【完結】仮面ライダーハルガ   作:じゅんけん

30 / 48


~『EPISODE VELOURGWA (29) イヴナの歌声 前篇』のあらすじ~

 ベロアグア本拠地の一つである鈴都が、CUSTAG(中米特殊戦術部隊)からの襲撃を受けた。生き残ったのは、黄金の腕輪をつけた女だった。
 彼女は山奥で出会ったイガタと名乗る男とともに、人里離れた生活を送っていた。だがある日、対ベロアグア部隊の偵察隊が女の姿を目撃する。
 二人は部隊に追い詰められる。そのさなか、イガタは女を逃がして命を落とす。女はイガタの仇を取ろうとしたが、部隊に捕まってしまったのだった。




EPISODE VELOURGWA (30) イヴナの歌声 後篇

 

 

 対ベロアグア部隊は、生け捕りに成功したV個体を研究所に移送。

 徹底的な検査の末、体内に昆虫由来のホルモンに似た物質が含まれていることが判明したものの、それ以外に人間との大きな違いは見つからなかった。

 そこで研究所は、彼女の日常生活を観察することにした。

 研究所との取引を行った農村は、彼女を労働者──彼らは奴隷という言葉を用いることを強く拒んだ──として買い取った。

 

 

   *   *   *

 

 

「粗末な寝所で悪いな、嬢ちゃん。眼鏡男たちが絶対に村の外に行かせるなってうるさいんでな。我慢してくれや」

 

 鉄格子の向こう側にいる中年の男が腕輪の女に喋りかける。彼は村に住む民の一人で、腕輪の女をこの牢獄のような部屋に連れてきた「案内係」を務めたのもこの男だ。

 

 月明かりだけが差し込む部屋の中で、黄土色の腕輪を身につけた女は冷たい壁にもたれていた。

 

 彼女は今日の昼過ぎ頃にこの村に連れてこられたばかりだった。細かな事情はさておき、とにかく今の自分は捕らわれの身であり、勝手な行動をしてはならないのだということだけは彼女も理解していた。昼間は村のあちこちを歩き回り、どこにどんなものがあるのかを見て回ることを許された。その間ずっと、村の人間が監視役として彼女の隣に張り付いていた。おそらくこれから先もそうなのだろう、と彼女は思った。

 

 それからというもの、彼女はかつての怒りを忘れて茫然としていた。まるで何も考えていない状態が続いていた。何も考えたくないと表現した方が近いかもしれない。

 

 藍色と白色を混ぜたような色の壁にもたれていた彼女は、ふと、外の景色は見えるのだろうかと思った。目の前にある鉄格子の方に顔を寄せてみる。すると、吸い寄せられるような闇の中に、端の少し欠けた月の顔がはっきりと見えた。

 

 女は歌を歌う。何か特別な感情を抱きながらするのではない。彼女の理性の届かぬところにある何かが、ただ無性に夜空に歌声を響かせんとしているのだ。実のところ、彼女は自分自身のこうした癖、すなわち夜に歌を歌わずにはいられないというような性質を自覚していなかった。

 

 ふいに、彼女の耳にこそこそという物音が響いた。それは風にかき消されそうなほどに小さな音で、ましてや彼女自身の口から飛び出る歌声に敵うはずもなかった。そのくらいに小さな音であったが、彼女の耳はそれを逃さなかった。鉄格子に顔を寄せていた彼女は、音の聞こえる方、すなわち彼女の左の方に視線を向けた。すると、そこに黒い外套を纏った一人の男が現れた。男はまるで一歩一歩をかみしめるかのように歩いていたが、それはなるべく物音を立てまいという考えからであった。男は女の部屋の目の前で立ち止まった。それから少しかがみこみ、鉄格子の中を覗き込むと、自分の方を見つめている金色の瞳を捉えた。

 

 この男はそれなりに歳をとっているようだった。そのことが分かったのは、額や口の周りに何本もの皺の線が見られたからだ。男は女と目を合わせたまま、しばらく動かなかった。が、女が何も言わずに固まっているのを見ると、口を開いた。

