【一巻発売中】たのしい異世界ハクスラ生活、あるいは超紳士的英雄譚   作:いらえ丸

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 感想・評価など、ありがとうございます。お陰で続けられております。
 誤字報告もありがとうございます。マジでありがとうございます。
 キャラ・ボスのご応募もありがとうございます。

 今回も三人称。冒頭だけ一人称です。
 よろしくお願いします。


クニュフはキラキラを知らない

 初めてその男の人を見た時、彼はこの世の終わりのような顔で涙を流していた。

 動かない私を抱きしめて、何度も何度も懺悔していた。

 それは、まだ私が誰でもなかった頃の記憶だ。

 

 当時、私は文字通りの廃人だった。

 歩く事はおろか、言葉を喋る事も出来ない。快不快さえ、表に出せない状態だったのである。

 そんな私を、イシグロ家は新たな家族として迎え入れた……らしい。

 らしいというのも、当時の私にとってそれは眠りと目覚めの間に過ぎた出来事だったからだ。

 

 曖昧な時間だった。

 生きているのか、死んでいるのか、自分でも分からない。意識がある時も夢の中にいるみたいで、いつもぼんやりとしていた。

 私はイシグロ家の皆の助けによって、無為に眠りと目覚めを繰り返していた。

 

 それでも、言葉にできずとも、分かった事があった。

 イシグロ家は、いつも暖かかったのである。

 家族同士、とても仲が良かった。活き活きと暮らす両親の下、子供達はよく笑っていた。そんな中でも、私が捨て置かれる事は無かった。

 きっと、いや間違いなく、イシグロ家は幸せな家庭を築いていたのだろう。

 

 とても、暖かな記憶だ。

 寝たきりは身体に悪いと、優しく背中を撫でてくれたイリハのぬくもりを。

 音楽は脳を活性化させるのだと、ピアノを弾いてくれたヘカテーニャの心遣いを。

 毎日、私を“祝福”してくれたエリーゼの微笑みを。

 黙っている私に声をかけ、目覚めない私の頭を撫で、手足が動かない私にスープを飲ませてくれた彼の眼差しを。

 

 いつからだろう、私に人らしい感情のようなモノが芽生えたのは。

 初めて抱いた感情。それは、恐らく……。

 感謝、だったのだと思う。

 

 幸せだった。掛け値なしに、紛れもなく。

 だから、同じくらいのお返しをしたい。

 感謝を伝えたいと、そう強く思ったのだ。

 

 それは明確な思考ではなかった。

 ただ人として当たり前の思いやり。

 隣にいる人を笑顔にしたい。そんな純粋な気持ち。

 

 身体は動かない。

 考えもまとまっていない。

 けれど自然に、口だけは動いてくれたのだ。

 

 ――ありがとう。

 

 たった一言。

 そう、初めてお礼を言った。

 その時の彼の顔を、私は一生忘れない。

 驚いて、嬉しそうに微笑んで、涙を流して、ひたすらに喜んで。慈しむような。寿ぐような。救われたような。

 幸せそうに、泣いていた。

 

 その時、私は家族になれたのだと思う。

 

 

 

 幸せな家族だった。

 父がいて、母達がいて、沢山の兄弟がいた。

 こんな時間がずっと続けばいいと思っていた。

 

 あまりにも純粋に。

 虚しいくらい、無垢だった日の記憶だ。

 

 

 

 

 

 

 闇に火の花が咲いた。

 放たれた弾丸と黎明の剣が接触したのは、クニュフのリボルバーから轟音が響き渡るより前の出来事であった。

 音を置き去りにする弾丸はしかし、魂を休めるべくチートを再発動したイシグロによって悠々【受け流】された。

 だが、違和感があった。

 

「重いな……!」

 

 通常、イシグロ発の射撃魔法は【魔力の礫】という純魔力属性の初級攻撃魔法を高速で撃ちだすものだ。一方、クニュフオリジナルの射撃魔法――実弾魔法は、中級土魔術【鋼の礫】とヘーファの首飾りの異層権能を掛け合わせたハイブリッド弾を用いる。当然として、イシグロはこの実弾魔法の威力を知っていた。その貫通力も、そのスタン値も。

 けれども、先ほどクニュフが撃ってみせた実弾魔法は、既存のソレとは桁違いの威力であった。例えるなら拳銃と対物ライフル程の差。つまるところ、圧倒的である。

 

「ルーン弾。この状態じゃないと撃てない特別な実弾魔法だよ」

 

 真っ赤に染まった髪を揺らし、リボルバーを握るクニュフが言う。

 今現在、クニュフは未来のシャーロットから抽出したルーン因子を取り込んでいる。そして、取り込んだルーン因子により、クニュフは実弾魔法に大量のルーン彫刻を施したのである。

 また、この能力はかつてイシグロ達がネザーレで邂逅した武芸者猫又と同じ異能だった。エリーゼの見立て通り、クニュフは自身の手の内を隠していたのだ。

 

「で、その気になればこういう事もできるってワケ」

 

 言うが早いか、リボルバーを腰溜めに構えたクニュフはルーン弾を五連速射。放たれた弾丸は軌道の過程で影空間に吸い込まれ、イシグロを取り囲む影の出口から【影跳び(シャドウシフト)】加速を伴い射出された。

 強化実弾魔法による疑似オールレンジ攻撃。対するイシグロは最小限の体捌きと一振りの木刀によって対処してのけた。無月流の教えそのままに。

 

「凄いね。でもあたしも凄いよ」

 

 掌中に影を生み出しながら、リボルバー銃杖のシリンダーに手を添わせるクニュフ。弾丸生成と影によるクイックリロードだ。

 既存の実弾魔法と異なり、ルーン弾にはリロードが必要なのだ。一秒強の隙。けれどイシグロは不動のまま。

 やがてピタリと照準が合い、クニュフは僅かに眉をひそめた。

 

