【一巻発売中】たのしい異世界ハクスラ生活、あるいは超紳士的英雄譚 作:いらえ丸
誤字報告も感謝です。あざすの極み。
キャラ・ボスのご応募もありがとうございます。
今回も三人称、イリハ視点です。
よろしくお願いします。
母が身罷ってから、イリハの人生は転落の一途をたどる事となった。
陰陽術師キィナの訃報が知れ渡るや、呼んでもいない商人連中がイリハの家に訪れるようになり、半ば無理矢理家宝を売るよう迫ってきたのである。
元々、母の遺言通り家宝を売るつもりでいたイリハだったが、あろうことか彼等は持ち主のイリハがキィナ程の陰陽術師でないと知るなり、とんでもない低額で買い叩こうとしてきたのである。
「ふ、ふざけるな! これは我が家に代々伝わる古の遺産なのじゃぞ! それがッ、この程度の額な訳がなかろう! 母上の目利きを信じられぬと申すか!」
執着はないが、蔵にある宝の全ては母が大切にしていた物なのだ。中には母との思い出が詰まった宝だってある。
そんな家宝を、信用できない商人に安く買われる事をイリハは許容できなかった。
「帰るのじゃ! 二度とその面見せるな!」
来る日も来る日も怪しい奴等の対応。中には恫喝紛いの方法で家宝を買い叩こうとしてくる商人もいた。その都度、イリハは何とかして母の宝を守っていた。
せめて、まともな値段で買ってくれるだけでいい。しかしここは異世界、元気だった頃のキィナが交渉をしていればそうなっていただろうが、弱いイリハではそれが出来なかった。強くなければ、家財一つ守れないのである。
最愛の母を失ったイリハには、哀しみに暮れる時間さえ与えられなかった。
「な、なんじゃこれはぁ!?」
そして、事態は最悪の状況に至る。
イリハが村に薬草を下ろしに行った日の事。屋敷に戻ったイリハは、蔵の中が空になっている事に気が付いた。
家主がいないうちに、盗まれてしまったのである。
「嘘じゃろう! け、結界が壊されておる! そんな……母上ぇ!」
蔵にはキィナ謹製の結界魔術が施されており、宝にも盗難防止の魔術がかけられている。それを突破されたという事は、間違いなく素人の犯行ではない。
異世界とはいえ、法はある。官憲に通報するも、結局誰が盗みに入ったのかは分からずじまいだった。
「駄目だなこりゃ、痕跡が消されている。カムイバラの奴でも手に余るだろう」
「きっとあの商人共がやったのじゃ!」
「怪しいだろうが、証拠がねぇよ……」
結局、犯人が誰か分からないまま、イリハの元から全ての家宝が無くなってしまった。
残ったのは、誰も欲しがらない山奥の家と、ほんの僅かな母の形見のみ。これでは借金を返す事ができない。
また、いくら才能があるとはいえ、国家資格のない者に水脈の管理などできる訳もなく、イリハには陰陽術師としての稼業を継ぐ事もできなかった。
家宝が無くなった今、キィナより稼げないイリハの借金返済を待つ理由は、金貸しには存在しなかった。
「はぁ……キィナの娘と聞いて来てみれば、ただの仔狐じゃないか。これじゃ安い娼館で働かせるのも難しそうだ」
やがて、イリハはとある金貸しの下、奴隷の身へ落ちる事となった。
借金を返済し切るまで自由を得る事のできぬ身分。
不老長寿族にとっては、地獄の始まりである。
〇
意外にも、借金の返済は合法的な手段に限られた。
というのも、当初はキィナの娘であるイリハを違法遊郭に売り飛ばすつもりだった金貸しだが、イリハがロリ過ぎてどこの遊郭も買い取ってくれなかったのである。合法の遊郭もまた同様に。
「あ~、適当に仕事くれてやるから。ちょっとずつ返せ」
「わかったのじゃ」
「なんだその口調は、仕事の前に直しておけ」
「わ、わかりました……」
イリハで金儲けができないと知るや、金貸しのゴロキチは彼女への興味の一切が失せたようであった。
最初は奴隷にしてはマシ程度の生活環境だったのが、やがて寝床も物置の隅となり、衣服や食事も最低限のものだけが与えられる事となった。
エサ? 一番安いのでいいだろ。寝床? 物置に座布団一枚でいいだろ。そんな具合である。まるで飼い犬の世話を面倒がる飼い主のようだった。
「ん? イリハ、お前なんで倒れてるんだ、返済前に死なれるのは困るんだよ。飯は与えてるはずだろうが、おい起きろ」
「う、ぁ……はい」
ゴロキチは感情的な虐待をする事はなかったが、利益の出ない物を大事にしない性分の持ち主でもあった。
