三体のバーテックスとの戦いから一か月後――
俺は無事、怪我を完治させて退院した。……とは言っても、それを祝うような人は居ないし、本来ならそれを祝福してくれていたであろう三人の少女達とは自らの手で繋がりを断った。
深夜の皆が寝静まるような時間帯に、ひっそりと病院を後にした。町には夜のとばりが降りて、真夏の重苦しい空気は夜の涼やかな風によって密かに運ばれ、澄んだ水面のように心地よい空気感が肺を満たした。
街頭の淡い光を辿るように、目的地へと真っ直ぐに歩いて行く。
何分、何十分、何時間――多分、それ程長かった訳じゃないけど、今までの思い出を走馬灯のように振り返りながら歩いていると、その時間は何倍にも感じられた。
「……この先が」
気が付けば、俺の足は自然と止まって、顔を上げた視線の先には夜の闇に重く沈むお札が張り巡らされた"瀬戸大橋"の端に立っていた。
それ以上、人の侵入を拒むように設置された大赦の関係者の銘が掘られた柵。高さはそれ程じゃないそれは、きっとその気になれば誰だって簡単に乗り越えられるだろう。
けれど、その先から感じる途轍もない威圧感が人の本能に働きかけるのだ。
――この先へ行っては行けない。
――引き返せ。と……
俺はポケットから端末を取り出すと、画面に表示された"黒い水晶"をタップする。
この体になった事で、この端末に入っていた勇者システムもその様相を大きく変えていた。
黒い花は水晶の紋様に変わり、今まで何度も行ってきた変身に於いては、舞い上がる光は花弁などではなく、粒子やポリゴン片といった"あの世界"の仮想人体へのログインフェイズを彷彿させる物に変わっていた。
「行くぞ?」
そう呟いた俺の姿は、黒いロングコートにズボン、背中には『夜空の剣』と『蒼薔薇の剣』の二振りという、アンダーワールドを救った英雄のものへと変わっていた。
柵を一息に飛び越えると瀬戸大橋を疾走する。一歩踏み出す毎に、体にのしかかる緊張感が増していく。
つまりはそれだけ、この先にあるものがとんでもないという事に他ならない。
そう、俺はこの世界の真実を確かめに行くのだ。
この世界に来たその日、一度はその究明を断念したが、完全ではないとはいえ力を取り戻した以上は俺にはそれを知る権利がある。
ならば、俺は知らなければならない。――バーテックスとは、勇者とは、そして未だに謎に包まれた『天の神』とは何者なのか。
変身した事によって上昇した身体能力によって物の数秒程度で瀬戸大橋を渡り切った俺は、等々世界を別つ壁を目の前にする。
ドクン、ドクンと脈打つ心臓を落ち着ける。外界からは一切見通せない、神樹の作りだした世界を守る結界。この結界は、例え俺の心意を持ってしても"外側"から干渉しその先を見ることは出来ない。
「ふぅ……」
息を吐いて、その一歩を踏み出した。
安らかな暗のとばりを下ろす夜の闇は消え失せ、代わりに目の前に広がったのは果てしない煉獄の世界。
その外側にあった筈の、ありとあらゆる物が破壊され、焼き付くされた絶望の世界。それはまるで、一種の仮想世界かのような壮大な絶望の風景。
「なん、だよ。これ……」
まさにこの世の地獄、生きとし生ける生命にとってこれ以上ない程の決定された破滅。
煉獄の世界で蠢くのは弱小な人類などではなく、生理的な嫌悪感を抱かせるような異形の生物達だ。そして、その中には俺達はこれまで倒して来たバーテックスを一回り小さくしたような個体が見受けられた。
「これが、この世界の真実?」
これを全て、その『天の神』がやったのだとしたら、それこそ人間なんかがどうにか出来る訳がない。
等しく訪れるいつかの滅びを待つだけの『終わりの世』、それがこの世界を取り巻く紛れもない現実だった。
余りにも惨たらしく、救いようのない真実に吐き気を催しようになる。けれど、それは皮肉にも煉獄の世界から飛び出して来た奇怪な生物の攻撃によって阻まれる
「……っ!」
大口を開けて、魚のような形状の中型のバーテックスが襲いかかって来たのを躱す。
それによって、ある程度の冷静さを取り戻した俺は急いで壁の中に飛び込む。すると、それまで映し出されていた地獄の世界は嘘のように反転し、俺がこれまで過ごしてきた『人の世界』に変わった。
「ハァハァハァ……!」
その場に跪いて激しくなった動悸を何とか抑える。
