【一巻発売中】たのしい異世界ハクスラ生活、あるいは超紳士的英雄譚 作:いらえ丸
誤字報告もありがとうございます。感謝です。
今回は三人称、ヘルガ視点です。
よろしくお願いします。
フライシュ領はド田舎で、毎日がつまらない。
他の領地に行った事はないけれど。
「なんか面白ぇ事ねぇかなぁ~……」
実家で飼育している兎鶏にエサをやりながら、魔獅子人のヘルガは考えるでもなく思う。
退屈で、刺激がなくて、つまらない。だからといって、何か行動を起こす気にもなれない。
自分が何がしたくて、どうなりたいのか。全く何も分からなかった。
ヘルガは魔獅子人の少女である。父は半魔人で、母は獅子人。弟は父と同じ半魔人だ。父方の祖父の血が隔世遺伝した結果、四人家族の中でヘルガは唯一の魔獅子として生まれた。
魔獅子人とは、蠍の尻尾を持つ獣系魔族である。その気質は男の獅子人をより苛烈にしたかのように獰猛で、獄炎犬や轟雷狼といった根っからの戦闘種族に分類されると言われている。少なくとも書物にはそう記されていた。
が、当の魔獅子人であるヘルガに戦闘種族らしさは皆無だった。喧嘩程度なら経験済みだが、それを楽しいと思った事は一度もない。そもそもヘルガの腕っぷしは魔獅子とは思えないほど弱かった。
かといって、同年代の女子のように色恋沙汰に対しては然程の興味も持てなかった。可愛いモノは普通に好きだが、そんなん全人類好きだろうとヘルガは思っている。
宿屋の子として生きるのが嫌な訳ではない。
全てを
自分の事も、将来の事も、家の事も分からない。分からない事だらけだった。
大人になれば分かる。そう両親は言うものの、分からないままなのは無性に辛くて、今すぐ分からなければならない気がして、とにかく胸の奥がチリチリした。
正しく、退屈だったのである。
「あ、ヘルっち! おい~っす」
「おい~っす。おう、今日はヴィンセントもいんのか」
「おい~っす。いやこの前は野営訓練とか言って山籠もりしてたんだよ。臭ぇし寒ぃしで最悪だったぜ。あ、これそん時狩った猪肉な」
「いいな! さっそく焼こうぜ!」
そんな退屈を紛らわせるように、ヘルガは夜な夜な街に出かけていた。
街の裏路地にある、乞食や浮浪者のいない空地。そこにはヘルガと同年代の若者が集まって、何をするでもなく適当に駄弁っていた。
大人には秘密の路地裏集会には、身分も境遇もバラバラな若者達が屯っている。農家の男子に靴屋の女子。中には騎士家出身の男子もいたが、みんな似たような鬱屈した感情を抱いていた。
「おう、今日もやってるねぇ」
「お土産持ってきたよ~。まぁ酒場の余りなんだけど」
「姉御! おい~っす! ごちんなりま~す!」
集会に顔を出すのは若者だけではない。時折、路地裏集会に鋼鉄札の冒険者が酒を持ってきてくれる事があった。
当初は皆して冒険者を警戒していたが、彼等が単に一緒に飯を食いたいだけだと知ると――冒険者という人種が概して子供っぽい奴等であるというのも手伝って――徐々に受け入れられ、すぐに歓迎されるようになった。
強い酒に、深い夜。同じ意識を持った友達といる時は、強いて見ないようにしていた現実を忘れられた。
大人になるまでの猶予期間。退屈からの逃げ場。路地裏集会には、後ろ向きな緩い共感があった。
「じゃあなヘルガ! また飯食いいくわ!」
「弟君によろしくね~」
「お~う」
夜が明けると、ヘルガは何処にでもいる宿屋の娘に戻っていった。
あんなに不味かった酒が最近ちょっと美味くなってきた。仲間が持ってきてくれた肉も店で出すのより遥かに美味い。その夜の集会もまた、いつも通り楽しかった。
そう、この時間はいつまでも続くものではない。今はまだいい。けど、皆いつか路地裏からいなくなる。そうなった時、ヘルガは何処に行けばいいのだろう。
酔いから覚めたヘルガは、いずれ来たる冬から目を逸らし続けていた。
「あ、おはよう姉ちゃん。昨夜も外に行ってたんだね」
「まぁな。それより夢は大丈夫だったか?」
「うん。薬が効いたみたいで、ぐっすりだったよ」
「そりゃよかった」
寂寥感を胸に路地裏から戻ったヘルガは、決して孤独という訳ではなかった。実家には両親とは違い素直に好きと言える弟がいるのだ。