徹頭徹尾、イリハは小遣い稼ぎの自動人形という扱いであり、彼女の感情に配慮する事は一切しなかった。
残念ながら、これが異世界における奴隷身分のスタンダードであった。
「豊狸屋のイリハです。よろしくお願いします」
「ん? 随分と小さいな。大丈夫か? まぁいい、何ができる?」
借金を返済する為、イリハは自分が出来る範囲の仕事を時間いっぱいまでこなす事となった。
もともと要領の良いイリハは仕事に困る事はなかった。それには、母から受けた教育が活かされていた。
けれども、月に一度の休みもない労働生活は、ただでさえ強靭とはいえない彼女の心身を少しずつ削っていった。
「なんで、このわしがこいつらの下で働かねばならんのじゃ……」
一年なら、耐えられただろう。
三年なら、慣れて余裕が生まれたかもしれない。
十年が過ぎた頃から、身体か心のどちらかがどうにかなり始めた。
「わしは、いと尊き九尾の末裔なるぞ……!」
奴隷は、人ではなく、物だ。
街を歩いても物扱い。良く働いたとしても、褒めてもらえない。
そんな生活が続くと、後天的に得た彼女のお嬢様的傲慢さはますます先鋭化していった。
そうでなくば、心を保つ事ができなかったのだ。
「あ……」
ある日の夜。
いつものように寝床に着くと、そこには見覚えのない鏡が置かれている事に気が付いた。
布を払うと、鏡の奥にはみすぼらしい狐人の姿が映っていた。
母にそっくりな、高貴な血を引いているらしい、惨めな狐人だ。
「母上、わしはもう限界じゃ……」
誤魔化し続けて幾年が経った今、イリハの心は限界だった。
元来の愛情深い性質と、後に形成された過度な自尊心が、物扱いされる日々の中で彼女の精神を削り取っていたのだ。
母に、もう一度会いたい。
会って話がしたい。
褒めてほしい。撫でてほしい。愛してほしい。
そう願っても、鏡は何も返してくれない。
ただただ、そこには薄汚れた狐人がいるのみ。
奴隷になったイリハに、気高き天狐キィナの面影はなかった。
それどころか、厳しい労働の中、イリハは徐々に過去の記憶が曖昧になっていった。
忘れたい過去と、忘れたくない思い出が、混濁した心からこぼれ落ちていくのである。
もし、全てを思い出せなくなった時、そこに母はいるのだろうか。
「は、母上はもっと背が高くて、綺麗な髪をしていて……」
このまま、何もかも忘れて物として生きるのが、どうしようもなく怖かった。
そして、いつか母親まで忘れてしまうのではないか。それが何より恐ろしい。
「そ、そうじゃ……!」
その時、陰陽術師のイリハには思いつくものがあった。
思い出の母と寸分違わぬ幻があれば、娘は永遠に母を覚えていられる。例え、どんなに苦しくても、母さえ居れば耐えられる。
「母上、母上、待っていておくれ、母上……」
それからイリハは、疲れた身体に鞭打って毎夜変化術の訓練をした。
来る日も来る日も。寒い夜も、蒸し暑い夜も。母との再会を願うイリハは、自分の身体を母へと似せていった。
「できた……」
それから、一年が過ぎた頃。
鏡には、イリハを最も愛してくれる母の姿が映っていた。
何もかも記憶の通り。優しい顔で、イリハを見つめていた。
この時のイリハの心情は、如何ほどものだったろう。
単に感動したとか、達成感があったとかでは断じてない。
凡そ多くの者とは無縁であろう複雑な感情。その奔流が彼女の心の奥底から溢れかえったのである。
「母上……お母さん……!」
鏡にいる母に、イリハは手を伸ばした。手のひらが重なる。とても冷たい感触が返ってきた。母の手ではない。
鏡の中で、キィナは微笑んでいた。
幻の中で、イリハは涙を流していた。
「あぁ……」
変化が解ける。魔力切れだ。鏡には、呆然と涙を零す小さな狐人だけが残った。
変化術とは儚いもの。本物ではない。言葉を返してはくれないし、褒めてなんてくれない。
けれど、思い出に帰る事はできる。
イリハは、そうやって心を癒していた。
「イリハ、お前なにやっとるんだ?」
ある日、物置に来たゴロキチに、イリハが母に変化した姿を見られてしまった。
何か悪い事をした訳でもないのに、イリハは恐怖で震えあがった。主人の機嫌を損ねて、鏡を没収されると思ったのだ。
「……いや、金になるかもしれないな。よし、お前それを練習しろ」