 

「私を覚えているか」

 

 女は首を横に振った。実際に彼女はこの男の顔や容姿に一切の見覚えがなかったし、あるはずもなかった。彼女の脳裏からは人間兵に襲われる前の記憶がすっぽり抜け落ちていた。だから、仮に以前彼女がこの男に出会っていたとしても、彼女がそのことを覚えているはずはなかった。

 

「そうか」

 

 男はどこか悲哀に満ちた表情──それは沈んだ表情というのとも少し違った──を浮かべ、目を瞑った。それから再び目を開けると、女に対してこう告げた。

 

「明後日まで待っていろ。私と私の仲間がお前を救う」

 

 男はそれだけ言うと、女の返事も待たずに、怱怱たる足取りで去っていった。それから間もなくして、その理由──すなわち、男が慌ただしくその場を後にした理由が分かった。男が去ってからわずか十秒ほどたった後に、その男とは別の足音が聞こえたのだ。音の主は村の人間であった。村人は地面を踏む音を立てながら部屋に近づくと、鉄格子の前に立ち止まった。

 

「あまり夜中にうるさくするな。最近人食い狼が西の森をうろついてるらしいからな」

 

 村人は彼女に忠告をしに来たのだった。女の歌声を聞きつけてか、あるいは先程の男の気配を感じ取ってかは分からない。いずれにせよ、夜に大きな音を立てるのは賢明でないということを言っているのだった。

 

 だが腕輪の女は相手の話すことをほとんど聞いていなかった。彼女にとっては人食い狼の噂などどうでも良かった。そのときの彼女は、自分を助けに来たらしい男のことが気になっていた。あの外套の男には運命に抗う力があるのだろうか。そして仮にあるとして、彼はその力をもってしてこの自分を窮地から脱却させることができるのだろうか。

 

 いや、できるはずだ。できなければならない。この自分を守るために散っていったあの男のためにも。私は必ず生き延びなければならないのだ。女はこのような固い意志を抱きながら眠りについた。

 

