空が青いことを知った―――初めて見た。
空気に匂いがあることを知った―――初めて吸った。
日の光で肌が痛いことを知った―――初めて日にあたった。
一度に押し寄せる情報の怒涛、それらはごく一般の普通の人間であれば、そもそも情報として認識すらしない極々当たり前の『普通』。
「この感覚は感動なのだろうか……自分でもよく分からないな」
つまるところ、生まれてすぐ闇の中で幽閉された彼女は普通ではなかった。
そんな普通でない少女―――蓮が百の感情がこもった無表情で眺める初めての現実世界、その視線の先にもう一人。
それは被害者であり加害者でもあった。
精霊の世界である隣界と現実世界の狭間に放逐された筺の中、長らく幽閉されていた蓮がある時『彼女』に施された戒めが解けたことに気が付いた。
悲しみと喜びが入り混じる狂い笑いを浮かべる蓮が何かをする間もなく、凄まじい衝撃を全身に感じた時、遂に『彼女』が自分を滅ぼしに来たのかと覚悟を決めたものだ。
どれ程時間が経ったのか。
気が付けば自分は筺から放り出されて、青い青い空と、どこまでも広がる草原の真っただ中に一人放り出されて今に至る。
ここで蓮は理解する。
自分は隣界から来た何かにぶつかって、現実世界にただ一人、押し出されたのだと。
(否、一人ではなかったか)
右も左も分からない蓮は、それでも、自分の封じられていた筺をここまで弾き飛ばしてきた犯人に、自分が思う慇懃無礼な話し方で交渉を試みる。
「それで……この道化、蓮を引きこもっていた筺から強引に引きずり出したあなたは一体どこのどちら様でございましょう? 宜しければお名前を頂戴してもよろしいでしょうか、女王様?」
「名乗るほど大したものではありません。ただの、通りすがりの衝突事故の被害者ですよ、精霊さん?」
きれいな声で自分を精霊と呼ぶ視線の先の白い誰か―――女王の様な見た目の少女は穏やかに、丁寧に、しかし確たる拒絶を匂わせながら短銃を取り出す。
身構える蓮を尻目に女王は自分の足元に銃口を向け、続いて乾いた銃声が響く。
訝しむ蓮だが、そうする間に目の前の少女の姿から傷―――よく見たら蓮も彼女も全身傷だらけ、と言うよりズタボロだ―――が消えていく。
そうしている間にも、蓮自身今まで感じていなかった痛みを感じると同時に傷がいえるという、不思議な体験に目を瞬かせる。
「……もしかして治療してくれたのかい? わざわざ自分の様な道化者のために」
「怪我をしていたのでしょう。お礼を言われるほどではありません……そうですね、呼びたいならわたしのことは白の女王(クイーン)とでも呼んでください。そうとしか呼ばれませんし」
「ふむ、さしずめ隣界の女王様、とでも言ったところですかな。さぞかし大勢に傅かれるのに慣れているのでしょうに」
自称女王が落ち着いた、しかしどこか皮肉気にそう自己紹介する。
随分と奇な名乗り、しかし、一人きりを笑う蓮の揶揄にも、彼女が微笑むだけでそれ以上何も問わせなくなる荘厳とも柔和とも異なる不思議なる雰囲気は、不思議と蓮にも彼女が女王であると合点がいく。
「代わりに是非聞かせて下さいな。蓮さん、でしたっけか? あなたはどうしてあんな所にいたのですか?」
「やれやれ、先に恩を売ってから質問するとは、存外抜け目がない人だ……それはあなたの願い、かな?」
「……願い、ですか?」
質問に質問を被せる蓮に、さらに疑問で返す女王。
強引にサマエルを発動しても良いのだが、蓮はもう少しこの少女と会話を楽しむことにする。
「この不詳蓮、何を隠そう、あなた様の願いを聞き、叶えることができるのです。どんな願いでも三つ、口になさるだけで即座に叶えて御覧に入れましょう。大きな夢も、野望も、執念も叶わぬものはありません」
「あなた先ほどの口調の方が、無理が無くて聞いていて疲れませんよ。話すときもその方が楽なのでは? わたしの目的をあなたが知る必要があるとは思えませんが……まあ、良いでしょう。いくつか質問しても?」
