【一巻発売中】たのしい異世界ハクスラ生活、あるいは超紳士的英雄譚   作:いらえ丸

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 三人称です。
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ラグナロリ(上)

 好機は今しかなく、詳しい事情を説明する時間もまた存在しない。そう、ドウジュンは云った。

 その上で、大角族の男は武侠国の現状を簡潔に述べた。

 

 魍魎族の生き残り――ミヅチは、ドウジュンの生まれるずっと前から武侠国の根元に住み着いていたらしい。

 クーシェン城の奥底で、魍魎は異境の中に箱庭を築いている。そして、希少種族であるチィレンは然る後に件の箱庭に送られる予定である、と。

 麒麟族を安定生産する為の道具として。

 

「そうして、奴は産まれてきた子を食うのです。断じて、許せるものではありません」

 

 そのように締めくくったドウジュンの話には、感情的な説得力はあれど信用に値する根拠は無かった。

 イシグロを誘導する為の作り話かもしれない。ユゥリンを動揺させる為の嘘なのかもしれない。それでも、事実である可能性は否定できない。

 続く謀反の作戦内容を聞き、イシグロは報連相の後に覚悟を決めた。

 

 仮に、である。

 もし本当に、ミヅチという存在がいて、クーシェンの根がドウジュンの言った通りだったなら。

 その時は、もうどうしようもない。

 

 全身全霊で以て、滅ぼすしかない。

 

 

 

 真っ赤な太陽が落ちていく。

 本戦の閉会式が終わり、満足そうにクーシェン城を出た観客達は明日の武王戦に期待を膨らませながら各々帰路についていた。

 

 同刻、クーシェン城にある大広間では、武帝祭本戦の祝勝会の準備が進んでいた。

 広間には豪華絢爛な装飾が施され、高い天井からは各武王の修める武術流派の旗が垂らされている。会場の隅では城専属の演奏隊が落ち着いた音楽を奏でていた。

 祝勝会は武侠国アレンジのラリス風立食パーティ形式で、等間隔に並んだ机には色とりどりのクーシェン料理が並んでいる。中には展示目的で作られた料理等もあり、飴で出来た像等からは確かな技術力を感じさせた。

 

 そんな中、ルクスリリア達を含めたイシグロ一党は、来賓の護衛と同様に壁際に並んで直立不動を保っていた。

 当然、イシグロ一党は各国の重鎮に注目されていた。それは彼が単に大会で活躍していたからではなく、その身の勲章や銀竜盟友剣の存在が為であった。

 審美眼のある者には分かってしまう、あの剣は本物だ。つまり、イシグロの奴隷であるあの銀髪竜族は本物の銀竜一族であり、しかも誰かしら一族の者から盟友として認められているというのだ。これにはスカウト目的で来た一般ラリス貴族はビビり散らかし、親に連れて来られた一般貴族子息――と止まり木協会の創始者――は目をキラキラさせていた。

 

「武帝のお成りでございます」

 

 進行役が宣言すると、荘厳な音楽と共に広間の扉から武帝が来場した。続いて、残る八人の武王も入ってくる。

 彼等は広間の奥にあるお立ち台に上がって、武帝を中心に整列した。イシグロ視点、如何にも強そうな彼等は王や帝というよりはマフィアのボスか極道の組長みたいに見えた。

 

「続きまして、嵐極拳正統後継者・ユゥリン様のご来場です」

 

 武帝による短い挨拶の後、同じ扉から一人の麒麟少女が現れた。

 武芸者らしく整った歩法に、同じく鉄杭を埋め込まれたかのように伸びた背筋。その面持ちは鉄の如くに強張っている。イシグロ達は、その理由がただの緊張ではない事を知っていた。

 

 武王達のいるお立ち台の前に来たユゥリンは、流れるように片膝をついて拳を抱えてみせた。

 ややあって、武帝が先の試合内容とその勝利を寿いだ。ユゥリンは礼儀に則って奥ゆかしく返答し、やがて武帝手ずから優勝杯が授与された。

 杯を受け取ったユゥリンに、拍手喝采が贈られる。この場にいる人の多くは彼女の勝利を純粋に祝福していた。

 

 音楽が切り替わる。そんなこんなで立食パーティが始まった。

 冷めた料理が下げられて、出来立ての料理が運ばれてくる。クーシェン料理やラリス料理。食材も何もかも最高級のソレである。興味深げな表情を浮かべる貴族子息とは対照的に、イシグロの隣にいるグーラは無の表情で会場全体を睥睨していた。