 

~~~~~~~~~~

 

 

 翌朝、女は金属をかんかんと打ち鳴らすような音で目を覚ました。体を起こしてみると、鉄格子の向こうには村の人間の顔があった。

 

「仕事があるから来てくれ」

 

 村の男はそう言うと、女を急かすように再び鉄格子をかんかんと打ち鳴らした。男は先っぽの曲げられた金属パイプのようなものを持っていた。なにか気に入らないことをすればあれで殴られるのだろう、と女は勝手に想像したが、実際はこの男は生まれつき争い事が大嫌いな性格であったから、何の心配も必要なかったのだ。

 

 村人は、女がすっかり身を起き上がらせたのを確認すると、部屋の外側を反時計回りに回った。男は石のように重そうなドアをゆっくりと押し開けた。女はぎりぎり頭がぶつからないくらいの大きさの框を潜り、部屋の外に出た。そのときにふと後ろを振り返ると、ドアの外側には取っ手と施錠のためのでっぱりのようなものがあった。ドアの開閉や解錠施錠はドアの外側に立っている者のみが可能な仕組みになっているらしい、と女は気づいた。

 

 さて、腕輪の女が村の男についていくと、その先には三角屋根の小さな小屋があった。その壁は木の板を使っているように思われたが、近づいてみると塗装されたプラスチックかスチールの類であることが分かった。また、その小屋には戸がなかった。女が小屋の中を覗き込むと、そこには子犬の姿があった。なるほど、これは犬のために作られた小屋らしい、と女は納得した。

 

「このワンコの世話をするのが、お前の仕事だ」

 

 村の男が最初に言ったのはそれだった。それからすぐに、彼は焼いたのかどうか分からない肉を取り出した。

 

「これをワンコに食べさせろってよ。残った分はお前の朝飯だ」

 

 腕輪の女は戸惑ってしまった。男は、黙っている女を見て、相手が課せられた仕事に不満をおぼえているのだろうと思い、このような言葉を口にした──

 

「俺たちだって好きでやってる訳じゃない。おっかねえ兵隊に囲まれた男らが言うことに従ってるだけなんだ」

 

 ややあって村人はその場を離れた。それから間もなくして、別の村人がやってきた。昨日彼女の監視をしていたのと同じ人物である。その男は女に何か話しかけることもなく、ただ鋭い眼差しを彼女に注いでいるだけであった。

 

 女は、これは自分に与えられた運命なのだと割り切り、仕事を全うしようと思った。今の自分が生き延びるためにすべきことの最適解はひとまず周囲の人間の言うことに従っておくことだと考えたのだ。

 

 彼女は骨がついたままの肉塊を右手に持ち、小屋の中へ入った。そして手にしているものを子犬に見せた。子犬はというと、目の前で何かが動くたびに眼を動かして警戒している様子だったが、小屋の中へ入ってきた彼女が肉の塊を差し出してくると、いよいよ全身の毛も逆立たんほどの勢いで相手を威嚇した。

 

 ところがこのような行為は腕輪の女に対してそれほどの効果を及ぼさなかった。女は単に、この小さな獣は自分のことを怖がっているのだ、そのせいで餌にありつくこともできないのだと思った。と同時に、村の人間が自分たちでこの生き物の世話をしなかった理由も少し理解した。

 

 そこで女は次のような行動をとった。すなわち、手にしている肉を自分の口へ持っていき、二口、三口ばかりかじりついた。そしてそれらを咀嚼した後、喉の奥まで飲み込んだ。そしてこの一連の動作を、子犬がしっかりと見えるように大げさにやってのけた。この一連の行いが終了すると、女は肉片を子犬の目の前へそうっと近づけた。すると、子犬は殺気を漂わせながらも、今度は相手から差し出されたものを拒絶することなく、それとは反対に、物凄い勢いでかぶりついた。女は腹が減っており、もう少し口にしておきたいと思ったが、子犬がうまそうにぱくつくのを見るとどうしてもその幸福を奪おうとは思えなかった。

 

 

~~~~~~~~~~

 

 

 その夜、例によって彼女は鉄格子と石のような壁に囲まれた塒で夜のひとときを過ごしていた。

 

 太陽の昇っている間はさまざまな仕事をさせられた。先にも述べた子犬の世話のほか、ためられたゴミの処理や外来者への対応などさまざまであった。そして彼女がこのような仕事をさせられている間には必ず、見張り役の者が彼女のすぐ隣に、あるいは数メートル離れたところに立っているので、月が昇る頃になって彼女はやっと一人きりの時間を与えられたのだ。この狭い部屋の中ではとても身体の自由があるとは言えないが、心の自由はいくらか取り戻せた。そして自由になった心をもって彼女が抱いていた思いとは、およいよ明日の晩、あの男が自分を救ってくれるのだという期待、そして希望であった。あの男が何者であるかを女は知らなかったが、自分に危害を加える類いの人間でないことははっきり分かっていた。この感覚は、彼女が初めて井形の顔を見たときと同じものであった。

 

 気持ちが高まっていた女は村人の忠告も忘れ、歌を歌い始めた。静かな空気の中に、彼女の歌声が浸透するように響いた。

 

 

 

 何かの物音がした。音が鼓膜に響いた途端、彼女はすぐに歌うのをやめた。それから息を殺して、自分の周囲をできる限りの静寂なる空間に作り上げ、耳を澄ました。一定の間隔で音の鳴るかんじは、誰かが歩いている音のようであった。ひょっとすると、あの男が予定よりも早く自分を助けに来てくれたのだろうか、と女は考えた。そうして期待を胸に抱きながら、鉄格子にぴったりと身を寄せ、その音に耳を傾けていた。

 