ゴロキチの命令。それはイリハにとって、奴隷に来てから初めてやりがいを感じられるものだった。
イリハは縋りつくようにして変化術を鍛錬し、やがて変化したまま楽器を演奏できるまでに至った。すると、これまで出来なかった類いの仕事もできるようになった。
母の姿での、演奏者としての仕事である。
「おい見ろよ、すげぇ美人!」
「なんて鮮やかな髪なのだ……」
「う、美しい……!」
演奏の仕事は、イリハにとっては存外楽しさを感じられるものであった。
遊女が街を練り歩く際、イリハもまた楽器を演奏しながら同行し、場を盛り上げる。その時、男達の視線の一部は変化したイリハに向けられる事があった。
ともかくとして、母の美貌が褒められるのは気分が良かった。
「なぁあの遊女、どこで遊べるんだ?」
だが、誰一人として、イリハを褒めてくれる人は、いなかった。
一生懸命練習した演奏技術も、母に習った良家の歩法も、イリハの努力の結晶だというのに。
母の似姿の奥、イリハを見てくれる者は、誰もいなかった。
「よ~しよし、順調に返済できているな」
集まっていく金に、ゴロキチはご満悦だった。
主人もまた、イリハには興味が無かった。
「お疲れ様でした……」
朝から晩まで働いて、変化で心を騙し、鏡の前で寂しさを埋める。この繰り返し。
時々楽しい仕事もあるが、どうであれ心身を削る。
故郷でも、豊狸屋でも、鏡の前であったとしても、イリハには居場所がなかった。
「母上……」
暗い物置で、思う。
「一体、いつになったら巡り合えるというのじゃ……」
いつまで、この現実が続くのだろう。
母以外の大切な存在など、本当に存在するのか。
母が言う、父のような者と、巡り合えるのだろうか。
まして、愛する者などと……。
〇
何の変哲もない日の事だった。
凍える程に寒い朝。かじかんだ手をさすりながら、彼女は朝陽が昇る前から働きに出た。
屋敷を掃除し、別の店を手伝い、次の仕事の為に道具を取りに狸屋に戻った時だ。
チリンチリン、と。
応接室から、鈴の音が聞こえた。
主人がイリハを呼ぶ音だ。イリハは無心で参上し、虚無の瞳のまま首を垂れた。
疲れているのだ。今日はまだ仕事がある。早く行かないと遅刻だ。
一刻も早く終わればいいと、何か面倒事に巻き込まれなければいいと、心を無にして沙汰を待った。
そして、唐突に、靄が晴れた。
「あ……? えっ、えぇっ!?」
箒で埃を払うように、何らかの魔法によって、イリハの心身の疲労が取り除かれたのである。
白黒の世界に、色が戻った。
鮮やかになった世界の中心に、一人の男がいた。
「はじめまして、俺はイシグロ・リキタカ。イシグロが苗字で、リキタカが名前。ラリス王国で冒険者をやっています」
男はイシグロと名乗る冒険者で、どういう訳かイリハの身請けを申し出てきた。
全く以て理解不能だった。自尊心こそ高いイリハだったが、自己肯定感は極端に低いのである。こんなちんちくりんを欲しがるなど、意味不明だった。
回復魔法のせいだろうか。やけに鮮明になった思考は、落ち込んでいた心が元に戻っている事に気が付けた。
その反動と困惑により、イリハはオフにしていた魔眼を無意識に起動してしまった。
光に満ち溢れた、色鮮やかな氣。
イシグロの身体は、驚くほど強い氣に満ちていた。
青、赤、黄、白、黒……若干黒色が強すぎる気もするが、ここまで輝いて見える人は母くらいだった気がする。
母の言っていた銀細工持ち冒険者とは、これほどまでに強壮な戦士なのか。確かに、これほどの戦士ならば大金を稼ぐ事も可能ではあるのだろう。
「え……?」
ふと、イリハはイシグロの後ろにいた奴隷を見て、さらに驚愕した。
小さい淫魔。小さい獣人。それから銀髪の小竜族。どれもこれも、イリハと同じくらいの背丈で、全員ちんちくりんの女奴隷だった。
彼女等は一様に上等な装備を着ていて、イリハとは比べ物にならない程に多くの氣を内包していた。
その時、イリハは少し前の出来事を思い出した。
遊郭での仕事中、ふいに覗いてしまった情事の光景を。
疲れていて魔眼の制御ができなくて、彼等の氣の流れを見てしまったのだ。
男の氣が、女の氣に注がれ、混ざり合って高まり合う様。母と二人、田舎暮らしだったイリハに、ソレはかなり刺激的な光景だった。
(もしかして、この奴隷達とイシグロって、そういう関係なんじゃ……?)
