幸太郎は一瞬、言葉を失った。
目の前の明は、いつもの調子で笑っている。
夜の街灯の下で、コンビニのビニール袋を揺らしながら、まるで何もかもが普通の夜であるかのように。
「……お前、こんな時間に何してんだよ」
幸太郎の声は掠れていた。人間の姿に戻ったとはいえ、頬に残る赤い涙の跡はまだ消えていない。服は破れ、血と泥と何か得体の知れない体液で汚れている。こんな姿で親友の前に立っている自分が、急に滑稽に思えた。
「ん? 俺? さっきバイト終わって、腹減ったからチャーシューメン買って帰るとこ。……てかマジでどうしたの? 喧嘩? いや、喧嘩ってレベルじゃねぇだろこれ」
明は袋を地面に置くと、すぐに幸太郎の顔を両手で挟んでまじまじと見た。
心配そうな目。
でも、そこには非難も軽蔑もなかった。ただ純粋に「大丈夫か?」という色だけ。
「…なんでもねぇよ」
「嘘つけ。目が死んでる」
明はため息をついて、自分のジャージの袖で幸太郎の頬を拭った。赤い線が少しだけ薄くなる。
「とりあえず俺ん家来いよ。風呂入れよ、血の匂いキツいぞ。親ももう寝てるからバレねぇって」
幸太郎は反射的に首を振った。
「いい。俺は——」
「いいから来いって」
明の手が、幸太郎の腕を掴む。
強くも弱くもなく、ただ「逃がさない」という確かな力で。
「…お前さ、いつもそうやって俺のこと放っとかねぇよな」
幸太郎は小さく吐き捨てるように言った。
でも足は、すでに明の後ろをついて歩き始めていた。
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明の部屋は相変わらず散らかっていた。
床には漫画が山積みで、机の上には開きっぱなしのノートパソコンとエナドリ缶。
でもその雑然とした空間が、今の幸太郎には妙に安心できた。
風呂から上がると、明が差し出したTシャツとスウェットは少し大きめだった。
明の匂いがする。
柔軟剤と、ほんの少しタバコの残り香。
嫌いじゃなかった。
「はい、チャーシューメン半分こ」
レンジで温め直した丼を二つ、ちゃぶ台の上に置く。
幸太郎は無言で箸を取った。
スープを一口啜ると、濃厚な白湯の味が喉を通って、ようやく自分が生きている実感が戻ってきた。
「……鈴鹿がさ」
ぽつり、とこぼれた言葉に、明の手が止まる。
「まだ、あいつの側にいる。御門の側に」
「そっか」
明はそれだけ言って、黙って麺を啜った。
責めない。
「だから言っただろ」とも言わない。
「俺、あいつをまた殺そうとした。
今度こそ、完全に、殺そうとしたんだ」
「……で?」
「できなかった。
姉ちゃんが、止めた。
最後まで、あいつの味方だった」
幸太郎の箸が止まる。
丼の中に、赤い脂が浮かんでいるのが見えた。
血の色に似ていた。
明は静かに息を吐いて、幸太郎を見た。
「なぁ、幸太郎」
「……なんだよ」
「お前が姉ちゃんをどれだけ大事にしてたか、俺は知ってる。
でもさ——
お前が今ここにいて、俺の目の前にいるってことは、
まだ終わってないってことだろ?」
幸太郎は顔を上げた。
「終わってねぇって……何がだよ」
「全部」
明はにっと笑った。
いつもの、ちょっと馬鹿っぽい、でもどこか強い笑顔。
「お前がまだ諦めてない限り、終わってない。
鈴鹿さんが誰を選ぼうが、御門がどんな化け物だろうが、
お前が『もういいや』って思わない限り、終わんねぇよ」
幸太郎の胸の奥で、何かが軋んだ。
「…お前、簡単に言うなよ」
「簡単じゃねぇよ。
俺だって怖ぇよ。
お前がこんなボロボロになって帰ってきて、
いつか本当にいなくなっちまうんじゃないかって、毎日ビビってる」
明の声が、少しだけ震えていた。
「でも俺は、お前が諦めなきゃ、俺も諦めねぇ。
一緒に、なんとかする。
鈴鹿さん取り戻すのだって、御門ぶっ潰すのだって、
全部、俺も一緒にやるから」
幸太郎は丼を見つめたまま、長い間黙っていた。
やがて、ゆっくりと呟く。
「……お前、ほんと馬鹿だな」
「知ってる」
明は笑った。
「でも、お前が好きだから仕方ねぇじゃん」
幸太郎は箸を置いて、顔を覆った。
指の隙間から、赤い涙がまた一筋、こぼれた。
「……ありがとな、明」
「ん? 聞こえねぇ」
「うっせぇ! ありがとって言ってんだよ!」
明は大声で笑った。
その笑い声が、夜の部屋に響いて、