「あの女がやりそうな事、私がやる訳ないでしょ!」

 

 続く三連射。案の定、影空間で軌道を変えたルーン弾は全てイシグロを狙っていた。

 謝罪と安堵。イシグロは迫る致死弾を防いで前に出、彼我の距離が消し飛ばされた。

 武器の間合いだ。疾駆しつつ木刀を振りかぶるイシグロに対し、クニュフもまた右手のリボルバーを鍔の無い鉄刀に切り替えていた。

 

「やるな、クニュフ!」

「これでも自分より強い相手とも戦ってきたの!」

 

 刃が重なり、半球状の衝撃波が二人の周囲に拡散する。鍔迫り合い。木刀と鉄刀の間には、唸るチェーンソー同士を擦り合わせたような火花が咲き乱れていた。

 イシグロの木刀――神樹刀には様々なルーン補助効果が施されており、こと武器同士のぶつけ合いでは無類の力を発揮する。しかして力で劣るはずのクニュフの刀は一切揺るがず拮抗していた。

 見れば、クニュフの刀の鎬地にはプログラムコードのようなルーン彫刻が施されていた。ルーン弾同様、これにより武器性能を底上げしているのだ。

 ヘーファの首飾りの権能と、シャーロット由来のルーン因子。元のクニュフの能力を合わせた凄まじいシナジーこそが彼女を“黎明の後継者”たらしめているのである。

 

「そもそもだ! なんで過去の自分を殺そうとする! 過去のクニュフを殺しても未来と同じにはならないだろう! 状況が違う!」

「けどロスにはなる!」

 

 弾き、一閃二閃三閃四閃。ルーンの刃が異常なスピードで擦過する。

 轟! 発勁斬撃を繰り出すイシグロ。刃と刃が重なる寸前、鉄刀を解除したクニュフは身を翻し影回避。直後、剣士の頭上から実弾魔法が降り注ぐ。

 

「これはねパパ! 他でもない私の自殺なんだよ! 分かってるでしょ? 自殺を止める方法は存在しない! 自殺とは! この世界で最も自由な行いなんだ! 私はもう充分に義務を果たした! 権利を行使して何が悪い!」

「本音じゃないな! ただ自殺したいだけなら自分だけを撃つだろう!」

「物事は多面的なんだ! 感情だけで動ける程あたしは子供じゃない! 理性だけで動ける程私は賢いつもりもない!」

 

 銃撃を避けつつ迫るイシグロに応じ、クニュフは両の手に新たな武器を生成した。

 右にリボルバー、左にもリボルバーの二丁拳銃。これまで一つしか生成してこなかったのはブラフである。

 

「ダメなら止めてみてよ! いつも通り暴力でね!」

 

 感情の爆発と共に、左右のリボルバーが火を噴いた。これまたルーン弾。その銃弾は発射と同時に拡散した。散弾である。

 虚を突かれたイシグロが慌てて身を捩じる。勢いが死ぬ。そこに追撃の散弾が殺到した。

 リボルバーの形をしているからといって、散弾を撃てない訳ではない。イシグロと異なり、その点においてクニュフに先入観はなかった。

 

「安心して、そいつ殺したら私も死ぬからさ! あるいは過去の私を殺した時点で今のあたしも消えるかもしれないね! 毒も飲んだし、解毒の予定も毛頭ない! いずれにせよどっちかの私は消えてなくなる! ほら、もうパパには止められないよ!」

 

 影の足場に立ったクニュフは、続いて左右の脇で抱えるように二挺の汎用機関銃を生成した。

 ソレもまた、前世でイシグロが好きだった銃だ。というか推しキャラがその銃をモデルとしたアレンジ銃を持っていたのである。当然、その銃の異名も。

 

「【被甲弾(トリガーハッピー)】ィイイイ!」

 

 やがて、件のマシンガンは電動ノコギリのような駆動音を轟かせた。

 精密さを捨てた面制圧的物量攻撃。しかしてその弾丸一つ一つは完璧に制御され、外れた弾は影を潜ってイシグロを包囲し襲い掛かる。

 三百六十度からの弾幕を回避し、切り裂き、跳ね返し、デコピン一つで百発捌く。両者共、尋常の業前ではない。

 

「にゃは! にゃはは! にゃはははははははッ! 楽しいね! 楽しいねぇえええ! 昔パパ達としてた遊びを思い出すよ! でももう出来ないんだ! 出来なくなっちゃった! あたしが生きてたせいでさぁあああああ!」

 

 二挺マシンガンを撃ちまくり、クニュフは狂ったような笑声を発していた。

 明らかに感情が振り切れている。余剰魔力が放散し、その身に刻んだルーン彫刻がそれら全てを飲み込み下す。魔力欠乏症ならぬ魔力過剰症。今のクニュフは完全にハイになっていた。

 

「俺達の為に自分を殺すって言ったな! でもクニュフが死ぬと皆が悲しむ事くらい分かるだろ!!」

「大丈夫っ! 皆生きてるから立ち直れるよ! 一週間も経てば忘れる! 忘れられるんだ! 異物の邪魔者でぇ!」

 

 銃身が赤くなったマシンガンを投げ捨て、次いで新たな銃杖――否、大砲を生み出した。

 また、見覚えがあった。どこぞの少佐が喜びそうな、異常口径過剰火力砲・ルーンカスタム。魔力が唸り、砲口が叫ぶ。破壊の権化が解き放たれた。

 

「元々要らない存在なんだからぁあああ!」

 

 BOOOOOOOOOOOM!