正解である。
イシグロの氣を見る。奴隷の氣を見る。間違いない、二人とも氣の色と形が似通っている。混ぜて、高めているのだ。
これまた、久々に回転し始めたイリハの脳裏に過去の記憶が再生される。
それは、母から教わった氣の運用法の一つだった。
性交で以て男女の氣を混ぜ合わせ、互いに氣の量と質を底上げする修行法。
あと、やるとめちゃくちゃ気持ちいいらしい。
(まさかコイツら、房中術の使い手か……!?)
不正解である。
当然だが、実際はそうではない。イシグロとロリ奴隷達は単に日常的にハッスルして互いの欲望をぶつけ合っていただけで、氣とかその辺は全く運用していない。
しかし、繰り返しと積み重ねとその他諸々により、本家房中術にも劣らぬ程、イシグロ達は色んな意味で混ざり合って高まっていたのである。特に淫魔。
そのように勘違いしたイリハは、混乱の中でこのような考えに至った。
(そうか! この男、わしを房中術の練習台として使って、更に強くなるつもりなのじゃな!)
不正解である。
しかし、長年不遇のロリ生活を送っていたイリハにとって、ロリコンという存在は想像の範囲外だった。
いや、それはイリハだけではなく、この異世界の全ての人類がそうなのだが。
さて、このような勘違いをしたイリハは、勘違いしたまま葛藤していた。
身請けの理由は分かった。その意思が強い事も。母曰く、銀細工持ちはどいつもこいつもちょっと変らしいし、そういう奴もいるんだろう。
だが、仮に身請けされたとして、その後はどうだ。房中術用の道具として使われるのだ。それは、性奴隷以下の扱いではないのか。
(そもそも、わしは由緒正しき九尾の末裔なるぞ! それを房中術の道具に使うなど、不遜にも程があるのじゃ! 何様のつもりじゃ!)
イリハは過去の経験から、自分の高貴な生まれによって自尊心を保ってきた。そんな彼女からすると、性奴隷以下の道具として使われるなど甚だ遺憾である。
だが、しかし、である。
身請けをされなかったとしたら、今の惨めな生活が続くだけではないのか。
今は回復魔法のお陰で心身ともに快調だが、すぐに元の状態に戻るだろう。
毎日毎日、辛く苦しい労働の繰り返し。朝早くから夜遅くまで働いて、誰にも褒められる事もなく、認められる事もない。唯一の慰めは、自身が変化した母の似姿のみ……。
ならば、いっそ新しい主人の下で、新しい道具に成る方がマシなのではないか?