 他方、ユゥリンはお立ち台を下りた武王達と話していた。彼女は型通りの挨拶をして、全ての世間話に対応していた。

 

 壁際にいた関係者も飯を食いに向かっていき、護衛のイシグロも動いて良い時間になる。

 今のうちに第三王子の関係者と接触したいところだったが、当のアリエルや淫魔女王には人だかりが出来ていて、なかなか話しかける事ができなかった。

 

「御久しぶりです、イシグロ殿。桜闘会に続き、まさか武帝祭でも優勝してしまうなんて、流石です」

 

 すると、そんなイシグロに声をかける者がいた。

 声の主は、以前フライシュ祭で世話になった美食貴族のミラクムだった。曰く、彼はフライシュ侯爵の名代として武帝祭を観覧しにきたらしい。

 ミラクムの周囲には彼と同世代の貴族子息の姿もあって、彼等はイシグロに対して各々礼儀正しいラリス流のお辞儀をしてみせた。貴族身分であるはずの彼等彼女等はしかし、一介の迷宮潜りに過ぎないイシグロに対して確かな敬意を払っているようだった。

 

「いつか我が家の領地にもいらして下さい。最高の魚料理をご馳走いたしますよ」

「僕はまだ迷宮に潜った事がなくて、いつかイシグロ殿のようになりたいです」

「我が家の領地には魔物の巣となる山がありまして、春になると討伐祭が催されるのです。イシグロ殿も如何ですか?」

 

 ピュアな貴族のお誘いを躱し、その他初対面のお偉方との挨拶を交わした後も、アリエルの周りには人が絶えなかった。向こうもイシグロに用があるのか先程から時折チラチラと視線が合うのだが、暫くは無理そうである。

 そもそも、いざ話しても注目されていては本題に入れない。まぁぶっちゃけこうなる事は予想していたので、イシグロは彼女の護衛役に狙いを定める事にした。

 

「失礼。お久しぶりです、イスラさん」

「む、イシグロ殿か。先ほどの戦い、見させてもらったぞ。少し見ないうちにまた遠くに行かれてしまったな」

 

 止まり木協会所属のリンジュ銀細工、剣鬼流・イスラである。

 彼女とは何度か模擬戦をした仲である。アルヴの森では共に復興作業の手伝いをしたりして、顔見知り冒険者ではそれなりに親しい方だった。

 護衛同士の会話は誰にも怪しまれない。戦士らしくバトル絡みのトークをしつつ、イシグロは斥候ジョブ由来の手先の器用さで彼女の手にドウジュンからの手紙とイシグロ直筆の手紙を渡した。

 

「アリエル様にも、どうぞよろしくお願いします」

「うむ、伝えておこう」

 

 同じ要領で、淫魔女王の護衛をしていた騎士にもイシグロが書いた手紙を渡した。石橋を叩きまくった後に全力疾走するのがイシグロである。

 さて、可能ならライドウとも接触したいところである。そう思っていると、イシグロに接近してくる人影があった。

 

「イシグロ様、少々よろしいですか?」

「はい、大丈夫です」

 

 ドウジュンである。先程までの彼とは別人のような声音で、彼が声をかけてきたのだ。

 

「ご歓談のところ申し訳ありません」

「いいえ」

 

 ルクスリリア達とアイコンタクトを交わし、彼女達を淫魔騎士に預ける。

 そうして、イシグロは、ドウジュンについて行った。

 

 こうなる事は、事前に聞かされていた。

 ドウジュンからの報せが無ければ、薄い警戒心のままついて行った可能性があった。

 けれども、今は殺意と共に在る。

 

 戦場に、向かっているかもしれないのだ。

 

 

 

 二人分の靴音が、やけに響く。

 窓のないクーシェン城の廊下は、祝勝会とは打って変わって肌身が冷える程の静寂に満ちていた。

 イシグロとドウジュン、二人の間に会話はなかった。どこで誰が聞いているか分からない。故に、先の謀反について詳細を聞く事はできないでいた。

 

「ドウジュンさんは……」

 

 靴音が乱れる。静寂を破るように、イシグロが口を開いた。

 沈黙の時間が辛かった訳ではなかった。ただ気になって、且つ例え聞かれても怪しまれない話題を振ったのである。

 

