【一巻発売中】たのしい異世界ハクスラ生活、あるいは超紳士的英雄譚   作:いらえ丸

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 感想・評価など、ありがとうございます。いつもお世話になっております。
 誤字報告もありがとうございます。感謝です。
 キャラ・ボスのご応募もありがとうございます。

 今回は三人称です。
 よろしくお願いします。


シュルレロリスム(下)

 ラリス大学に入って二年が経った頃には、ロレッタの中の無根拠な自信は木っ端微塵に粉砕されていた。

 偏に、世界屈指の大学にはロレッタ程度の天才など掃いて捨てる程にいた為である。

 天賦の才があろうとも、一度躓けば追い抜かれる。ラリス大学とはそういう場所なのだ。

 

 王都アレクシストは中央区。王立ラリス大学は世界中の天才や秀才達の集う総合教育機関である。

 下は十歳以下の人間族から、上は千歳超えの森人まで。一部専門分野こそ他の大学に一歩譲るものの、学びの幅と深さは紛れもなく世界最高の大学だった。

 中でも芸術学科は選ばれし者のみが入学を許される狭き門であり、選び抜かれた才人には学費免除など様々な特別待遇が与えられる。

 ロレッタもまた、そのうちの一人だった。それも様々な特権が与えられる特待生枠だ。

 村を出て初めて筆を握った、六年後の事であった。

 

「皆、待ってでけろ。いつかきっと、世界一の絵描きになって、この村にデッカい銅像とか建てっからな。あーいや壁画とかの方がいべ? とにかぐ、すんげぇビッグになっからよ」

「なんだい? ロレッタのをかい? それはまたお偉いさんになったもんだね」

「ち、ちがっ! そういうんじゃなくってだな!」

「まぁ行っておいで。疲れたら帰ってきな」

 

 ロレッタはラリス王国辺境の農村生まれの少女である。

 行儀見習いで村を出るまで文字を描いた事すらなく、絵の経験に関しても白い石で木板に落書きしていた程度。ド田舎の芋娘が総合芸術を学べる大学に、それもラリス大学に入れたのは紛れもなく多くの幸運と周囲の人の応援あっての事であった。

 

「……って、言ってきたけどよ。絵ぇひとつ取ってもテッペンにゃ全然届かねぇもんだなぁ」

 

 振り返るに、入学したての頃は順調だった。

 授業で学んだ技術を綿のように吸収し、周囲の人間関係にも恵まれた。描けば描くほど褒められる環境は、ロレッタの才覚をグングンと伸ばしていった。

 努力と才能の結実として、一年時の最優秀生徒はロレッタであった。ロレッタの純朴な性格も相まって、誰もが彼女を祝福していた。

 

 嬉しかった。誇らしかった。絵とは真逆に下手くそな字で、故郷の村に手紙を出した。いつか世界一の芸術家になって村に錦の御旗を飾るのだ、と。

 これからも沢山絵を描いて、色んな事を勉強して、いつか皆との約束を果たす。

 まだ、おかしくなってなかった頃の話だ。

 

「なんだべなぁ……描いでるときはよがったんだけんど、仕上げてみたらなんかおがしいなぁ」

 

 二年目の初夏から、ロレッタは自分でも分かるくらい絵が下手になっていた。

 理由は分からない。心身に不調をきたした訳でもない。絵筆を取って、楽しく描いて、そうして出来上がった絵は落第生のソレだった。

 技術自体は向上していたのだ。入学当初にあったような粗さはなくなり、古今東西の絵画技法を身に着けたロレッタの絵は間違いなくラリス大学の生徒相応の腕前ではあったのである。

 ただ、見る人が見ればつまらない絵になっていたのだ。まるでロレッタ以外の誰かが描いたかのような、絵を描く使い魔がいればこうなるだろうというような。

 