涙が出そうな程の恐怖感に、心が押し潰されそうだった。
心臓の早鐘を少しずつ収めて、数分後にようやく立ち上がると、目の前に広がる人の営みが示す街の光のあまりの綺麗さに、どうしようもなく心が打ちひしがれそうだった。
■
何とか瀬戸大橋の記念公園まで戻ってきた。変身を解除し俯かせていた顔を上げる。何の変哲もない暗がりの展望台。
しかし、そこに見知った白い神官服の人間が跪いているのが見えた。
「お待ちしておりました。黒の剣士様」
その声は男性の物で、まるで抑揚の感じない人形のようなそれに顔を顰めながらも答える。
「……何の用だ?」
「用だ等と、そのような無礼な事ではございません。差し出がましいと分かっておりますが、これを貴方様に受け取って欲しく」
差し出されたのは、一冊の紙束。その表紙には『勇者システム強化案』とだけ書かれていた。
「勇者システム強化案?これは……」
「では、ワタクシはこれで」
神官は俺に向かって深々と一礼すると、夜の闇に紛れるように去っていった。
「あ、おい!」
呼び止めるも遅く、もうそこには
俺はその只ならない様子に訝りつつも、表紙に書かれた『システム強化案』という一見すれば朗報であるかのようなそれに、言いようのない不安を覚えた。
一応、周りに誰もいない事を確認して、俺はその紙束を一枚一枚捲り、目を通す。
「貴重な人材である勇者の損失を防ぐべく、勇者システムのアップデートを決定……精霊を使役?」
見たこともない単語も多分に含まれた文章で、特に目新しい『精霊』という要素が気になったが、次のページに書かれていた内容に俺は驚愕の声を上げた。
「は?一時的な全能力の上昇と引き換えに……多大な代償、だって?」
余りにも無情に綴られた内容に理解が追い付かない。
そこに書かれていた『満開』という強力無比な大技とその代償『散華』、これを見た時、頭に血が上っていくのが自分でも理解できた。
「ふざ、けるな!!」
紙束を地面に叩き付けて、大声で怒鳴り踏みつけた。
「装備や技なら幾らでも強化できる。でも、こんなのって無いだろ!」
満開とは分かりやすく言えば、神器の記憶解放術に等しい最終奥義と言ってもいい。
書いてある内容が事実なら、その力はきっと一個人だけで何体ものバーテックスを余裕で討伐できる程の物だ。だが、大きな力には必ず代償が存在する。
記憶解放術の直接的な代償が多大な心意とリソースの行使によって発生する自身の精神と天命の消費であったように、この満開にもそれと同程度、いやそれ以上に残酷な代償が存在するのだ。
「何で、なんであいつらだけがこんな目に会わなきゃならないんだ……」
その場に崩れて、どうしようもない現実を呪う。
どれだけ叫んでも、喚いても、結果的には俺にはどうする事だって出来やしない。俺は今日『天の神』の正体をこの目で詳らかにし、可能であれば、背中にある二振りで例えこの命に変えてでも打ち倒そうだなんて考えていた。
でも、現実はそんなに甘くなかった。
俺の力は余りにもちっぽけで、精々大型のバーテックスを数体倒すのが関の山。
この世界の現状を俺一人だけでどうにかする事なんて、初めから無理だったんだ。もし仮に完全な形で心意が扱えて、『天の神』との完全な一騎打ちであったなら、少なくとも五分と五分の勝負には持ち込めただろう。しかし、向こうには無数のバーテックスとその手下が存在しており、あの数を全てどうにかしつつ親玉を倒すのは、いかにアンダーワールドの『星王』であっても不可能だ。
「俺は……どうしたら良いんだ」
繋がりを断って、自分一人で戦う覚悟を決めてもまだ足りない。
息を吐き出して、俺は足元のシステム強化案を拾い上げると、それを一瞥してから、ある方向を見た。
「……分かったよ。あんた達がそうさせたいのなら、お望み通り答えてやる」
誰も教えてなんてくれない。
どうにも出来ない、何度立ち上がっても無駄なのかもしれない。でも、立ち止まる選択肢を捨てたのは俺自身だ。
「行こう、大赦の本部に……」
全てをどうにか出来なくても良い。
不特定多数の誰かを救う力がないのなら、それはもう仕方がない。
ならば俺は、俺に出来る最善で、誰よりも大切な人達を守るだけだ。
改めてあの光景を見ても心が折れなかった園子様は凄いんだなって