【一巻発売中】たのしい異世界ハクスラ生活、あるいは超紳士的英雄譚   作:いらえ丸

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女神降ろり

 英雄の大前提は、人気者である事だ。

 その点、イシグロ・リキタカと彼が盟主を務める同盟“草薙の剣”は、王都を代表する大スターだった。

 

 一言で英雄と言っても、この世界には色んなタイプの英雄がいる。

 アリエルのような人の上に立ち民を導く英雄らしい英雄や、ヴィーカのような遠くに在って静かに崇められる世捨て人めいた英雄。変わり種で言えば、東区のアイドルたる美食熊人グレイソンや眼鏡美女ニーナのような庶民向けの英雄だって存在する。

 界隈において、イシグロ・リキタカはそれらすべての要素を併せ持つ今ドキのハイブリッド英雄と見做されていた。

 

 迷宮における数々の異常な偉業に加え、小規模ながら同盟の長として過不足ない器量。けれども力を誇示しないので、謙虚と見るか臆病と見るかは人次第。

 世捨て求道者めいて迷宮を潜り続ける割に意外と社交性があり、ギルド職員を含めた顔見知りには旅行の度に何かしらの土産を渡すという冒険者らしからぬ律儀さまで持っている。あまつさえ直近ではフライシュ領でイシグロ名義で慈善団体を立ち上げたという。

 要するに、イシグロとは常軌を逸した迷宮潜りであり、王都に冠たる竜殺しであり、ある程度の社会性を持つ求道者な英雄として見られているのである。

 彼の影の二つ名、“迷宮狂い”が恐怖の対象だったのも今は昔の話だ。

 

 そんな謎英雄には、一つ有名な逸話があった。

 イシグロは、春になると奇行に走るらしい。

 実績があった。一年目は十把一絡げの迷宮潜りから迷宮狂いへと開花して、半ば塩漬けされていた巨像迷宮にて希少鉱石を新発見。二年目は西区のド真ん中で派手に大立ち回りを演じ、三年目は古い迷宮を枯らし新たに生まれた迷宮を完全攻略してのけた。

 今年も何かするんじゃないか。何がなくとも何かしていたのではないか。そのような期待半分恐怖半分の予想は、ギルド関係者にとっての春の恒例行事になっていた。

 そして、今年の春はというと……。

 

「すみません、換金お願いします」

「あいよ~……ってコレ星髄石じゃねぇか! お前いつの間に潜ってやがった!?」

 

 初手、最上位迷宮踏破である。

 最上位迷宮とは、上位銀細工の一党が一生のうち一度潜るかどうかという程の踏破後即英雄確定演出が入るバチクソ高難易度コンテンツである。

 イシグロが最上位迷宮を踏破したのは、これで何度目になるだろうか。西区ギルド職員の感覚はすでに変な事になっていた。

 

「あーっと、すまねぇが例の部屋でギルド長が待ってるから色々話してこい。前と同じだ」

 

 全体では星髄石を見た事ないギルド職員が多数派という中、受付おじさんはコレを何度も何度も見せられていた。

 しかも、今現在はまだ冬だ。春になったらどうなるんだというのが、受付おじさんの率直な感想だった。

 何故なら、受付おじさんは猫又の形をした嵐の存在を知ってしまっているのである。

 

 草薙の剣に新たな盟友が加わった。

 クニュフという名の、猫又族の少女である。曰く、旅行中に出会ってそのまま仲間になったらしい。

 そして、黎明の二つ名を持つ冒険者は、春の訪れと共に迷宮狂いとしての本領を発揮した。

 

「イクゾー! デッデッデデデデッ! カーン!」

「カーンが入っているニャ」

「だから何なのよ……」

 

 新入りクニュフを草薙式で育成し始めたのである。

 最初は下位迷宮から、お次はお馴染み巨像迷宮を踏破。そうして気付けば上位の機球迷宮を何度も何度も周回し、あっという間に例の猫又を銀細工昇格確定路線まで引っ張り上げてしまった。

 