「そうですか。少々詰め込み過ぎたのかもしれませんね。暫くの間、技を寝かせるべきでしょう」

「寝かせる、ですか? 休憩すべきという事でしょうか。でも私はもっといっぱい描きてぇです!」

「飲み込んで吐き出すだけじゃいけないんです。大丈夫ですよ、焦らないで」

 

 よくある話だ。自分もなった事がある。調子を崩したロレッタを、皆はそう言って励ました。

 世に言う芸術家病なのではと、先生のアドバイスで色んな治療法を試してみた。

 友達と思い切り遊んだり、遠方の美術館を見て回ったり、下級生に絵の指導をしたり。

 けれども、ロレッタの絵からは日に日に魅力が失われていった。

 

「絵描き病ですね。筆を握り過ぎて腕の芯にある経路が塞がってしまうんです。今はまだ大丈夫ですが、このまま絵を描き続けると最悪手が動かなくなります」

「え、絵描き病……!? で、でも。オラまだそんな歳じゃないです!」

「年齢は関係ありません。若くして発症する方もいらっしゃいますよ」

 

 追い打ちのように、ロレッタの身を悲劇が襲った。突如として、筆を握るロレッタの手に電流のような痺れが過るようになったのだ。

 絵描き病だ。肘から指先にかけての感覚が薄くなり、力を籠めると痺れて痛むようになった。画家にとっては致命的な、絵描きを殺す不治の病だ

 不幸中の幸いで、かつて治療不可能と言われていた病も現代の医療技術では治せるようになっていた。しかし、完治には多くの資金と時間が必要である。いくらラリス大学でも、今のロレッタにそこまでの支援はしてくれない。

 

「痛い……けんど、もっと描かにゃあ。そんでねぇと成績が、もっと成果を挙げないと……!」

 

 結局、対症療法しか出来なかった。

 売れる絵を全て売却し、一時しのぎの治療を受け、痺れてない間に作品を作り上げる。とにかく、謎の不調を克服せねば。

 けれども、それでも、ロレッタの絵は次第に凡庸に成り下がっていった。

 

「あぁダメだぁ! まただ! こげな初歩的な間違いすっだなんて! 痛み止めが切れでだせいだ! なんでこういつも!」

 

 ロレッタは焦燥に駆られていた。成績が一定水準を超えないと、学費の免除が取り消される。

 それだけではない。これまでロレッタは特待生特権で画材等の費用も免除してもらっていたのだ。いくら魔道具が発展した現代であっても、筆も顔料も決して安くはない。

 当然の措置ではあった。芸術界であっても、ラリス王国は実力主義なのだ。強きが生き残り、弱きが淘汰される。事実、この頃になると学級からは何人かの退学者が出ていた。

 焦燥していたロレッタは、やがて恐怖に支配されていった。いつ自分がそうなるか分かったものではない。退学にこそならずとも、特待生枠から外される可能性は充分にあった。そうしたら実質的なドロップアウトだ。

 

「えっと、こっちは読んだから次に読むのは……。あぁもう休んでる暇なんかねぇのに」

 

 寝る間も惜しみ、時間の限り絵を描き、利き手が役立たずな時は創作の肥やしになりそうな勉強を沢山した。しかし結果には繋がらなかった。

 何故、昔みたいに描けなくなったのか。手の治療費も馬鹿にならない。このままでは、大学を去らねばならなくなる。村の皆に門出を祝ってもらったのに。

 

「ロレッタさん、お加減はいかがでしょうか? その、思いつめていらっしゃるょうなので、実家から取り寄せた薬草茶を……」

 

 そんな中でも、先生を含めた周囲の人達はロレッタに優しかった。

 自分も大変だろうに、同じ特待生のアリアドネもロレッタを気遣ってくれていた。最初は上手いだけで魅力のない絵を描く娘だったのに、今では理想的な画家へと大成しかけている。

 曰く、アリアドネは裕福な家の生まれらしい。子供の頃から最高の環境で芸術に親しみ、受かるべくしてラリス大学に受かった秀才だ。彼女が描く絵の多くは古典や英雄画など無難な題材が多く、ロレッタからすると低俗で媚びた絵のように見えていた。