 鼓膜を破るような轟音。ガード不可、受け流し不可。咄嗟に回避したイシグロの背でルーン砲弾を影が飲み込み、再度イシグロの身に迫る。それはさながら獲物を追い立て詰める狼の狩りの様。

 

「【榴弾(グレネード)】ォ!」

「ぐぉおおおおお!?」

 

 大砲を処理したところに追撃射撃。反射で【受け流】すと、その弾は接触と同時に爆発した。受け流し対策のグレネード弾だ。

 爆風に煽られ着地するイシグロ。見上げた先で、クニュフは魔族らしからぬ多量の汗を流し、肩を上下し荒い息を吐いていた。

 

「時間はね、有限なんだ……! とても貴重な資産なんだよ! あたしはそれを奪っちゃう! 相手の迷惑を考えないバカな私が居たせいで、パパがやりたかった事を出来なくしちゃった! 夢を捨てさせちゃったんだよ!」

「違うッ!」

 

 その時、これまで可能な限り聞きに徹していたイシグロが真っ向からクニュフの主張を否定した。

 絶対に訂正しなければならない点があったからだ。

 

「クニュフがいたから得た幸福だってあった! 夢を捨てたんじゃない! お前自身が夢になったんだ! それが俺の幸せだ!」

「なんでそんな事が言える!」

「俺の事だからな!」

 

 クニュフの言う通り、人は他人の自殺を止める事はできない。唯一可能なのが、「あなたが死ぬと私は困る」と伝える事だけだ。

 今のクニュフは議論の土俵に上がる事を拒絶し、冷えて固まった感情で如何なる感情論も通用しない。それでも、だからこそ、現時点でイシグロはより熱い感情をぶつけるしかなかった。

 

「……かもしれないね。でもさ、今のパパには関係ないでしょ? やり直せるんだ、やり直さなきゃあ!」

 

 右手に刀、左手にリボルバー。真紅の髪をなびかせ、朱く染まった双眸が燃えている。臨戦態勢を整えるように、彼女の全身を影が覆う。

 ひと呼吸、クニュフが消えた。刹那、斬撃。イシグロの眼前に刃が迫り、同時に背後から銃撃。【影跳び】の最大展開により、クニュフはあらゆる角度からの攻撃を可能とし、また極致とも言える絶対的な立ち回り性能を獲得していた。

 

「それに、私はもう長くないんだ! 魔族的な寿命ってやつ! 意識してお道化てないと心がおかしくなる! もう辛いんだよ! 生きたくないんだよ! だったら死ぬ前に憂いを晴らさせてよぉ!」

 

 一瞬、イシグロの剣が動揺に惑う。クニュフの寿命について、想定していない訳ではなかった。

 魔族は心が死ぬと肉体が滅びる。遠い未来において、クニュフは否応なく戦い続けてきたのだ。家族を失い、友達を失い、多くの人の命を救い、奪ってきた。こんな状況で、クニュフのような少女の心が荒まない訳はない。

 なれど、それでもと、言い続けるしかなかった。

 

「家族との暮らしは! 俺達との生活は嫌じゃなかったはずだろ! 少しでも長く生きたいって思わなかったのか!? 一緒に!」

「楽しかったよ! 当たり前じゃん!」

 

 その上で、憂いを晴らすべく最後の戦いに挑んでいるのだ。彼女の行動原理は、どこまでも英雄的だった。

 だがそれは、終末世界で求められる英雄像である。人の心で機械の身体を動かしているに過ぎない。ならば、まずはその鎧をはぎ取る必要があった。

 

「けどもう充分味わった! これ以上は不必要! だからあたしは、私は正しい選択をするんだ! だって私は、黎明の後継者なんだからぁ!」

 

 振り切れた感情で心身が軋んでいる。既に妥協できない状況に陥っている。罪の意識。自罰的思考。楽になりたがっているのだ。

 現代の法を持ち出して、クニュフに罪はないと言うのは簡単だ。力で屈服させ、解放させるのも不可能ではないのかもしれない。

 

「【魂魄昇竜(オーバードライブ)全能力(フルポテンシャル)】!」

 

 だが、イシグロの価値観において、それはあまりに不誠実である。故にこそ、話を聞いてもらう。

 チートを外し、魂を奮起させる。この時、イシグロは改めて英雄(じごく)に堕ちる事を覚悟した。

 

「にゃは! やっと本気で向き合ってくれたね! なら私も……【魂魄昇竜(オーバードライブ)知力(ウィズダム)】!」

 

 対し、クニュフもまた【魂魄昇竜】を使ってみせた。あるいは、未来においてもイシグロは同じ技能を使っていたのかもしれない。

 片や青の雷を纏う男、片や赤の雷を纏う猫又。烈火が爆ぜ、可視化された武威が空間全体を軋ませる。

 

「行くぞ、【煉獄送(れんごくおく)り】!」

「来なよ、【奈落降(ならくおろ)し】……!」

 

 さらに、両者は色の異なる炎を噴き出し、加速し、加速し、加速し……激突した。

 剣戟が鳴り、銃声が響く。色違いの炎雷が地を舐め、迸り、影が覆って入り混じる。誰のものかも分からぬ涙が舞い散った。

 二人の戦いは刹那の間に交わされる盤上遊戯のようで、阿吽の呼吸で繰り広げられる舞踏のようでもあった。

 

「託されたんだ! 誰でもない家族に! ここで折れたらママ達の想いは! 皆の犠牲はどうなるの! ちゃんとしないと! 受け継いで、やり遂げなきゃあ……!」

 

 奈落の炎が猫又を焼く。邪悪な悪魔と契約し、自身を薪に力を得たかの様。永遠の憎しみが、焔となって影を生む。

 

「可哀想じゃんかぁああああああああああ!」

 

 刀を投げ、リボルバーを投げ、身の丈以上の銃杖を生成。ぼうと銃口から焔が噴き出。やがてそれは一条の光線と化した。

 文字通り、命を削って放たれた黒光剣が縦横無尽に振るわれる。天敵に抗う獣のように、癇癪を起こした子供のように、一切合切を焼き尽くすべく。

 加減なく振るわれた炎は、しかし……!