人間族と比べて強靭な半魔人であるはずの弟はしかし、無病息災な姉と違って弱い身体で生まれてきた。赤ん坊の頃から病気がちで、一日の大半を寝て過ごし、その間は恐ろしい悪夢を見ているそうだ。
弟といる時間は癒しである。けれども少し、苦しかった。
「それより、外の話を聞かせてよ。昨夜はどんな事があったの?」
「ああ。それがよ、ヴィンセントの奴が……」
そんな可愛い弟は、ヘルガの路地裏集会での話を聞きたがった。
理屈を超えた感情で、弟は守ってやらねばならないと思う。身体が弱いこの弟は、代わりとばかりに聡明だった。身体が良くなったら、やりたい事がいっぱいあるらしい。
自分が病気を引き受けられたらよかったのに。そう思わない日はなかった。
「っと、どうしたスヴェン」
「うん、そうみたい。ありがとう、いっぱいお話ししてくれて。いつか僕も姉ちゃんの友達と会ってみたいな」
「スヴェンが元気になったらな。ほら、薬持ってきてやるから」
ただただ、時間だけが過ぎていく。
弟は眠り、仕事の手伝いが始まり、合間合間に惰眠を貪る。
その日の秋空は、妙に遠かった。
雲が流れ、消えていく。しばらくしたら、暗い冬がやってくるのだ。
リント市民の一生など、分かりきっている。今はこうして適当やっているヘルガも、いつか宿屋を継ぐか結婚するなりして子供を産んで育てるのだろう。
積極的に恋愛をする気のないヘルガだから、どうせ相手は親父が決める。何処の誰と番うのか、ヘルガの知るところではない。どうせ近所の男子か、読み書き計算ができる商家のセガレあたりが宛がわれるだろう。
親が決める結婚に忌避感はない。むしろ、こんな女と組み合わされるかもしれない男の方に同情していた。自分が男なら、自分みたいな女は嫌だろうから。
「ふわぁ~あ、眠ぃ~」
齢九つにして、ヘルガは自身の人生を諦めていた。
このままでは嫌だという気持ちが先走っているだけで、具体的に何がしたくてどうすべきかが分からないまま、いつも楽な方へ楽な方へ転がり落ちる。
せめて、この感情に名前を付けられるようにはなりたかった。
兎鶏が冬毛に変わっていく頃。昼はまだまだ秋なれど、夜になると途端に寒くなる。
そんな夜でも、路地裏集会は続いていた。
「オーディション? 何じゃそれぇ?」
「イシグロだよイシグロ! クサナギで、れーめーの? ほらここ! ヘルガお前字ぃ読めんだろ?」
「草薙の剣……マジじゃねぇか。てかオーディションって何だよ」
ある日の集会、農家の男子が一枚の紙きれを持って一人で盛り上がっていた。
彼が持っている紙には、オーディションなる催しの内容がバカにも分かるよう簡潔に書いてあった。
曰く、将来有望な人材を選考し、草薙の剣主導で一端の冒険者に鍛え上げるというものだった。
応募条件はフライシュ在住である事。種族や年齢、身分や職業関係なし。やる気がある人大募集との事だった。
「はあ。英雄の器を育てる……ねぇ?」
「そうそう! 黎明のイシグロが鍛えてくれんだぜ? 夢あるよなぁ! しかも冒険者以外でも応募していいんだってよ! おまけに養成期間中はその分の金がもらえるんだってさ! 至れり尽くせりだよなぁ!」
「んな美味ぇ話あっかよ。騙されてんじゃねぇの?」
「そのへんどーなのヴィンセっち」
「俺からはなんとも。けど親父は圏外でイシグロさんに助けられたって言ってたぞ。救護団の事もあるからな。全部が全部ウソって事はないんじゃないか?」
ヘルガはまだ見た事はないが、広場の掲示板に貼られたオーディションの宣伝ポスターには草薙の同盟紋だけでなくフライシュ公爵の領紋も載っているそうだ。流石にこれで全くの詐欺という事はないだろうが、それにしたって珍妙な催しだった。
「だってよ、イシグロだぜ?」
「だから何だよ」
市井の流行に疎いヘルガとて、イシグロ・リキタカの英雄譚くらいは知っている。食堂に来る客がよく話しているのだ。
圏外での魔龍退治は有名だし、フライシュ公爵にリント・ソースのレシピを売った金で黎明の救護団を立ち上げたらしい事も知られている。ヘルガ的には、イシグロ=リント・ソースの人という印象が強かった。まだ一度しか味わっていないが、まぁまぁ悪くなかったのを覚えている。
