男が女に話しかけている。
「洗脳、英語でbrain washingと言う言葉が出来たのは1953年の朝鮮戦争の時のこと。中国共産党の捕虜になった米兵が、帰国後共産主義を熱心に擁護する発言を行ったことで注目されたのが始まりとなる」
「それで? あの魔術師と何の関係が?」
女はどこか不満そうに、あるいは興味が薄そうに男の話に返す。
「ここまでは有名な話なのだが、その顛末はあまり知られていない……帰国した米兵は瞬く間にほぼ全員が自分たちの共産主義擁護を撤回したのさ。それ以来ありとあらゆる国や組織が、投薬、拷問、絶食、監禁、思想教育、はては脳外科手術に至るまで様々な形で洗脳を行おうとしてきた。だがほぼ全てが、コントロールを離れた途端、元々従っていなかった人間は元に戻ってしまう……それは魔法でも同じでね。洗脳はある環境下に拘束するものでないと上手くいかないのさ」
「それだけでタイミング良く彼女の様にそうなるのかい……? まあ良い。あなたが自社の社員に対して行った悪行については良く理解できたよ。ところで」
女が初めて男に笑いかける。
「それがあなたのこの世に言い残す最後の言葉で良いのかな?」
葡萄色の女、蓮がイスに縛り付けられたアイザック・ウェストコットに笑いかける。
それは最終確認というより最後通知であり、ウェストコットにとっての生死を分かつ処刑刀にかけられた手そのもの。
だが―――
「まあ、君の女王を待とうではないか。もうあちらも終わったようだ、そう長くはかからないだろう」
ウェストコットは涼し気に返す。
自分の執務室に入ってきたエレンが反転した【ナイトメア】と交戦を開始して程なく、アルテミシアに連れられて敗走していくのが見えた。
絶望的な状態
見事な手腕だ。
全知の魔王を持つウェストコットをどうやってかかいくぐり、DEMの機能をマヒさせ、自分を捕縛する。
恐らくはあの反転体、元【ナイトメア】が主導したのだろうとウェストコットは判断する。
目の前の精霊と思われる少女は先ほどからウェストコットを殺したそうにするのを隠そうともしていない。
そうしないのは彼女の片割れの白い精霊が、自分に利用価値がまだあると言ったからに他ならないだろう。
(一体どうやって反転しているのに正常な理性を保っているのか、実に興味深い)
好奇心をそそられるが、流石に今は顔に出すのを自重しておく。
葡萄色の精霊の刺す様な視線を無視していると、程なくして白い反転精霊も戻ってきた。
女王の凱旋
白い軍服の様な霊装は傷もなく、余裕のある表情はさながら戦闘の後と言うよりは単に散歩でもしてきたかのような穏やかさと瀟洒さで、あたかも彼女が気高い女性であることを物語っているようだ。
(さて、どう命乞いの算段をしたものか……)
崖っぷちの危機的な現状、焦らなければいけないはずだが、それ以上にウェストコットは彼女たちの有様に興味がそそられ、とてもつもなく面白そうな顔をする。
蓮はそんな目の前の黒い男の泰然自若とした様子が気に喰わない。
仇であるかの様に、面白くなさそうに、憎々し気に、睨みつづけるもウェストコットは気が付かないふりでその場をしのぐ。
ルキフグスの【蠍の弾】の副官作成能力で相手を攻撃して作れる人格にビショップというものがある。
このビショップはかなり特殊で、攻撃してビショップになった相手は一見何の変化もない。
紗和の支配下にあるのは間違いないが、黙っていれば誰もそれに気がつかないだろう。
ただしビショップにも特別な能力がある。
ビショップは他の誰かをビショップに変えられるのだ。
ビショップが作ったビショップもまた、紗和の支配下にあり他者を攻撃できる。
ビショップの人格とは増加したいと言う生物的な本能に近い願望なのかもしれない。
もっとも倍々ゲームで増えられるかと言うとそう言う訳にもいかない。
ビショップに対して紗和が【蠍の弾】を与え、それでビショップが他の犠牲者を攻撃することでビショップに変えるという手順であり、言い換えると霊力は結局紗和持ちと言うことになる。
そう言うわけでビショップの使い方とはビッショップに変えたい人物の周囲の誰かをビショップに予め変え、その犠牲者一号に二号を攻撃させると言ったものだった。
そして、それ故に今回のサマエルによる願いをもって強化された【蠍の弾】でビショップは凶悪化した。
もはや紗和がいちいちビショップに【蠍の弾】を渡さずとも、勝手に目の前の対象に接触と言う名の攻撃を加え、紗和の影響下に置く。
