信じられない。
壊れるはずだった世界は未だその姿と形を保持していて、大好きな親友も残った住民も生きている。空を埋め尽くさんとしていたバーテックスは一掃され、進化体も剣士の放った渾身の刺突によって撃破された。
終わっていない。
全部残っているんだ。
黒い太陽が照らす結界外の荒廃した世界の上で、黒衣の剣士の姿が揺らめく。
変化していた装束は元の状態に、二刀も英雄の宝剣から勇者の名もなき剣へと戻っていた。私はみーちゃんの肩を借りて、キリトの元へと急いだ。しかし、私達が傍まで辿り着く前に少女の体が左右に揺れて膝をついた。
「キリト!」
背中ごしに呼ぶ。
ようやく彼女の元まで来ると、和葉はその黒い瞳で私達を映した。
「大丈夫、ちょっと立ち眩みがしただけだから……。二人こそ無事で良かった」
本来なら絶望的状況から脱し、劇的勝利の余韻に浸りたい所だったが振り返ったキリトの表情を見て息を詰まらせざる負えなかった。
血色が悪く真っ青な顔色に、明らかに無理をしていると分かる痛々しい笑顔。勇者の切り札は、命を削る奥の手だ。一分にも満たない時間とは言え、それを使った代償は計り知れない。
「言ってる場合!?まずは自分の体の心配しなよ!」
「いやそれ、歌野が言う?」
軽口なんて叩いてる場合じゃないのに、こんな状況でも自分がどれだけ辛くても頑張ろうとする。
知ってる。そこは同じだ。
私だって『日常』を守りたくて、戦いが終わった後はどれだけ傷だらけでもクタクタでもそうして来た。それを自分に返される日が来るとはまさか思わなかったけど……
「どっちも重傷だよ!早く手当てしないと……!」
この場に置いては水都の意見が最も正しい。
それくらい私にだって分かる。
「立てる?と言っても、こんなコンディションの私には言われたくないでしょうけど……」
「俺の切り札は外傷を伴うタイプじゃないんだ。ちょっとだけ頭が痛むけど、歩いたりするだけなら問題ない」
徐に立ち上がると、キリトはその足で歩き始める。
「一先ず、結界の中に入ろう」
戦いは終わったけど、依然として結界の外は超危険地帯だ。
私やキリトは勇者だけど、みーちゃんは巫女とは言え戦闘能力は無いに等しい。まずは安全確保の為、私達は逃げるように諏訪結界の中へと帰還した。
結界を維持する御柱が破壊され、以前よりも随分と小さくなった諏訪の大結界。
その中には、今もなお歌野がこれまで守ってきた数十、数百の住民が生き残っていた。水都は俺と歌野を一度上社本宮に預けると、住民たちへの呼びかけと報せをしに出かけた。
怪我の具合自体は歌野の方が大分酷くて、俺の方は切り札を使った"代償"を除けば大きめの裂傷が数ヶ所にあるくらいだ。
お互いによくもまあここまでボロボロになったモノだと思いつつ、歌野は手当てもそこそこに上社本宮内を移動して参集殿に向かった。その意図が何のためなのか、聞くと彼女はこう答える。
「四国との通信よ。キリトも知ってると思うけど、諏訪と四国は決まった時間になると近況報告を兼ねた通信を行うようにしていたの。もうする事もないと諦めてたけど、こうして何処かの誰かさんのお陰で生き残れた訳だから、向こうとも色々と話合わないと……」
そこまで聞いたところで、俺は立ち止まった。
「ちょっと待て、その相手ってもしかしなくても乃木じゃないよな?」
「え?勿論、その乃木さんだけど……」
問いへの解答を聞いて三歩後退、からの全力の逃亡――と行きたい所だったが、寸前で後ろ手を歌野に取り押さえられた。
「ストップよ、キリト。どうして乃木さんの名前を聞いた瞬間、この場からエスケープしようとしたのかしら?」
全部見抜かれてら。
満身創痍とは言え流石は諏訪を三年以上にも渡って単独で守り抜いた勇者、その名前と偉業は伊達ではない。
「に、逃げるだなんてそんな……。俺はただ、二人の大事な通信を邪魔しちゃ悪いと思って……」