けれども、だ。イシグロの英雄譚には、何ともいえない胡散臭さを感じるのだ。話によると、リント・ソースの売り上げを止まり木協会に寄付しているそうだが、そんな訳あるかといったところ。見ず知らずの人に儲けを譲るなど考えられないし、仮に本当だったとしてもそれは私腹を肥やす為に貴族に媚びているように思える。
皆、騙されているのだ。ぶっちゃけ根拠はないが、ヘルガはそう思い込んでいた。
「イシグロさんだけど、今度親父に連れられて挨拶する事になってんだよな。俺がっていうか騎士団の挨拶なんだけど。騎士訓練はメンドいけど、こーゆーのは素直に楽しみだ」
「マジ!? じゃあじゃあ、私ん事紹介しといてよ!」
「いいな~! オレも会ってみてぇぜ! 生の英雄ってどんな感じなんだろうな!」
一方、集会の仲間達を含む大多数のフライシュ領民はイシグロに好意的だった。
無償でラリスオウマガシカを討伐したとか、美食四天王を潰したとか、彼の逸話は枚挙にいとまがない。カレーのレシピを作ったのは実はイシグロである等という噂もあるが、その多くは根も葉もない謎エピソードばかりだった。
そんな奴が主催する人材選考など、全く以て信用できない。
「そもそも何処の誰だか分かんねぇ馬の骨を、な~んで黎明の英雄様が鍛えてくれんだ?」
「え? そりゃ強ぇ奴が増えるのはいい事だろ。公爵様的にはそうなんじゃね?」
「かもしれねぇけど、んーなら騎士団があんだろ。そん中から見込みありそうなの選んで鍛えりゃいい」
「確かに! ヘルっちかしこ~い!」
「俺も概ね同意だな。マジで英雄にするにしたって、根無し草の冒険者が増えたところでフライシュ公爵に利益があるとは思えないし」
「え~っと、そうなのか? よくわかんねぇ」
民に夢を見せるだけ見せて一喜一憂する姿を見て悦に入っているのではないか。そう考えるとムカついてくる。恐らく、ヘルガは本当に何となく英雄という存在が気に入らないのだと思う。
皆に愛されて、持てる力で何もかも自由に成し遂げる。英雄なんて呼ばれる奴は、きっと兎鶏のフンを掃除した事などないのだろう。
「やぁやぁ、今日もやってる? あ、それ例のやつだ」
「なになに、君達もオーディションの話? 転移神殿の掲示板にもソレ貼ってあってさ~。もう皆この話題で持ち切りよ」
「おい~す。お二人はどう思います? オレぁ受けてみたいんすけど、ヘルガがやめとけって……」
「いや止めとけとは言ってねぇだろ! ただ怪しいなって話!」
「うん、普通に怪しいよね~」
「っすよね姉御!」
「まぁ俺等一党はもう応募してきたけどな」
「マジすか兄貴!」
そうこうしていると、路地裏集会にいつもの冒険者達が現れた。
合流早々、農家の男子がオーディションの話を振ると、ヘルガにとっての兄貴分と姉貴分は既にオーディションに応募済みらしかった。
その事に、我知らずヘルガは強いショックを受けていた。こんな怪しい催しにマトモな大人が乗る訳はないと思っていて、この冒険者達はヘルガにとっては数少ないマトモな大人だった。
「な、なんでっすか? 相手は銀細工すよ?」
「そりゃそうなんだけどな。前に王都行った時に手合わせしたんだよ。まぁ容赦ない人だったけど悪い人って感じしなかったから。鍛えてくれるってんなら頼むだけ頼んでみようかなって」
「そうそう。どうせ落とされるだろうけど」
「なんでですか? お二人とも、凄くお強いのに」
「そりゃあ才能がさ。中途半端だからねぇ……」
そう語る姉貴分の横顔には、染み付いたような哀愁が浮かんで見えた。
ヘルガ達からすれば比類なき強者であっても、冒険者としての彼等はパッとしない立場らしい。その事を思い出したヘルガは、続く言葉を口にするのに僅かな逡巡を必要とした。
「で、でも、受かったとしても変な事してくるかもしんねぇっすよ。姉御、美人だし」
「あはは、ないない! だってイシグロさん、王都のすんごい美人と話してる時も全然紳士だったもん。アリエル様はまぁ仕方ないとして、生のニーナとかは女のアタシからしてもヤバかったよ。なんでそんな平然としてられんの~って」
「それにイシグロは妻に操を立ててるからなぁ」
「そんなん関係あんすか」
