耳をつんざく轟音が月夜の廃工場に響く。
それが銃声、それも何十もの射手が自分に向けて四方八方から撃ちかけたと狂三が認識した時、すでに勝負はついていた。
「が……!? あっ……ぐぅ……!!」
全身をくまなくハンマーで叩かれたような激痛が狂三を襲う。
霊装のお陰で即死こそ免れたものの、体の至る所から出血し、骨が砕かれていく現状では遅いか早いかの違いでしかない。
(一体……何故……)
それでもどうするかを考えるより、反射的に逃走を選べたのは流石と言うべきだろう。
一度影に入りわたくしたちに守られて回復し、その上で状況を把握・反撃する。
最善手である。
体勢を立て直すべく己の影に潜り込もうとして―――そこにいるはずの自分の味方たちからさらに銃撃を受けるのでなければ。
「あ……がぁ……!?」
完全に予想外の状況。何故、何故と頭の中でこだまする中、痛みで飛びそうになる意識を意地でつなぎとめるべく敵を睨む。
無数の敵―――わたくしたち、時崎狂三の分身体たちを。
今新たに影から出てきたものも合わせて50は下らないだろう―――逆に50しか残っていないだろうとも。
機関銃の様な射撃は続く。
影を唯一の原料とする射撃は弾切れも銃身焼けも起こらない。
分身体たちが望む限り拷問は終わらない。
銃弾の雨により、ただ一人舞い踊らされる狂三はそれでも自分に向け銃口を突き付け―――短銃はあっさりと吹き飛ばされた。
同時に、無数の影の弾が膝に当たり、関節を砕き、崩れおちる。
もう立っていることすらできない。
これにより、【1の弾】で加速、強引に逃げるという狂三にとって勝算の薄い、それでも最後に残った逃走法も完全に潰えた。
狂三にできるのは自分の膝を抱きかかえて頭を下げ、急所を守ることぐらいだった。
これだけの数の分身体が一斉に自分に攻撃をかけると言うあり得ざる状況。
狂三は理解してしまった。
他に残っている味方の分身体はいない―――いればこの状況に反応している。
今や完全に孤立無援だと。
そうこうする間に、嵐の様な銃声がやっとおさまる。
終わったことに安堵する自分を情けなく思いながら、狂三は恐る恐る顔を上げる。
理由は不明だが反乱しておいて命を獲らないことを訝しみ―――そして己の両手を見やり理解する。
理不尽な状況への困惑、無限に続く様な絶え間ない痛みのせいで意識が向いていなかったが、狂三の両手は銃撃で破壊しつくされていた。
指が一本も残っていない枝肉の脚の様な腕では最早、ザフキエルは使えない。
理解したとたん、腕から先に信じられないほどの痛みが走り、感じたことが無いほどの吐き気に見舞われる。
精霊である自分ならば時間経過で回復するが、この場においては完全な詰みだ。
(焼きが……回りましたわ……)
絶望的な状況、荒い息、全身を蝕む鋭い痛み、口の中に広がる鉄錆と汗の味―――死の気配。
それでも諦めない、諦めたくない。
諦めるのも死ぬのもいつでもできる。
だが、これまでの全て、自分が踏みにじってきたものを無駄にすることは許されない。
少しでもましな手を選ぶべく、時間稼ぎと相手の反応を伺うため、うつぶせのまま狂三は己を奮い立たせるように相手を挑発する。
「さて、気はすみまして? それならばそろそろ、わたくしを殺したい理由を教えていただけませんこと?」
辛うじて声は震えずに済んだ。
反応は無い。
流れる血と汗が口に入るのも厭わず、狂三はいつものように口角を釣りあげ、どうにもならなそうな状況を誤魔化すのもかねて、今や自分の敵になったわたくしたちに嗤いかける。
「あらあら……わたくし事でもありますが、背中から切り付けておいてだんまりですの? くだらない反乱を起こすのならせめて噛ませ犬らしく『この恨み晴らさず置くべきか!』とでも雑魚らしく突っかかってきてもバチの一つはあたりませんのに。それとも……緊張しすぎて喋る言葉の一つすら喉から出せなくて?」
やはり反応は無い。
代わりに無数の分身体の中から二名が狂三の左右に来ると、機能を果たせないボロボロの腕を後ろ手に捻りあげ押さえつける。
皮膚がそげた部位を雑に扱われたことで、悲鳴が出そうになるのを根性でどうにか抑えつける。