 以前までは素直に尊敬していたのに、いつしか穿った目で見てしまっていた。そういう荒んだ心を悟らせまいと、ロレッタは周囲の人と距離を取り始めた。七十二の名を持つ伝説の芸術家のように、孤独でなければ真の絵描きになれないと思い込んで。

 

「学費の免除、無くなっちゃうんですか……?」

 

 そして、ついに恐れていた事が起こった。

 入学してから二年が経って、三年目の春。ロレッタはとうとう特待生特権を取り上げられてしまった。

 まず学費免除が取り消された。画材も自分のお金で揃えなくてはならなくなった。仮にそれらを卒業後に返すとしても、今のロレッタには返済の見込みも信用も無かった。

 

「そ、そんなら、オラどうすればいんだべ? 今のオラじゃ学費なんて払えねっちゃ。筆だって、ちゃんとしたもんでねぇとロクなもんにならね! 何か、何か仕事は……!」

 

 ロレッタは混乱した。もうどうしようもないと希望を断たれた心地だった。

 いや、まだ詰んではいない。大学から斡旋される仕事をすればいいのだ。だが、そうすると絵を描く時間が無くなり、成績の維持ができなくなる。手の治療費も捻出せねばならないのだ。

 

「カリオペ美術館……次の展示会で、貴女を助けてくれる支援者を見つけなさい。そうすれば問題は解決するでしょう」

「そ、そうか……!けんど、今のオラの絵ぇ見て誰が……」

「やれるかどうかではなく、やらねばなりません」

 

 そんなロレッタを哀れに思ったか、先生は道を指し示してくれた。

 王立カリオペ美術館で行われる展示会。そこで支援者をつかまえ、学費を出してもらうように最高の作品を仕上げてくるようにと。それまでは特別措置で免除期間を延長してくれるとも言ってくれた。

 また、今回は特別に大学に寄贈した入賞作品も売っていいと言われた。ラリス大学にしては、あまりにも優しい温情だった。

 

「ありがとうございます! ありがとうございます! なんとお礼を言っていいか分かりません!」

「これが最後のチャンスです。困った事があったら言いなさい。私の立場でできる範囲で、最大限支援致します」

 

 授業の傍ら、展示会用の作品を仕上げなくてはならない。もはや絶望している時間などなかった。

 食事も睡眠も、あるいは命すら削って、ロレッタはひたすらに絵を描いた。

 描いて、止まって、描いて、分からなくなって、描きあげて、気絶して、目が覚めて、あまりの酷さにキャンバスを投げ捨て、落ち込んで、もう一度だけ奮起して、痛みを堪えて描いて、またダメで、繰り返して……それでも、昔ほど良い絵を描けなかった。

 

「あぁあああ……ッ! また失敗した! こんなんじゃ全然ダメ! なんで上手くいかねんだ! うぁあああ手が痛ぇぁあああ!」

 

 この期に及んでも抜け出せない。孤独を選び、死を覚悟しても、極限状態で気力を振り絞っても、今の自分は過去の自分の劣化コピーに過ぎなかった。

 先生に分けて貰った顔料も残り少ない。絵筆も使い物にならなくなった。村の皆から貰った緊急資金を使って、見すぼらしい筆を買った。母から貰った帽子も売ろうとして、それだけは出来ずに描き続けた。

 ついに、底が見えた。騙し騙し使っていた筆も限界だ。せいぜい、あと一枚しか描けないだろう。あるいは、ロレッタの人生で最後の絵になるかもしれない。

 

「……なに、描けばいいんだ?」

 

 真っ白なキャンバスを前に、ふと筆が止まった。

 何を、どのように、どうやって描けばいい? いや冷静になれ。今の目標はあくまでも支援者の確保である。なら、富裕層に気に入られる題材にすべきでは?