「いつからシエジー組を?」

「姉が武王になった際に、譲り受けたのです」

「そうでしたか」

 

 また、靴音だけが響く。

 歩きながら、イシグロは祝勝会に出席していた武王達を思い出した。その中に大角族の女性はいなかったはずだ。

 

「こちらです」

 

 方向感覚が狂ってきた頃、長い廊下の突き当りに辿り着いた。

 そこには、一際豪奢な扉があった。ドウジュンがノックして扉の奥に声をかけると、中から返事がきた。

 そして、がちゃりと開かれた。

 

 扉の先には、色鮮やかな花園が広がっていた。

 鼻孔を撫ぜる草花の香り。白亜の石畳には清潔な水路が流れ、天井に吊るされた水晶からは柔らかな光が注がれている。

 水も、光も、温かな空気も、この空間の全ては完璧に管理されていた。

 

「おぉ、やっとお会いできましたね。お初にお目にかかります。私、ミヅチと申します」

 

 花園の中心。ティーテーブルの近くに長身の男が立っていた。彼はイシグロに向かって現代ラリス流のお辞儀をした。

 温和そうな顔の男だ。イシグロをして、その男に強者特有の圧は感じ取れなかった。さりとて銀竜剣豪ヴィーカやゲルトラウデ師匠のような武の深みも感じない。さながら底なし沼がヒトガタを成しているような違和感があった。

 男は笑顔を浮かべている。硬くも柔らかくもない、そうあれかしと貼り付けたかのような微笑みだ。

 

「……どうも、イシグロ・リキタカです」

 

 心を落ち着け、返礼する。お辞儀の最中、イシグロは今現在の環境を把握した。

 ここまで案内してきたドウジュンは、イシグロが潜った扉の近くで置物のように直立している。花壇や水路に脅威はない。本当に、この部屋はただの温室に過ぎず、罠や刺客の気配はなかった。

 

「突然お呼び立てして、申し訳ありません。どうぞ、お座りください」

 

 勧められるまま、イシグロは席に着いた。

 ミヅチと名乗った男は手ずから茶の用意をしていた。ラリス式の茶器にクーシェンの花茶が注がれると、湯気と共に芳しい香りが広がる。ことりと、やがてイシグロの前に茶が置かれ、男が対面に座した。

 言葉を交わしてから今に至るまで、ミヅチの笑顔には一切の変化がない。まるで一世代前のゲームキャラのようだった。

 

「改めまして、私はミヅチ。“天噛み”のミヅチと申します。実質的なクーシェンの統治者をしております。肌感覚でお分かりかと存じますが、私は祖たる捻じれ角……魔族でございます」

 

 ドウジュンの話によると、目の前にいる男がクーシェンの支配者であるらしい。

 そして、絶滅したと言われている古魔族――魍魎族の生き残りであると。

 

「イシグロさんとは、一度話してみたかったのですよ」

 

 にこやかなミヅチに、イシグロは義務的に相槌を打ち続けた。

 一見して、ミヅチはイシグロに好意的である。実際、相手からは敵意や害意といったものはなく、敵味方反応レーダーにも感はない。

 しかし、勘が言っている。戦士としての勘とは別の嗅覚に似た直感。間違いなく、ミヅチは悪に類する存在だ。

 

「……ところで、私を呼んだ理由を伺ってもよろしいですか?」

「おや、もうよろしいので?」

 

 あえて花茶を呑むフリをして、ミヅチとの世間話を断ち切った。

 すると、ミヅチは首を傾げ、次いで何かを納得するような表情に切り替わった。

 

「そうですね。初めに結論から申しますと、私は貴方と友人になりたいのです」

「友人?」

「はい」

 

 突拍子もない発言に、イシグロは訝しげに眉を顰めた。そんなイシグロを見て、仮面めいた笑顔に戻ったミヅチはさも嬉しそうにうんうんと頷いている。

 友人になりたいから、実際に会おうと思って呼び出した。一応、呼び出しの理由にはなっている。

 しかし、その前、“友人になりたい”という理由が不明瞭なままだ。いっそう訝しむイシグロの前で、魍魎族の男はテーブルの上に両肘をついた。

 

「イシグロさん、私はね。旧魔王軍……初代魔王軍の幹部だったのですよ」

 

 なんて事を、言ってのけた。

 驚愕を隠すべく唇を引き結ぶイシグロの前で、元魔王軍幹部は平然と続けた。

 