それでもこれまで以上の激痛で視界が歪み、吹き出す脂汗が気持ちが悪くなるほどの寒けを狂三にもたらす。
そのまま狂三を強引に立ち上がらせると、分身体たちはそのまま工場の奥に引きずる様に連行する。
狂三は苦痛と危機感、それに絶望感を紛らわす意味もかねて、何とか意識を分身体たちの表情に向けようと努力してみた。
いっそ嘲弄する笑みを浮かべていたらまだ気が楽だっただろう。
分身体たちは一様に無表情だった。
それも洗脳されたような意思のない顔ではなく、張り詰めた感情を意志の力でどうにか押さえつけるような、緊張を秘めた顔。
それがあたかも、これから下される判決に恐れおののく被告人の様に狂三には思え、思いの外動揺しそうになる自分を心の中で叱責する。
廃工場の奥は天井が崩壊していた。
三階に届くコンクリートの柱が垂直に刺さり、その周囲を飾る様に積もった瓦礫に月光が差し込み、そこから先は行き止まりであることを夜闇の中でも示す。
墓標
不吉な連想はそこにいる誰もの共通認識であるように感じる。
気が付けばあれだけいた分身体全てが、さして広くもない死んだ部屋に整列する―――これから重要な話―――狂三の運命を決める神託があるのだ、と。
得体の知れない不安を顔に出さないように努力する狂三に
「終わりましたか。十分準備したとはいえ、存外あっけなかったですね」
上から穏やかな―――同時に小馬鹿にするような、それでいて心にするりと入る声がかかる。
反射的に顔を上げるのと、柱の上から声の主が下りてくるのは同時だった。
月光が照らすその姿はとてつもなく美しかった。
白一色―――全てが統一された色の恐らく軍服をモチーフにした衣装は、ロングスカートから眩しく伸びるピンヒールのロングブーツにやや開かれた胸元と堅苦しいところが全くなく、少女に奇跡的なほど似合っていた。
全身から漂う雰囲気は穏やかで優し気だが、手にする抜身のサーベルは彼女がそれだけの存在ではないことを雄弁に告げる。
頭部にはまるで宝冠を模したキャスケットの様な帽子が、不揃いにまとめたツインテールの白い髪を飾り、異しくも高貴な面を称える。
白い女王
それ以外の言葉が出てこないその美貌を見た狂三は
「お前は……誰だ……?」
普段絶対しない様な言葉使いで、誰何の言葉をどうにか喉からひりだし、その姿を迎えた。
女王が見つめる―――赤い右目で哀れな捕囚を
女王が見つめる―――青い右目の時計をカチカチ鳴らし
女王が見つめる―――狂三と全く同じ顔で微笑みながら
「久しぶりだね、狂三さん」
女王が告げる―――久方ぶりの再会の言葉を
狂三は理解する。目の前にいるのが、自分がかつて反転しかかったときの姿だと。
「仕方がなかったんですよ。狂三さんが強情なのはわかってましたから―――だからオーディエンスを買収させてもらいました。事情を話したら彼女たち喜んで協力してくれました」
狂三は理解する。彼女の発言に体をカタカタ震わせる分身体たちを見て、反乱の理由を。
「もうちょっとスムーズにいくはずだったんですけど、まあ、まあ終わってしまったことはどうしようもないですよね……うわぁ、酷い怪我。大丈夫? 痛かったですか? ……でも」
狂三は理解する、してしまった、したくなかった。
「あの時焼かれながら撃ち殺されたわたしはもっと痛かったんですよ? ……まあ死んじゃったんだから当然ですけれど」
「紗和……さん……?」
この冗談めかして微笑む自分と瓜二つの何者かの全て―――狂三が好きだった声、誰をも安心させる雰囲気、年齢以上に穏やかな喋り口、そして何より狂三が犯した惨たらしい罪を謳う話の内容が、かつて自分が殺した親友、山打紗和のそれを示すことに。
怖い、怖くてたまらない。
「……お互いこう言う形で出会いたくはなかったですね。でもしょうがないんですよ? 狂三さんが悪いんですから」
「紗和……さん……ですの?」
「この顔だとそう思いますよね。どうしてかあなたに殺されたはずのわたしが、殺した狂三さんの顔で今この場に生きているのか―――まるで悪意のこもった小説か映画みたいな展開ですね」
理性は否定しようとする―――紗和ではない、あってはならない、と。
理性以外全てが肯定する―――これは間違いなく紗和だ、と。