「ん、今日も機球迷宮。今の編成なら実際此処がベストだと思う」

「いやぁ機球兵が相手ってのは楽でいいですニャ~」

「弱点部位突かないと倒せない魔物とか普通に考えてクッソ強いんスけどね」

「射撃魔法持ち二人と光力銃使いとリヴクラフト乗りが前衛を支える。ある意味最強です。発勁も通りますしね」

「そうやなくても眷属で囲めば何とかなるんよなぁ」

 

 いつも通りの連続踏破。だが、今回ばかりは訳が違った。ガチだったのである。

 具体的にどれくらいガチだったかというと、毎回メンバーを変更して毎週週五で継続踏破しているくらい。しかも、盟主たるイシグロだけは休みなしのぶっ通し。

 以前イシグロが行った九日連続踏破も異常だったが、今回もまたマジでどうかしている。銀細工など、二カ月に一度潜るかどうかだというのに。

 

「今日も一日がんばるゾイ!」

「「「ゾイ!」」」

 

 加えて言うと、そのどれもが踏破難度の割に稼ぎが渋い迷宮だった。金策ではなく、鍛錬目的で潜っているのは明白である。余計におかしい。

 そも、迷宮稼業において新人育成の概念は希薄である。たとえ六人中五人が銀細工でも、侵入者の数に応じて強さが増す迷宮内にあっては足手まといが一人いるだけで全滅リスクが爆増するのだ。そういうのをやるのは大同盟だけであり、施されるにしてもスカウトした超才能マンだけである。

 

「あらクーニャちゃん! 今日も可愛いねぇ~! お菓子あるけど食べる~?」

「ありがとニャ~。王都のお菓子は砂糖いっぱいで美味しいんだよね~、はむっ、もぐもぐ……」

「「「かわいい~!」」」

 

 草薙の剣に参加したがる冒険者は多い。しかし、この迷宮ローテには耐えられない。一度でも迷宮に潜った事があるなら尚の事。

 故に、件の新入り猫又――クニュフは、あっという間に新たな英雄兼マスコットとして見られるようになった。

 イシグロの事だ。例によって、彼女にも何か深い事情があるのだろう。草薙の剣がイシグロのハーレム同盟なあたり、いつか彼女もイシグロと結婚するのでは。そのような予想がギルド女子の間で噂になり、そういった関係性が好きな層からは新しい妄想ネタになっていた。

 最近ではわざと間延びした語尾を使う“自認クニュフ”が増えていた。ちなみに、一番多いのは“自認エリーゼ”である。

 

「ふぅむ……」

 

 一方で、受付おじさんは内心首を傾げていた。いくら何でも今回のヘビロテは異常ではないか、と。

 以前までは迷宮と鍛錬場を行き来して、イシグロなりの安全マージンで自他を鍛えていたのに、何故か今は迷宮オンリーの偏食育成である。

 何より妙なのが、当のイシグロが最も迷宮探索に意欲的なところだ。元々変だろというのは置いておいて、ともかくいつもと違うのである。

 尖兵戦で戦った因縁の魔龍――界隈はそう思い込んでいる――を討伐した今、奴にこれ以上強くなる動機などあるだろうか。もはや奴の相手になる同業者などいないはずである。

 だというのに、今のイシグロには冒険者歴一年目の時のような鬼気迫るほどの力への渇望を感じるのだ。

 

「いや待て、あいつは何処に行ってた……?」

 

 ふと、思い出す。イシグロは、旅行で何処に行っていたのだったか。そこに今に至る原因があるのではないか。

 なんて事のない世間話で、奴は温泉郷ユノサキに行くと言っていた。ユノサキと言えば、銀竜剣豪ヴィーカ所縁の地で有名である。奴の妻の一人、エリーゼは銀竜剣豪の孫娘だ。何かがあっても何もおかしくはない。

 大英雄の聖地。旅行中に出会った猫又少女。金ではなく力を求める迷宮探索……。

 

「へっ、そういうことかよ……」

 