「お察しの通り、私は現在解放軍と名乗っている二代目魔王軍残党と協力関係にあります。なので、貴方がこの国に来た理由にも見当がついております。探りに来たのでしょう? 解放軍の関係者を」

 

 解放軍というワードを聞き、驚愕から立ち直ったイシグロの警戒心は改めて閾値を超越した。

 しかし、ミヅチの予想は的外れだった。クーシェンに来たのは武術の鍛錬の為で、半分は旅行目的である。武帝祭に出たのはユゥリンの幸福を願っての事で、今こうしているのは成り行きに他ならなかった。

 とはいえ、解放軍の関係者からすればイシグロはそのように見えたのかもしれない。にも拘わらず、ミヅチ自ら素性を明かした事は不可解だったが。

 

「現在、解放軍は様々な国の奥に根を張り、然るべき時まで機を窺っているそうです。三代目魔王を頂点とした新魔王国……理解し難いかもしれませんが、魔族に限らず一部の種族にとっては件の国は理想的な国家なのですよ。とかくラリスは法に厳しい。私とて、生き残るには影に潜るしかありませんでした」

 

 アルヴの森の防衛戦で戦った猫又と異なり、ミヅチの語りには解放軍や新魔王国に対する心酔の念は見受けられなかった。あくまで、協力者的な立場を取っているようだ。

 

「先も申しましたように、私は魔族です。それも今では古魔族と呼ばれる魍魎族として生まれました。イシグロさんは、魍魎族をご存じですか?」

「多少は」

「それは結構。ふふふ、嬉しいです」

 

 自身の種族について訊いてくるミヅチに、イシグロは努めて真摯に答えた。

 例によって、イシグロは王都にある図書館で魍魎族について知り得ていた。種族図鑑に歴史書に、あらゆる書籍においても魍魎族は夢魔と同じような記載がされていた。

 即ち、人類平和条約に定められた禁忌種。見つけ次第討滅すべき悪魔の種である、と。

 

「念の為にお話しますと、魍魎族は他者の魂を糧に生きるのです。肉でも魔力でもなく、魂こそが魍魎にとっての食べ物なのですよ。魂以外の食事は、酒や煙草のような嗜好品といったところでしょうか」

 

 魍魎族は、食人種族である。

 他者の血を吸う吸血鬼や男の精を摂取する淫魔とは、同じ魔族でも根本的な生態が異なる。魍魎にとって、食事と殺人は同義なのである。

 また書籍に曰く、その品性は極めて下劣で、総じて凶暴な性質をしているとも書いてあった。

 

「ラリスやリンジュ、魔族国さえ魍魎族を禁忌種と見做しました。これについては、私自身仕方ない事と納得しています。何せ生存競争の敗者な訳ですから。魍魎族程ではないにしろ、法と歴史によって生きにくいまま生きている種族は意外と多いのですよ」

 

 その時、イシグロはかつて戦った夢魔と猫又達の発言を思い出した。

 曰く、解放軍は魔族を含めた強者が思うまま生きられる国を作るのが目的であると言っていた。

 その理想に照らし合わせるのであれば、目の前の魍魎族もそれに賛同するのが自然であると思える。

 

「ですが、私は新魔王国には興味がありません。私と解放軍は、あくまで協力関係。解放軍には参加しておりませんし、彼の者共がどうなろうが知った事ではありません」

 

 だが、ミヅチは解放軍とは距離を保っているようだった。

 逆に言うと、解放軍すら力ずくでいう事を聞かせられない個人という事でもあるのだろうか。

 

「……それは、何故?」

 

 息を飲み、思い切って訊くと、男は待ってましたとばかりに柏手を打って答えた。

 

「私はね、イシグロさん。もう夢を叶えているのですよ。現状の幸せ、その維持が一番。悠々自適なスローライフというやつですね。過ぎた欲は身を滅ぼします」

 

 ここにきて、ミヅチの不動の笑みが崩れた。

 心底満たされているのだと言わんばかりの、あるいはお宝を自慢する子供のような微笑み。

 それから、彼は元の仮面めいた笑みに戻って「ですが」と続けた。

 

「いつの時代も、孤独は魔族の心を殺します。私も例外ではありません。そこで、イシグロさんです」

 

 真っすぐに、目を合わせられる。

 ガラス玉のような瞳に、イシグロの仏頂面が映っていた。

 

