【完結】白光のブレイズマン   作:ふくつのこころ

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トラツグミの夜とコドクの壺:03

幸太郎は一瞬、言葉を失った。

 

目の前の明は、いつもの調子で笑っている。

夜の街灯の下で、コンビニのビニール袋を揺らしながら、まるで何もかもが普通の夜であるかのように。

 

「……お前、こんな時間に何してんだよ」

 

幸太郎の声は掠れていた。人間の姿に戻ったとはいえ、頬に残る赤い涙の跡はまだ消えていない。服は破れ、血と泥と何か得体の知れない体液で汚れている。こんな姿で親友の前に立っている自分が、急に滑稽に思えた。

 

「ん? 俺? さっきバイト終わって、腹減ったからチャーシューメン買って帰るとこ。……てかマジでどうしたの? 喧嘩? いや、喧嘩ってレベルじゃねぇだろこれ」

 

明は袋を地面に置くと、すぐに幸太郎の顔を両手で挟んでまじまじと見た。

心配そうな目。

でも、そこには非難も軽蔑もなかった。ただ純粋に「大丈夫か?」という色だけ。

 

「…なんでもねぇよ」

 

「嘘つけ。目が死んでる」

 

明はため息をついて、自分のジャージの袖で幸太郎の頬を拭った。赤い線が少しだけ薄くなる。

 

「とりあえず俺ん家来いよ。風呂入れよ、血の匂いキツいぞ。親ももう寝てるからバレねぇって」

 

幸太郎は反射的に首を振った。

 

「いい。俺は——」

 

「いいから来いって」

 

明の手が、幸太郎の腕を掴む。

強くも弱くもなく、ただ「逃がさない」という確かな力で。

 

「…お前さ、いつもそうやって俺のこと放っとかねぇよな」

 

幸太郎は小さく吐き捨てるように言った。

でも足は、すでに明の後ろをついて歩き始めていた。

 

---

 

明の部屋は相変わらず散らかっていた。

床には漫画が山積みで、机の上には開きっぱなしのノートパソコンとエナドリ缶。

でもその雑然とした空間が、今の幸太郎には妙に安心できた。

 

風呂から上がると、明が差し出したTシャツとスウェットは少し大きめだった。

明の匂いがする。

柔軟剤と、ほんの少しタバコの残り香。

嫌いじゃなかった。

 

「はい、チャーシューメン半分こ」

 

レンジで温め直した丼を二つ、ちゃぶ台の上に置く。

幸太郎は無言で箸を取った。

スープを一口啜ると、濃厚な白湯の味が喉を通って、ようやく自分が生きている実感が戻ってきた。

 

「……鈴鹿がさ」

 

ぽつり、とこぼれた言葉に、明の手が止まる。

 

「まだ、あいつの側にいる。御門の側に」

 

「そっか」

 

明はそれだけ言って、黙って麺を啜った。

責めない。

「だから言っただろ」とも言わない。

 

「俺、あいつをまた殺そうとした。

 今度こそ、完全に、殺そうとしたんだ」

 

「……で?」

 

「できなかった。

 姉ちゃんが、止めた。

 最後まで、あいつの味方だった」

 

幸太郎の箸が止まる。

丼の中に、赤い脂が浮かんでいるのが見えた。

血の色に似ていた。

 

明は静かに息を吐いて、幸太郎を見た。

 

「なぁ、幸太郎」

 

「……なんだよ」

 

「お前が姉ちゃんをどれだけ大事にしてたか、俺は知ってる。

 でもさ——

 お前が今ここにいて、俺の目の前にいるってことは、

 まだ終わってないってことだろ?」

 

幸太郎は顔を上げた。

 

「終わってねぇって……何がだよ」

 

「全部」

 

明はにっと笑った。

いつもの、ちょっと馬鹿っぽい、でもどこか強い笑顔。

 

「お前がまだ諦めてない限り、終わってない。

 鈴鹿さんが誰を選ぼうが、御門がどんな化け物だろうが、

 お前が『もういいや』って思わない限り、終わんねぇよ」

 

幸太郎の胸の奥で、何かが軋んだ。

 

「…お前、簡単に言うなよ」

 

「簡単じゃねぇよ。

 俺だって怖ぇよ。

 お前がこんなボロボロになって帰ってきて、

 いつか本当にいなくなっちまうんじゃないかって、毎日ビビってる」

 

明の声が、少しだけ震えていた。

 

「でも俺は、お前が諦めなきゃ、俺も諦めねぇ。

 一緒に、なんとかする。

 鈴鹿さん取り戻すのだって、御門ぶっ潰すのだって、

 全部、俺も一緒にやるから」

 

幸太郎は丼を見つめたまま、長い間黙っていた。

 

やがて、ゆっくりと呟く。

 

「……お前、ほんと馬鹿だな」

 

「知ってる」

 

明は笑った。

 

「でも、お前が好きだから仕方ねぇじゃん」

 

幸太郎は箸を置いて、顔を覆った。

指の隙間から、赤い涙がまた一筋、こぼれた。

 

「……ありがとな、明」

 

「ん? 聞こえねぇ」

 

「うっせぇ! ありがとって言ってんだよ!」

 