達観している。無性に、腹が煮えた。ヘルガの好きな人が自分自身の価値を低く見積もっているのだ。
そんなヘルガを、姉貴分は慈しむような優しい笑顔で見ていた。
「っし決めた! オレは出るぜ、オーディション! 将来は英雄になって、二代目黎明名乗ってやるよ!」
「おう、若者はそうでねぇと」
「あーでも、もし落ちちゃったら冒険者にだけはなっちゃダメだよ?」
「それは何故でしょう?」
「いやだって冒険者なんてマトモに生きれない奴がなる最後の砦みたいなもんだし。家業があるなら継いどきな。女の子は特にさ」
以降も、オーディションの話題が続いた。後から合流してきた仲間達も、皆イシグロ主催の催しに前向きだった。
酒に酔いながら、酔っているからこそ、非現実的な夢を語っている。冒険者として成功したら何をしたいか。どんな武器を持ち、どんな英雄になりたいか。
「まぁ俺は親父に言われて応募だけはさせられてるんだけどな」
「え~ヴィンセっち出んの~? じゃあ私も応募する~。ヘルっちは?」
「んぁ~、あーしはいいや」
「えぇ~、記念に行っとこうよ~。こーゆーの出来んの最後かもしんないじゃ~ん」
その中で、ヘルガだけが乗り気ではなかった。
ヘルガには実家の手伝いがあるし、弟の面倒を見なきゃいけない。どだい自分が選ばれる訳がないし、選ばれたくもなかった。
やる理由より、やらない理由が沢山あった。
「まぁでもイシグロさんとの模擬戦はキツいぞ~? 身体の方は気遣ってくれるけど精神はもうボロボロにされっから。終わった後とか暫く飯食えなかったもん」
「兄貴がそう言うあたり相当ですね。黎明は穏やかな気性をしていると聞いてますけど」
「性格が穏やかなのと戦闘で優しいのは別だからね~」
「ところでイシグロさんってイケメンなの? 年齢は? お金は? 英雄とかどーでもいいけど妾とかにしてくれないかな~」
「あれ? お前そろそろ結婚するとか言ってなかった?」
「そうだけどさ~。まだ一回しか喋った事ないし、真面目過ぎてつまんないし。ワンチャンなんとかならんかな~って」
皆がオーディションの話で盛り上がっている中、ヘルガはふと思った。
もし、この中にいる誰かがイシグロに認められて、一流の冒険者に大成したとしたら、その時の仲間はもうヘルガの仲間ではなくなってしまうのではないか?
黎明に鍛えられ、冒険者となり、英雄となる。数々の冒険をして、いつか何処かへ旅立っていく。対し、ヘルガは実家の宿で今と大差ない生活を続けているだろう。適当に選ばれた男と結婚して、子供を産んで、兎鶏を増やして減らしてエサをやって……。
ふいに、寒くなった。皆の話し声が薄い壁越しに聞こえるようで、何故だか皆との距離が遠く見えた。
「ああ。あーし、そろそろ帰るわ。もうちょいで鳥が卵産むしよ」
「おう、またな」
「またね~。オーディション楽しみ~」
いたたまれなくなったヘルガは、何とか表情を取り繕って裏路地集会に背を向けた。
自分からいなくなれば、置いていかれた事にはならない。
「オーディション、か……」
帰路、仲間達のようにバカな妄想を広げてみる。
もし、自分に才能があったとしたら、その時はどうなるだろう。
毎日美味しいものを食べ、良い酒を飲む。そのうちヘルガが心底惚れ込むような男と巡り合い、愛を育む。それが英雄の生き様というものなのか? なんというか、イマイチ想像がつかなかった。
けれど、だとしても、そこに仲間達はいない。果たしてそれで満足なのか? いいや、今だけだ。ずっと一緒にいられる訳はないのだ。
「強くなったら、何か変わるのかな……」
その夜は、何も楽しくなかった。
モラトリアムの冬が来る。
〇
まだ秋だというのに、フライシュ領に純白の雪が降るようになった。
天気に詳しい客に曰く、今年の冬は寒くなるらしい。
一方で、リントの人々には例年以上の活気があった。
雪降る中でもいつも以上に出店が並び、有名な芸術家が作ったらしいイシグロ氷像なんかも建てられているらしい。
草薙の剣主催による、英雄オーディションが開催されたのだ。
やれ何処其処の誰が落ちて、何屋の何君誰ちゃんが受かっただの。オーディションの話題は、ヘルガの実家が営む食堂でも頻繁に上がっていた。