 足音がいよいよ女のいる部屋の目の前まで近づいた。そこで気づいたのだが、足音の主は鉄格子のある壁と逆の壁の方にいるようだった。したがって、彼女はその足音の正体を目で確認することができなかった。女は、足音は部屋の戸の前の辺りで止まるのだろうかと考えていた。ところが、音は止むことを知らず、そのまま通り過ぎて行ってしまった。この部屋は村のはずれの方に位置していたのだが、何者かの足音は村の中心部の方角に向かっているようであった。女は何が起こっているのか確かめようにも、部屋の外へ出ることはできず、鉄格子の向こう側をひたすらに眺めていることしかできなかった。

 

 足音の主の正体を彼女が知ったのは、それから数分後のことであった。そのとき、村の中心部にはざわめきが響いていた。女の耳にもそれは届いていた。やがてそれが、村の人間たちの悲鳴や慟哭であることがはっきりとわかった。言葉を失った人々の発する悲鳴の中にまぎれて、事の次第を語っているものもあった。

 

「人食い狼が出た!」

 

 腕輪の女は、自分の歌声が森の野獣を引きつけ、村を襲わせたのだと知った。

 

 彼女は人間のことが好きではなかった。したがって、野獣に襲われている村の人間たちを助ける道理は何ひとつ思い浮かばなかったはずだ。にもかかわらず、彼女はこの事態をどうにかしなければならない、と強く感じていた。それは彼女の理性よりも内側にあるところからきているものらしかった。だが、いくら身体能力に自信のある彼女でも、石のように重いドアをこじ開けることはできないし、鉄格子を噛みちぎることは叶わないのだ。運命とは残酷なものである、ということを彼女は再び思い知った。彼女はただ黙って事の運ぶさまを、鼓膜に響く顫動と、骨の芯まで轟くどよめきで感じ取っていた。

 

 

 

 騒動は日が昇るまで続いた。

 

 事件の終焉は、完璧なまでの静寂によって証明されていた。そこに住んでいた人間たちの魂だけでなく、まるで木々や大地そのものが精気を失ったかのようであった。今この村に生き残っているのは、堅牢たる壁に守られていた腕輪の女ただひとりだけであるように思われた。

 

 ところが実際には違った。突然、石のようなドアががたんと開いたのだ。村の惨劇に茫然としていた女は、誰かが部屋に近づいてくる音に気づかなかったのだ。歌を歌っているときでさえどんな小さな物音にもすぐに反応した彼女が気づかなかったのだから、相手がよほどの忍びの達人でもない限り、この惨劇が女にもたらした衝撃がこれほどまでであったということが窺えよう。

 

 さて、開かれた戸の前には、村に住む男の姿があった。男が村の人間であることを女がすぐに判別したのは、その出で立ちを一目見たからである。男の着ている服はあちらこちらが引き裂かれたかのようなありさまになっており、はだけた腕にはまだ塞がっていない鮮やかな色の傷があったのだ。

 

 男は部屋の中に入ると、後ろを振り向かずに、開いているドアを押しやった。内側からドアを開ける術はないはずなのに、男はそれを承知で閉めたのだから、これは只事ではないと女はすぐに悟った。男は女の方へつかつかと歩み寄った。あっという間に女の目の前にたどり着き、女の胸倉を乱暴に掴むと、このような台詞を口にした──

 

「この悪魔! 魔女! てめえのせいであいつらは殺されたんだよ! お前は地獄からの使者だ! いや地獄そのものだ! てめえは自分のした事が分かっているのか? 何をしたか分かっているのか? 分かっているはずだよな! だが貴様は何をしていた? ここに隠れて何をしていたんだ? 自分だけが助かろうってのか! 忌々しい妖怪め! なぜ自分だけが助かろうとしている? そんなことをしていいと思っているのか? そんなことが許されるとでも思っているのか? そんなはずはないぞ! そんなはずは絶対にない! たとえ神がお前を許そうとも、俺は決して貴様を許さん!」

 

 この長口上を男はほとんど息もつかずに物凄い勢いで女に浴びせた。その口調、声色、言葉遣いからも、男が正気を失っていることは明らかだった。男は女に対する呪いの言葉を言い終えた後、女を床に投げつけ叩きつけるように押し倒した。そうして女の上に馬乗りになると、固く握った拳を振りかざした。それ自体が鋼のごとき固い意思を持っているかのような拳は、女の首や顔を目掛けて何度も何度も振り下ろされた。