最早、全身を激しく蝕む痛みも、危機的な状況への焦りも完全に消え去っていた。
あるのは、不可解な状況への困惑、凄まじい罪悪感、そして恐怖。
「でも狂三さんも私が死んでいる間、色々頑張ってたんですよね? 霊力を集めてザフキエルで過去に飛んで事象を改変する―――うん、問題の解決としては一番じゃないかな?」
「……沙和さん」
紗和の話で少しだけ体の震えが治まる。
勿論、だからといって自分の行いが許されるわけではないが、もしかしたら―――
「でも、贖罪としては最低最悪です―――そんなに自分の罪を無かったことにしたいんですか? 誰がそんなことをお願いしました?」
清水のような声で呪言を吐く。
狂三の淡い願望はあっさりと完全に打ち砕かれる。
狂三は気を払う余裕もなかったが、周囲の分身体の狂三たちも俯いたままガタガタと震えていた。
「厳密には狂三さんでは無いですけどいつぞやの言葉を返しましょう。あなたは害虫です。百害あって一利もなく、ただ増殖しただ増える。目的もなく破壊と病をまき散らす虫―――」
ああ、いえと言い直す紗和、その何気ない感じに狂三は今までで一番の悪寒を感じ
「単に狂三さんは昔のわたしを取り返したかっただけですもんね―――こんな得体のしれない精霊もどきでなくて。失礼しました」
狂三は心の底から絶望した。
時崎狂三は過去を目指す、昔の過ちを無かったことにするために。
それは、今目の前の異形の紗和に「ご苦労様、あなたは必要ありません。苦痛にまみれた無駄な人生、ご苦労様でした」と言うのに等しい。
今目の前にいる紗和よりも、都合の良いかつての幻影を追いかけたいのか、と言う紗和の詰問。
それは狂三の今までの全てを完全に否定した。
無表情で告げる紗和の、猛毒の言葉は、狂三の中の届いてはいけない深部に届いた。届きすぎた。
―――これは、まずい
他でもない紗和を殺した後にあの女に真相を告げられた時と同じ感覚―――反転衝動。
あの時は辛うじてザフキエルの力で反転を防いだが今は無理だ。
狂三の心を絶望が嵐の様に渦巻く。
そのまま黒い風は時崎狂三と言う器を成すすべもなく破壊し―――
「おっと。危ない、危ない―――元はと言えばわたし自身の事なのに。少し感情的になっちゃいました」
紗和が手を狂三に差し出す。
白い手が狂三に触れた途端、狂三の中で何かが弾けるような感覚が起こり、同時に破壊をもたらそうとしていた風が霧散する。
狂三の内部から無くなってはいけない何かが無くなった。
「……えっ……?」
狂三の心は未だ絶望に囚われたままだが、反転する気配は無い。
その訳を狂三は紗和の手の中に見る。
「やはりこちらでも上手くいきますか。彼女で練習したかいがありました」
紗和の掌には見覚えのある古風な短銃が握られていた。
他でもない、狂三の天使ザフキエルの短針たるピストルが。
慌てて、狂三はザフキエルの大時計を出そうとし―――何の反応もないことに気が付く。
自分の中に変わらずセフィラの存在は感じられるにもかかわらず、だ。
狂三は自分の天使がセフィラから切り離されるという、あり得ないことが起こったことを悟る。
「天使を分離するとどれだけ絶望的な状態でも反転しないらしいです……彼女もそうでした。簡単に反転なんかに逃げられても困ります。わたしを殺した怖い武器ですし、これは没収させてもらいますね」
冗談めかして笑いかける紗和と呆然とする狂三。
何が起こっているかも何を言っているかもわかりかねた狂三だったが、一つだけはっきりわかることがある。
自分の命運が紗和によって絶たれつつあることを。
短銃をどこかにしまった紗和が、狂三の首の真横に向かってゆっくりと歩みを進める。
手にしたサーベルが月光を反射し白く輝く。
それに呼応するかのように、分身体たちが狂三を地面に押さえつけ、髪を掴み、頭を前に引き出す。
それは斬首を待つ囚人の最後そのもの。
狂三は抵抗しなかった。
最早痛みも疑問も感じない。
あるのは経験したことが無いほどの凄まじい疲労感、悔やんでも悔やみきれない罪悪感、心を凍てつかせるような絶望感、そして諦観。
走馬灯のように色々なことが思い出される。
紗和とまだ何の問題もなく友人であれた時の思い出、優しかった自分の両親、自分と紗和を陥れたあの憎い女、そして彼―――士道のことも。