 そうして、受付おじさんは謎に合点がいって謎のしたり顔を浮かべた。

 ベテランギルド職員としての勘である。奴は、イシグロは銀竜の秘湯で運命的な何かと遭遇し、あるいは何かを悟り、次の目標ができたのではないか。銀竜剣豪を目指しているのかもしれない。普通なら鼻で笑える推測だが、ことイシグロならばあり得なくはない。

 何であれ、惰性で潜ってないようで安心ではあった。もしそうだったら、早々にいなくなるだろうから。

 

「よし、お仕事終了ってな。あとは任せたぜ」

 

 なんて考えながら、受付おじさんは迷宮ギルドに導入されたばかりの印字機を使いこなし、通常の三倍のスピードで書類仕事を終わらせた。

 最近、受付おじさんは職員を辞めた後のセカンドライフとして黎明の英雄譚を編纂しているのだ。ちょうど今から、界隈に詳しい大学時代の友人との打ち合わせである。

 要するに、受付おじさんは「専門家に訊いてみた」で質問されるようなイシグロの第一人者になろうとしているのだ。

 さて、お騒がせなイシグロ当人はというと……。

 

「ぱんぱかぱ~ん! 同調率カンストしましたニャ! いつでも覚醒できるようになったよー!」

「早っ! やっぱコツとかあるんだなぁ」

「こう……心を開くというかね? なんかそういう感じ~」

「武器に心を……ねぇ?」

「すみません、よくわかりません……」

「武器なんて所詮消耗品ですよ。なにムキになってるんですか」

「そーゆーのあるから深域武装ってなぁ好きになれねぇんだよなぁ」

 

 無邪気にハクスラを楽しんでいた。

 来たる絶望を前に、切羽詰まった状況ではあれど、常のルーティンを崩さない。目の前の幸せを無視していては、生き残った後も地獄なのである。

 イシグロが目指しているのは、愛すべきロリとのイチャラブハッピー生活であるからして。

 

 

 

 暖かな春である。

 散々に迷宮を荒らし回ったイシグロ達は、王都から少し離れた廃城――マキア城にやってきた。クニュフの深域武装を覚醒させる為である。

 覚醒の儀は迷宮内や鍛錬場では不可能であり、尚且つ人気のない場所でなければならない。「中庭でよくね?」という案も出たが、儀式の際に周辺被害が出るかもしれないというので再びマキア城でやる運びとなったのだ。

 

「さっそく潜ってさっそくピクニックだ。クニュフ」

「了解ニャ。ふん!」

 

 そんなこんな。

 マキア城に来たクニュフは、さっそく自身の半身となった深域武装――ヘーファの首飾りを使い、覚醒アイテムである星髄石を砕いてみせた。

 すると、砕けた星髄石の光を吸い取った首飾りはクニュフの身体を離れ、彼女の目の前で宙に浮いて異界の門を生成した。ルクスリリアやイリハのソレより仰々しいエフェクトである。

 

「じゃ、ちょっくら行ってくるよ~」

 

 そうして門を潜った彼女は一切気負う事なく半身に触れ、一秒後……。

 

「ぐぇ!? し、死んでない! 良かったマジで生きてる!」

 

 ペッと、異界の門から吐き出された。その光景は明らかに凱旋のソレではなかった。

 クニュフの身体に傷こそないが、その様はまさしく敗残兵のソレである。

 

「突破できた感じじゃないッスね。そんなムズかったんスか?」

「いたたたた……受けた致命傷が精神的に痛い! なんか前より厳しくなっててクリアできなかったんだよ~! クソゲーだよクソゲー!」

「言うて一回クリアしたんじゃろ? クニュフ自身も強くなったんじゃし、そのうちなんとかなるのじゃ」

「試練の難易度は使い手の強さに比例するんだよ~!」

 

 どうやら、今回クニュフに課せられた試練は、以前よりも難易度が上がっていたようだ。

 幸い、試練中に死亡しても現実で死ぬ訳ではなく、何度もリトライする事自体は可能だった。

 

「よし気合十分! 待ってて、もっかい行ってわからせてくるよ!」

「いってら~」

「ダメだったぁ~」

 