 

「それはお前だ!」

 

 真正面、迫るイシグロを切り裂くべく振るわれた黒炎の線が【受け流】された。

 

「くゥあっ……!」

 

 反射だった。瞬時に銃杖を破棄してリボルバーを生成しようとしたクニュフだったが、生成の途中で己の半身を弾き飛ばされた。

 天高く、クニュフの首飾りが舞い上がる。今の彼女はあまりにも無防備で、無抵抗に、罰を受け入れていた。

 

「一回、落ち着けぇえええ!」

「いっっっだぁあああああああああ!」

 

 肩に一撃。それで終わりだった。

 勢いよく地面にたたきつけられたクニュフだったが、その生命力は然程減少していなかった。斬撃に合わせ、イシグロが【大治癒】をかけていたからだ。

 けれども、クニュフはもう戦えなかった。ほんの一瞬、戦闘意思が途切れた事で、これまで強いて無視してきた反動が英雄の心身を襲い、縛っていた。

 

「にゃはは……やっぱり強いね、パパ。さすが、本家本元の黎明様だぁ……」

 

 尚、嗤っていた。

 余裕によるものではない。捨て鉢になっているのだ。

 

「でもね、止められてないよ。ここで私を止めたとしても、いつか私は私を殺す。それとも一生拘束するつもり? 現実的じゃないね。最初から、この戦いに意味なんて無いんだ。だって私は絶対に諦めない。自殺を止める事は、この世の誰にも不可能なんだよ」

「そうだな、この戦いに意味はない」

 

 倒れるクニュフの前に立ったイシグロは、その場で木刀を下ろしてみせた。

 目を丸くするクニュフ。ほんの少しだけ、優しい笑みを浮かべる。

 

「分かってくれたんだ。ありがとうね、パパ」

「半分だけな。実際、喧嘩でも感情論でも俺じゃクニュフを止められない。だから……」

 

 言って、クニュフに対して片膝をついたイシグロは、収納魔法から三つの紙を取り出してみせた。

 

「クニュフと、皆を信じる事にした」

 

 綺麗に折りたたまれた、どこにでもある、なんて事ない三枚の紙。

 それは、クニュフ宛ての手紙だった。

 

「なに? コレに何かお涙ちょうだい的な事が書いてあって、読んだあたしが感動して自分殺しを止めるって? なら読まないよ、受け取らない。そんな見え見えの罠に引っかかる訳……」

「それは未来のヘカテとシャロと、レノからの手紙だ」

「……え?」

 

 過去と現在を捨てたはずの笑顔が崩れる。

 四つん這いになり、恐る恐る手紙を受け取ったクニュフは、そこに書いてあった字を見て目を見開いた。

 約束通りに検めなかった、過去の母達に渡した手紙である。

 

「別に読まなくてもいい。それはクニュフの自由だからな。けど、家族からのメッセージを無視できるクニュフじゃないだろ」

 

 親は子の心を理解できない。子は親の心を理解できない。そして、親でも子の自殺は止められない。

 イシグロなりのケジメだった。理詰めでも感情でも戦いでも、自分じゃ彼女を救えない。だから、自身もまた覚悟を決めたのだ。

 娘を信じ、選択を見守り、その未来を尊重する。傷ついてほしくない人が傷つく様を、見届ける覚悟をしたのである。

 

「……本物だ。全部、未来の皆からのだ。こうなる事、分かって送り出してくれたんだね」

 

 手紙を広げ、一文字一文字を真剣な目で追っていく。

 読み進めていくうち、クニュフの瞳から涙が一粒落ちた。

 

「三人共、別々の字で同じ事言ってる。よく頑張ったって、こっちは大丈夫だからって……」

 

 涙が止め処なく流れる。

 赤く染まっていた髪が、元の色を取り戻す。彼女から伸びる長い影は、力を失うように小さくなっていった。

 

「だから、幸せになれって……なんだよ、それぇ……」

 

 もう二度と会えない家族からの手紙。そこには、ただ純粋に娘の幸せを願う言葉だけが書いてあった。

 何処にいても、どんな時でも、母の想いは変わらない。クニュフだけは、それを否定できなかった。

 

「なんでだよぉ……! なんで私なんかの為に、そんな事言うんだよぉ! 優し過ぎだって! 善人過ぎて苦しいんだ! もうやめてよぉ……!」

 

 くしゃりと、クニュフは母からの手紙を抱きしめ、嗚咽した。

 理論武装が崩れていく。冷えて固まった感情の檻が溶けていく。

 その光景を、イシグロは黙って見守っていた。

 

「ふざけるな! あたしはただ、皆に幸せになって欲しいだけなのに! パパを助けて、私が死ねば全部丸く収まるじゃん! なのに、なんで……!」

「それが家族ってもんだろ。娘の幸せを願わない母親なんかいるか」

「うぅぅぅぅぅ……! うぅあぁぁぁぁ……!」

 

 クニュフは黎明の後継者である。

 託された意思を捨てる事はできない。委ねられた想いを、希望を背負って戦ってきた。

 だからこそ、母の想いを無碍にはできない。後継者としても、娘としても。

 いつの間にか、跛行する英雄は人の子に戻っていた。

 

「選ぶんだ、クニュフ」

 

 ただの娘を前に、ただの男であるイシグロは、収納魔法から取り出した黎明のルーンソードを地面に突き刺してみせた。

 

「俺の意思は伝えた。皆の意思も伝えた。あとはクニュフ自身が決めるんだ」

 

 静謐な剣身に、滂沱の涙を流す少女の顔が映っている。

 剣の向こう側には、何も知らない過去のクニュフが眠っていた。

 この剣を使って、今すぐ自殺する事もできる。過去の自分を殺す事だってできる。

 イシグロは、娘の選択を見守っていた。

 

「うぁああああ……!」

 

