優しい陽光と、涼やかで心地良い風。
桐ヶ谷家の縁側に座り、剣道の素振り練習をする妹を見守る。笑顔で「お兄ちゃん」と呼ぶ妹と、血のつながりがなくとも愛してくれた両親。俺が当初義理の家族だと気付いた時、一時期は悪化しそうになった家族仲もお互いの歩み寄りとこれまでの時間が解決してくれた。
その日々は平和そのもので、きっと誰もが当たり前に享受するものだ。取り立てて特別視するものでも、眩しく思うようなものでもない。
練習が終わった妹が、俺の膝を枕にして眠る。
「道着のまま寝たら風邪ひくぞ」と言っても、妹はうつらうつらとしながら「うん……分かってる」と空返事をするばかり。結局そのまま眠ってしまうのがいつもの流れだった。
健やかな寝息を立てる妹の髪にそっと触れる。
頭を撫でると、心地良さそうに笑ってくれた。
その光景の尊さに微笑み、ゆったりとした視線を空に向ける。蒼く、遠い、昼下がりの空……。
「ッ……!」
それが突然に赤く染まる。
膝元からはいつの間にか妹が居なくなっていて、家からも周囲からも誰の気配もしない。
「スグ?母さん?」
誰の返事もない。
姿は私服から黒のロングコートに変わって、背中には二本の剣がいつの間にか携えられていた。それは記憶の中の『黒の剣士』の姿だった。それに気付いて更に動揺を深めるが、不気味な程に無音な世界に突如として何かが破壊されたような轟音が響いた。
「……なんだ?」
赤く染まった空に亀裂が走った。
それだけじゃない。
何かが崩れていくるような音が目前まで近付いて来る。その正体は数秒後に露わになった。崩れ去っていたのは文字通り世界そのもので、建物や道、この世界を構成するあらゆる物が次々と地面の下の奈落へと消え始めていた。
咄嗟に逃げようとしても、足はその場から動かない。
「待て……待ってくれ!」
崩壊が近付くにつれて気付く。このままでは、思い出の家も、場所も、その記憶すらもあんな風に消えてしまうと。
「頼む!消さないでくれ、この場所は……!」
いつだって現実は非情だ。遂にその崩壊の波が足元にまで到達する。
必死の願いも虚しく、自らの過ごした十余年の軌跡と共に暗い奈落の底へと落ちていった。
■
「ッ!?」
飛び起きる。
息が荒い。
「はぁ、はぁ、はぁ……!!」
何度も息を吸って、吐いて、精神を安定させようと努める。
視界に入るのは暗い客間で、網戸の外には寝る前に見た景色が変わりなく広がっている。それら周囲の景色や今の自分の状況が徐々に認識できるようになると、意識にも少しずつ冷静さが戻ってくる。
「…………」
最後に一度、大きく息を吐く。
心臓の鼓動は正常な脈を取り戻して、上がった体温も次第に冷めていく。
体中汗びっしょりで、肌に服が張り付く不快感にすらも現実味を感じて安心する。ここは現実だ。そう何度も意識に暗示して、ようやくまともな思考能力を取り戻す。
「……ここは?……そうか。あの後、歌野の家の客間で眠って……」
細かな事情は省くが、昨晩は蕎麦屋で夜飯を済ませた後に、歌野の提案で彼女の家の客間を寝床として使わせてもらったのだ。
風呂から上がって以降は、疲れもあってか泥のように眠った。そして、今に至る。
胸に手を置き思考を戻すと、俺はこの痛みの正体が何であるかを確信した。
「切り札の、代償……」
切り札とその代償。
勇者に備わった最終奥義である『切り札』は、勇者の力の根源である精霊をその身に降ろす事で絶大な力を発揮する技だ。しかし、その発動は身体に大きな負担を掛ける。故に長時間の連続使用は勇者の本人の命にかかわるのだが、俺の場合は力の源が精霊ではない事からこの"代償"が他の勇者とは大きく違う。
降ろすのは精霊ではなく、違う世界の自分自身であるという点がこの違いの原因なのだが……。
ともかく、それが今になって訪れた。否、実際には一度経験しているから
「……やっぱりか」
勇者になるよりも以前、厳密に言えば三年間のあの日から以前の事がどれだけ頑張っても思い出せない。まるで、元からそこには何もなかったかのように空白があるのみ。
ここまで言えば分かるだろう。
――『記憶の永続的な欠損』。
これが俺に課せられた切り札の代償だ。
消えてしまったのは、勇者になる前の全ての記憶。家族、友人、大切な人達と過ごしたかけがえのない日々、それらが全て跡形もなく俺の頭から喪失していた。
「はは、これは流石に……キツイな……」
強がりで笑って見せても、果てしない悲しみを抑える事は出来ない。
分かっている事として、こうして消えてしまった記憶はもう二度と帰ってこない。どれだけ大切な人との思い出でも、何気ない日常の一ページでも、大小関係なく全て失われるのだ。
もうあの人達を思い出す事は二度と出来ない。
そう思うと、瞼からとめどなく温かな涙が溢れてくる。
「う、あぁ……ごめん、ごめん!父さん、母さん、皆……もう何も、思い出せないよ……!」
楽しかった事も、苦しかった事も、きっと全部大切でかけがえのないものだった。
それだけじゃない。
あの人達を忘れてしまう事は、もう誰もこの世界に彼らを知っている人は居なくなったという事と同義だ。分かってはいた。切り札を使うという事は、そういう事だ。命と等価か、それ以上の物を明け渡す。これが勇者の運命であり、宿命。こればっかりは逃げる事も避ける事も出来ない。
でも、俺の中に生きていたはずの皆の魂を、俺自身の手で消してしまったという事実は変わらない。
「精一杯生きた彼らの事を、俺は……!」
声を押し殺して泣く。
万が一にだって、こんな姿も、声も、誰にも見られたくない。聞かれたくない。涙を流す時はいつだって一人じゃなきゃダメだ。何より守るべき人達にこんな姿は見せられない。
幸いなことに、今ここには俺一人しかいない。
だから、今まで押さえこんでいた物も含めて、その夜は久しぶりに思う存分泣いた。