 描くなら、王道の英雄画だ。作法に則って描きさえすれば年配者は喜ぶだろう。見てくれる人の中に森人がいれば、翡翠魔弓のアリエルを描けば買ってくれるはず。そうすれば、当座の生活資金は賄える。

 そうだ、媚びを売るべきだ。ロレッタの芸術など、どうせ誰にも分からない。伝わらないのだ。そんなものに心血を注ぐなど下らないではないか。幸い、技術力だけはアリアドネと同格なのだ。だったら自分も彼女と同じ事をすれば、支援者の一人や二人……。

 

「んなこたねぇ! アリアドネさんは立派だ。オラと違って一生懸命で、優しくて、だから……」

 

 それはダメだ。何故なら、信念がない。そもただの媚びではないのだ、アリアドネの絵は。

 求められるものを、求められた通りに描いている。時に自分の意に沿わぬ作品でも、彼女は努力を重ねて成し遂げていた。それこそが彼女の芸術なのだ。その領域に、中途半端な覚悟で中途半端な自分が踏み込んでいい訳がない。

 

「つか、オラぁ今までどうやって描いてたんだべ……?」

 

 真っ白い板が、ロレッタを見つめ返していた。

 治療を受けていない利き手が、安い絵筆を握りしめている。

 弱々しくって、痛かった。

 

 

 

 何も描けない日が続いた。

 イーゼルに向かうのが怖かった。何も描かれていないキャンバスが急かしてくるようだった。初めて画材を使った時は、無我夢中で描いていたのに。

 ここに来る前、侍女の仕事をしながら短い時間で絵を描いていて、その時の絵は今の自分より上手くて、時間も技術もある現状がこのザマだ。

 

 時間だけが過ぎていく。

 空腹になった。食べられるものなど無かった。

 寮を出る。誰もない廊下を歩き、食堂で安い麦粥を頼んだ。近くにアリアドネがいたので、中庭に行った。

 中庭には多くの生徒がいたが、ロレッタの知り合いは誰もいなかった。だからこそ安心していられる。

 

「見て! サイモン先輩が歌っているわ! なんて素敵な歌声なのかしら!」

「ほぉんサイモン? 誰だ一体」

「ご存じ、ないのですか!? 彼こそ物乞いの身から止まり木に拾われ、スターの座を駆けあがっている超成り上がり美少年……サイモンさんです!」

 

 賑やかな中庭では、音楽科の生徒が最近流行ってるらしい英雄譚を弾き語っていた。

 麦粥を食べながら、何となく耳を傾ける。歌の題材はイシグロなる冒険者らしい。

 

 どうやら、題材となった冒険者にはそれはもう壮大なドラマがあったそうだ。その上、イシグロは優しい心根の持ち主で、とにかく万人に愛される英雄なんだとか。

 凄い人もいたもんだと、内容にも歌声にも感情を動かされなかったロレッタはぬぼーっと聞き流していた。

 

「ははっ、めっちゃ美化されてんじゃねぇか」

 

 何の感情も抱けないでいるロレッタの近くで、見ず知らずの中年男性が腕組み仁王立ちで笑っていた。

 生徒とも教諭とも思えない男性だった。彼は無駄に仕立ての良い服を着て、件の英雄譚を面白がるように聴いていた。

 

「なんだ、お嬢ちゃんもイシグロのファンなのかい?」

「え? いえ、そういう訳では……」

「まぁ綺麗なとこ切り抜いてるからな。そこだけ聞けば完全無欠の英雄様だろうよ」

 

 すると、心底気持ちよさそうな顔をした男はロレッタの返答を無視して語り始めた。

 

「何年前になるかな。あいつが初めて転移神殿に足を踏み入れた時は、それはもう貧相なナリでよ。なんたって持ってく武器は安モンの剣だけなんだぜ? 今日日、何も知らねぇ新人でももっとマシな装備するってのによ。俺ぁ内心こいつは生きて帰れねぇなとか思ってたよ」