 聖剣に縋り付くように、英雄としてのクニュフは柄を握った。

 引き抜こうとして、出来なかった。両手じゃないと持ち上げられない。

 クニュフの左手には、グシャグシャになった母からの手紙があった。

 どちらを手放すか、選ばなくてはならなかった。

 

「殺さなきゃ! 殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ! 私が消えれば救われる人が沢山いるんだ! それが合理的! それが正しい選択なんだ! 私は黎明の……後継者なんだ!」

 

 思い出すのは、終わりを迎えた世界でのこと。

 何度も何度も戦ってきた。人々の意思を受け継いでいるのだ。今更、止まる事なんて出来ない。しちゃいけない。

 背負ってきた希望が、彼女の身体を動かそうとしていた。

 

「私は……あたしは、託された。皆の想い、優しく送り出されて、それで……!」

 

 イシグロは、黙ってクニュフを見ていた。

 彼の方こそ、苦しそうだった。本当は問答無用で解決させたがっている。イシグロの事だ、何とかできる手段はあるのだろう。

 娘の幸せを願う家族の想いが、英雄としての意思に抗っている。

 

 その時だった。

 

 ふと、クニュフは過去の自分を見た。

 冷たい水槽の中で、眠っている。

 

 何も知らない、全くの無垢。痛みも苦しみも忘れさせられて、純粋な器として調整されて、残酷な未来を想像できない。

 同じように、絶望に勝る幸福も知らないまま、眠っているのだ。

 

 家族がいる幸せも、友人との出会いも。

 誰にも明かしていない、初恋(・・)のもどかしささえ。

 知らないまま、死んでいくのは……。

 

「あぁ……」

 

 ――そんなの、可哀想だ。

 

「可哀想なのは、いけないんだってぇ……!」

 

 剣を、手放す。

 膝をつき、手紙を抱きしめた。

 クニュフは、黎明の後継者だったから。

 

「皆と離れるなんて、無理に決まってるじゃん……! 好きなんだもん、楽しかったんだもん! ずっと夢だった! ずっとずっと一緒に居たかった! まだまだやりたい事いっぱいあるのに! 伝えたい事も、いっぱい!」

 

 心の枷が外れかかっている。これまで溜め込んできた感情が、少しずつ溢れ出した。

 楽になりたいのも本当。未来を救いたいのも本当。殺したいくらい自分が憎いのも本当。

 けれど、それだけじゃなかった。

 

「でもダメなんだよ! ダメだ死ななきゃ、今すぐ殺さなきゃ! じゃないと私は! 皆の犠牲は! けど……! あぁ、ダメなのに、ダメなのに、ダメなのに、ダメなのに、ダメなのに……!」

 

 自分を縛っていた鎖が、

 自分を規定していた楔が、

 自分自身を閉じ込めていた鍵が、

 

「死にたくないよぉおおおおおおお……!」

 

 全て、砕け散った。

 言いたかった。誰にも言えなかった本音。

 生きて、幸せになりたかった。

 

「それで、ええ!」

 

 ドガァアアアアン! その時、王器の最奥の扉が外側から破壊された。

 巨影が差す。丸いシルエットに、四つ足が生えている。それは、未来から現在に移動する際にクニュフが乗っていたリヴクラフトに似ていた。

 正面、むき出しのコックピットではヘカテーニャが操縦桿を握っている。

 

「それでええんやで、クニュちゃん! どんな事情があっても、生きたいと思う事自体は何も悪ぅない! 過去も覚悟も関係ない! 今、クニュちゃんが生きたい思っとるなら! それは何より優先されるべきなんや!」

 

 のっしのっしと、四つ足リヴクラフトが二人の下に歩み寄る。その後ろからルクスリリア達が続いていた。

 

「こんな事もあろうかと、未来のウチはクニュちゃんを助ける方法を考えとったらしいねん。安心し、あとはウチ等が何とかする」

「み、未来のヘカテママが……?」

 

 やがてクニュフの近くで停止したヘカテは、リヴクラフトから降りてきた。

 呆然と見上げるクニュフに対し、最新の真祖は得たりと笑んだ。

 

「けどまぁ残念ながら、完璧なハッピーエンドとはできひんのが悲しいトコやな。未来のウチの仮説によると、今のクニュフちゃんと過去のクニュフちゃんが接触したら高確率で今のクニュフちゃんが消滅するらしいんや。魂ある存在……ヘーファの首飾りが消えたように。この世界には同じ魂は存在を許されへん」

「なら、どうやって?」

「統合するんや」

 

 決然とした返答に、理解が及ばず呆然となるクニュフ。

 他方、イシグロ達は事前に知らされていたのか、無言でヘカテの言葉を待っていた。

 

「このリヴクラフトを使って、今のクニュちゃんの魂を過去のクニュちゃんの身体に注ぎ込む。そうすれば二人の魂は一つと見做され、今のクニュちゃんの魂は消滅せずに存続する。これが過去と未来の両方を救う唯一の方法や」

 

 遠い終末世界において、未来ヘカテーニャは時間遡行リヴクラフトを開発する過程で魂に関する様々な研究を行っていた。

 結果、同一魂の存在は互いが接触もしくは直接的に認識しない限り存在し得るが、接触か認識のいずれが成立した瞬間に一方の魂がもう一方の魂に吸収される現象が発見された。また、吸収される側の魂の性質は半永久的に変化してしまう。崩壊するのだ。

 この現象を制御し、両方の性質を保ったまま未来クニュフと過去クニュフを合体させようというのだ。

 

「えっと、その……つまり?」

「過去と未来のクニュちゃんを合体させれば全部解決っちゅー訳や!」

「え、えぇ……?」

 