 

 腕輪の女の実力をもってしてみれば、この男の狂気に満ちた暴挙を阻止することは造作もないことであった。しかしながら彼女は、この男に呪いをかけてしまった者がいるとするならば、それは自分にほかならないと思い、一切の抵抗をしなかった。

 

 数え切れないほど殴られ続けた女は、だんだんと五感がはっきりしなくなっていた。振り下ろされる拳の影、骨と骨のぶつかり合う音、噴き出す血の匂い、それらすべてが曖昧にしか感じ取れなくなっていた。

 

 ふいにカキンという金属音が響いた。その音はとても鋭く響き渡ったので、意識が失われつつあった女の鼓膜にもはっきりと届いた。音が聞こえた次の瞬間、顔面にぶつかってくる拳の感触がなくなった。それから男の悲鳴が聞こえ、続いてどさっと倒れこむ音がした。間もなくして、彼女の視界に一人の男の姿が映った。

 

 あの男が来てくれたのだろうか、と女は思った。だが、はっきりとしない感覚の中で懸命に目を凝らして見てみれば、灰色のスーツ、茶色っぽくて整えられた髪、それに皺の無い肌が映った。先の晩に見た男とは明らかに別人であることが見て取れた。だがこの際、相手が誰であるかはほとんどどうでも良かった。早く自分と、地獄に落ちてしまった男を、救い出してほしいという願いだけが彼女の中に残っていた。女は重くなったまぶたをそっと閉じた。

 

 女は男に抱きかかえられるのを感じた。うっすらと目を開けると、鉄格子がすべて砕け、床に散らばっているのが見えた。スーツの男はそのまま部屋を出て、駆け出した。女は抱き抱えられながらぼんやりと外の景色を眺めた。今の彼女の頭の高さだと、ちょうど例の犬小屋の中が見えた。しかし、そこに昨日世話をしてやった子犬の影はなかった。少女の意識はぷつりと途絶えた。

 