 

 それは、世に謳われる英雄とは真逆の、民の知らない英雄の過去だった。

 嘘か真か、冒険者になったばかりのイシグロは死人より死んだ瞳の青年だったらしい。絶望とも諦観ともつかぬ覇気のない目で、ボロボロの剣を持って迷宮に潜っていたそうだ。

 そして、帰ってきた。何度も何度も、たった一人で迷宮に潜り、悉くを踏破してみせたという。時に酷い負傷をしても、次の日にはまた迷宮に潜る。そうしてついた綽名こそが“迷宮狂い”なのである。

 

「銀細工になってからだな。あいつは、奴隷を買うまでずっと一人だったよ。あいつの目標を考えたら、ついてこれる奴がいなかったんだろーな」

「ひとりで……」

 

 迷宮については最近勉強したばかりだった。

 入っただけで心身を苛む瘴気に、力を引き換えに発症する不可逆な狂気。ただでさえ生きるか死ぬか分からない戦場で、無事に帰ってもその身は迷宮に侵される。

 英雄譚の裏側で、イシグロ・リキタカは長い間一人で戦っていたのだ。誰にも感謝されず、称賛されず、ただ危険な男と遠巻きにされてなお、直向きに。

 後の功績を鑑みるに、紛れもない英雄なのだろう。けれども、イシグロを称える人々は彼を英雄としてしか見ておらず、同じ人と見做してはいないようだった。

 そこに、ロレッタは強烈な違和感を覚えた。

 

「気になるかい? なら、特別にこれをやろう」

「え? いや別にいらな……」

 

 なんて思っていると、謎の中年男性は鞄の中から謎の紙束を手渡してきた。

 押しに弱いせいで、断りきれずに受け取るロレッタであった。

 

「ちょっとソレ関係で母校に顔出した訳よ。そいつは仮の写しだ。どのみち捨てるつもりだったからな。なに、礼は要らねぇぜ」

「は、はあ。ありがとうございます……?」

 

 結局、ロレッタは要らない紙束を手に寮に戻った。

 

「うわ、なんこれ汚ね……」

 

 寮に戻ると、ロレッタのアトリエは軽く引くくらい散らかっていた。

 とりあえず、掃除をした。窓を開け、空気を入れ替える。すると多少はマシになり、幾分か綺麗になった。

 

「よぉ分からんけんど、すんげぇ強ぇんだなぁイシグロさんは」

 

 イーゼルから離れた位置で、逃げるように紙束をめくる、そこにはイシグロ・リキタカの記録が書かれていた。

 英雄譚の裏側だ。イシグロがどんな男で、何を思って迷宮に潜っていたか。とはいえ、件の英雄譚も大きく外れてはいなかった。止まり木協会への寄付など、あまり目立たない善行を積んでいるあたりに彼の人品が垣間見える。

 

 奴隷を増やし、武装を与え、自分についてこれるように鍛え上げる。各地で冒険を繰り広げ、クーシェンではアリエルと共に巨大な魔龍を討伐した。

 やがて、成し遂げた。尖兵を退けた後、イシグロは奴隷を解放して彼女等を娶ったという。朗らかな顔で笑うイシグロは、やっと人間らしい笑顔を浮かべていたそうだ。

 

「ふぅ……」

 

 ややあって、ロレッタは分厚い紙束を机に置いた。

 目の疲労を癒やすべく瞼を閉じていると、胸の奥からフツフツと湧きあがるものがあった。

 久しぶりの感覚だ。何かを描きたいという漠然とした高揚感。あるいは足が疼くような浮遊感。

 ちょうどよく、目の前に真っ白なキャンバスがあった。おもむろに筆を握る。何か描いてあったら、何も描けなかっただろう。

 

「よし……どうせこれが最後の一枚なんだ。もう好き勝手してやんべ」

 