 この世界では同じ時間軸に同じ魂は存在できない。

 ただし、一定の条件下であれば性質を保ったまま二つの魂を統合させる事ができる。

 これにより、異なる時間軸のクニュフの魂は同じ時間軸でも共存可能となり、未来クニュフの寿命問題も一旦の解決を見る。

 ちなみに、未来においてこの実証には夜煌宮に残されたファンリーの研究記録が大いに役立った。

 

「でも、これは賭けや。いくらウチがいけると思っても、実際には全く上手くいかんかもしれん。力を失うかもしれへんし、記憶を失う事だってあり得る。二つの魂が合わさって、自我が変になる可能性だって否定できひん……」

 

 本来なら、もっと長い時間をかけて検証し、同意を取り、確信を得てから提案したかった。だが、そんな時間は誰にも残されていなかった。

 仮定に仮定を重ねたような結論ではあれど、未来の自分の研究を引き継いだヘカテは現状を勘案し、制御でき得るうちに実行すべきであると判断したのである。

 

「でもそれじゃ、あたしが私を殺すのと変わらない。パパはそれでもいいの? だってパパは……」

「やで、説得した。これしか方法がないんや。未来のウチの限界で、現在のウチの選択なんや」

 

 だが、だとしても、その行いは自我のある未来クニュフが自我のない過去クニュフの肉体を乗っ取るという事と同義ではないか? それは「救える範囲にいる全ての少女を救う」というイシグロの意に反するのではないか?

 そう訴えるクニュフに対し、イシグロは黙って頷いてみせた。納得は出来ていない。だが、他人に妥協を強いておいて自分だけが意思を通すのは誠実性に欠ける。だから、飲み込まざるを得なかったのだ。

 

「嫌やったら止めてもええ。今後は可能な限り接触せんようにして、今のまま離れて過ごすって選択もアリやと思う。ただそれやと、過去のクニュちゃんは永遠に封印されるやろし、ラリスが何をするか、その心身がどうなるかも分からん。その影響で、今のクニュちゃんの魂がどうなるかも予想できひん。けど、その上で、もしクニュちゃんがもう少しウチ等と一緒にいてくれるんなら……」

 

 言い淀むヘカテ。ややもせず、沈黙が過った。

 クニュフは、改めて過去の自分を見た。もう、殺したいほど憎い存在には思えなくなっていた。

 やがて、決断した。醜いエゴを押し通し、自分の幸福を掴み取る事を。

 

「お願い。あたしを、過去の私の肉体に移して」

「分かった……」

 

 促され、エリーゼとレノの治癒を受け、念には念をと解毒薬を飲まされたクニュフは、魂統合用リヴクラフトのコックピットに搭乗した。

 開きっぱなしのコックピットからは、外で作業するヘカテーニャと、心配そうにしている家族の姿が見える。

 失敗したら、これで見納めだ。さっきまで自分を殺す気満々だったのに、今はもう絶対出来そうになかった。

 

「ねぇパパ」

「ん?」

 

 目を瞑り、涙をこらえて話しかける。

 訳も分からず夜を恐れていた、あの時のように。

 

「二つ、お願いがあるの。聞いてくれる?」

「いいぞ」

「にゃはは、即答じゃん」

 

 小さく笑って、眼を開けた。

 思い出の彼より、少しだけ頼りがいの無い瞳。

 それでも世界で一番愛している男の人が、誰でもないクニュフを見ていた。

 

「もし……あたしが消えて、過去の私だけが残ったら、その時は思いっきり甘やかしてあげて」

「……ああ」

「それとね。その……無事に戻れたら。あたしと私が一つになって、何の憂いもなく生きられるようになったらさ。もう一つ、お願い聞いて。内容はそん時に言うよ」

「ああ。どんなお願いでも絶対に叶える」

 

 やがて、全ての準備が整った。

 リヴクラフトと、王器の卵。過去と未来のクニュフが向かい合う形となる。

 過去のクニュフが眠っているうちに、始めなければならない。今この瞬間で彼女が目覚めると、今のクニュフは強制的に統合され、その魂は不可逆に崩壊してしまう。

 もう時間はなかった。

 

 搭乗口が閉じ、コックピットが密閉される。

 次いで、計器類の淡い光がクニュフを照らした。

 

「ええか? 魂の統合はこっちでサポートできるけど、眠りから目覚めるには強い意思がないとアカン。何があっても戻ってくるってゆぅ意思が不可欠なんや。大丈夫や、なんも心配いらへん。飲み込むんでも、奪い取るんでもない。元々一つやった魂を掛け合わせるだけやで」

 

 狭いコックピットにヘカテの声が響く。

 そういえば、こっちに来る前もこんな感じだったな。

 そう思うと、少しだけ気が楽になった。

 

「いくで? いち、にー、さん……」

 

 光が満ちる。

 静寂が過る。

 心臓の音が聞こえなくなった。

 

「行ってきます……!」

 

 呟いて、未来から来た猫又少女は、家族の前から姿を消した。

 もう一度、今度はずっと一緒にいる為に。

 誰でもない、自分自身を救う為に。

 

 

 

 

 

 

 まず感じたのは、光だった。

 砕いた宝石を散りばめたような、どこまでも続くキラキラした空間。

 上も下もない。右も左もない。クニュフはただ、今そこに在るという事を認識した。

 

「はじめまして。未来の私」

 

 声がした。いつも聞いているような、少し違うような。

 瞬きの後、クニュフはクニュフと全く同じ顔の存在と向かい合っていた。

 顔立ちも、背格好も同じ。異なるのは服装と表情だけ。

 黎明の後継者としての戦衣を纏うクニュフに対し、患者衣に似た服を纏ったクニュフは、憂いを帯びた面持ちで言葉を継いだ。

 

「私は、かつて君の一部だったモノ。私と君が忘れてしまった……いいえ、消されてしまった記憶の残骸。母に背き、姉に背き、好き放題に弄られた魂の欠片。魔王の器、その習作」

 