 が、二度目も失敗した。

 イシグロ視点では一瞬だったが、クニュフの体感は別である。彼女の相貌には明らかな疲労の色があった。

 

「ん、疲労困憊。いったん休むべき。覚醒前にピクニック開始」

「……そうだね。英気を養うのは大事だから」

「お昼食べながら作戦会議や。どういう敵でどういう事してくるか情報まとめて、都度対策してけばいつか勝てるって」

 

 集中力が切れると、突破できる試練も突破できない。彼女の消耗を見て取ったイシグロ達は、焚火を用意して休憩スポットを設置した。

 そこで作戦会議兼大休止を挟んで再チャレンジ。三度目の正直だ。

 

「ぐぁ……げほっげほっ! あぁ動けるし喋れる! 生まれて初めて圧死の感覚味わった! ほんと最悪~!」

 

 しかし、クニュフはまたも突破できなかった。

 試練では相当に打ちのめされたと見え、身体の傷こそ見当たらないが精神はかなり滅入っているようだった。

 

「くっ、また死んじゃった! 人類は何回も殺される設計なんかされてないっていうのに! あたしじゃなかったら廃人だよ!」

「死に戻りは人間性を失うもんな。クニュフ、休憩だ」

「ごめんね、本当はここで楽しいピクニックの予定だったのに……」

 

 それからも、クニュフは何度も覚醒の試練に挑み続けた。

 試練において、彼女は何度となく未来の相棒だった首飾りの化身に殺され続けたそうだ。

 時に首を斬られ、時に全身を焼かれ、時に死ぬまで殴打される。なまじ再生能力を持つ魔族だけに、一回の試練の体感時間は長期に渡っていた。

 試練に挑み戻ってくる度、彼女の心には休憩しても取り払えない負の感情が積み重なっているようだった。

 イシグロ視点、たった一秒の出来事である。けれどもクニュフにとっては長期戦の末に殺されるのだ。その精神的負荷は察するに余りある。

 

「は、ぐぁ……」

 

 幾度目かの挑戦の後、異界から吐き出されたクニュフは苦しげな表情のまま気を失った。

 慌てて張った天幕の中で眠らせる。医師でもあるヘカテーニャの診断では身体は健康そのもの。エリーゼの回復を受けても、死に続けた猫又少女の心は癒せなかった。

 そして、クニュフが目覚めないまま夜になった。

 

「はっ……!?」

 

 イシグロが寝ずの番をしていた夜中の事。天幕の中、死んだように眠っていたクニュフは目を覚ました。

 即座に立ち上がった猫又は警戒心も露わに周囲を確認し、心配そうに自身を見つめるイシグロと目を合わせた。

 

「ごめん、どれくらい寝てた? それより、またすぐ挑まないと。次はもっと上手くできる。身体が覚えてるうちに奴を倒さなきゃ……!」

「ダメだ。今のクニュフに必要なのは休憩だよ。今日だけで何回ダウンしてると思って……」

「休んで何とかなるなら私はもう此処にはいないよ!」

 

 唐突な怒声に対し、イシグロは瞬き一つせずクニュフを見返した。

 別の天幕で誰かが目覚めた気配がする。そのことを悟ったクニュフは、怒られた子猫のように耳を伏せた。

 

「……ごめん」

「いいよ」

 

 やがて、かつて救世主だった少女はその場に腰を下ろし、両手で顔を覆った。

 浅く、早い呼吸。暖色のランタンに照らされた天幕の中、桃色の双眸が上下左右に微動していた。

 二人の間に、互いの心音が聞こえそうな程の静寂が過る。

 

「なぁクニュフ」

 

 先に静寂を破ったのはイシグロだった。

 徐々に呼吸を落ち着けていく娘と目線を合わせ、穏やかな声で続ける。

 

「猫又の本拠地にはさ、クニュフ以外の俺達だけで行くんじゃダメなのか? 少数精鋭って言ってただろ。クニュフは出入口役に専念して、戦うのは他に任せればいい。無理してクニュフが戦う事ないよ」

 