 題材は決まった。

 酷い筆だ。構図も適当でいいだろう。どうせ最後になるのだ。好き勝手に描いてやる。下書きもなしに、そのまま色を塗っていった。

 

 そうして描き始めて、どれだけの時間が経っただろうか。

 気づけば朝になっていた。下書きなしで描いたのなんて、いつぶりだろうか。妙に清々しい。

 

「あはは、こりゃあセンセに怒られるべ」

 

 描き上がったのは、完全に素人感丸出しの絵だった。

 描いてる途中で顔料がなくなって、全体の色彩がおかしくなっている。見る人によってはあまりの稚拙さに怒らせてしまうのではなかろうか。細部を調整しようにも、これをどうしろというのだ。

 まんま、村を出る前の自分の絵だった。

 

「よろしくお願いします。先生」

「はい、確かに受け取りました」

 

 仕方ないので、それをそのまま提出した。

 先生は何も言わず、受け取った。

 

「あ、題名付けんの忘れてたっぺ」

 

 それもまた、自分らしいと笑った。

 その後、久しぶりにぐっすり眠った。

 

 気分が良かったのはそこまでで、一日も経てば手の痛みと共に今まで目を逸らしていた絶望が湧き上がってきた。

 展示会の前に部屋を片付けるべきでは? もう本当に描けなくなったのか? あれが最後の一枚で良かったのか? まだ描きたい。けどもう此処にはいられない。最高の環境だったのに、努力が足りなかった?

 悶々とした日々が何日も続き、気が付いた頃には展示会の当日になっていた。

 

 

 

 カリオペ美術館の展示会では、同級生の作品に圧倒された。

 皆、自分のスタイルを確立している。それがどうにも眩しくて、活き活きと希望に満ちた瞳を見れなかった。

 翻って、自分の作品はどうだろうか。色も構図もめちゃくちゃで、何もかも安物丸出しで、有体に言って汚い作品だった。これを買う人がいるとしたら、それは相当な好事家に違いない。

 実際、展示会では誰もロレッタの絵に目を向けていなかった。アリアドネや同級生達には、数多くの支援者が集まっていたというのに。

 

「結局、オラみてぇな田舎モンが必死こいて頑張ったって、所詮こんくらいのもんだべさ。アリアドネさんも皆も、オラと違ってめちゃくちゃスゲェんだわ。ほんと集大成って感じで、カリオペ美術館さ展示してもらえただけでも、一生モンの思い出だっちゃ。んでもう、思い残すことなんてねぇがな……」

 

 本当の本当に、これで終わりなのだろう。

 家に帰ろう。いや、それ以前に帰れるのだろうか。帰り道に魔物に襲われるかもしれないし、当然として護衛を雇える金などない。

 仮に王都に残るとしても、絵以外に取り柄の無い自分に一体何ができるだろうか。いや、最近は絵すら半端だった。

 

「いんや、どのみちだべ」

 

 腹を括るしかない。現実的に考えよう。

 家に帰る為に、まず旅費を稼ぐ。旅費もそうだが、村の皆から貰ったお金も返済しないと。せめて過去の入賞作品が売れてくれれば多少の足しになってくれるだろうが。

 

「楽しかったなぁ。本当に、楽しくて……良いガッコだったべ」

 

 煌びやかな作品を見て、ロレッタの目から涙が出てきた。

 如何に自分が恵まれていて、如何に自分がダメだったのか。

 もう、絵を描けなくなっても大丈夫だ。ラリス大学に通って、カリオペ美術館に展示したと言えば一生の思い出として自慢できる。これが生きる為の誇りになるのだ。

 

 ふと、恩師の先生と支援者候補らしき黒髪の男性が何事か話している姿が見えた。

 きっと優秀な生徒について話しているのだろう。世話になった人を見て、ロレッタの涙は引いていった。今はもう感謝しかなかった。

 

 

 