草薙の英雄譚に熱心な客によると、件のオーディションは何度も行われるそうで、一次審査を通過しても二次・三次の審査で篩にかけられるのだという。そして、最後まで残った英雄候補を育成するらしい。
街の人も、食堂の客も、リント中の誰も彼もが浮かれている。
けれど、ヘルガからするとオーディションなどどうでもよかった。
いや、ヘルガだけではない。彼女の両親もまた、そんな浮かれた話に乗っている暇も余裕もなかった。
「起きたか、スヴェン。具合はどうだ? 熱は……ないな。良かった」
「うん……ありがとう、姉ちゃん。今朝は寒いね……」
「今日はマシな……いや、やっぱし寒いな。すぐスープ持ってきてやるから、それまで起きてられるか?」
ヘルガの弟の調子が急に悪くなったのだ。
つい先日までは安定していたのに、冬になった途端に悪化して、今では寝たきり同然になったのである。
眠っている時も魘されている様子で、悪夢を見る頻度が高くなったと言う。
「最近はね。寝る前に、次起きられるか不安なんだ。この前見た夢で姉ちゃんに刺されてさ。本当に。本物の姉ちゃんだよね? 今そこにいるの……」
「当たり前だろ。なんだ? それに、マジのあーしがスヴェンにそんなひでぇ事する訳ないだろ?」
医師を呼ぶには金がいる。ただでさえ弟が飲む薬で我が家は資金不足だというのに、往診してもらえるような余裕はなかった。
何とかして金を工面すべく忙しくしている両親と同様に、ヘルガもまた彼女なりに懸命に働いていた。育てた兎鶏の解体して加工し、近所の農作業を手伝った。その上で、ヘルガは可能な限り弟と一緒にいるようにしていた。
今一番辛いのは、自分ではなく弟なのだ。
「最近、外出てないでしょ。ごめんね、僕のせいで姉ちゃんの自由が無くなっちゃう……」
「いいんだよ。あーしにとっちゃ、あーしの時間よりスヴェンが元気になるのが一番なんだから」
自然な流れとして、ここ最近ヘルガは路地裏集会に顔を出さなくなった。
そんな彼女を気遣ってか、集会の仲間がヘルガの食堂に来てくれた。オーディションを受けたところ、どうやら全員落ちたらしい。笑い話として悔しがってみせる仲間を見て、我知らずヘルガは内心ホッとしていた。夜、その事を思い出したヘルガは、そんな感情を抱いた自分自身に嫌気が差した。
「ほら、一杯くらい飲め。な? きっと良くなるから……」
日に日に、弟が起きていられる時間が短くなっていく。
医療の知識などないヘルガでも、弟の命の灯が消えかかっている事が分かった。
「いつもありがとうね、姉ちゃん、もう大丈夫だから……」
暖かくしたはずの部屋。
雪のように青ざめた弟は、何かを悟ったように笑うようになった。
医師に診てもらった後も、弟の体調は改善しなかった。
相も変わらずの原因不明。病なのかどうかさえ分からない。リント一番だと聞かされていた医師は呪いの線もあるとして呪術的な検査も試みていたが、結果として弟は呪いを受けていなかった。
病ではないものに、医師は無力だった。今は苦しみを和らげる薬を飲ませて様子を見ている訳だが、薬を飲んだ弟は眠る度に弱っていくようにしか見えなかった。
「クソッ! あのヤブ医者が、何もしてねぇくせに金だけは取ってきやがった……!」
歯がゆかった。姉として、弟に何かしてやれる事はないだろうか。
何処かに行きたいなら、連れていってやりたい。何か食べたいなら、食べさせてやりたい。代われるものなら代わってやりたかった。
そう思っても、ヘルガに出来る事はなかった。
「ヘルガ、大事な話がある。座りなさい」
「あぁん?」
リント中が大雪に包まれた日だった。
近所の家は厳しい冷気に備えていて、ヘルガの実家も店を閉めていた。
人気も暖房もない食堂で、真剣な顔をした両親と向かい合う。
机に置かれた燭台で、消えかけの蝋燭が燃えていた。
「先に、はっきりと言わせてもらうぞ。スヴェンの事は諦めろ。あいつはもう、うちでは養えない」
「……は?」
沈黙の末、父の言葉を理解できなかったヘルガの口から、酷く間抜けな声が抜け出た。
弟を諦めるとはどういう事か。養えないとは、どういう事か。
その意味を解釈していくにつれ、ヘルガの顔から血の気が引いていった。