 

~~~~~~~~~~

 

 

 次に意識が戻った時、女は見覚えのない部屋の中にいた。

 

 どうやら自分は柔らかい布団の中で寝ていたらしい、と彼女は気づいた。それから彼女の傍らには、白髪の男が椅子に腰かけているのが映った。その男は女の意識が戻ったことに気づいていないらしかった。その男は他の誰かと話をしている。近くに誰かがいるようだ。

 

 彼女の全身は疲労感に包まれていて、一度開いたまぶたもまたすぐに重々しく閉ざされた。朦朧とする意識の中、男ともう一人の人物との話に耳を傾ける。

 

「本当にすまない、私がもっと注意を払っていれば……」

「よせ、もう済んだことだ」

 

と少女の傍らにいる男が答える。しばらく沈黙がその場を支配した後、今度は再び相手の方が口を開いた。

 

「だが、今回の件で私も思い知らされたよ。人情などという言葉は嘘っぱちだ、ということをね」

 

 女は二人の男の会話を聞いているうちに、自分の傍らに座っているのは最初の晩に少女の前に現れた男で、相手の方は彼女を牢屋のような部屋から連れ出した若い男であるらしい、ということが分かった。

 

 女の傍らにいる年老いた男がため息をつき、先程の男の言葉に返事をした──

 

「そんなことは最初から明らかだろう。お前はなまじ優しいからだめなんだ。人間に情なんてものを抱いていては、己の大切なものを守ることはできない。あやつらは自分たちの尊厳と繁栄のためなら他はどうなっても良いと考えているのだからな……!」

「まったく君の言う通りだ、青海」

 

 女の傍らにいる年を取った男は、オウミという名で呼ばれているようだ。オウミは声色から判断するといささか憤っていたようだが、相手が口を挟んだことでその感情は鎮られたらしい。

 

「このためだったんだな」

「何がだ」と少女の傍らでオウミが聞き返す。

「森丘いおりの肉体はその子を、娘を守るために、腐敗せず生き続けていたのさ。私はそう思う」

 

 女はいよいよ二人の話す内容が気になり始めていた。彼女はこんなことを考えていた。その子というのは私のことなのだろうか。ムスメとはなんなのだろう。フハイせず生き続けていた、というのはどういうことなんだろう。モリオカイオリという人はすでに死んだのだろうか。

 

「なあ晒間、この子にも我々と同じように、戒めの象徴となる名前をつけてやらないか?」

 

 相手の男はサラスマと呼ばれているようである。サラスマは次のように答えた──

 

「なるほど、そうだね。何か名案はあるかい?」

「いや、お前に委ねるよ」

 

 このように言われたサラスマはしばらく黙りこみ、考えに耽っていたが、ふいに口を開いた。

 

「私は人間に対する希望を捨てなければならないという意志から、快楽の感情に由来してカイラと名乗ることにした。それから君、青海超翔は、人間に対する怒りを捨てなければならなかったから、度重なる怒りを表す鬱怒に由来して、ウッドと名付けた」

「そうだな」とウッド──これがオウミという男のもう一つの名前であったようだ──が相槌を打つ。

「人間らしい部分を捨てるということをするには、人間らしさの象徴である感情を捨て去る必要がある。私たち二人と同じように、彼女にも克服すべき感情があるならば……」

 

 そこで言葉が途切れた。男の足音が女の方に近づいてきた。

 

「森丘露夜は、人間への慈悲を捨てなければならない。私はちょうど、愛や慈悲といった感情に関係する名前をいくつか知っているが、その中でも最も響きの良いものにしよう。そう、イヴナだ。」

 

 モリオカロヨ……それが自分の名前なのか……?

 

 女は目を見開き、身体を起こした。

 

「起きていたのか」とカイラがそれほど驚いてもいない様子で言った。

 

「おい、大丈夫か」とウッドはいささか焦った様子で尋ねる。「安静にしていろ。まだ身体の具合が万全ではないはずだ」

 

 年老いた男に寝ているように促された女は、再びベッドに横になった。本当のところ、彼女には二人の男に聞きたいことが山ほどあったので、眠っていたくなどなかった。だが反論しようにも、何故かうまく声が出せず、また全身の脱力感も拭えないので、黙ってウッドの言うことに従ったのだ。

 

 男は女の手を優しく包み込むように握った。男の手はごわごわとしていて大きかった。あまりにも大きいため、男の手が女の手首の方までも覆うような形になった。

 

「おい、あの腕輪はどうした」

 

 ふいに男はそう言ったのだ。実際に身を起こして見てみると、彼女が左腕につけていた黄土色の腕輪が消えていた。

 

「晒間、あの腕輪をどこへやった」

 

 ウッドがそう言うと、カイラは無言で手を掲げる。そこにはなんと、黄土色の腕輪が握られていた。それを見たウッドは大きなため息を一つつき、それから口を開いた。

 

「カイラ、私が自分の戒めを破ってしまわぬうちに、それをこの子に返してやってくれ。それはこの子にとって母親の形見なんだ。」

 

 ウッドは相手のことを本名ではなく戒めの二つ名で呼んだ。また、彼の言葉には忿怒の萌が顕れていた。

 

「その子にとってか? それとも自分にとっての形見か?」

「……今はそんな話をしていない。いいから、それをこっちによこすんだ」

 

 ウッドは能面のような顔をしていたが、それは自身の感情を隠すために、強いて頬や額に力を込めているのだった。対するカイラも相手に負けない無表情であったが、その思惑はまるで読めなかった。両者の睨み合いがしばらく続いた。殺伐とした空気を、女は布団に包まっていながらも感じ取っていた。

 

 突然、眩い光が視界をすっかり包み込んだ。

 

 

 

 

 気が付くと、彼女は再び身体を起こしていた。

 

「起きていたのか」

 

 カイラの声が聞こえた。別に驚いてもいない様子であった。

 

