黒の剣士が歩んだ軌跡。
それは言葉一つや一朝一夕で語れるような旅ではない。
英雄が誕生するに至った、始まりの物語はソードアート・オンライン――通称SAO。
浮遊城アインクラッドを舞台としたデスゲームで、約6000もの生き残りを英雄的行動によって救った少年。それが《キリト》であり、《桐ヶ谷和人》の成した最初の偉業だった。
そこからも彼の物語は続いていく。
妖精の世界、アルヴヘイム・オンライン。ALOの名で呼ばれる次の世界で、彼はその世界の裏に隠された真実を知り、そして黒幕を最終的に見事打倒したキリトは又しても多くの人々と、自身の恋人を救った。
銃の世界――ガンゲイル・オンライン《GGO》では、複数人のプレイヤーを殺害していたデスガンを名乗る殺人者を相手に、その剣で過去の遺恨ごと断ち切った。
英雄的な偉業のみではなく、彼は多くの人物と出会う。
SAOでは今も親しい数々の友人と掛け替えのない恋人。ALOでも同様に様々な人に出会い、自身の妹との関係修復を果たした。GGOでは孤高の狙撃手と背中を預けて戦い、その後にALOで自身を越える程の最強の剣士と出会い、終ぞ彼女に勝てる事はなかったという。
ここまででおとぎ話の一つでも作れそうな程だが、彼の物語はこのあとで最大の山場を迎える。
アンダーワールド――前述した全ての世界を越える究極の仮想世界。ここで彼は多くの大切な人や自身の相棒となる少年と関係を育み、そして決定的にで残酷な別れを経験した。
SAOの倍以上もの人々を魔王の魔の手から救った二刀剣士は、200年もの間その世界を守護した後に現実世界に帰還する。当時の記憶の大半はもう当人の頭には残っていないものの、キリトは「大切な思い出」だと優しい表情で言った。
それから程なくして、彼は《桐ヶ谷和葉》として次の戦場であるこの世界を訪れた。
どれだけの間、言葉を発しなかっただろうか。
その場に居る三人の勇者は、目の前の青年が語る英雄譚に聞き入っていた。数々の衝撃を受け、驚愕した。
「――これが、俺の全部だよ」
途轍もなく長く、険しい道のり。その全てを語り終えたキリトは、一つ息をついて話を切り上げた。
それから数秒の間、沈黙が訪れる。乃木園子も、三ノ輪銀も、鷲尾須美もどう言葉をかけていいか分からなかった。それだけ、彼の物語はスケールの大きな話だった。
「キリトさんは……わたし達の知らない世界で、わたし達よりもずっと長い旅をして来たんだね」
最初に言の葉を紡いだのは園子だった。
この話を聞いて、分かったのだ。キリトという人物が時折見せる、複雑な感情が混ざり合った表情の意味と感情の理由が……
その裏にどんな景色があって、どんな思いがあるのか。今までは一つとして想像できなかったのに、今ならハッキリとその憧憬が浮かんでくる。
「今の話を聞いて、キリトさんが何であんなに強いのか分かった気がするよな」
「えぇ、そういう意味で言えば確かに神樹様が遣わした剣士だって言うのも間違いではないのかも……」
「何せ、沢山の人を救った英雄様だもんね~」
英雄、それは彼に最も相応しい呼び名だと園子は思った。
沢山の人を救い、心を通わせ、世界を取り巻く酸いも甘いも経験した青年。自分達が勇み誰かを救う者なら、彼は文字通り栄華に彩られ多くを救う者――英雄だ。
「お、俺は英雄なんかじゃないよ。一人の剣士として、自分の守りたいものの為に戦ってきただけで……」
面と向かって称賛される事に余り慣れていないキリトは、照れくさそうに頬をかく。
「現に、俺は今までに沢山の物を失ってきた。殺してきた。こんなのが、物語の煌びやかな英雄な訳がないよ」
救ってきた物の多さ以上に、失った物の重さを思う。それがキリトという人の優しさだ。
表情を俯かせたキリトに、園子は愛おしそうに表情をして、その頭に手を乗せた。
「え…そのっち……?」
キリトは困惑した。
けれど、園子はその軟かな黒髪を優しく擦る。
「わたしが頑張った時とか、悲しそうにした時、キリトさんはいつもこうしてくれたよね?だから、わたしからも沢山頑張ったキリトさんにお返しだよ。沢山、たくさんのお返し……」
多くの感謝と愛情を込めた。
その温かさが心に伝わる事を、魂を解きほぐしてくれる事を知ってる。キリトの歩んだ道の重さも長さも、少女には想像しか出来ないし理解も出来ない。それでも、今この場に居る彼を知っているのは自分達だけだ。