 展示会は何事もなく終了した

 結局、ロレッタは誰にも話しかけられなかった。

 頼みの綱だった入賞作品も売れなかったそうだ。最後の希望さえ無くなった。

 

「あの絵、売れましたよ」

「えぇっ!?」

 

 と思ったら、なんと展示していた方の絵が売れたらしい。

 都会にはとんだ好事家がいたものだ。ともかく、ロレッタの最後の作品が誰かに気に入ってもらえたらしい。掛け値なしに良い思い出になった。

 虚勢でなく、本心で誇れる。もう思い残すことはない。

 

「それと、ロレッタさんは然る御方から支援を賜る運びとなりました。学費に加え、絵描き病を完治させられるだけの治療費もお受け取りしております。然るべき手続きの下、ロレッタさんにお支払いいたします。良かったですね」

「……は?」

 

 続く言葉に、ロレッタは唖然となった。

 今日、ロレッタは誰とも話していない。未だ成長途中のロレッタでは無駄になっただろうが、そういう(・・・・)のも覚悟はしていたのだ。積極的になるつもりではあった。

 だというのに、会ってもいない誰かが今のこの落ちぶれたロレッタを支援してくれるらしい。そんな事があっていいのだろうか。

 

「だ、誰ですか? 誰があんな絵を、それに会った事もないのに支援なんて……!」

「匿名でのご支援を頂きました。名前の開示は不要であると」

「で、でも先生は知ってるんですよね? せめてお礼と挨拶を……」

「存じています。ですが、先方との約束でロレッタさんにはお伝えできかねます。挨拶も不要と仰っておいででした」

「そんな……」

 

 言い募るロレッタに、先生は静かに首を振る。

 もうロレッタの情緒がぐちゃぐちゃだった。たぶん相手は都会の人だ。自分を騙して楽しんでいるのではないか。支援するとか言うだけ言って、実際には何もしてくれないんじゃないか。

 混乱するロレッタを前に、先生は優しい顔になって口を開いた。

 

「一つ、先方から伝言を預かっております。これを伝える事が支援の条件でした」

「は、はい……!」

 

 息を飲んで傾聴する。

 支援してくれる人から、ロレッタに伝えたい事があるらしい。

 その人が望む事なら、何でもするつもりだった。

 

「……これからも、あなたが良いと思う作品を作ってください。そう、仰っていましたよ」

「くぅ……っ」

 

 それは、ロレッタの心を射貫く言葉だった。

 それは、それは、芸術家冥利に尽きる言葉で、あまりにも都合が良すぎた。

 ただただ、その純粋な優しさが嬉しく、喜ばしく、それだけでは表現しきれない強く大きく特別で行き場のない感情がロレッタの身体を稲妻のように駆け巡った。

 

 その時だ。

 ロレッタは、王都に来る前の事を思い出していた。

 

 

 

 物心つく頃には、ロレッタは拾った石で絵を描いていた。

 描いた絵を見せると、皆が喜んでくれた。アレ描いてと言われ、描いた。コレ描いてと言われ、描いた。皆、喜んでくれた。ロレッタはそれが嬉しくて、どんどんお絵描きが好きになった。

 

 ある日の事だ。

 村の近くに出現した魔物と戦い、その時負った怪我を癒やすべく村で休んでいた騎士様が村で治療を受けていた

 療養中、ずっと厳しい顔をして呻いていた騎士様を元気づけようと、ロレッタは綺麗な木の板に騎士様の似顔絵を描いた。

 

「ありがとう。お陰で元気が出た。君は将来いい絵描きさんになるよ」

 

 すると、騎士様は強張った顔を綻ばせて喜んでくれた。

 あの時の騎士様が、領主様にロレッタを推挙してくださり、こうしてラリス大学まで来る事ができたのだ。

 

 今、思い出した。

 ロレッタの絵描きとしての原体験は、崇高な作品を描き上げる事ではなく、誰かより上の絵を描く事ではなく、誰かに喜んでもらえる絵を描く事だったのだ。

 