苦し過ぎる言い訳に、歌野は何を察したのか満面の笑みで俺に問いかけた。
「まさか、あなた乃木さん達に何も言わずにここまで来た。……とかじゃないわよね?」
びくりと肩が震える。
図星を突かれて戦々恐々としつつも、俺は努めて平静を装った。
「いやいや、そんな訳ないじゃないか?ちゃんと言ってから来たに決まってるだろ?書き置きだけど……」
最後の消え入るような声音を歌野は聞き逃さなかった。
まさかの事実に呆れを通り越して、もはやため息すらも出ない。人類最後の砦である四国を守る勇者の一人が単独専攻で飛び出した挙句、周りに何の事前報告もしていない何て信じられない。
そんな様子の彼女に、俺は苦笑しながら頬をかいた。
「えっと、何事にも急を要する事ってあると思うんだ。だから、乃木には帰ってから自分で話すからさ?この場は一先ず俺は席を外しても……」
「良い訳ないでしょ!」
「ですよね」
内心で何処か他人事のように気が遠くなりながらも、俺はそのまま連行されたのだった。
□
勇者通信は特別な無線機を使って行われる。
神樹による神秘的な力で繋がれた四国と諏訪と唯一の交信手段。機器を起動してしばらくし後、通信機から声が発せられた。
『香川より、乃木だ!白鳥さん!つかぬ事を伺うが桐ヶ谷がそっちに行っていないか!?』
慌てた様子の若葉の声に歌野は苦笑しながらも返答する。
「えぇ、来てますよ。今さっき命の危機を助けられた所です」
キリトが諏訪に向かった事は既に書置きで若葉達も把握していた。向こうでは大事な勇者が単独で救援に出発したという事件に大騒ぎで、若葉は通信が繋がるのを今か今かと待っていたのだ。
「変わりますね」と一言断りを入れて、通信機をキリトに渡した。
香川の方が軽い厳戒態勢になっていた事など露知らず、キリトはいつもの様子で話し始めた。
「やぁ、乃木。昨日ぶり……」
まるで朝にし忘れた挨拶でもと軽い様子のキリトに若葉は当然キレた。
『この大馬鹿者!!何故黙って一人で向かった!?お前ひとりの軽はずみな行動で、私達がどれだけ心配したか……』
「それに関しては悪かったよ……こっちも急な事で皆と話し合う余裕がなかったんだ。現に、あと少し俺の到着が遅れてたら諏訪は住民共々バーテックスにやられていた」
これは紛れもない事実だ。
あの時、もしも他の皆の話を通したり大社の人間に出撃の許可など通していては間違いなく間に合わなかった。キリトは申し訳ないと思うと同時に、自分の行動を何一つとして後悔していない。
『さっきの白鳥さんの言葉もある。諏訪への救援が必要だった事自体は疑っていない。だとしても……桐ヶ谷、お前は勇者なんだ。神樹様に選ばれた者として、四国を守るのがお前の責務だ。三年前に勇者となった時点で、お前はもう一人の身体じゃないんだ』
「……分かってる。そんな事……」
キリトは絞り出す様に言った。
若葉は真面目で立派な人間だ。
彼女が香川に拠点を置く勇者面々のリーダーなのが初見で頷けたくらいには、尊敬しているし、信頼している。しかし、それと俺自身の在り方は別の話だ。三年前に勇者になった時点で、俺に打たれた楔は勇者としての宿命だけじゃない。『黒の剣士』として戦うこと、これは場合によっては神樹の御心よりも優先しなければならないアイデンティティなのだ。
「乃木、君の言う事は正しい。勝手な行動をした事は謝るよ」
それがキリトという剣士であり、英雄の在り方なのだ。
通信機の向こうの若葉もキリトの含みのある声音に何か言いそうになったが、それは歌野が話に入った事で遮られた。
「まあ、二人の事はそっちに戻った後にでもよく話し合ってください。今日は通信の状態も良いので、今のうちに近況を報告しておきたいです」
『……分かった。頼む』
歌野はキリトを一瞥して、彼が頷いたのを見てから現状を話し始めた。