幸い、向こうには心身を回復できる手段がある。
奴隷の扱いも悪くはなさそうに見える。少なくとも、彼女等の表情に影はない。むしろ幸せそうだ。イシグロめ、相当な使い手か。ていうか、ちんちくりん相手に勃つものか? いくら自己鍛錬の為とはいえ、男の巨塔は我儘と聞くし……いや、それはいい。
今のまま、借金を返し切るまで労働を続けるか。
覚悟を決めて、房中術の道具に成り果てるか。
そもそも、身請けの可否を決めるのはイリハではないのだが、それは置いといて……。
葛藤の末、イリハは……。
「お、お願いします……。私めを、貴方の下に置いてくださいませ……」
こうなった。
打算が為にこそ、僅かな勇気が出せた。
イリハとは、そういう性格の天狐なのである。
少なくとも、本人的には。
〇
それから、イリハの生活は一変した。
まず、寒さを凌げる服を用意され、やけに上等な部屋をあてがわれ、かと思えば普段食べているものとは比較にならないほど美味しい飯を食べる事となった。
久しぶりに食べた白米には、しっかりと味があった。湯舟に浸かると、身体の毒素が抜けていく心地がした。そして、実家にも無かったふかふかの布団に入ると、イリハは未来を杞憂する間もなく眠る事ができた。
まるで、
「いいかイリハ。イシグロ様が迎えに来るまで、絶対に死ぬんじゃねぇぞ」
「は、はい……!」
翌日以降も、ゴロキチは過剰な程にイリハを厚遇した。
壊れ物を扱うように、毎日医師を呼んでイリハの健康を診断させていた。あまつさえ屋敷内にいるイリハに護衛までつける過保護ぶり。物扱いは変わらないが、かつてのソレとは雲泥の差である。
広い部屋に一人で過ごしていると、何だかフワフワと現実感が薄れていくようだった。本当に迎えに来るのか。いやいや、必ず来る。憂慮を奮起で抑え込み、イリハは徐々に本来の人格を取り戻していった。
「イリハさん、身体の調子はどうですか?」
イシグロもイシグロで、イリハの様子を頻繁に見に来ていた。
イリハ視点、それは購入予定の道具をチェックしているようだったが、後にして思うとそれだけではないような気がしてならなかった。
「おいッス~、今日もお土産持ってきたッスよ~」
「ずっと此処にいると暇でしょう? 文字は読めると聞いたから、色々と持ってきたわよ」
「はい、どうぞ。この“獣拳記”がボクのオススメです。ぜひ感想を聞かせてください!」
「皆様、ありがとうございます……」
見舞いの間、主人候補は自身が所有する奴隷とも親交を取るように仕向けてきた。
少し戸惑ってしまったが、道具同士不和は無い方がいいだろうと思い、イリハは本性を隠して対応した。
そう、あくまで表の人格は隠し通すつもりなのである。それは偏に、イリハは自分の事を身も心も醜い存在と自認していたからだ。
イリハの自己認識は複雑だ。彼女は自分の事を尊き血を引く高貴な天狐と思い込んでいるが、それはそれとして自身の見目や内面は酷く醜く、母以外の他者からは疎ましく映るものであると思っているのだ。
故に、隠すのだ。嫌われぬよう、捨てられぬよう。隠して、騙すのである。
「って感じッスね! そっから、ご主人は“ラリスの剣豪”って呼ばれるようになったんス!」
「割と恥ずかしいよね。自称はできないかなー」
「ふふっ、イシグロ様は謙虚な方なのですね……」
この時、イリハはある計画を企てていた。
その名も、“房中術でイシグロをメロメロにしてわしが頂点に立つ作戦”である。
既に覚悟は決めている。イシグロと交わうのは承知の上。しかし、主導権を握るのはあくまでイリハ。そういう作戦である。
イリハは天狐である。仙氣眼持ちの天才で、卓越した陰陽術の使い手だ。
房中術も、まぁやった事はないが人間より上手く使えるはずだ。それを用いてイシグロの氣を利用して己を高め、あわよくばイシグロを快楽の虜にし、篭絡してやろうと思ったのだ。
そうすれば、ただの道具にはならない。奴隷の中でも頂点に立ち、ゆくゆくはイシグロを顎で使える存在に成り上がるつもりなのである。
(クックックッ……待っておるがよい人間め。すぐに手玉に取ってやるのじゃ)
イリハは狐だが、狸の皮算用をしていた。
まぁ頑張れ、と言っておこう。
それから、数日後……。
「身請けの準備が整いました。明日の朝、お迎えに上がる予定です」
その報告を聞いて、ちょっと早すぎない? と思いつつ、ついに来たかと心の帯を締め直した。
イリハはどこぞの新世界の神のようなゲス笑いを隠し、ここで嘘泣きをしてみせた。
するとイシグロは目に見えて動揺して、竜族奴隷に命じて回復魔法をかけてくれた。これを受けると気分が良い。