まるで空気感染する疫病の様に広まっていく蠍の毒はこの短期間で、DEMの基幹部に関していえば網羅してしまったと言っても良い。
しかも攻撃され、紗和の配下に収まったことに気が付いていない。
今回の反乱も『横暴で暴力的な上層部に対する自発的な下剋上』とビショップたちは認識している。
ネズミ算的に増えていく紗和の奴隷、ただしやはり万能ではない。
以前と同じく、堅い守りや強い精神を持つ者に効果が薄いと言う【蠍の弾】の弱点は変わらない。
そして今回のアルテミシアなる魔術師の事例―――
「恐らく、DEMが施した洗脳と【蠍の弾】による効果が丁度真反対だったことである意味中和されたと言う事なのでしょう。実際、【蠍の弾】で支配下に置いたものが外部からの精神的支援で無効化したということがありました……あまり良い思い出ではないですが」
紗和はたまにその姿になる、かつての敵のことを思い出し、そしてすぐに思考から追い出し目の前に意識を集中する。
文字通りのチェックメイト、敵の親玉の確保。
親ウェストコットの主力が宇宙で【ゾディアック】と情報を流させたラタトスク艦隊に挟撃されている頃、DEMで反乱が同時多発的に発生した。
それらは多少の混乱があったものの、本社以外では主要な部分があっさり恭順したことで、すでに秩序を取り戻しつつある。
その本社の守りは流石に固かったが、突然目の前に―――まるで空間移動してきたかのように―――戦闘態勢を整えた部隊が出現したことで瓦解した。
『将軍』に肉体の主導権を渡し、戦闘に備えた紗和がルキフグスの力で空間のドアを開けてCEOの部屋に突入したのと、同様に侵入した魔術師部隊がDEM本社の守備隊を始末し終わるのはほぼ同時だった。
「さて、では敗軍の将に責任を果たしていただきましょう……【蠍の弾】」
再び『将軍』から肉体の制御権の返還を受けた紗和がルキフグスを起動し、ウェストコットに蠍の毒を打ち込む。
ビクリと体を動かし、苦しげな声で呻くウェストコットだったが、やがて大人しくなる。
その反応を見ていた紗和は少しだけ安心し、それでも警戒を解くことなくウェストコットに尋問を始める。
「それでは質問です……あなたは始原の精霊を知っていますか?」
「……ああ、勿論」
「では始原の精霊との関係は?」
「……30年前に一度会っただけでそれ以降は行方不明さ。会えるなら会いたいぐらいだね」
「何のために?」
「勿論その力を利用するために」
ここまで言って予想通りDEMが始原の精霊の敵であると言うことを紗和は理解する。
「良いでしょう。ではわたしの為に役に立ってください……他でもない始原の精霊を倒すために」
「……ほう。これはこれは。ちなみに理由をお聞きしても?」
「大したことではありません、ただの復讐ですよ。始原の精霊の所在は知らないのですね? 心当たりは?」
「ふむ。【デウス】は文字通り万能に極めて近い精霊だ。彼女が本気で潜伏すれば見つけ出すのは至難の業だろう。ただ、それでも隠れそうな場所となるとやはりラタトスクかそれに関係する母体のアスガルドと言うことになるだろう……少なくとも精霊の敵である我々に直接接触はしてこないだろうね」
予想通りの、しかし面白くはない答え。
DEMの側から始原の精霊を見つけ出すプランはやはり上手くいきそうにない。
ここでふと、蓮に会った時に質問し、彼女が答えていたことを思い出す。
(確か始原の精霊にはこの世で唯一人、愛してやまない男がいると言っていた……)
崇宮真士
蓮も彼には会ったことが無いと言うが、始原の精霊と同じ崇宮と言う苗字のこの人がどういう存在なのか紗和には分かりかねていた。
ウェストコットに説明する気は全く起きないが状況によっては調べるのも手だろう。
「ところで、よろしいかな。まだ私は君たちの呼び方すら知らないのだが……いや君が【クイーン】であるのは確定なのだが」
「……遠からずこの世を去るあなたが自分の名前を知る必要は無い。自分のことは好きに呼べば良い」
蓮は心底嫌そうにそう言う。
薄々わかってはいたが、どうにも蓮にとってウェストコットは好感度がマイナスに振り切っているらしい。
紗和もこの男のことが全く好きではないが、それにしても初めて会う相手に対して異常な気もする。
「蓮さん、門を開きますから一旦帰っていても良いですよ。どうもこの社長さんは日本語がわかるようですし」