「クラテさんに診てもらってもダメだった。普段飲ませる薬代もバカにならない。情けない話だが、うちの稼ぎではこれ以上スヴェンを生かし続けるのは不可能だ」
沈痛そうに話す父の声が聞こえる。
その隣では、父を擁護するように母が何事か言っていた。
耳鳴りがして、何を言っているのかイマイチよく分からなかった。
「スヴェンには、もっと
けれど、父のその言葉だけは、いやにハッキリと聞こえた。
強い薬。安らかな眠り。要するに、間引きをしようとしているのだ。
実の父が、実の息子を、殺そうと。
「ふざッ……!」
瞬間、これまで凪いでいたヘルガの心が凄まじい勢いで逆巻いた。
机を叩き、立ち上がる。耳が前を向き、尻尾の針が父に向く。無意識下に出た魔獅子人の臨戦態勢だ。
「ふざけんな! おいクソ親父! てめぇ自分で拵えた子供を殺すってのか! ババアてめぇも同じか! えぇ!?」
「落ち着きなさい! スヴェンが起きるでしょう!」
「農村じゃあ間引きなんて珍しくない。俺の故郷でもやっていた。獣に食わせるよりマシだろう」
「マシとかそういう話じゃねぇ!」
実際、ヘルガの生まれは恵まれている。これまで口にはしていなかったが、それくらいは分かっている。集会の仲間には、もっと酷い環境で生きている奴もいたのだ。
そんな家でも、薬を買うには相応に切り詰めた生活をせねばならない。直近では医師に弟を診せるのに多くの私財を投げ売った。
これ以上、弟の命に金はかけられないのだ。
「じゃ、じゃあ! あーしが奴隷か冒険者になってやるよ! その金で王都のもっとスゲェ医者ぁ呼べばいい! あんなヤブ医者じゃなくってよ!」
「お前を奴隷にはさせない。迷宮に潜ってもお前程度じゃすぐ死んじまう。それに仮にスヴェンの病が治ったとしても、次に何時ぶり返すか分からない。強く生まれたのはヘルガなんだ。だから俺はお前を生かす。一人じゃ生きていけないんだよ、スヴェンは」
「だから見捨てるってのか!」
「そうだ、それが家長の決断だ」
そう答える父の顔は、古い木像のように硬く強張っていた。
この父が、息子を愛していない訳はない。愛していたからこそ、これまで薬を与えてきたのだ。
頭では理解できる。心が理解を拒んでいる。ヘルガの中で、これまで経験した事のない激情が暴れ回っていた。
「これは、あの子から言い出した事なんだよ。お前に、子供にそんな事を言われた親の気持ちが分かるか?」
「んなっ、訳が……!」
咄嗟に否定しようとして、喉が凍えた。
思い出したのは、先日に見た弟の笑顔だった。
悟ったような、諦めたような、慈しむかのような。
ヘルガよりも敏く優しい弟が、ヘルガよりも大人びた弟が、今の家族を見て何も思わない訳はなかった。
「知ってるだろう。スヴェンは賢いんだ。俺より、お前より、ずっと賢くて、優しい子なんだ……」
父も、母も、弟も、既に諦めていた。
大人だから、ヘルガに分からない事が分かるのだろう。
夢すら見ないヘルガと違って、現実を見て生きていた。
「んな事が、あっていいはずねぇだろ……」
だが、この期に及んで尚、ヘルガには分からないままだった。
弟を見殺しにする理由など、この世にあっていいはずがない。
姉である自分が、納得していい訳がないのだ。
「クソが……!」
「ヘルガ! どこに行く!」
扉を蹴破り、家を出る。身を切るような冷気がヘルガの身を過った。
そして、走って逃げた。今のヘルガは子供そのものだった。
分厚い雲から、大粒の雪が降り続けている。走っているうち顔が白く染まり、手は凍り、それでも不思議なほど寒くなかった。
ただ、逃げていた。
何処に向かって走っているのか分からなかった。
気付けば、無意識に、いつもの場所へ向かっていた。
あそこには、暖かい火があるはずだ。仲間がいるはずだ。夢を語る皆の笑顔があって、ヘルガを迎えてくれるのだ。
暗くて優しい路地に入り、そして……。
「あ、あぁ……」
路地裏の集会所には、誰もいなかった。
当たり前だ。今日は大雪が降っていて、わざわざこんな所に来る理由などない。
そういえばと、ヘルガの脳裏に思い浮かぶ光景があった。
仲間の一人は、そろそろ本格的に家業を継ぐそうだ。仲の良かった女子も結婚するらしい。騎士家の奴も、冬は仕事で忙しくなると言っていた。
