屋上のフェンスに背を預け、風に吹かれながら明は静かに微笑んだ。
「なんで?」
その一言に、ヘレナは金色の睫毛を大きく震わせた。
驚愕が、青い瞳いっぱいに広がる。
自分という完璧な美貌の王女。
運命の出会いとして演出されたこの瞬間。
母の計画通り、ブレイズマンの炎を持つ少年は自分だけを見てくれるはずだった。
なのに、彼の言葉は優しく、けれどどこか他人行儀に聞こえた。
「……明くん」
ヘレナは一歩近づき、細い指で明の制服の袖を掴んだ。
声が甘く、しかし熱を帯びる。
「あなたがこれまでどんな戦いをしてきたか、知ってるわ。ハニトラから始まって……怪異、ヤドリギの刺客、辰五郎さんの影を追う日々。優しいあなたが傷つく必要なんて、ないのよ」
彼女は明の手を取り、両手で包み込んだ。潤んだ瞳で上目遣いに見つめる。
完璧に計算された、地球の少女が使う「可愛さ」と、ビーズ星人のフェロモンが融合した表情。
「私だけが、あなたを幸せにできる。無表情で口の悪い親友なんていらない。血のつながりもない、あの母親代わりの女将さんも……必要ないわ。ビーズ星人は、種族として一度選んだ伴侶を、生涯、深く深く愛するの。あなたを独占して、守って、甘やかしてあげる」
明のエメラルドグリーンの瞳が、わずかに細められた。
ヘレナの言葉は甘美だった。
確かに、戦いの中で何度も傷つき、誰かを守るために自分を削ってきた。ナナマチを助けた夜、芳乃の優しさに甘えた朝、幸太郎と肩を並べて笑った放課後——それら全てを「いらない」と言われれば、胸がざわつく。
だが、明はゆっくりと首を横に振った。
「悪いな、ヘレナ。でも、断る」
「……え?」
「俺は危険があろうと、自分で選んだ道だ。誰か一人だけ助かろうなんて、男らしくねえ。そんなこと、おやっさん——小野寺辰五郎が絶対にしねえよ。俺が慕ってるのは、そういうカッコいい男なんだ」
明の声は穏やかだが、炎のように熱かった。ヘレナの手を優しく、けれどしっかりとほどく。
瞬間、ヘレナの美しい顔が歪んだ。
「………………ふざけないで!」
怒りが頂点に達した。彼女の背中から、金色の光が爆発する。
制服が引き裂かれ、蜂を思わせる黒と金の甲殻のような外骨格が現れる。
腰から鋭い針のような尾が伸び、頭部には複眼が輝き、金髪は触角のように蠢いた。ビーズ星人の真の戦闘形態——王女の力。
「ならば……!」
怪物化したヘレナが、明に向かって叫ぶ。声はまだ人間のそれに近いが、金属質の響きを帯びていた。
「私とデートしてください! 一度でいいから、私だけを見て! その後で判断して!」
その瞬間、屋上への扉の陰で息を潜めていたナナマチは、完全に固まった。
「……は?」
彼女の脳裏に、朝の弁当を投げつけた時の明の笑顔がよぎる。
綺麗な瞳の少年が、蜂のような怪物にデートを迫られている光景。
ヤドリギの追手から逃げてきた自分でも、想定外の展開だった。
ナナマチは思わず柱の陰から半歩踏み出しかけ、慌てて隠れ直す。
心臓が激しく鳴っていた。明殿を独占したい気持ちは自分にもある。
でも、こんな形で……?
明は怪物化したヘレナを真正面から見据え、呆れたようにため息をついた。
「デートか……。まあ、襲ってくるよりはマシだけどよ。けどな、ヘレナ。お前が本気で俺を好きなら、俺の全部——戦う覚悟も、仲間も、家族も——受け止めてくれよ。それができないなら、ただの『運命』ごっこだろ?」
ヘレナの複眼が激しく明滅する。怒りと、恋慕と、母の命令が混じり合った感情が渦巻いていた。
遠く、ビーズ星の女王は娘の様子を感知し、妖しく笑った。
「いいわ、我が娘。焦る必要はない……まずは、その少年の心を、ゆっくりと溶かして」
屋上に吹く風が、怪物と少年の間を渡る。
ナナマチは拳を握りしめ、静かに決意した。自分も、明殿の側にいる資格がある。血のつながりなど関係ない。あの優しい笑顔を守るためなら——。
放課後のチャイムが、遠くから聞こえてきた。
怪物化したヘレナは、ゆっくりと人間の姿に戻り始めた。金髪が風に舞い、青い瞳に涙が浮かぶ。
「……デート、待ってます。明くん」
明は頭を掻きながら、苦笑した。
「ったく、超かわいいお姫様だな……」
しかしその瞳には、わずかな好奇心と、守りたいという感情が確かに宿っていた。
ナナマチはそっと屋上を後にした。胸に、複雑な想いを抱えて。
呑み処あかねでは、芳乃が夕飯の準備をしながら、ふと辰五郎の古い写真に目をやっていた。
「あんたの炎、誰のものになるのかしらね」