「本当に、本当に何とお礼を言えば良いか……。私めのような下賤の者を身請けして頂けるなど、感謝の極みにございます……」
最後に恭しく首を垂れてやれば、アホなイシグロ達は帰って行った。
計画の一歩目は成功と見ていいだろう。何をするにしても、身請けされないと始まらないのだから。
「さて……」
とはいえ、だ。
明日になれば、この悪趣味で気色悪い忌まわしき屋敷ともおさらばである。
イリハは唯一の手荷物である母の鏡を風呂敷に包み、明日に備えて早く寝る事にした。
不安半分、高揚半分と言ったところ。
布団の中、イリハはそわそわしながら眠りについた。
ガチャリ。
扉の鍵が開く音。物音に気が付き、イリハは寝ぼけ眼のまま目を覚ました。
部屋は薄暗く、時間はまだ未明。遊女達の仕事が終わり、多くの住民が眠っている頃。
眠らない都、カムイバラが眠る時である。
「なんじゃ……?」
そんな時間に、何処の誰が何用だろう。ゴロキチが最後の仕事を命じるとか、そういうのだろうか。
ゆっくりと上体を起こそうとした、その時だ。
「んぐッ……!?」
首に、ほんの一瞬の痛みを感じた。
イリハは訳も分からぬまま首を絞められ、気を失った。
「浪人というのは、より稼げる仕事をするものなのだ。愚かな主人に仕える、哀れな仔狐よ……」
意識が途切れる寸前、聞き覚えのある声が聞こえた。
〇
瞼の裏、少し離れたところで人の話し声が聞こえる。
男と女。騒いでいる訳でもないが、音だけはやけに鮮明だった。
ハッと、イリハは目を覚ました。
天井が遠い。薄暗くて、広い部屋だ。視界の隅に火の光。仰向けのまま首を動かすと、沢山の蝋燭に囲まれている事が分かった
蝋燭の外側に、複数の人影があった。光の関係でしっかりとは見えないが、彼等の声だろう。男が二人、女が一人。あと、さらに奥の方に大きな影。
「な……?」
じゃらりと鎖の音。手首に圧迫感、ひとまず上体を起こそうとしたイリハだったが、手足には錠がかけられていて台に固定されていた。
大の字のまま、身動きが取れない。冷静さを失ったイリハはなおも身をよじり、じゃらじゃらと音を鳴らしてしまった。
「どうやら目覚めたようだな」
イリハの覚醒に気づいて、三対の瞳がイリハを見た。まるで野山の獣に睨まれたように、イリハは動けなくなってしまった。
言いながら、影の奥から一人の大男が歩み寄ってきた。男は狼人だった。上半身裸で、身体の至る所に入れ墨が彫ってあった。
無意識に魔眼が発動する。男の氣を見て、イリハは愕然とした。イシグロよりも氣が多く、目を焼く程に眩い光を放っている。
「ねえ、お薬ちゃんと使ったの?」
もう一人、今度は妙齢の美女が現れた。
紫の髪と朱色の眼。蝋燭に照らされた肌は死体のように青白く、人間らしい生気が感じられない。いやらしく笑う唇の隙間に、鋭く尖った犬歯が見える。吸血鬼だ。
彼女の氣は歪で、色んな色が混ざって複雑な形になっていた。
「血の巡りの問題だと思うがな。まぁ、声を出しても何処にも届かぬよ」
そして最後、鬼人の男がくつくつと笑う。
その顔には見覚えがあり、その声には聞き覚えがある。鬼人の彼は、イリハの護衛だった。
話した事はなかったが、いつも部屋の前にいて……イリハの首を絞めた張本人である。
「ひぃ……!」
イリハは身を引こうとして、できなかった。冷たい鎖の音がやけに響く。目を逸らすように、魔眼を引っ込めた。
彼等全員を見て、怖気が走ったのだ。仙氣眼なしでも分かる。こいつらは、まともではない。
証拠がある訳でもない、理由も特にない。強いていうなら、その眼だ。極端に濁っているかと思えば、異常な程に澄んでいる。
狼人も、吸血鬼も、鬼人も、イリハを見ているようで見ていない。何か別のどこかを見ていて、今ここに居た。
会話はできても話は通じない。人生経験の乏しいイリハにさえ、そう確信できる異様さが感じ取れる者達だった。
「ふふふっ……この子、怯えているわ。可愛いわ、可愛いわ、食べちゃいたいくらい……。ねえ、少しくらい先に貰ってもいいかしら?」
「駄目に決まってるだろう。商品に傷をつけるな。契約を守れ」
「ちぇ~、こんなの生殺しじゃないの~」
「それに、契約に反した場合は強制的に呪いをかけられる。貴様にはその覚悟があるのか?」
「分かってるけどぉ、こんな顔されたら我慢できなくなっちゃうわ。早く終わらせてほしいわね……」
言って、吸血鬼女は死人のような白い手でイリハの頬を撫でた。
ぞわりと、悪寒が走り、鳥肌が立った。顔を背けて身をよじるも、女はそんなイリハの反応を愉しんでいるようだった。