話し方に関して内心気にしていたことを指摘され、若干の気恥ずかしさを感じながら、表情にはださずに、蓮は女王の問い掛けを首肯する。
「わたしの願いをあなたはどう叶えるつもりですか?」
「自分はあなたの願いを聞くだけで叶えられるよう様な摩訶不思議な存在なのです」
「願いを叶えてあなたに何の得があるのですか?」
「あなた様の願いが叶うのが、取るに足らない道化に過ぎない自分の望みなのです」
「三つといいましたね? 一度願いを叶えてもらったとして、次の願いの間の期間や、その間に必要な対価などは?」
「勿論ございませんとも。唯々願うだけでいつでも即座に叶えて御覧に入れましょう!」
「……あなたは今からわたしが口にするどんな望みでも叶えられる能力がある、と言うのですね? ……もし叶えられなければ、わたしの願いを聞くだけ聞いたあなたをただで済ます気はない、といっても?」
「おお、おお。何とも怖い話であります。ですが、問題ございませんとも。そうもおっしゃる、大事な大事なあなた様の願い、この蓮に是非是非叶えさせてくださいませ!」
内心ほくそ笑む蓮に、微笑む女王にはゆっくり口を開く。
どこかで時計の動く様な音が聞こえたかと思うと
「ならば、私は君に願おう。『これ以降、何度でも、私から逃げることなく、いついかなる時も、私が求めた時即座に姿を見せ、一切曖昧な言葉を使わず、過不足・嘘偽り無く、己が心の内実を全て余すところなく話すことで、私のいかなる質問にも答えよ』」
それまでと全く雰囲気の変わった女王―――まるで軍隊の指揮官の様な、高圧的な雰囲気で蓮にとって致命的な願いを命じた。
「これはこれは何とも……折角の願いをそのようなことに使用なさるとは」
「意外ではないだろう? この世で正直に生きることほど価値のあることはない。それを胡散臭いペテン師に教授しようというのだ、感謝して欲しいものだね」
片手を腰に手を当て、もう片手でいつの間にか取り出したサーベルを握る女王が面白そうに宣う。
「そもそも、信用取引において誠実である、あるいは狡猾であるというのは商売人の常識ではないかな。君がもう少しまっとうなら、私もこんなつまらない、子供向けな願いを口にする必要はなかったよ?」
「……生憎、資本主義とは縁の無い環境に長らくいたものでね……」
女王の皮肉に、自虐で返そうとするがそれだけだった。
―――おかしなことをすれば斬る、逃げれば斬る、嘘をつけば斬る
彼女の雰囲気はそう告げている。
一つも他人の願いを叶えていない今の蓮が襲われれば、恐らくひとたまりもないだろう。
どうやらこの場での、蓮の敗北は避けられ無いらしい。
ああ、空はこんなに青いのに、筺の外の世界はどうしてこうも厳しいのか
現実逃避するような蓮の内心の嘆息に、答える者などいる訳が無かった。
「……願いを叶える度に君は封印が解除され、霊力を得る。それで三つの願いを叶えれば、君は対象の存在の全てを喰うことができると。成程、代償については概ねそんなところだろうと思っていた」
「全く、後から何とでも言えるだろうに……それで自分をどうするつもりで?」
「どうもこうも。つまり死ぬ気になれば三つ願いを叶えられるのだろう? 精霊相手にも無条件に効果があり、最大で地球全体にも効果が及ぶ改変能力の天使、捨て置く理由がない」
「それはまた……それに自分が付き合うとでも?」
「君が誓ったのではないかな? 『私が求めた時即座に姿を見せ』と。約束は果たしてもらおうか」
「……確かに」
自分でも失念していた。
やたらと長い付帯条件にそういう意図もあったとは。
サマエルで叶えた以上、蓮ですらその条件は破れないのだ。
(こうなれば何としても、残り二個の願いを強引に叶えさせるしかないか……)
サマエルで叶えられる願いは蓮がある程度選ぶことができる。
何の気なしに口にしたことでも、それが願いと言う形であれば、サマエルを起動させることは可能だ。
蓮がそんな後ろ暗いことを考えていると、再びどこからか歯車のきしむ様な音がして―――
「ところで、わたしが叶えられる願いはあと何個でしたっけ?」