それなら、この世界で頑張った彼にささやかな労いがあっても罰は当たらないだろう。
「……うん、ありがとう」
ただ一言、キリトは園子に感謝して一筋の涙を流した。少しだけ、少女の優しさに甘えた。
夜空の下でそんな二人を、銀と須美は優しい表情でずっと見守っていた。
■
早朝の麗らかな日差しと、冷えた空気。
季節が湿った夏から乾いた秋へと変わろうと準備を始める中、キリトは乃木家の庭で木剣を握っていた。
「これを握るのも、一か月ぶりか」
もはやこの世界で一日たりとも欠かさず続けていたはずの早朝トレーニングも、最近は疎かになっていた。
お供だったこの木剣にも随分と寂しい思いをさせたので、今日は少し早起きをして多めに時間を取っている。
「――――やっぱり、少し
木剣を二度、三度と振ってみて感触に違和感を覚える。
昨晩、園子と戦った時にも思った事だが、あの勝敗は普段鍛錬の差が招いた事だと俺は分析した。お互いのスペックは互角で、俺はあの場で持ちうる突発の発想と閃き、反応の全てをぶつけた。
その上で負けた。
二刀流を解禁した直後、決まり手の発動寸前で勝ちきれなかったのは、コンマ一秒程度とは言え俺の剣技が遅かったからだ。この差は人の感覚にして直接は知覚できないほどの小さな隙間だ。けれど、極限まで加速した
園子はこの一か月で進化した勇者の力だけでなく、それを付け焼き刃としないだけの研鑽と努力を重ねていた。その結果、彼女はあの一瞬で『あの時の』俺には辿り着けない領域――――限界を超えた速さを手に入れたのだ。
「ッ!」
負けて良かった。
今でこそ思うが、園子が勝ってくれた事に感謝すらしている。
それと同時に、果てしなく悔しかった。
汗が滴るのも無視して、何度も剣を振る。ああでもない、こうでもないとしっくりくる一撃を出せるまでこの研鑽は終わらない。
剣戟の速さで負けたのなんて、ユウキと戦って以来だった。
「ああ、悔しいさ!」
どれくらいの時間、剣を振り続けただろう。
意思よりも先に体の限界が来て、木剣を杖代わりに息を付く。
負けたのは、自分の弱さから目を背けたから。
あの時の園子は、いや彼女だけじゃない。須美も銀も、三人は自分にも他人にも一つとして嘘を付いていなかった。自分の弱さと向き合い、足りないものと引き換えに持てるものを差し出して、勝負を挑んだ。
それが出来る強い女の子に、あの時の逃げるしか出来なかった俺が勝てる道理などあるはずがない。
二刀流を使う時は、俺が限界を超えた力を出さなければならない時だ。
それがどうだ?
苦し紛れに引き抜いた青薔薇は、本来の剣光を放っていたか?
心中する勇気と、向き合う強さが違うことくらい俺は嫌と言うほど知っていたはずだ。SAOで自暴自棄になったクリスマスの夜に、今は亡き大切な人から教わったはずだ。
「おぉ、頑張ってるね~。キリトさん」
その声に振り返ると、そこには園子が居た。
「……もう起きたのか?まだ、いつもより早い気がするけど……」
時計がないので正確な時間は確認できないが、それでも普段彼女が起きる時間よりもかなり早いのは分かる。
「うん、最近はわたしもやってるんだ~。朝練」
そう言って、そのっちは庭にある小屋から一本の木槍を取り出してきた。
思えば、いつも寝間着姿でそのまま来る園子が、今日は上下体操着と動きやすい服装をしているのに気付く。
「へぇ、朝が弱いそのっちが……」
「何処かの誰かさんに~、足手纏いって言われたからね~」
含みのある笑顔で園子は答える。
「うっ、それは……すみません」
無事和解したものの、彼女は俺が言い放った一言を未だに根に持っていた。
酷い事を言ったのは事実だし、謝ったからと言って許される事じゃないのは承知している。悪いのも完全に俺なので、言い返すことも出来ない。
「……その通りだって思った」
「え?」
園子は槍を両手で構え言う。
「だからッ!」
一振り、木槍が空気を切る。
勇者に変身していない状態では幼気な少女でしかないはずの乃木園子は、神樹様の加護を持たない生身で見事な打ち込みを見せる。
「――強くなろう。って思ったんだ」
それは打算も野望もない、純粋な思い。
彼女が抱いた願い。それを叶える為に、ただ前を向いていた。
あと10話程度でわすゆ編終わります