「……ああ、悪いがそうさせてもらおう。ここは空気が悪い。叶えられない欲求でいらだつあまり、思わず手が滑って行方不明者を出しかねない」
さらりと殺害予告をしながら、蓮は紗和の剣が開いたドアをくぐる。
ギスギスした空気が去ったことで紗和は少し落ち着くと、もう一度縛られた男に向きなおる。
黒い男は余裕しゃくしゃく、と言った感じで今しがたの紗和の挙動を面白そうに見ていた。
自分が殺されないことを確信しているのだろう、蓮ではないが紗和も決して気に入らない。
何より―――
「……あなた、他人に危害を働くとき何を感じますか?」
「……愉悦と達成感、だろうか」
「成程、生粋の悪人ですねあなた」
―――これは邪悪だ、とてつもなく。
紗和も自身が悪人であると言う感覚はあるが、この男は恐らく自身が他者から悪人と見られる認識はあっても、自分自身その感覚がないタイプだ。
恐らくこの男は放っておけば際限なく悪を為すだろう、それも如何なる良心の呵責もなく。
世界全体に対する根源的な悪、しかし―――
(蓮さんではありませんが、適当な所で脱落してもらいますか)
それに対する白の女王たる山打紗和もまた海千山千の悪人である。
いささかも表情を変えずあたかも昼のお茶会で浮かべる談笑の如く、紗和はいつも通りの穏やかで柔和な笑みでかくも後ろ暗いことを考える。
そんな紗和の内心を知ってか知らずか、ウェストコットは薄く笑ったまま問いかける。
「それで先ほどの話にもなるが、君たちのことを何と呼べば良いかな? 信頼関係を築く意味でもその辺りは先に決めておいた方が良いだろう」
「良くもまあそんなことが言えますね……まあ良いでしょう、好きにして下さい」
「ふむ、先も言ったが君が【クイーン】なのは君も含めて自明だろうが、先の彼女、葡萄色の舞台女優が如き不機嫌な精霊女子をどう呼んだものか、できれば私より詳しい我が女王にご教授願いたいね」
そう言われてみるとなかなか難しい。
ウェストコットが聞いているのは恐らく精霊の識別名だろう。
はっきり言ってDEMが自分たちをどう言おうが知ったことではないが、一方で自分たちを一言で表すのが何かというのは多少興味が沸いてしまう―――ましてどこでもクイーンと呼ばれた自分以外の事ならば。
無論、【蠍の弾】を撃ち込んだ以上、紗和や蓮のことをペラペラ漏らすことはできないが、それはそれとて蓮を一言で表すとなると何がふさわしいのだろうか。
ジェスター、アクトレス、クラウン、ミンストレル
ぱっと思いついたがどれも今一つしっくりこない。
悩む紗和の反応を見てかウェストコットは提案をする。
「そうだね。思いつかないなら私に少し任せてもらえないだろうか。ベルゼバブなら彼女にふさわしい異名を調べることもできるだろう」
何をふざけたことを、と最初は思った。
次にどうせこの男を利用するなら何時かは通る道だと気が付いた。
さらに、全知の魔王がどれほどのものかと言うのにも興味が沸く。
最後にこの悪党に試されている感覚―――洗脳する能力を使用して、それでもまだ疑い続けるのか―――に対しての反発。
結局、紗和は拘束を解き、ウェストコットは魔王を使用する。
それはどのみち通る道だったのかもしれないが、それでも紗和の心中に穏やかでないものが満たされる。
自分の心に掛かった暗雲を振り払うよう紗和が気持ちを奮い立たせていると、奇妙な本、魔王(神蝕篇帙)ベルゼバブから顔を上げたウェストコットは笑いながら紗和に、聞いたことが無い程幸せそうな声色で話しかける。
「成程、成程! 道理でベルゼバブで調べても彼女に関することが記載されないわけだ。【デウス】もなかなかどうして罪なものだ。ああ、彼女の識別名だが……【オラクル】と言うのはどうだろう?」
それは紗和の想定外の名称だった。
あまりに以外で思わず聞き直してしまう。
「オラクル、ですか? 預言、神託の?」
「この場合はそれらを受ける巫女、と言う意味になるね。他者からの願いを聞き、それを真実にして叶える。まさに神からの声を聞く巫女ではないかな」
「因果関係が逆な気もしますが……まあ別に良いでしょう」
何だかわからないが、紗和にも蓮にも関係がないと言えばない。
変な名称では無いようだし、紗和が気にすることではない。
「それにしてもこのような精霊が存在するとはね。まさか天使があってもセフィラが無いとは」
「……何? セフィラが無い?」
何かおかしなことが聞こえた。