ヘルガだけが、ずっと同じ場所で立ち止まっていた。
既に、猶予期間は過ぎていたのだ。
「う、うぐっ! このクソ……! なんでスヴェンばっか……うぅ! うわぁあああ!」
一人になって、やっと涙が溢れてきた。
瞼の裏で、弟の顔が浮かんでは消えていく。自分より生きる価値のある弟が、やりたかった事を一つも出来ないまま死んでいく。
泣いた後はスッキリするものだ。もしこの涙が枯れてしまったら、自分も大人になって、弟の命を諦めてしまいそうだった。
「ちくしょう……! ちくしょうちくしょう! ごめんなスヴェン……! ごめんなぁ……!」
泣いても、泣いても、現実は何も変わらない。
弟が死んだ後も、ヘルガの生活は続くのだろう。いつか弟がいた痕跡もなくなっていき、薬代が浮いて家計に少しの余裕が生まれる。
それではまるで、弟は生まれるべきではなかったみたいじゃないか。
「ふざけんな! ふざけんな! このぉ!」
拳を握り、地面を殴る。
そんな事をしても、積もった雪に跡がつくだけだ。
非力だった。情けなかった。何も変わらない。すぐ別の雪が路地裏を覆う。
「クソがぁあああああああ!」
涙を流しただけでは、大人になれはしなかった。
空を睨む。何が悪かったのかと、現実逃避の思考が空転する。
どこまで行っても金の問題がついて回る。店の経営も、弟の薬も、日々の生活も。
逆に言うと……。
金さえあれば、何とかなるのだ。
「迷宮稼業だ……」
冒険者に、なるしかない。
その選択肢は常にあった。しかし、顔見知りの冒険者の話では、迷宮稼業に夢や希望は無いという。仮に一発儲けたとしても、それが続くとは限らない。長く生きたいなら、マトモな仕事をして暮らすべきだ。
その前に武器はどうする。防具は? 仲間はどうやって集めればいい? まさか単独で迷宮に潜れるはずもない。戦えるのか? 生き残れるのか? 兎鶏を絞めた事はあっても、獣一匹狩った事のないヘルガが? 魔獅子のくせして大して喧嘩も強くないというのに。強くない、才能がないのだ。仮に死んだら家の働き手が減って今よりも苦しくなるだろう。
冒険者になんて、なるべきじゃない。
「クソが黙れ! そうじゃねぇだろ!」
また、やらない理由を探していた。
冒険者に夢はない。それは本当かもしれないが、事実として成功者は存在するではないか。黎明のイシグロなど、その典型だろう。
迷宮に潜れば金が稼げる。金が手に入れば弟は生きていける。親の言う事なんてどうでもいい。元々やりたい事などなかったのだ。自分の命くらい、いくらでも賭けてやる。
何があっても、弟だけは死なせない。
その時、ヘルガの心に不退転の
「冒険者になるのは確定だ。その前に草薙のオーディションに応募する。それで受かったら万々歳。受からなくても、そん時の縁で一党を組んでやる。荷物持ちでも囮役でも、ジジイ共の肉便器でも何でもやってやらぁ……!」
そう決意した瞬間、ヘルガの頭は過去例を見ないほど冴え渡った。
第一に、立ち上がった。今まで止まっていた分、動かなければならないと思った。
「姉ちゃんが助けてやるからな! スヴェン!」
そして、表通りの方へ走り出す。
現実逃避の熱が引いて、全身に当たる雪が冷たい。
けれど、弟の苦痛に比べたら何て事もなかった。
静まり返っていた実家の周辺と異なり、リントの街は賑やかだった。
色とりどりの街灯が輝き、真新しい服を着た人々を照らしている。
その中を、ボロの外套を纏うヘルガは走っていた。
「聞いたか? 騎士団の奴等、全員オーディションで落とされたんだって」
「マジか。じゃあ逆に合格したっていうあの汚ぇガキは何者なんだよ」
「てか、それ公爵様大丈夫? メンツ潰されて怒ってない?」
住民達から、オーディションの話題が聞こえてくる。
どうでもいい話ではない。有益かもしれない情報だ。耳をそばだて、走り続ける。
リントの広場には、大地に剣を突き立てる男の氷像が屹立していた。イシグロを模したものだ。その足元に、オーディションについて書かれた掲示板がある。ヘルガは噛り付くようにしてソレを読んだ。
「応募期限は……今日!?」
もう間に合わない。諦める理由が一つ増えた。
