時は夕刻。
西方向、結界の縁。
御柱によって形作られた人類の生存領域は、三年の役目に幕を閉じようとしていた。
そして、残された一本の御柱は、住民が四国に避難するまでの時間を稼ぐ役割を担う事になる。
「今まで、ありがとうございました」
歌野は頭を下げた。
間もなく、神樹から神託が降りて四国への避難が開始される。諏訪の人々は慣れ親しんだ地への愛情と、壁の外に出ることへの恐怖から、最初こそ反対していた。しかし、水都の必死の説得で最後には全員が覚悟を固めた。
そうさせたのは、歌野と水都のこの三年の献身があったからこそだ。二人を心の底から敬愛し、信頼しているからこそ、皆もその覚悟に答えた。
「うたのん……」
「分かってる。行きましょうか」
神託が下った。
出発の時だ。四百の人々の大移動の先頭には既に、キリトが勇者に変身した状態で立っていた。
「準備は良いか?」
キリトの言葉に歌野は笑って帰した。
「オフコースよ」
それ以上に言葉など必要ないと、拳を突き合わせた。
緊張に包まれた空気の中、その時は来る。
「行くぞ!」
黄昏に染まった光が照らす世界で、二人の勇者が結界の外へと出た。
最初にキリトが先陣を切る形で結界の外に出て、安全な道を確保。それを見て、水都が住民を先導する。歌野は殿として、最後尾の護衛を受け持つ。
全ての住民が結界から出たところで、歌野が最後尾につく。彼女は名残惜しく思いつつも、振り返りはしない。一度でも後ろを向けば、自分を信じて付いてきてくれた水都や皆を裏切る事になるからだ。
結界の外の荒廃した世界を目にした諏訪の人々は絶句した。
そこは元々自分達が住んでいた筈の世界で、今でも目を閉じればそこで笑い合う姿が思い出せる。
しかし、それらには目をくれずに進む。明日を生きるために、全てを置いていくと決めた。
先頭を行くキリトは、水都の傍について、三年の旅で培った危機感値能力を最大まで引き上げて周囲を警戒する。神樹の加護を受けているとは言っても、進化体や星屑の強襲を全て避けられる訳じゃない。故に、道中で出会う星屑などは速攻で倒すしかない。
「っ、皆止まれ!」
キリトが叫ぶと、全員が足を止める。
見れば、進行方向から星屑が三体こちらに向かって来ていた。住民たちが恐怖に声を上げるが、水都が落ち着くように声を掛ける。その間にもキリトがその二刀剣技を星屑に仕掛けていた。
「ゼアァア!!」
▽片手剣4連撃技▽
バーチカル・スクエア
慟哭と同時に四つの剣線を刻み、星屑を切り裂く。
▽片手剣7連撃技▽
デッドリー・シンズ
そこから流れるようなスキルコネクトで、襲いかかってくる二体目と三体目を同時に屠る。
この間に僅か数秒で蹴りを付けたキリトに、住民はもちろん水都も驚愕する。住民たちにとってバーテックスとは恐怖の象徴であり、それをこうもあっさり倒してしまった。それが、歌野や水都と同じ年の少女がやってのけている。
「先を急ごう。日が沈み切るまでに、出来るだけ進みたい」
日が沈んでしまうと、今のようなペースでは進めなくなる。
そうなる前に、県境付近まで進みたいのがキリトの正直なところだった。幸い、今回は歌野が後ろを警戒してくれているので自分は進行方向を気にするだけで良い。一人で全方位を見なければならなかったあの頃とは大違いだ。
四国へ向かうルートは幾つかあるが、神樹様の導きのもとキリト達が目指すのは……諏訪湖を出てから一度長野県内を南下し『E19』から名古屋に出て、そこから琵琶湖経由で京都、大阪、神戸、姫路、岡山の順で現勇者の最前線である丸亀へと至るという物だ。身を隠すなら山中を進むのがいいかもしれないが、住民たちの体力を考えればそれは出来ないのでこれしかない。
名古屋まで辿り着けば、休憩できる地点も多くなる。そこまでは、出来れば一気に駆け抜けたい。
……とは言え、時間は有限だ。
箕輪町付近で周囲は暗くなり、破壊され尽くした世界に街灯など無く、暗闇がより精神を擦り減らす状況になる。
暗くなっても出来る限り進み続けるが、それでも体力と集中力は刻一刻と削られていく。出発前に決めていた最初の休憩地点である駒ケ根市の光前寺本堂に到着した頃には、すでに全員がくたくたになっていた。
「何とか、今日中にここまで来られたな」
無残にも破壊されてはいるものの、原形を留めた境内にはバーテックスは一体も居ない。神樹が神聖な力で、ここら一帯に一時的な加護を施してくれているお陰だ。
「日付変更ギリギリ。中々にヘビーでハードなトラベルね」
「うん、これが後三日って考えると……」
予定通り、ではあるが……。
安心など出来る訳がない。この地はどれだけ警戒しようとも、絶対的な安全など有り得ないからだ。各休憩地点に留まれるのは三時間が限度で、その間に睡眠を取り食事をする。勇者である二人は休憩地点ごとに交互に休息を取り、片方が休憩せずに見張りをする。
「だからこそ、数少ない休息は貴重だ。見張りはこっちでやっとくから、歌野と水都も早く寝た方がいいぞ?」
「……そうね」
歌野はしばし考えてから、水都に耳打ちした。二人は頷き合うと、手頃な段差に座って肩を預け合った。簡易的な毛布をかけて、寄り添い合う二人にキリトは目を丸くする。
「あのー、お二人さん?寝てきて欲しいって言ったはずなんだけど……」
