原付のエンジン音が山道を切り裂くように響く中、幸太郎はハンドルを握りしめていた。背中に感じる鈴鹿の体温が、唯一の現実感だった。姉の腕が腰に回され、顔を背中に押しつける感触。泣いているのか、震えているのか、それともただ放心しているのか——わからない。でも、今はそれでいい。連れ出せた。それだけで。
「姉ちゃん……もう少しだ。街まで降りたら、明の奴も追いついてくるはず」
声に出して自分を落ち着かせようとしたが、喉がカラカラだ。風が湿気を帯びていて、さっきまでの雨の匂いがまだ残っている。後ろを振り返る余裕はない。十邸の方向から、何か黒いものが這い上がってくるような錯覚が何度も襲ってくる。
鈴鹿が小さく呟いた。
「……ごめん、幸太郎」
声が掠れている。幸太郎は首を振った。
「謝らなくていい。全部、俺が守るから」
本当は怖かった。御門の最後の咆哮が耳に残っている。あの声は人間のものじゃなかった。完全に蛟のものだった。
そして——明はまだあの屋敷にいる。
約束したはずだ。俺は変身しない。明を信じるって。
でも、心の奥底で何かがうねり始めていた。
(明……無事か?)
胸の奥が熱い。いや、熱いというより、焼けるように疼く。まるで何かが内側から叩き割ろうとしているみたいに。
原付がカーブを曲がった瞬間、背後から爆音が響いた。
ドオオオオン!
山全体が揺れたような衝撃。幸太郎は思わずブレーキを踏み、原付が横滑りしながら停止した。
振り返る。
十邸の方向——山の稜線に、黒い煙が立ち上っている。いや、煙じゃない。あれは……炎と毒霧が混じり合った、禍々しい靄だ。
そして、その靄の中心から、何かが飛び出してきた。
巨大な影。蛟の姿をした御門が、屋敷の屋根を突き破って空に舞い上がっていた。体長は三十メートルはあろうかという、漆黒の鱗に覆われた蛇のような怪物。角が生え、髭が風に靡き、口から滴る毒液が地面に落ちるたび、草木が腐食して煙を上げている。
その巨体が、こちらを睨みつけている。
「逃がさん……!」
声が空気を震わせる。低く、腹の底から響く咆哮。
そして——御門の尾が、ブレイズマンを掴んでいた。
明だ。
白い炎を纏ったブレイズマンの体が、蛟の尾に締め上げられ、鱗に食い込むように血を流している。炎が弱まっている。明の変身が、限界に近づいている証拠だ。
「明ぃっ!!」
幸太郎の叫びが、山に木霊した。
鈴鹿が背中から顔を上げ、息を呑む。
「……明くん……」
その瞬間、幸太郎の視界が赤く染まった。
胸の奥で、何かが弾けた。
(ダメだ……約束なんて……)
熱が全身を駆け巡る。皮膚が焼けるように熱い。骨が軋み、筋肉が膨張する感覚。視界の端が白く霞み、耳鳴りがする。
「う……あぁぁ……!」
幸太郎は原付から転がり落ち、地面に膝をついた。鈴鹿が慌てて駆け寄る。
「幸太郎!? どうしたの!?」
「離れて……姉ちゃん、離れててくれ……!」
声が低く、獣のように歪んでいる。背中が裂けるような痛み。服が破れ、赤黒い鱗のようなものが肌を覆い始める。いや、違う。これは——リオックの兆候だ。
幸太郎は必死に抑え込もうとした。
(変身すんなって……明が……俺が……)
でも、もう遅い。
御門の巨体がこちらに向かって急降下してくる。尾からブレイズマンを振り回し、地面に叩きつける。ドガァン! と土煙が上がり、明の体が動かなくなった。
「明!!」
叫びと同時に、幸太郎の体が爆発的に膨張した。
赤い光が迸る。
「うおおおおおおおおお!!」
地面が割れ、木々がなぎ倒される。幸太郎の姿が一瞬で変わる。
身長三メートルを超える、赤黒い甲殻に覆われた戦士。頭部には二本の鋭い角。背中から生えた翼のような膜は、血のように赤く脈打っている。両腕は異様に長く、先端は鎌のような爪。口からは牙が覗き、吐息が熱を帯びて白く煙る。
リオック。
怒りと絶望がトリガーだとわかっていたはずなのに——今、幸太郎は完全にそれを解放していた。
「御門ぉぉぉぉ!!」
咆哮が山を震わせた。
御門の蛟がこちらを向く。嘲るような笑い声。
「ほう……ついに変身したか、幸太郎。お前も蠱毒の残滓を背負っているということか。面白い」
幸太郎——リオックは一瞬で距離を詰めた。地面を蹴り、赤い残像を残して御門の懐に飛び込む。鎌のような右腕が、蛟の首筋を狙って振り下ろされる。
ガキィン!