 それは、以前にクニュフが提示した猫又襲撃作戦についての提言だった。

 クニュフはヘーファの首飾りを覚醒させねば戦力にならない。少なくとも、当人はそのように考えている様子だ。であれば、クニュフは影空間を用いた鍵役に専念し、邪眼のファンリーや猫又長女はクニュフ以外が倒せばいいのではないか。イシグロはそう言っているのだ。

 

「それはダメだよ、パパ」

 

 対し、三つ尾の猫又は小さく首を振った。

 さっきまで不安と焦燥で震えていた瞳に、少しずつ輝きが戻ってくる。

 英雄らしからぬ、仄暗くも鮮烈な輝きが。

 

「そうだ、ダメなんだ。絶対にあたしが殺らないといけない。それに本拠地の案内も……だから皆には任せられないよ」

「そっか……」

 

 桃色に光る彼女の瞳には、一言で殺意と表現するには憚られる複雑な激情が渦巻いていた。

 高潔な意思。復讐の渇望。そして、悲壮なまでの覚悟。

 イシグロは、それを否定できない。すでに覚悟を決めているからだ。

 

「パパにさぁ……前に、皆だけのパパになってって言ったじゃん?」

 

 ややもあり、激情を飲み込んだクニュフは常と変わらぬ間延びした口調で話し始めた。

 イシグロの視線から逃れるようにして、彼女は天幕にある灯りの揺らめきを見るでもなく眺めていた。

 

「未来ではね、パパって本当に色んな人達を救ってたんだ~。駆けつけて、戦って、救って、感謝されて、たまに救えなくて、逆恨みされて、石を投げられて。パパは平気そうだったけど、ママ達は本当に辛そうだった。で、ママがそうしているとパパが苦しそうにしてた。悪循環で、どうしようもなくて。パパは英雄向きじゃないんだよ、本当に……」

 

 なんて返事をすればいいのか分からないイシグロに対して、クニュフはパッと立ち上がってみせた。

 座ったままのイシグロと、立ち上がったクニュフが相対する。

 猫又の瞳に、等身大の男の顔が映っていた。

 

「ねっ、抱っこして♡ パパ♡」

 

 甘えるように言って、両手を広げてみせるクニュフ。

 お道化ているようで、戯けているようで、その声音には今にも壊れそうな必死な響きがあった。

 

「ああ」

「にゃはは、ありがとパパ~♡」

 

 だから、イシグロは彼女の父を演じて抱きしめた。

 愛を伝えるように、安心を与えるように。

 力強く、ギュッと。

 

「皆の匂いがする……♡」

 

 イシグロの胸に顔を押し付けながら匂いを嗅いだクニュフは、心の底から嬉しそうな声を上げた。

 

「よっし充電完了! ってね!」

 

 やがて、二人は身を離した。

 未来の猫又が一歩遠ざかる。

 

「クニュフ……」

「大丈夫だよ」

 

 瞬間、イシグロは得体のしれない嫌な予感を覚え、名を呼んだ。

 けれど、覚悟の籠ったクニュフの言葉がそれを遮った。

 

「安心して。あたしはもう、私を見失わない。今度は私がパパを守ってあげる」

 

 イシグロの眼前には、甘えたがりの娘ではなく、災厄の世界を救い続けた勇者の姿があった。

 黎明の後継者、彼女はそう自称していた。

 誰かに讃えられ、成ったのだ。

 

 翌朝、クニュフは己が魂を武器に替えた。

 その瞳に、迷いはなかった。

 

 

 

 そうして、幾日が過ぎた頃。

 イシグロの下に、第三王子からの連絡が届いた。

 内容は、このようなものだった。

 

 魔王軍に攻撃を仕掛ける。

 目的地は、ディング魔族国。

 作戦名は、“宵鴉”。

 

 カラスは猫の天敵なのだ。

 

 

 

 

 

 

 母と呼ばれる存在への報告を終え、影のドレスを纏った猫又の女は宮殿の渡り廊下を歩いていた。

 邪眼のファンリーが住まう宮城(きゅうじょう)は、さながら小さな街の様相である。古代ディング式魔術思想を基礎に、リンジュの陰陽術式を用いて空間全体に氣を循環させる仕組みになっているのだ。雅やかで、煌びやかな光景であった。