 お互い、立つでもなく佇んでいる。

 二人の距離は手を伸ばせば届くほど近く、けれども決して触れられないくらい遠かった。

 

「お前、いやあなたは……」

 

 息が詰まり、沈黙する。

 やがて、未来を選んだクニュフはフードを被らぬまま口を開いた。

 

「あなたの魂は……あなたの肉体は、あたしに乗っ取られる。いくら言い方を変えても、それは殺人だ。悪い事なのは分かってる。とても傲慢で、罪深いって事も理解してる。先に謝らせてほしい。恨んでほしい。けど、あたしはどうしても……」

 

 言葉の途中、黒衣のクニュフは未来の自分へ手のひらを向けた。

 優しい沈黙。過去に忘れられた無垢の猫又は、風に揺れる花のように薄く微笑んでいた。

 

「教育の賜物かな。あぁ、謝罪は必要ない。恨みもしない。むしろ、喜ばしいよ」

 

 漏れ出るような言葉に次いで、遠く空を見上げる。

 そう、空だ。満天の星空である。二人が見上げた先には、これまで黎明の後継者が積み上げてきた思い出が星となって輝いていた。

 

「あ、あぁ……! みんな……!」

 

 一筋、涙が流れる。魂を洗い流すような、美しい涙が。

 名も知らない少女がクニュフに笑顔を向けていた。戦いに疲れた戦士が温かい飲み物を渡してくれた。拙い言葉の子供が、クニュフに向かって「ありがとう」と言ってくれた。

 ここまで生き抜いてきたクニュフの思い出が、悪いモノばかりな訳はなかったのだ。

 

「私は君。君は私。生まれてすぐに異端の烙印を押され、親や姉妹達に嬲られ、生きる自由を奪われた。捩じり曲がった歪な魂。だからこそ、二つでようやく一人分……」

 

 同じ空を見上げながら、近くて遠かった二人が手を繋ぐ。

 流れ星が一つ、二つ。流星群となった思い出が、二人の間を通り抜ける。

 

「知っているだろう。愛の奇跡なくば、私は永遠にこのままだった。封印され、標本のまま朽ちるなんて御免だ。けれど、これでやっと心から安らげる。全部、君のお陰だ……」

 

 手のひらを通して、暖かい熱が入ってきた。

 視線を合わせた過去のクニュフは、心の底から救われたように微笑んだ。

 

「心の奥の片隅で、君の幸せを願っているよ。どうか、善き人生を。クニュフ・イシグロ」

 

 光に解けていく。彼女もまた、思い出になろうとしていた。

 その手を、ギュッと握りしめる。

 

「あたしはもう、幸せだよ。過去のあたし……」

 

 やがて、魂が一つになった。

 クニュフの胸に、確かな熱が宿っている。

 

「ああ。一つ、彼に伝えておいてくれ」

 

 心の中から声が聞こえる。

 眠る寸前のような、そんな声音で。

 

「私達を助けてくれて、ありがとう……ってね」

 

 

 

 

 

 

 瞼が重い。

 

 こぽり。唇から気泡が頬を伝う。

 ゆっくりと、クニュフの意識が浮上していった。

 

 ぼんやりとした視界。少しずつ、人の輪郭が見えてきた。顔はまだ、よく見えない。

 ガラスの向こうで、誰かが何かを言っている。まだ、よく聞こえなかった。

 今の状況は、まるで幸せに包まれていたあの日(・・・)のようだった。

 瞼を閉じ、思い出す。

 

 ゆっくりと揺れる椅子で、クニュフは微睡んでいた。

 広い庭で、子供達が遊んでいる。優しい声で名前を呼ばれ、けれども何も応えられない。

 愛してくれる人に、笑ってほしかったから。だから、あの時に……。

 

「ありがとう……」

 

 水槽の外で、男が目を丸くした。目尻が下がり、涙を湛えて微笑んだ。

 ゆっくりと手を伸ばし、内側からガラスに触れる。そして、多くの力が失われて尚、僅かに残っていた力を行使した。

 

「【影跳び】……」

 

 影が猫又を解き放つ。

 今度は自分から、王の器を飛び出ていった。

 

「クニュちゃん!」

 

 水槽の外は、あまりにも冷たかった。

 裸のクニュフに、近くにいたヘカテーニャが馴染みの戦衣を被せた。されるがまま装備を纏うと、補助効果によって身体が温まった。

 立ち上がろうとして、できなかった。足に力が入らない。今のクニュフは一部の異能を失っている上、リハビリが必要なくらい弱っていた。

 

「大丈夫か? クニュフ」

「ま、待って……」

 

 心配そうに、恐る恐る近づいてくるイシグロ。けれど、あえて止まってもらった。

 満身の力で、両足を地に着ける。生まれたばかりの仔馬のように、両膝が震えていた。倒れそうなところをヘカテーニャに支えられ、それでも自分の足で立ち上がる。

 

「あたしから、そっち行くから……」

 

 母の手を離す。

 一歩、足を進める。

 もう一歩、前に進む。

 転びそうになる。グーラが支えようと前に出て、それをシャーロットが止めていた。

 これも、あの時と同じだった。初めて立った時も、初めて歩いた時も、家族は今みたいに見守ってくれていた。心底、嬉しそうに。

 クニュフは、その顔が本当に大好きだった。

 

「ただいま! みんな……!」

「あぁ、ああ……! おかえり、クニュフ……!」

 

 そうして、クニュフは父の胸に抱かれた。

 ほんの数歩、前に進んだ。

 たったそれだけの光景に、最高の祝福と、世界一の幸せが在った。

 

「助けてくれてありがとう……!」

「ああ……」

「違うの。今のは、私からの伝言。私()からの感謝の言葉……」

「それって……」

 