思えば遮二無二走ってきたような気もするが、結局紗和が目の前にいるという事実が全て。
時崎狂三は無駄な時間を費やし、無駄に多くを破壊し、無駄に大勢の人を殺した。
こんな罪を償う方法は世界のどこにも無い。
それどころか紗和一人のことですら到底償いきれていない。
それならばどんな形であれ紗和が生きていて、紗和が自分に報復すると言うのは、狂三の様などうしようもない悪人にとってまだしもましな結末なのかもしれない。
ならば、受け入れるしかない。どのみち狂三に選択肢は無い。
―――ただ、不安が一つ
「安心してください、狂三さん。わたしが狂三さんを殺すわけないじゃないですか」
微笑むように笑う紗和、その様は顔こそ違えどかつての彼女と同じように魅力的で
「幽閉させてもらうだけですよ、永遠に。セフィラもあるから問題ないですね」
微笑むように嗤う紗和、その様はかつての彼女と決定的に異なる邪悪ななにか
ええ、ええ。それはそうでしょう、何故そんな当たり前のことを失念するのです、わたくし。
反転した狂三の中にいる紗和が、かつての彼女と同じ様に善良なわけがないでしょうに。
そんなことは見ていればわかるでしょう、何故気が付かないふりをしますの。
不安が的中し、名状しがたい恐怖に襲われる狂三だがそれも長くは続かない。
狂三の白い首にサーベルの峰が吸い込まれるように叩き付けられる。
度重なる身体と心へのダメージを強靭な精神力でどうにか耐えてきた狂三だったが、急所への芸術的なまでに的確な一撃は、あらゆる点で限界寸前の狂三に、有無を言わさず引導を渡してしまう。
「少し待っていてくださいね、狂三さん。あと少ししたら他の方も連れていきます―――そうですね、例えばあなたの大切な彼とかどうでしょうか?」
狂三が気絶する直前の、何気無く、明日の星座を占う程度の気軽さで下される残酷な宣告。
紗和が伝えた内容は狂三にここまでで最大の恐怖、焦燥、そして激しい怒りをもたらしたが、それも一瞬、遠のきつつある意識が狂三に戻ることは最早無かった。
「それでは皆さん、狂三さんを連れて行ってあげて下さい」
紗和が狂三の分身体たちに指示を出すと、それに従い本体である狂三を運び出す。
あたかも、反転体である彼女こそが狂三本体そのものであるかのように紗和は振舞う。
そうして残された紗和がここから離れようとすると、分身体の狂三の一人が紗和の前におずおずと進み出る。
顔を下げたまま、礼をする様に言葉を述べようとする様は女王に傅くお付きの女官そのもの。
―――だが
「何でしょうか、狂三さん」
「……紗和さん、あなたはわたくしたちを存分に使い潰してくださいまし。わたくしたちはあなたの為に盾となり剣となり、あなたの為に喜んで消滅しましょう」
ここまで言うと、下げていた顔を上げながら「ですから」と言葉を繋ぐ。
「彼について、ですか。あなたたちも彼ならわたしをどうにかできると考えているのかしら?」
再び顔を下げた狂三は答えない。答えないのが回答でもあった。
紗和を見つめていた目は、先ほどの狂三本人のそれ以上に強い意志を感じた。
(うーん、【蠍の弾】は効果が出ているはずなのにこういう反応かぁ。分身体でもそれだけ精神が強いのか、それともそこまで彼に執着しているからか。どちらにしても流石は狂三さん、と言うべきかな)
いずれにせよ回答は決まっている。
「わかりました。励んでくださいね」
にこやかに爽やかに、それだけ告げると、分身体の狂三は頭をより下げ、影の中に姿を消す。
今度こそ紗和一人だけ残される。
順調だ、否、順調に行き過ぎた。
この状況になってまだ二か月程度、紗和が狂三に報復できたのはひとえに幸運によるものだ。
自分が今に至る最大の元凶であり、諸悪の根源たる狂三への憎悪は紗和にとって最早息をするようなもののはずであり、この結果は悲しくも嬉しいものである、そのはずだ。
―――それなのに
「随分と難しい顔をしているね、女王陛下。お邪魔なら後にするけれど」
誰もいなかったはずの背後の空間から揶揄するような声がする。
驚きは無いが癪ではある。
振り返りながら、紗和は殊更心を落ち着けて言葉を返す。