だが、そんなものが浮かび上がるより先に再び駆け出していた。
掲示板に書かれていたオーディション会場へ。
「すまねぇ! あぁ申し訳ありません! ここのオーディション、まだやってますか!?」
オーディションは、庶民も利用できる屋内広場でやっていた。ノックもそこそこに扉を開けば、フライシュの領紋証を付けた受付嬢が目を丸くしていた。近くでは騎士の姿もある。
「で、ですが既に皆さん撤収の準備に入っているところでして……」
「お願いだ! です! 応募だけでもさせてくれ! 今すぐ! あーしは英雄にならなきゃいけないんだ!」
「え、英雄ですか……!?」
勢いのまま捲し立てるヘルガに、受付嬢は動揺していた。騎士もどう処理すべきか考えあぐねている様子だ。
そう、英雄だ。ヘルガは一端の冒険者になりに来た訳ではない。最高の英雄になる為にオーディションを受けるのだ。
イシグロのような、万民を救う英雄ではない。ただ、弟を救う真の英雄に。
「いいよ。オーディション、受けさせてあげて」
その時、通路の方から声がかかった。
声の主は、猫人系の小さな少女だった。見た事もない仕立ての服を纏っていて、幼く平坦な胸に不似合いな銀細工を下げている。
知らない顔だった。リントの銀細工かと思ったが、こんな目立つ娘が噂にならない訳はない。イシグロの英雄譚にも出ていないので無関係の冒険者かと思ったが、今この場にいる事と受付嬢への態度からして、彼女がイシグロの関係者である事に間違いないように思えた。
「い、一次選考は先ほど終了いたしましたが……」
「パパならそれくらい許すよ。それに何より本当に重要なのは気概……要するに、やる気だから。なりたいんでしょ? 英雄に」
「え? あ、はい! なります! お願いします!」
「じゃあいいよね~。パパ達は中にいるから、入って入って~」
あれよあれよと事が進み、ヘルガは既に終了したはずのオーディション会場へと足を踏み入れた。
すると、そこには英雄譚の登場人物がいた。鎧を纏った黒髪黒目の男に、銀髪の小竜族に灰髪の小吸血鬼。名前も知らない獣人に、ヘルガでも一目で強者と分かる褐色肌の獣系魔族。その他、フライシュ公爵家の騎士の姿まで。
そんな彼等の視線が、一斉にヘルガに注がれた。心臓が撥ね、喉が凍る。
「まず……お名前を、聞かせていただけますか?」
大人数が入れる広場で、ヘルガ一人と多数の英雄が向かい合う。
ヘルガはただ、訊かれた事を必死に答えた。事前に考えていた言葉は何一つ出てこなかった。そのうち、頭の中が真っ白になっていった。
そして、ヘルガの審査は終了し……。
「合格おめでとーッス!」
「おめでとう。まぁ頑張りなさいな」
「おめでとうございます! 良かったですね、ヘルガさん……!」
ヘルガは、英雄オーディションの一次選考に合格した。
こうして、何者でもなかったヘルガは英雄の一歩を歩み……。
「おめでとうなのじゃ!」
「ん、おめでとう」
「おめっとさん」
始めたかと思えば、あっという間に二次選考を通過し……。
「おめでとなーす。いやぁ当初はどうなる事かと思いましたけど案外なんとかなりましたねぇ」
「おめでとさん。まぁ異能持ちとか英雄候補がゴロゴロおったら今頃ラリスは銀細工大国やったやろ」
「おめでとニャ~。これからよろしくね、ヘルガちゃん」
三次――最終選考を生き残り、ヘルガは英雄候補生になった。
曰く、路地裏集会の仲間は全員落ちたらしい。噂ではリントの銀細工も落とされたとか。また、フライシュ騎士団も全員不合格だったと聞いた。
そんなオーディションに、ヘルガは合格した……らしい。
「おめでとうございます、ヘルガさん。あぁ弟さんの事についてはご安心ください。草薙の名にかけて必ずや治療いたしますので。とにかくヘルガさんはレッスンレッスン&レッスンです。くれぐれも頑張ってくださいね」
改めて、である。
ヘルガは歩み始めたのだ。
草薙の剣が導く、英雄へ至る階へと……。
「……え?」
あまりにも、あっさり。
現実を見て駆け出した結果、夢みたいな状況になった。
コレやっぱ夢では? ヘルガは訝しんだ。
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