「寝るわよ。でも、一人にしたら寂しがり屋のキリトちゃんは泣いちゃうでしょ?」
「いや、泣かないからね!?俺って一体、どんな風に思われてるんだ?」
自分が強い人間だとは言わないが、泣き虫だと揶揄されるのは心外だ。
これでも一応勇者なんだと胸を張っても、笑い飛ばされて終わりなんだろうけど。
「私もうたのんも、キリトさんの事が心配なんです。……迷惑でしたか?」
水都にそう訊ねられて、キリトは言いよどむ。
少しして諦めたように息を付くと、視線をそれまでと同じ方向に戻して言った。
「分かった。二人がそれでいいなら、俺は構わないよ」
出来れば二人にはしっかり休んで欲しいのだが、こうなっては無下に追い返す訳にも行かない。
終末の世界の夜は何処までも静かで、眼下には街灯が星如く眩い夜景ではなく、静かな闇だけが広がる。頬を撫でるこの風だけは、古から現代まで変わらない。
「アスナ……」
言って、ハッとした。
「……いや、彼女は厳密には俺の知っている人じゃなくて……」
そう、彼女は『黒の剣士』の相棒であり、愛する人だ。
こうして口から彼女の名前が出たのは、何かの気まぐれ。しかし、考えなかった訳じゃない。この世界にも、この世界の『キリト』が居たように、『アスナ』も何処かに居たんじゃないかって……何事もなく時が経てば、この世界でも『ソードアート・オンライン』がリリースされて、あの広大な仮想世界で巡り合っていたのではないか?――そんな風に考えた事は何度だってある。
でも、今は無意味な思考だ。
今もこの夜空の下で、乃木達は俺の事を心配してくれている。まだ一か月とは言え、されど一か月だ。なまじ日常が濃いのもあって、彼女達との信頼関係はそれなりに築けていた。それをここで壊すのは、俺の本位じゃない。だから、帰らなければならない。
「星って、この世界でも見えるんだな……」
誰に言うでもなくそうこぼした。
■
一方、丸亀城ではキリト失踪の騒動がようやく落ち着きつつあった。騒がしかった城内が静まり出した頃、若葉は一人丸亀城本丸石垣に座っていた。
その視線が見る先は、瀬戸内海のその先……今は侵略者の手に落ちた本州の地だ。
「若葉ちゃん、ここに居たんですね」
声をした方を向くと、ついさっきまで大忙しだったであろう上里ひなたが立っていた。
「……諏訪との通信が途絶えた」
今までのように通信の状況が悪いという話ではなく、完全に香川と諏訪を繋ぐチャンネルそのものが使えなくなっていた。
「それって……!」
ひなたはその言葉の意味する所を察して、悲痛な表情を浮かべた。
「ああ、もう諏訪は……」
最後した通信で若葉は歌野に『こちらでも策を考えてみる』と言った。事実として、友奈たちも集めてすぐに緊急の作戦会議を行った。五人の殆どが諏訪への救援を願い出て、若葉自身もそうするつもりだった。しかし、大社は香川の守りが弱くなる事を理由に決して許可を出さなかった。
諏訪の陥落。
それの意味する所はつまり、そこを守護する勇者と巫女の死を意味する。同時に、単独で救援に向かったキリトも……。にも関わらず、こうして瀬戸内海を見る若葉の目は、一つも諦めの色を映していなかった。
「諏訪は陥落した。それは確実だ。でも、私がもしキリトの立場であったなら……少しでも生き延びる確率のある道を選ぶ。その結果、例え愛する故郷との別れを強要する事になったとしても……」
キリトという剣士は強い。それが若葉が彼女に持つ素直な印象だ。
武人としての力は言うまでもなく、それは純粋に人としての部分もそうだと彼女は思う。ただ力があるだけでは、自分一人生き残る事は出来ても他者を守る事は出来ない。敏く、賢く、そして踏み出せる勇気と踏み止まれる臆病さ。それらがあって、初めて人を導く事ができる。
キリトはきっとその時点で最も確率の高い生存戦略を立てるはずだ。ならば、必然的に彼女が取る行動は一つ。
「まさか、ここまで逃げ延びてくると?」
ひなたもその考えに気付き、驚愕する。
「あくまでも可能性の話だ。だが、私はあいつを信じる」
一か月前、キリトが香川に来た日の事は鮮明に覚えている。
何十人もの無力な民を連れて、バーテックスとの大立ち回りを演じる。その圧巻の様は、偏に熾烈というに尽きる。その時、今まさに立っているこの場所から瀬戸内海を眺めていた若葉は、すぐさま勇者に変身して助太刀に入った。
二度も同じ偉業を成すは容易じゃない。しかし、今回はあの白鳥歌野も居る。実際に会った事はないが、歌野もキリトと同じく三年間に渡ってたった一人でバーテックスと戦い続けてきた強者だ。そんな二人が手を組めば、この考えとて現実味を帯びてくる。
「ここで待つ。それが、今の私に出来る唯一の備えだ」
自分に自由にできる時間は、只管にここで待つ。それが若葉の出した答えだ。
動かざること山ごとし。そんな様を見たひなたは、微笑んだ。
「……分かりました。では、私はそんな若葉ちゃんの為にお夜食でも作ってくるとします」
「助かる、ひなた」
若葉が意味あると断じてそうするのなら、ひなたはそれを手助けする。この絆はバーテックスとて崩せるものじゃない。
その向こうから黒いシルエットが見えるその時が来るのかどうか、それは神にも分からない。確実なのは、彼らの健闘次第でこの先の未来が大きく変わるという事だけは断言できた。