんなさい……」

 

 十三番の瞳から、涙が溢れた。

 熾天使が嗤っている。強者が弱者を虐げている。子供が涙を流している。

 であれば、奴が動かぬ訳がない。

 

「おい」

 

 低く冷たい男の声。

 熾天使が振り向く。

 その眼前に、硬い拳が迫っていた。

 

「ぶげぇッ……!?」

 

 バッギィイイイイイッ!

 爆焔のように、雷鳴のように、激流のように! 抉り込むように、突き刺さるように、叩き込まれるかのように!

 ロリコン怒りの鉄拳が、熾天使の美貌に直撃(クリーンヒット)した!

 

「うげぇえええええええッ!? がはっ!」

 

 銀細工の拳をまともに受けたパレエスは水平方向に吹っ飛びつつ激しく螺旋回転し、やがて格納庫の壁に逆「大」の字で激突した。

 

「げほっ、おぇ! は、歯が! わらひの歯がぁ……!」

 

 側転に失敗したような間抜けな体勢になるパレエス。自身の歯が折れた事に、熾天使は激しく狼狽していた。

 怒りより先に、困惑がきた。頬を抑え、狼藉者の方を睨みつける。傾いた視界の先で、十三番を姫抱きにする男がいた。

 

「ば、馬鹿な! 何故起きているのですか……!?」

 

 その男は、一見して全く強さを感じ取れない容姿をしていた。

 地味な革鎧。黒い髪と黒い瞳。背が低く、筋骨も細っこい。

 だのに、その眼とくればどうだ。爛々と輝く瞳は竜族か。全身から漲る闘志は獅子人族か。否、奴は紛れもなく人間で、発する力の全ては人間の力そのものだった。

 その奴隷もまた、主人同様異常な程の気炎を発している。五人揃って並び立つ姿が、パレエスの古い記憶を刺激する。

 

「お前、子供を泣かせたな……」

 

 腕の中の十三番を下ろし、イシグロがパレエスを見た。

 

「ひっ! この、人間風情が……!」

 

 目が合う。心臓が小さくなった。反射的に【追憶送還(リフレキネシス)】を行使した。

 無明の光が空間を覆う。権能は正常に発動した。体内光力がごっそり失われる。パレエスの胸中に安堵が広がった。

 

「タネは割れてる。追憶送還(そいつ)は無効だ」

 

 しかし、効果がなかった。

 

「何故ぇえええ……!?」

 

 その時、パレエスの脳裏に過去の情景が蘇る。 

 僕だけのジュスティーヌ。約束を破って、勝手に消えた。離れていく彼女を抱きしめようとして、あの時に……。

 まさかこいつも、ジュスティーヌと同じ……?

 

「よくも他人様の心に土足で踏み込んできやがったな。外道天使め……」

 

 落ちていた剣を呼び出し、イシグロは柄の握りを確かめた。

 

「ッスね! やっちゃうッスか? やっちゃうッスよ!」

 

 大鎌を持った淫魔が、挑発的で嗜虐的な笑みを浮かべる。

 

「ええ。でも、翼を得るきっかけにはなったから。なぶり殺しは勘弁してあげましょう……?」

 

 銀髪の竜が、翼状(・・)の魔力を吹き出す。

 

「それはそれとして、迅速に駆除すべきだと思います」

 

 大剣を構えた獣が、完璧に調律された蒼炎(・・)を滾らせる。

 

「五対一じゃが、まさか卑怯とは言うまいのぅ? 最高位の天使様……?」

 

 魔眼を輝かせた天狐が、十本(・・)の尾を揺らして猛っている。

 

「あぁ、なんだ……。こういう時こそ恰好良い決め台詞とか言いたかったが、まぁいい……。やっぱ、思った事そのまま言うわ」

 

 五人一党が武器を取る。

 一人の天使を守り、一人の天使を狩る為に。

 

「マジで死ねよ、クソ野郎」

 

 故も知れぬ闇の底、決死の戦いが始まった。




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