「これまで、私は友人関係の構築に何度も失敗してきました。相互理解とは、難しいものです。ですが、イシグロさんなら、貴方となら友人になれると思ったのです」

 

 イシグロを呼んだのは友人になりたかったから。友人になりたいのは、一人が寂しいから。

 辻褄は合うが、納得は別だった。瞳の中のイシグロが黙する一方、笑顔の魍魎は楽しそうに続けた。

 

「魂喰いとは違うでしょうが、イシグロさんも私と似た(さが)をお持ちでしょう? 貴方の奴隷を見れば分かります。いいですよね、銀竜。趣味が合うとは思いませんか?」

「趣味?」

 

 問うと、ミヅチは仮面の奥から笑声を発した。

 

「私の箱庭をお見せしましょう。見てもらった方が早い。きっと気に入って下さいますよ」

 

 言って、男は立ち上がった。

 秘密の箱庭を、見せてくれるらしい。

 

 イシグロは、内心で嘆息した。

 ドウジュンの言葉の信憑性が高まってしまった。嘘であってほしかった。

 覚悟はしていた。対策もしてある。前世から、己を殺す術は弁えていた。

 

 スキップするように歩き出したミヅチに続き、うっそりと立ち上がったイシグロも歩き出した。

 クーシェンの底の底。魍魎の箱庭へ。

 

 

 

 

 

 

 祝勝会から離れた部屋で、麒麟族の姉妹は再会を果たした。

 豪奢な造りの椅子に座し、煌びやかな装飾を施されたチィレンは、丹精込めて制作された人形のようであった。

 彼女の瞳に、光はなかった。

 

「チィ姉」

 

 ドウジュンの手下に連れてこられた、家族以外誰もいない空間。妹の声に、姉は少しずつ人に戻っていった。

 

「チィ姉、久しぶり」

「ユゥユゥ……?」

 

 二度目の呼びかけに、チィレンの眼は光を取り戻した。

 目が合う。チィレンの瞳に、あの日と変わらない妹が映る。

 

「どうして……」

 

 小さな呟きだった。

 長い間、声を出す事を忘れていたかのような。

 

「どうして、こんな事したの……? 武帝祭なんかに出て、危ないの嫌いだったでしょ……」

「家族を助けにきたんですよ」

 

 弱々しい声に、妹は力強く即答した。

 一歩、立ち上がろうとしたチィレンが崩れ落ちる。倒れそうになった花嫁を、ユゥリンは両手で以て支えた。

 

「逃げて、ほしかった……! その為に、こんなところに……逃げてくれればよかったのに! ユゥリン、何でよ……!?」

 

 チィレンらしくもない、無理に搾り出したような声音。必死で、悲壮で、絶望に満ちていた。故にこそ、今のチィレンの魂はあまりにも高潔だった。

 普段のユゥリンなら、あるいは拳士として未熟だった頃のユゥリンなら、酷く動揺していたかもしれなかった。

 

「……大丈夫です、安心して下さい」

「え……?」

 

 だが、今のユゥリンは動じない。

 妹らしからぬ言葉である。囚われた姉が見上げた先、春空のような青が広がった。

 久しく見た妹の瞳は、確固たる意志と不退転の覚悟に満ち満ちていた。

 

「大丈夫です。貴女の妹を信じてください」

 

 猛るでなく、決意していた。

 祈るでなく、確信している。

 貴き麒麟の蒼の眼は、あるがままの世界を視ていた。

 

「世間ってさ。案外、優しいらしいよ」

 

 囁くように言葉を紡ぐ。

 完成された嵐極拳士に、揺らぎはなかった。

 

 

 

 同刻。

 イシグロは、魍魎の箱庭を見た。

 

「風も、匂いも、この空さえ、全て本物以上であると言えましょう。どうです、綺麗でしょう? 完璧な出来と思いませんか?」

 

 美しい場所だった。

 自然に溢れ、文明に満ち、争いのない世界があった。

 

 子供達は笑顔だった。

 大人達も笑顔だった。

 苦しみの全てが存在しない、極楽浄土が広がっていた。

 

「イシグロさんには素敵な贈り物を用意しています。楽しみにしていてくださいね」

 

 そっと、イシグロは心の蓋を閉じた。

 そして、枷を外していった。一つ一つ確かめるように、慎重に。

 今はまだ、その時ではない。

 

 ここじゃ物が壊れる。




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