「おい、大丈夫か」と今度は女の傍らにいる男が言う。「安静にしていろ。まだ身体の具合が万全ではないはずだ」

 

 ウッドは彼女の手を握った。大きく、強ばっている男の手だった。

 

 女は、自分の周囲で先ほどと全く同じ出来事が繰り返されているような気がした。不気味な空気に包まれた彼女は鳥肌をたて、身震いした。

 

 ところがここで、さっきと少し違うことが起こった。というのは、年老いた男は確かに女の手を握ったのだが、女が腕輪をしていないことに気づかなかったのである。女がカイラの方を見やると、彼と視線が合った。カイラはしばらくの間彼女の方を見つめた後、彼女の傍らにいる男に視線を移して、このような質問を投げかけた──

 

「ウッド、君は腕輪について何か知っているか?」

 

 ウッドは少し固まった後で、後ろを振り向いて答えた。

 

「いきなり何の話だ。落とし物なら見ていないが」

 

 どういうわけか、男の記憶の中から、女のつけていた腕輪の存在がまるごと消えているらしかった。それだけではない。ウッドは先程と全く同じ出来事を体験していることに、すなわち時の進行が一度巻き返されたことに気づいていないようだった。なぜか女──イヴナと呼ばれることとなった娘は、時間の流れに異変が生じたことを覚えていた。

 

 だが彼女はこのことを言い出さなかった。言ってはいけないような気がした。カイラと名乗る男が何か──それが何であるかは彼女にもはっきり分からなかったが──をしたという事実に自分が気づいていることは、このまま秘密にしておかなければならない。彼女はなぜかそんなふうに感じていた。

 

 そういうわけで、イヴナはしばらくの間、この日の出来事を胸の中に閉じ込めておいたのだが、ある日とうとうそれをある女に打ち明けたのである。

 

 






<OMITシーン集>※あとがきは下にあります。

#1
(~犬のために作られた小屋らしい、と女は納得した。)

 腕輪の女は一度得心が行くとそれ以上疑問は湧いてこなかったが、これは女が外の世界について無知であるためだった。というのも、その小屋はたしかに小さいが、大人の人間の頭くらいの大きさしかない犬が住まうことを鑑みると、むしろ大きすぎるのだ。ところが女の記憶の中には未だかつて犬の家を見た経験がないのであってみれば、その大きさの不釣り合いに対してなんら疑問を抱くこともなかった。そしてこのことは村の男を戸惑わせた。彼は犬小屋を見た相手が何か質問をしてくるだろうと思って、その質問の答えをあらかじめ準備しておいたのだ。女が何も言ってこないのを見ると、男は聞かれてもいないことを勝手に喋るというのもおかしな話だと思い、何も語らなかった。

(「このワンコの世話をするのが~)


#2
(~先にも述べた子犬の世話~)あの小さな獣の秘密について、女はとある村人からその一部始終を聞かされた。

 あの子犬は、数日前に村の子供が拾ってきたものであった。子犬を一目見てたいそうかわいらしいと思ったその子供は、ぜひとも子犬を飼いたいと村の大人たちにせがんだ。というのも、その子供はまだ六つの頃に両親を亡くしており、今では村に住む大人たちの世話に預かっている、文字通りの「村の子供」であったからだ。村の大人たちは子供の願いを叶えてやることにした。ところがその子供が子犬を拾ってから七日ほど経ったとき、小さな野獣は子供の腕に噛み付いてしまった。子犬の方ではじゃれ合うつもりでやったことなのかもしれないが、子供の方はこれに自分が襲われていると思い込んでしまった。それで、子供はそれまで抱いていた愛情などすっかり忘れ、代わりに子犬に対する計り知れない恐怖心を募らせてしまったのだ。

 この子犬の世話はその子供がやることになっていたものだから、この事件以来、誰も子犬の世話をしていなかった。村に住むほかの子供たちは事件の噂を聞いて子犬を恐れ、また大人たちは毎日の仕事で手がいっぱいで小さな動物一匹のために時間をさこうとは思わなかった。中には世話をしようと試みた者もいたが、子犬は最初に自分を拾った子供以外の人間と打ち解けなかった。だが村の者たちは子犬を村から追い出すような鬼畜な真似はせず、ただただ放っている状態が続いた。

 そこへ折よくやってきたのが腕輪の女であったから、村の人々はこの労働者に子犬の世話をさせることに満場一致したのだった。

 ところで、この子犬が今ねぐらとしている小屋は村の人間の一部が集まって作り上げたものである。 なぜ大きすぎる小屋になったのかといえば、たまたま村のゴミ捨て場に置かれていた板材を使ったのだが、小屋作りに協力した彼らはその板の切断方法を知らなかったからである。それで彼らは仕方なしにそのままの大きさで小屋を建てたのだ。誰もがうまくいくとは思っておらず、悪い結果がほとんど見えているような状態で作業が始まった。ところがなんの奇跡か、ちょうど同じ寸法の板が2枚ずつ発見された。最終的に、歪なところの無い対称な小屋が完成したのだ。

 村の人たちが女に押し付けた仕事はそれだけではなく、ためられたゴミの処理や外来者への道案内などもあった。道案内と言っても昨日この村に来たばかりの女が一点の狂いもなく目的地への道順を教えることはあまりにも無理な話だった。だがそれは大した問題ではなく、というのも、道を訪ねてくる人々の多くは本当に道に迷っている訳ではなく、ただお喋りを始めるきっかけとして道を訪ねているだけだったからだ。つまるところ、女がやったのは道案内ではなく、口が二つも三つもあるのではないかと疑われるほどにおしゃべりな婦人たちの相手をすることだった。これはそんなに難しいことではなく、女はただ折を見てああとかはあとか相槌を打っているだけでよかった。いずれにせよ女は相手の話していることの半分も聞いていなかったし、また聞いていたうちの半分も理解できなかった。彼女が考えていたのは、これらの仕事の多くは村の者たちが厄介扱いしている、あるいは単に手馴れていないような仕事なのだろう、ということであった。