「とはいえ、此奴は陰陽術の使い手だ。大丈夫だとは思うが、何をしでかすか分からぬ。時が来るまで今一度眠らせるのはどうだ?」
「それもダメだ。施術は起きていないとできない。用意もない。このまま起こしておく方が手早く済むだろう」
「じゃあ、それまで遊んでもいいわよね。ふふっ、血色が良いわねぇ……」
声も出せず震えるイリハを囲んで、三人は存外親密そうに話していた。
しかし、彼らの間からは剣呑な雰囲気が抜けなかった。イリハにというより、この場の全員が全員に対して、敵意や害意というものが明け透けだった。
「随分と賑やかだニャ~。ここは宴会会場か何かなのかニャ?」
そこに、艶めかしい女の美声が響き渡る。三人は会話を止め、声の方を見た。
カラン、コロンという下駄の音。暗い影の中から、更なる漆黒が這い出てきた。
「あら、もう起きてたのかニャ」
ヒトガタの闇の如き、黒髪の女だった。
陰陽術師の衣装を着崩し、胸元を大胆にはだけている。彼女の頭には猫人の耳があり、背後に三本の尻尾が見えた。
「ね、猫又……?」
いや、違う。猫又は二股に分かれた尻尾が特徴のはず。この女の尻尾は三つだ。
恐怖心がそうさせたのか。イリハは無意識に魔眼を再度発動した。
次の瞬間である。
「んぐっ……!?」
強烈な吐き気に見舞われ、イリハはすんでのところで嘔吐を耐えた。
イリハに見えた氣の世界。猫又の女の身体は、支離滅裂な構造をしていた。
凡そ生物にはありえない、多種多様に過ぎる氣の光。女の内側は、まるで絵画の顔料を適当にぶちまけたような混沌極まる色をしていた。
この女は人類ではない。そのように感じ取った。
「ニャフフ~♪ さっそく視てくれたのかニャ? どうかニャ? 妾の身体、綺麗でしょう?」
「は、ひっ……?」
カラン、コロン。
下駄を鳴らして、黒い女が歩み寄ってくる。そうして、女はイリハの眼を覗き込んできた。
彼女の瞳には、ゆらゆらと揺れる青い火が燃えていた。否、そう錯覚させる程、この女には得体の知れない情念が渦巻いているように見えたのだ。
「うんうん♪ 情報通り、正真正銘の仙氣眼♪ これなら大丈夫ニャ♪」
かと思えば、一転笑顔になって離れた。
その笑みは純朴な町娘のように無邪気で、何の屈託も無かった。
「確認が済んだなら早く済ませろ」
「分かってるニャン♪ さぁて、気合入れていくニャよ~♪」
言うと、収納魔法に手を突っ込んだ女は、いくつかの木箱を取り出した。
開閉し、台の上に道具を並べていく。その動きは手慣れていて、熟練を感じさせた。
「約束通り、終わったらこの娘は貰っていいのよね?」
「構わないニャ。抜け殻なんて興味ないのニャ」
「まぁ! 早くして頂戴! そろそろ我慢の限界なのよ!」
「小生からも、迅速に終わらせる事をお勧めする」
「そう焦るニャ。急ぎはするけど、施術に焦りは禁物ニャ。ほら、集中できないから遠く行ってろニャ」
清潔な手拭。筆のような小刀。純度の高い酒。
何事か書かれた紙札の束。透明な容器に、ドス黒い水。そして、銀色の匙。
かたん、と。全ての道具を並べ終えると、漆黒の女は再びイリハを見下ろした。その顔は、にんまりと笑っていた。
女の手に、一本の針があった。
「お待たせ。イリハちゃん♪」
声をかけられた。それだけで、イリハの身体は恐怖のあまり硬直した。カチカチと歯が鳴って、我知らず目から涙が溢れた。
喉が凍えて言葉を発せないイリハに、女は楽しげに続けた。
「まぁこれから死ぬ子に説明する意味とか無いんだけどニャ。一応の礼としてニャ」
プスリ、と。無造作な手つきで、イリハの左腕に針が突き刺された。
激痛。しかし、不可思議にも声は出なかった。身体が跳ねて、涙が溢れる。
「この針はイリハちゃんの動きを封じる為の呪具ニャ。何でこんなのを使うかっていうとね。陰陽術とか呪術とか術式の関係で、貴女には施術中は起きてて貰わないといけないのニャ」
プスリ、プスリ……。作業のように、右腕に五本の針が突き刺される。
激痛が迸り、イリハは刺される都度に気を失いそうになった。
「ホントはこういう事するの趣味じゃないんだけどニャ~。今ちょっと急いでて、イリハちゃんが泣き叫ぶトコ見てあげられないの。ごめんニャ?」
台の反対側に移動した女は、今度は左腕に針を打っていった。
「あ、そうそう。今から何の施術をするかっていうとニャ……」
全ての針を打ち終えると、女は再度イリハの顔を覗き込む。
それから、嗜虐心に満ちた笑みを浮かべてみせ、云った。
「その眼、抉り取るんだニャ♪」
一瞬、言っている意味が理解できなかった。
眼を抉り取る? 何の為に? 意味が分からない。全く理解できない。本当に、この眼を? 生きたまま?