「おや、【オラクル】から聞いていないかね。彼女はセフィラが無い。霊力からなる存在、エネルギー生命体とでも言うべき存在だ」
「……霊力からなる、存在? ……どうして?」
突然の情報に頭が付いていかない。
聞き覚えが無いわけではないし、思い当たる者が無いでもない。
隣界における準精霊は現実世界で亡くなった少女の魂と霊力からなる極めて純粋な存在、だが蓮は隣界とは関係がない。
ではなぜそんな存在がこの世にいるのか。
「全く、【デウス】も罪深い。自分の悪感情を込めた霊力を自分の娘として作るとは。まあ私ごときが、人ならぬ身のことは何とも言えないなあ」
「……娘?」
紗和はウェストコットに信じられないことの様に聞き返す。
ウェストコットは面白そうにそれに対して答え返す。
「【オラクル】は始原の精霊【デウス】の実の娘だ……もっともセフィラを与えられず、生まれてすぐ監禁されたことからわかる通り、だからといって重要視されていたわけでは無いようだが」
山打紗和は激怒した。
「病気になって健康のありがたみが良くわかるとは言うが、成程、こういうことだろうか」
ようやく二人きりから解放されたウェストコット、【クイーン】は【オラクル】に話を聞きに行くと言い残し、『監視役』を残し空間を渡るドアの向こうへ去った。
辛うじて虎口を逃れた。
とは言え状況は最悪から一歩離れただけ、相変わらずウェストコットは【蠍の弾】を撃ち込まれており、【クイーン】に虚言を嘯くことも、まして反抗できるわけではない。
最初の質問、【デウス】について聞かれたときは生きた心地がしなかったが、どうにか嘘をつかないことで何とか切り抜けられた。
それ以外にこれから要求と言う名の恐喝のことを考えると気が重くなるが、その一方で今の状況はとても興味深い。
(なぜ、反転した精霊が理性を保っていられるのか? 霊力があればセフィラが無くても人格を持った精霊をつくれるのか? そもそも【クイーン】は本当に【ナイトメア】なのか? ……いずれも実に興味深いが、今の私は女王の下僕。あまり大ぴらに色々はできないな)
不満、疑問は多々あるがそれらを解消できないのは実に腹立たしいい。
―――それだけに先ほどのことは少しだけ胸がすく。
一つは【オラクル】が【クイーン】に隠していた自分の出自をばらしたこと。
冷酷無比な印象の【クイーン】の意外な反応は、ウェストコットに事態打開の糸口になるかもしれないと思わせるものだった。
そしてもう一つ―――
「【オラクル】か……まさに彼女にふさわしい名だ」
【デウス】と言う、荒ぶる神を宥めるための生贄の巫女とされた、生まれたばかりで幽世に送られた純粋無垢な少女。
そんなものは神託に従い人身御供に供されるかんなぎたる乙女【オラクル】以外の何物でもない、とウェストコットは思う。
そんな悪意を込めた識別名を恐らく誰も気にしない。
ウェストコットは嗤う。
【デウス】の狭量さを
【オラクル】の惨めさを
【クイーン】の失態を
そして何より、そんな小さな成功を喜ぶしかない自分を
「さあ、楽しくなってきた。まるで人食い巨人のいる孤島に一人漂流した気分だよ」
それは全くの本心。
味方はおらず、暴君は難題を強い、そして隙あらばウェストコットを弑さんとする。
この絶望的状況を一人で切り抜けるのが楽しくて仕方ない。
これ程自分の生に執着しようと思ったのは村を焼かれたときぶりだろうか。
―――ああ、ならばあの時と同じでやることは一つ。
生き残って、復讐し、全員破滅させる。
単純明快な回答、しかし今に至っては極めて困難
だからこそ目指す価値がある。
ウェストコットは傲慢だった。
傲慢だからこそ、この状況を楽しく、愉快で、そしてやりがいがあると思えた。
―――もし紗和がかつての家に帰省し、親について考えていなければここまでの反応は無かっただろう。
―――そもそも蓮が残っていたらウェストコットは紗和に説明できなかったはずだ。
―――あるいはまだ狂三を見つけて居なければDEMに積極的に関わろうともしなかったかもしれない。
―――もしくは約束通り『彼』ともう一度会っていれば全く違った結果をもたらしたに違いない。
山打紗和は最大の失敗を犯した。
怒りの為に邪悪と分かっている相手を看過した―――それこそが本当の黒幕であると気が付かずに。
そのつけは恐らくとてつもなく高くつくだろう。
*本編では蓮の識別名と言いうのは存在しません。
『オラクル』というのもこの話の中だけのものです。
ご了承ください。