~~~~~~~~~~


<あとがき>


 最後までお読みいただきありがとうございます。感想などお待ちしております。

 さて、これまで何度かやってきたベロアグア外伝シリーズですが、今回は初めての二話構成となりました。これは最初から決まっていたことではなく、予定よりも文字数が膨れ上がったので前後篇に分けた次第であります。(ちなみに、編じゃなくて篇を使っているのは、漢字のイメージが、ベロアグアの過去(本編からすると未来ですが)の物語のイメージにしっくりくるからです。)

 ですが、考えてみるとイヴナの外伝が他のキャラクターよりも長くなるのは必然だったかもしれません。なぜなら、当初考えていた「ヴィザーデッド・ユニバース(以降、VU)」の予定では、シリーズ全体の裏主人公はイヴナとなるはずだったからです。そう、実は全ての鍵を握っているのはイヴナなのです。これをここで明かしてしまうのは、VU構想を白紙に戻したからですが……

 それほど重要なキャラならば、ハルガの構想の最初期からイヴナというキャラは存在していたのだろう、と思うかもしれませんが、実は違います。イヴナを登場させることをはじめに思いついたのは、ハルガ第1話を公開した後だったのです。最初は、CHAPTER1から2へ移る際に、せっかく章を変えたのだから何か新鮮なものが欲しい、という気持ちだけで生み出したキャラでした。が、そこからストーリーを盛り込んでいくうちに、ハルガや後のVUのストーリーとうまい具合に絡められ、裏主人公として確立していったのです(無論、僕の脳内でだけですが)。

 さて、イヴナの物語はこれで終わりなのか、これ以上は僕の頭の中だけで終わるのかというと、そうではありません。まだまだあります。次話を含めて、これからもイヴナのお話を語る機会はたくさんありますので、お楽しみに。

 それでは、次回「EPISODE ALTERGWA (31) キルアの使命」に御期待下さい。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。