「道化の方が喜んで話題にするような面白い話は提供できませんが、それで良いなら伺いましょう。何でしょうか、蓮さん」
そこには葡萄色の少女がいた。
舞台衣装の様にも思える派手な衣装は、本人のどこかアンニョイな雰囲気と併せて退廃的な魅力をたたえる。
顔立ちは恐ろしく整っているが、顔も含めてあちこちに巻かれた包帯や鎖が痛々しい。
その形容しがたい少女―――蓮が呆れたように紗和に問いかける。
「確か自分が聞いていた話ではあなたの仇を補足したら殺害すると聞いていたのだけれど、何故時崎狂三は生きていて、しかも自分の筺に収容する流れになっているんだい。存外、あなたの心変わりの理由は面白そうだ。それによっては精霊一人くらい虜にするのも良いだろう」
そうなのだ。
山打紗和は時崎狂三が憎い、それこそ殺したいほどに。
多くのものを踏みにじり、奪い、犯し、殺した。
全ては復讐のため、奪われたもののため。
生かしておくなどとんでもない、仮に心のどこかで、紗和が未だに狂三を友人と思っていてもその上で紗和は狂三を躊躇うことなく殺し、歓喜し、嘆き悲しむ―――そうなるはずだし、それ以外考えられなかった。
―――なのに
「殺すことはいつでもできます。わたしが思う最高のタイミングでけりを付けますよ―――狂三さん愛しの君は随分と面白そうな人ですし」
「その発想自体がすでにぶれている様にも思うのだけれども。まあ良いだろう、約束もある。しばし預かろう……もっとも、あなたの現状はそれ以前な気がしないでもないけれど」
「……どういう意味ですか?」
「さあね、道化は気まぐれなんだ。大して意味は無いかもしれないよ」
紗和の視線を背中に感じながら、蓮はその場を後にする。
幾ら露悪的な蓮でも、貴重なビジネスパートナー相手に機嫌を損ねすぎるのは良くないという判断は下せる。
(もしあそこで『友人と喧嘩した少女が、相手に言い過ぎたことを悔やむときの様な雰囲気を出している』と言ったら切り付けられかねないだろう)
その反応は蓮の想像だけで楽しむことにする―――今はまだ。
山打紗和は隣界からこちらの世界に渡来、あるいは帰還した。
そしてその時のことを思い出せない。
より正確にはこの世界に来る直前の記憶が無い。
本来なら紗和はこの世界に来るはずがないのだ。
蹂躙戴冠
隣界の莫大な霊力を使い、起点として『王様』を呼び込み、隣界を紗和にとって都合の良い現実世界の様に変換する。
それが紗和の最終目標だったはず。
そうである以上紗和がこの世界に来るはずがない
この世界には霊力が絶対的に足りていないのだ。
何故紗和がこの世界に来ることになったのか、その原因が不明と言うのは紗和の現状における最大の謎であり、行動の支障となっていた。
これと併せて紗和に起こった心身の問題(狂三に対するものもそうだ)を合わせると状況ははっきり言って悪い。
とは言え、悪いことばかりでもない。
「始原の精霊、崇宮澪、か……」
紗和は自分の真の仇の名前を口に出す。
隣界にいる間は決してその名を知ることは無かっただろう、もっとも、明らかになったその存在は紗和にとっても正直手に負えない余りに規格外な物だった。
(ままならないものですね。隣界にいるときは殺すだけの霊力はあったけれど、相手がわからなかった。今は殺す対象がわかっても手段がない)
思わず溜息が出る。
考えてみれば、ここ最近の出来事は予想外と急展開の連続で、紗和自身こなすので精一杯だった。
曲がりなりにも狂三にけりをつけた今、あらゆる面で整理するために振り返るのも良いかもしれない。
ちょうど今は月がきれいな夜だ。もう少しすれば寒くなりすぎる12月、一人でお月見と言うのも悪くない。
使えそうなパイプ椅子を瓦礫から引っ張り出す。
椅子を拭き清めて座ると、吹き抜けになった天井から見える月を仰ぐ。
下弦の月だ、珍しい―――そこまで考えて思わず笑った。
隣界に月は無い、こちらの世界には当然月がいつもある。
こんなことに二か月たって今更思い当たる自分が少しおかしかった。
廃墟の穴から覗く月明りの下、少しだけ楽しくなった山打紗和は近況を振り返るべく、思い出せる直近、胡散臭い少女との何とも言えない邂逅を思い返した。