「ロレッタさん、あなたは素直過ぎました。だから道に迷ってしまった。美を探求する芸術もありましょう。世相の求める作品作りという道もありましょう。ですが、貴女はただ貴女の心に従って絵を描きなさい。彼……先方とお話しして、気付かされました」

「はい、はい! ありがとうございます! 思い出せました! ありがとう、ございます!」

 

 とめどなく、涙が流れた。

 比喩ではなく、九死に一生を得たのだ。安堵と感謝と、色んな感情がぐちゃぐちゃになって、どうしようもなくなっていた。

 

「良かったですわ、ロレッタさん。これからも貴女の作品を見られるんですのね」

「つかオメーちゃんと飯食ってるか? おにぎり食わねぇと力出ねぇんだぞ」

「で、デリカシー無さ過ぎなんだな」

「今から美術館貸し切りだってさ! ロレッタちゃんも一緒に見に行こうよ!」

「いいね。今日しか見られない作品もあるからね、今日のうちに見ておかないと。どんなだろ、チンイラ先生の作品あるかなぁ」

 

 すると、同級生が慰めてくれた。無駄だと切り離していた人達は、涙が出るほど暖かかった。

 どれだけ実力主義と言っても、そこには人の暖かみがあるのだ。それこそが人類の人類たる証左なのである。

 

「本当に、何て礼を言えばいいか分がんねぇ。ありがとう、名前も知らねぇ優しい人……」

 

 その日、ロレッタは一度死に、生き返った。

 死に際に放った叫びが、誰かの心に響いて、ロレッタの心の奥に熱を返してくれたのだ。

 だから、最初からやり直そうと思えた。

 

 名前も知らない、会った事もない優しい人。

 何を思ってロレッタを助けようと思ったのか。何も分からない。想像しかできない。

 分からないからこそ、感謝を胸に生きようと思った。

 

 次に何を描くかは、もう決まっている。

 誰かが喜んでくれる絵を。

“迷宮狂い”と綽名された、素朴で優しい愛の人を。

 

 

 

 

 

 

 同じ頃、夕陽に染まる王都の通りを歩く人影があった。

 大きい一人と、小さい三人である。彼等は仲良く手を繋ぎ、満足そうな顔で帰路についていた。

 

「本当に良かったのかしら? あの子、けっこうアナタ好みだったでしょう? そうじゃなくても、お抱えになってもらっても良かったんじゃない?」

 

 銀髪の竜族が、からかい半分といった声音で云う。

 言われた男はチラと彼女の方を見て、前に視線を戻してから答えた。

 

「いいんだよ。これが俺のロリコン道なんだ」

「はあ。そんなものでしょうか」

「ああ……」

 

 黒髪の男は、思う。

“あしながおじさん”は名作だ。とても素敵な作品だと思う。出版当時の時世的に、純粋で真摯な愛の物語だったのだろう。

 それでも、だ。

 

「愛は見返りを求めないからな」

「……そう。アナタと、私達のように?」

「ん、無償の愛。人間的ではないけど、究極の形の一つ」

「そういうご主人様が大好きです!」

 

 ギュッと、繋いだ手を強く握り合う。

 寄り添って歩く、四人の影が重なる。

 影になっている両足は、夕陽に長く伸びていた。




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・ロレッタ
 人間族、女性。茶髪のボブカットでベレー帽を被っている。どことなくタヌキっぽい顔をしている娘。
 14歳。絵を描き始めて約8年。ラリス大学には12歳の頃に入学し、それまでは領主の騎士家で侍女をやりながら絵の指導を受けていた。
 本来は身長の割に豊満な身体をしているのだが、最近はガリガリに痩せていた。ちなみに、食生活が戻ったら身体が急成長していき、15歳の誕生日を迎える頃にはイシグロよりも背の高い高身長ムチムチ田舎娘になる。ギリギリまで前の制服を着ていたのでかなりヤバい事になっていた。
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