少しだけ、血と呪いの匂いを薄めてくれた。
雨は止む気配もなく、窓ガラスを叩き続けていた。
明の部屋のちゃぶ台には、空になった丼が二つ並んでいる。
幸太郎は膝を抱えて壁に背を預け、ぼんやりと天井を見上げていた。
明はベッドに寝転がってスマホをいじりながら、時々チラチラと幸太郎の様子を窺っている。
「なぁ」
明が先に口を開いた。
「鈴鹿さん、今どこにいるかわかんねぇの?」
「……わかんねぇ。あいつら、毎回場所変える。
今夜はあの廃ビルの辺りだったけど、もう移動してるだろ」
「そっか」
明はスマホを放り投げて、起き上がった。
「じゃあさ。
とりあえず、お前が今一番やりたいことって何?」
幸太郎は即答できなかった。
やりたいこと。
そんなものがまだ残っているのか、自分でもわからなかった。
「……鈴鹿を、連れ戻したい」
「うん」
「でも、連れ戻したって、また御門のところに戻るかもしれない。
あいつ、姉ちゃんのこと完全に洗脳してるか、依存させてるか……どっちにしろ、
俺がいくら殴っても、殺しても、姉ちゃんはあいつの側を選ぶ」
「それでも連れ戻したい?」
幸太郎は唇を噛んだ。
「……したい。
たとえ一瞬でも、俺の側にいてくれたら、それでいい」
明は少し考えてから、ゆっくり頷いた。
「じゃあ、そこから始めようぜ」
「は?」
「『一瞬でも俺の側にいてくれたら』ってゴールから逆算すんだよ。
お前が今までやってきたのは、御門を殺すことだったろ?
でもそれじゃ鈴鹿さんは戻ってこねぇ。
だったら、殺す以外の方法を考えよう」
幸太郎は呆れたように明を見た。
「お前……何言ってんだよ。
あいつはもう人間じゃねぇ。蛟だぞ。呪いの塊だ。
話し合いとか、そういう次元じゃ——」
「知ってるよ」
明は遮るように言った。
「だからこそ、俺がいる意味があるんじゃねぇの?
お前は化け物になっちまう。
俺はまだ、人間のままだから」
幸太郎の目がわずかに見開かれた。
「まさか……お前、俺の代わりに御門と話す気か?」
「話すだけじゃねぇよ。
騙す。
誘導する。
必要なら、裏切る。
ハニートラップでもなんでもいい。
お前が『姉ちゃんを一瞬でも俺の側に』って思ってるなら、
俺はその一瞬を作るために動く」
幸太郎は立ち上がった。勢い余ってちゃぶ台がガタンと鳴る。
「ふざけんな!
お前まで巻き込むわけにはいかねぇ!
あいつに近づいたら、絶対に——」
「巻き込まれてるよ、もう」
明は静かに、でもはっきりと遮った。
「お前がこうやって俺の部屋に来た時点で、俺はもう外野じゃねぇ。
お前が一人で抱えて死ぬのを、黙って見てられるわけねぇだろ」
幸太郎は拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。
「……お前が死んだら、俺は」
「じゃあ死なせねぇようにすればいいじゃん」
明は立ち上がって、幸太郎の肩を軽く叩いた。
「俺だってビビってるよ。
蛟とか、蠱毒の生き残りとか、マジでヤバいってわかってる。
でもさ、お前が『鈴鹿さんを』って本気で思ってる顔見たら、
俺もなんか……置いてかれそうで嫌なんだよ」
雨音だけが部屋に響く。
幸太郎は長い息を吐いて、ゆっくりと明を見た。
「……お前、本当に馬鹿だな」
「三回目だぞ、それ」
明は笑った。
「で、どうすんの?
とりあえず寝る?
それとも、今から作戦会議する?」
幸太郎は少し考えてから、口の端をわずかに上げた。
それは、泣き笑いとも、諦めとも、決意ともつかない表情だった。
「作戦会議……か。
お前みたいな凡人が、呪いの家系の化け物相手に何ができるってんだよ」
「凡人だからこそ、化け物が予想しないことできるんじゃね?」
明は机の引き出しからノートとボールペンを取り出した。
「ほら、座れよ。
まずは情報整理からだ。
鈴鹿さんが御門に依存してる理由、
御門が鈴鹿さんを手放さない理由、
お前が変身する条件、
全部書き出そうぜ」
幸太郎はしばらく動かなかったが、
やがてゆっくりとちゃぶ台の前に座り直した。
「……お前が死んだら、俺は本当に終わるからな」
「わかってる」
明はペンのキャップをカチッと外した。
「だから、死なねぇようにする」
雨はまだ降り続いていた。
でも、二人の間には、ほんの少しだけ、
血と呪いの匂いを上書きするような、
温かい空気が流れ始めていた。