 けれども、この宮城にヒトらしいヒトの気配は無かった。

 

 この宮城は、影空間でのみ立ち入りできる特殊な異郷になっている。秘密を守る為、宮殿群の整備等にはヒトではなく使い魔が用いられていた。

 そもそも、今現在の住民――邪仙は、自身と母しかいないのだ。

 

「はぁ……」

 

 溜息一つ。姉妹はもう、帰ってこない。

 死して蘇る姉妹達はしかし、ラリス王家によって魂ごと捕らえられてしまった。以前までは手玉に取れていたのに、ここ数年で急に尻尾を掴まれ始めたのである。

 文字通り、彼女達は魂を分けた姉妹だった。決して仲が良かった訳ではない。しかし嫌い合っている訳でもない。ただ、同志ではあったのだ。

 戦力が減る事には純粋な苛立ちを覚える。最初はそう思っていた。けれど今になって、呪術を得意とした妹の感情が理解できた。

 

「本当、嫌になるわ……」

 

 復讐心である。

 計画の邪魔をするラリス王家が憎い。アルヴの森で妹を捕らえたアリエルが憎い。研究開発の要だった妹達を捕らえたイシグロ・リキタカが憎い。

 殺してやりたい。そう思っても、上層部は取るに足らぬと奴等を放置している。事実、計画が成ればアリエルもイシグロも捻り潰せる事だろう。

 感情だけが、事態についていけていなかった。

 

「あら? あそこに何かあったかしら……」

 

 ふと見ると、運搬用の使い魔が物置き代わりの宮殿を出入りしている光景が見えた。

 思い出す。そういえば、妹の中にまだ生き残っている邪仙がいた事に。

 そう、自分達は八人姉妹だったのである。使い魔が出入りしているのは、末妹をしまっている宮殿だ。

 

 最後に末妹の顔を見たのは何時だっただろうか。十年やそこらではない。話したのはもっと前だ。何故なら、すでに末妹は自我を剥奪されているのだから。

 魂を分けた姉妹とはいえ、同情はできなかった。末妹は同志ではないからだ。

 異教徒(・・・)には、何をしてもよいのである。

 

「少し見ておこうかしら」

 

 久しぶりに妹の状態を確認しよう。そう思った長女の猫又は、影空間を開いて件の宮殿の最奥に転移した。

 暗黒に満ちた、広い空間である。中心に設えられた祭壇には、淡く発光する半透明の卵があった。

 その中に、末妹の姿がある。

 

「相変わらず、貴女は気楽そうで羨ましいわ」

 

 小さな、貧相な身体の猫又である。

 他の姉妹は全く同じ顔や背格好をしているというのに、そいつだけは自分とあまり似ていなかった。

 母曰く、“失敗作”。おつむの方も酷かった。

 

「本当に哀れで、悲しいくらい醜い子……」

 

 不出来な妹だった。

 何を教わっても何で何でと疑問を抱き、歴史ある教えをこれっぽっちも理解できなかった。

 そんな妹も、こうして教義に殉じる事が出来たのだから、生み出された事にも意味があろう。

 それに、成功すれば他の妹たちの代わりになるかもしれないのだ。影の猫又は、この宮殿の名を思い出しながら思いを馳せた。

 

「そのうち目覚める日も来るでしょう。まぁどうせ貴女は覚えていないでしょうけれど……じゃあね」

 

 妹の眠る卵を撫でた後、猫又長女は影の門を開いてその場を去った。

 静寂が戻る。時折、空間全体に胎動のような重低音が響く。

 

 その時だ。

 ほんの僅かに、妹と呼ばれた邪仙の瞼が開かれた。

 輝きのない、感情もない、自我もない瞳。

 淡い桃色の双眸は、何も映していなかった。

 人形のような、伽藍洞の少女。そうでなければ価値を見出されなかった邪仙である。

 

 ――王器の宮。

 

 それが、彼女の眠る宮殿の名であった。




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