鱗が火花を散らし、衝撃で周囲の竹林が一気に倒れる。御門の尾が反撃し、リオックの腹を薙ぎ払う。甲殻が削れ、黒い血が飛び散る。
痛みなど感じない。
感じているのは、ただ怒りだけだ。
「姉ちゃんを……明を……返せぇぇ!!」
リオックは両腕を交差させ、赤いエネルギーを凝縮させる。次の瞬間、両腕を広げて放つ。
無数の赤い刃が、嵐のように御門を襲う。鱗が削られ、毒血が飛び散る。蛟の巨体がよろめく。
だが、御門は笑っていた。
「いいぞ……その程度の怒りでは、私を倒せんよ」
口から黒い毒霧を吐き出す。霧がリオックの体に絡みつき、甲殻を溶かし始める。焼けるような痛み。視界が揺れる。
その時、倒れていたブレイズマンが、ゆっくりと立ち上がった。
「幸太郎……バカ……約束、破ったな……」
明の声は弱々しい。でも、目はまだ燃えている。
ブレイズマンはよろめきながらも、白い炎を再び纏う。
「でも……いいよ。俺も……もう限界だからさ。一緒に、終わらせようぜ」
リオックは一瞬、明を見た。
(明……)
言葉にはならない。でも、心が通じている。
二人は同時に動いた。
ブレイズマンが正面から炎の拳を叩き込み、リオックが横から鎌爪で斬りつける。蛟の体が左右から挟撃され、悲鳴のような咆哮を上げる。
「ぐおおおおお!!」
御門の尾が暴れ回る。ブレイズマンを吹き飛ばし、リオックの肩を貫く。黒い血が噴き出す。
だが、リオックは止まらない。
「まだだ……まだ終わってねぇ!!」
両腕を振り上げ、全身の赤いエネルギーを一点に集中させる。角が輝き、背中の膜が燃えるように広がる。
「これで……終わりだ!!」
赤い槍が、リオックの両手から生まれる。長さ十メートルを超える、血のように赤い一撃。
それを、御門の胸元——蛟の心臓があるはずの場所へ、叩き込んだ。
ズドオオオオン!!
衝撃波が山全体を揺らし、十邸の残骸が完全に崩壊する。蛟の巨体が硬直し、鱗が剥がれ落ちる。黒い血が滝のように流れ、毒霧が一気に晴れる。
御門の声が、弱々しく響く。
「……よくやった……幸太郎……お前は……私より強い……」
巨体が崩れ落ち、地面に沈む。次第に人の姿に戻っていく。黒い着物の男——御門は、血まみれで倒れていた。
息はまだある。でも、もう動けない。
リオックは膝をつき、変身が解け始める。赤い甲殻が剥がれ落ち、元の幸太郎の姿に戻る。傷だらけで、血を流しながら。
ブレイズマンもまた、炎が消え、明の姿に戻っていた。二人とも限界を超えている。
鈴鹿が駆け寄ってくる。涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら。
「幸太郎……! 明くん……!」
幸太郎は力なく笑った。
「姉ちゃん……もう、大丈夫だ……」
明が、血を吐きながらも親指を立てる。
「約束……破って……ごめんな……でも……勝ったぜ」
幸太郎は頷く。
「ああ……勝った」
山の空気が、ようやく軽くなった気がした。
御門は目を閉じ、静かに呟いた。
「……鈴鹿……すまなかった……」
その言葉を最後に、御門の息が止まった。
蠱毒の呪いは、ここで終わった。
幸太郎は鈴鹿の手を握り、明の肩を支えながら、ゆっくりと立ち上がる。
三人は、崩れた十邸を背に、朝焼けの光の中を歩き始めた。
まだ傷は癒えない。まだ心は痛む。
でも、もう一人じゃない。
それが、今の全てだった。