 抱擁が解かれ、少し離れる。

 見れば、家族達も嬉しそうに笑っていた。初手で騙してしまったレノなど、涙まで流している。

 そんな中、エリーゼだけはクニュフを訝しむ目で見ていた。その態度にこそ、娘は帰還を実感した。

 

「あのリボルバーね。アレ、あたしが頑張ってパパの好きな銃を再現したんだ。その時、パパなんて言ってたか分かる?」

「え? ああ……まぁ一つ思い浮かぶセリフはある」

 

 視線を重ね、息を合わせる。

 やがて、同じタイミングで口を開いた。

 

「「俺はマテバが好きなの」」

 

 小さな笑声。他の家族は首を傾げた。

 それは、イシグロとクニュフの間でしか伝わらないやり取りだった。

 クニュフの本気武装――リボルバー型銃杖は、リボルバーにしては複雑な造形をしている。シンプルなデザインの方が生成しやすいヘーファの首飾りにあって、なおもソレを愛銃としていた理由がそこにあった。

 

「いやぁとにかく無事でよかったッス!」

「これで一件落着じゃな!」

「ううん。このままだと、まだダメみたい」

「えっ? どういう事や? 魂の統合には成功したはず……まさか魔族殺しの毒が魂まで浸食して……!?」

「違う違う、そうじゃないよ。ヘカテちゃん」

 

 言って、クニュフはチェシャ猫のような笑みを浮かべてみせた。

 シリアスはもうおしまい。元々、クニュフは重い空気が苦手なのだ。

 

「さっきのお願い、覚えてる?」

「ああ。何でもいいぞ」

「ん? 今、何でもするって言ったよね~?」

「え? あー、まぁ」

 

 言質は取った。すぐに言ってやろうとして、口ごもる。

 覚悟は決めたはずなのに、心臓がドキドキしてしまっている。

 いつも通り道化の仮面を被ろうとしたが、やっぱりやめておいた。

 ひと呼吸。クニュフはイシグロの顔を見上げ、震える唇を開いた。

 

「イシグロ・リキタカさん、貴方を愛しています。どうか、私とも結婚してください」

 

 一秒、二秒、三秒……。

 

「……えっ?」

 

 イシグロは、岩の如くビタッと固まった。

 他方、彼のハーレムメンバーはじっとりとした目で大黒柱を見ていた。

 

「ぶっちゃけ隠せてなかったッスからね。滲み出る発情臭」

「私の前で、ああも好意の魔力を精妙に御していたのは逆に不自然だったわ」

「ちょくちょく発情期抑制薬を服用していたのにも気づいていましたよ」

「いや発情期関係なしにクニュフさん普通にスケベですよ。自覚ないんですか?」

「ん、夜に影から覗き見してたのを見て見ぬフリする優しさは確かにあった」

「主様の下着も妙に綺麗にしてあったりして、ちょっと隠蔽が雑じゃったのぅ」

「何ならアタイ宛ての手紙に書いてあったしな」

「にゃはは、バレバレだぁ~。普通に恥ずかしいね、こりゃ」

 

 けらけら笑って、一拍。再び視線を重ねる。

 イシグロは困惑していた。ずっと娘として見ていた存在に、真正面から愛の告白をされたのだ。そりゃびっくりするだろうという話。

 だが、クニュフはもう止まらない。何故なら、恋する乙女は最強だからだ。

 

「あたしね、ずっと貴方が好きだったよ。初恋は、未来のパパだった。二回目は今のパパに恋をした。違う違うって言い聞かせても、やっぱり好きになっちゃったんだ。困らせたくないから前は娘を演じてたけど。もうあたしはあたしの心に嘘を吐きたくない。だから……えぇ~っと、そのぉ……」

 

 続く言葉が迷子になった。

 断られたらどうしよう。気持ち悪いって言われたらどうしよう。

 ぐるぐると回る思考が、彼女のよく回る舌を凍えさせていた。

 

「ダメ、かな……? やっぱり娘としか見れない? あたしとしては、別にそれでも……」

 

 おずおずと、クニュフは上目遣いに大好きな人の瞳を見た。

 図らずして、その角度と表情はイシグロの魂に会心の一撃(クリティカル)をぶち込んでいた。

 血は繋がっていないとはいえ、父と娘の関係である。法的にも倫理的にも問題はない。問題はないが、ちょっとばかしインモラルだった。

 その時、イシグロの背がパシッと叩かれた。

 

「なぁに日和っとんねん! 今こそ男の見せ時ちゃうんか? ダーリン」

「へ、ヘカテ……」

 

 イシグロが家族を見渡せば、残るはイシグロの意思次第。

 愛する娘が本音を言ってくれた。ここで逃げたら男が廃る。

 やがて、イシグロは覚悟を決めた。

 

「分かった。クニュフとも結婚する」

「ほ、本当……!? やっぱりウソ~とか、愛のない結婚~とか、そーゆーの普通に病むから止めてね? ドッキリ大成功でショック死しちゃうからね?」

「それはないから安心してくれ」

「そ、そっか。そっかそっか~……」

 

 もう一度、抱擁を交わす。

 今度は父と娘ではなく、男と女として。

 互いの愛を育むように。

 

「世界で一番愛してる。家族として、異性として、一人の女として……他にも色々言いたい事とか沢山あるけど」

 

 甘えるような、媚びるような、ちょっとお道化たような。

 そんな声音で、クニュフは云った。

 

「責任取ってね♡ パパ♡」

 

 その笑顔は、クニュフ史上最もピュアで晴れやかで。

 イシグロからすると、一発で恋に堕ちちゃうくらい可愛かった。

 

 紛れもなく、傾国の美女である。

 イシグロにとっては。




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 一応、魂統合関連は作者なりに整合性をとっているつもりですが、普通に穴があります。ガバガバどころかスカスカです。
 とにかく結果的にはこうなるという事にしておいてください。俺の宇宙では音が鳴るんです。

 この章の諸々は次エピソードにて。
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