明は大声で笑った。

その笑い声が、夜の部屋に響いて、

少しだけ、血と呪いの匂いを薄めてくれた。

 

 

 

 雨は止む気配もなく、窓ガラスを叩き続けていた。

 

明の部屋のちゃぶ台には、空になった丼が二つ並んでいる。

幸太郎は膝を抱えて壁に背を預け、ぼんやりと天井を見上げていた。

明はベッドに寝転がってスマホをいじりながら、時々チラチラと幸太郎の様子を窺っている。

 

「なぁ」

 

明が先に口を開いた。

 

「鈴鹿さん、今どこにいるかわかんねぇの?」

 

「……わかんねぇ。あいつら、毎回場所変える。

 今夜はあの廃ビルの辺りだったけど、もう移動してるだろ」

 

「そっか」

 

明はスマホを放り投げて、起き上がった。

 

「じゃあさ。

 とりあえず、お前が今一番やりたいことって何?」

 

幸太郎は即答できなかった。

やりたいこと。

そんなものがまだ残っているのか、自分でもわからなかった。

 

「……鈴鹿を、連れ戻したい」

 

「うん」

 

「でも、連れ戻したって、また御門のところに戻るかもしれない。

 あいつ、姉ちゃんのこと完全に洗脳してるか、依存させてるか……どっちにしろ、

 俺がいくら殴っても、殺しても、姉ちゃんはあいつの側を選ぶ」

 

「それでも連れ戻したい?」

 

幸太郎は唇を噛んだ。

 

「……したい。

 たとえ一瞬でも、俺の側にいてくれたら、それでいい」

 

明は少し考えてから、ゆっくり頷いた。

 

「じゃあ、そこから始めようぜ」

 

「は?」

 

「『一瞬でも俺の側にいてくれたら』ってゴールから逆算すんだよ。

 お前が今までやってきたのは、御門を殺すことだったろ?

 でもそれじゃ鈴鹿さんは戻ってこねぇ。

 だったら、殺す以外の方法を考えよう」

 

幸太郎は呆れたように明を見た。

 

「お前……何言ってんだよ。

 あいつはもう人間じゃねぇ。蛟だぞ。呪いの塊だ。

 話し合いとか、そういう次元じゃ——」

 

「知ってるよ」

 

明は遮るように言った。

 

「だからこそ、俺がいる意味があるんじゃねぇの?

 お前は化け物になっちまう。

 俺はまだ、人間のままだから」

 

幸太郎の目がわずかに見開かれた。

 

「まさか……お前、俺の代わりに御門と話す気か?」

 

「話すだけじゃねぇよ。

 騙す。

 誘導する。

 必要なら、裏切る。

 ハニートラップでもなんでもいい。

 お前が『姉ちゃんを一瞬でも俺の側に』って思ってるなら、

 俺はその一瞬を作るために動く」

 

幸太郎は立ち上がった。勢い余ってちゃぶ台がガタンと鳴る。

 

「ふざけんな!

 お前まで巻き込むわけにはいかねぇ!

 あいつに近づいたら、絶対に——」

 

「巻き込まれてるよ、もう」

 

明は静かに、でもはっきりと遮った。

 

「お前がこうやって俺の部屋に来た時点で、俺はもう外野じゃねぇ。

 お前が一人で抱えて死ぬのを、黙って見てられるわけねぇだろ」

 

幸太郎は拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。

 

「……お前が死んだら、俺は」

 

「じゃあ死なせねぇようにすればいいじゃん」

 

明は立ち上がって、幸太郎の肩を軽く叩いた。

 

「俺だってビビってるよ。

 蛟とか、蠱毒の生き残りとか、マジでヤバいってわかってる。

 でもさ、お前が『鈴鹿さんを』って本気で思ってる顔見たら、

 俺もなんか……置いてかれそうで嫌なんだよ」

 

雨音だけが部屋に響く。

 

幸太郎は長い息を吐いて、ゆっくりと明を見た。

 

「……お前、本当に馬鹿だな」

 

「三回目だぞ、それ」

 

明は笑った。

 

「で、どうすんの?

 とりあえず寝る?

 それとも、今から作戦会議する?」

 

幸太郎は少し考えてから、口の端をわずかに上げた。

それは、泣き笑いとも、諦めとも、決意ともつかない表情だった。

 

「作戦会議……か。

 お前みたいな凡人が、呪いの家系の化け物相手に何ができるってんだよ」

 

「凡人だからこそ、化け物が予想しないことできるんじゃね?」

 

明は机の引き出しからノートとボールペンを取り出した。

 

「ほら、座れよ。

 まずは情報整理からだ。

 鈴鹿さんが御門に依存してる理由、

 御門が鈴鹿さんを手放さない理由、

 お前が変身する条件、

 全部書き出そうぜ」

 

幸太郎はしばらく動かなかったが、

やがてゆっくりとちゃぶ台の前に座り直した。

 

「……お前が死んだら、俺は本当に終わるからな」

 

「わかってる」

 

明はペンのキャップをカチッと外した。

 

「だから、死なねぇようにする」

 

雨はまだ降り続いていた。

でも、二人の間には、ほんの少しだけ、

血と呪いの匂いを上書きするような、

温かい空気が流れ始めていた。

 

 

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