それの、何が楽しいというのだ? 何故、そんな笑顔を浮かべられる?
言葉を咀嚼し終えると、イリハの心胆は凍り付いた。それは、殺されるよりも遥かに残酷な事のように思えた。
藻掻こうと思っても、身体は全く動かない。手も足も、声も口も瞼でさえ、突き刺された針によって封じられていた。
「ニャフフフ♪ 良い顔ぉ♪ あー、時間さえあればもっとじっくりできるんだけどニャー」
「おい」
「おっと、そうだったニャ」
言うと、女はごく小さな小刀を手に取った。鋭利な刃が蝋燭の火を反射する。
「では、これより……。仙氣眼の摘出手術を始めるニャ♪」
切っ先が迫る。まずは瞼を切り取るつもりなのだ。
心だけが震え、身体は弛緩している。生理的な震えでさえ、針で以て封じられていた。目を閉じたいのに、それすらできない。
イリハは心を閉ざそうとして、それさえも出来なかった。諦観も、絶望も、今は隣人ではなくなっていたのだ。
蝋燭に照らされた銀色の刃が、ゆっくりゆっくりと迫りくる。
その時、イリハは過去を思い出していた。
故郷での母との暮らし。
奴隷となってからの日々。
身請けをすると言ってきた男の笑顔。
――いつか、イリハに大切な者が出来た時、そうしたらな……思いっきり愛してやるのじゃ。
母の声が、聞こえた気がした。
結局、母以外にイリハを愛してくれる者など、現れる事はなかった。
いつか。いつかはと、そう思っていた時期もある。だが、最後の最後まで巡り合う事はなかった。
好きになった人も、愛したいと思った者もいない。誰もイリハを愛さない。
死にたくない。愛されたい。
褒めてほしい。認めて欲しい。
せめて一度だけでも、愛し合ってみたかった。
(このまま死ぬなんて嫌じゃ! まだ何もしてない! 死にたくない! お母さん! 誰か助けて……!)
今際の際、イリハはこれまでに一度として、誰にも届いた事のない本心を叫んだ。
その時である!
ドガァアアアアアン!
一条の光が落ち、天井に穴が開く。破砕、轟音、空間が揺れる。
その場の全員が身構え、漆黒の女もまた手術を止めて音の方を見た。
舞い落ちる埃の中、穴の真下に一人の男がいた。
「くぉ!?」
「ぎゃ!?」
瞬間である。姿勢を低くした影は、間にいた鬼人と吸血鬼を跳ねのけイリハ目掛け突撃!
「最悪ニャーッ!」
イリハの前にいた猫人が掌で結界を張ると、男は力任せの横薙ぎで弾き飛ばした! 猫女は結界ごと壁に激突!
刹那のうちに四閃。瞬く間に拘束を解き、イリハを抱え退避。逃げようとしたところに、狼人が立ちふさがり方向転換。
壁を背にする所で、まるでお姫様にそうするように下ろされるイリハ。いつの間にか針が抜けていて、空いた穴に回復魔法がかけられていた。
そして、イリハを背にして、謎の男はこの場の敵全員と相対した。
「い、イシグロ様……?」
イリハ視点では、男の背中しか見えない。
地味な革鎧に、黒い髪。それから、鈍く光る黒の剣を握っている。
見慣れた訳でもない。けれど、彼の背格好には覚えがあった。
ほんの一瞬、イシグロが振り返る。黒い瞳と目が合った。
「……安心してくれ」
再度、敵を見据え、イリハのご主人様候補は剣を構えた。
「君を助けにきたんだ」
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