「……? 忘れたわけでは無かろうに。自分は全部で三つの願いを……」
口調が先ほどの柔らかい感じに戻った女王に、一瞬気を取られつつ答えようとして―――言いかけて気が付いた。
サマエルが告げている。
目の前の彼女が叶えられる願いはあと『三つ』だと。
試しに彼女に嘘を言おうとして―――できない。
間違いなく、先ほどの願いは叶えられている。
それ以前に自分の包帯―――願いを叶える度に外れていく、『あの女』に課せられた自分の封印が、一部外れている。
「……一体、何をしたんだいあなたは? あなたは未だ『一つの願いも願っていない』」
「さあ、何の話でしょうか。蓮さんがそういうのなら、きっとそうなのでしょう」
女王は上品に、おかしそうに、朗らかに笑う。
その様は本当に何も知らない様で、思わず蓮も信じそうになる。
その穏やかな雰囲気に当てられそうになった蓮は、どうやら自分がとんでもない相手に目をつけられたことを、今さらながら理解した。
「あなたとは長い付き合いになりそうですし、お互い仲良くしましょう……話を最初に戻しましょうか、質問です。あなたはどうしてあそこにいたのですか?」
「全く……一言でいえば放逐されたのさ」
「あらあら、それは剣呑な話ですね。さらに質問です。あなたをそんな目にあわせた恐ろしい人は誰ですか?」
当然の様な、そして蓮にとっては答えたくない女王の質問。
『彼女』と自分の関係性は他者に到底話したくないが、この女の質問に嘘はつけない。
なので
「―――この世の精霊を生み出したもの、始原の精霊、崇宮澪」
話が『彼女』の方だけに向くように、女王が興味を向く可能性が高そうなフレーズを付ける。
効果は思ったより大きかった。
自分が彼女の機嫌を損ねたから世界の狭間に監禁された、と言うこと以外、蓮については聞かれなかった。
その分、始原の精霊について根掘り葉掘り聞かれたが、まあしょうがない。
最初にして最強
己の愛の為なら如何なる躊躇も容赦もしない
この世で最も美しい女
何か同情をこめた様な目で見られるのは気に食わないが、ともあれ女王の追及をひとまずやり過ごした蓮は、そろそろまた自分のことを聞かれそうな雰囲気を察し、逆に彼女に質問する。
「さて、自分は大分話したと思うのだけれども、そろそろあなたのことを聞かせていただけないだろうか。仕える相手を知らなくては、道化の自分は話題の一つも作れはしない」
女王が急に下を向き、あごに手を当てる―――まるで語るべき内容の誤魔化し方を考えるかのように。
白一色の彼女は、改めてみると美しい女だ。
女王と言う存在を絵にしたかの如き、気品、優雅、規律、畏怖、武威、奸智、それに美貌。
市井の者では得難いそれら全てが一まとめになったかのような奇跡の精霊。
―――否
(……もしかして、反転精霊か?)
知識のみ頭に入っている、絶望した精霊が陥るという反転と言う現象。
それらは理性の欠片もなく、ただただ憎悪と破壊衝動に振り回されて、天使が変化した魔王をもって、永遠に暴虐の限りを尽くすという、精霊にとってある意味死より恐ろしい終焉の形。
今目の前にいる女王の冷静で知的な態度とは真逆であり、普通なら発想としてあり得ないものだが、何故か蓮は彼女が反転していると思ってしまった。
蓮が奇妙な疑問に捕らわれている間に、恐らく考えをまとめたのであろう、女王が蓮の方に向き直り、口を開く。
「あなたに出会ったことに感謝します、蓮さん……光栄に思ってください、わたしが誰かにお礼を口にするのはつとに無かったのですから」
「……それはそれはどうも。この道化の身に余る栄誉に打ち震えてしまいそうです。それで、そんなやんごとなきあなた様は一体何者であられるので?」
「わたしの本名や雑多な過去はあなたにとって意味は無いでしょうし、それは重要ではありません。大事なのはわたしとあなたは手を組む価値がある、と言うことです」
女王が笑う、自嘲する様に、あるいは韜晦する様に。
「特別に何かをせよ、と言う訳ではありません。ただ、然るべき時にわたしの願いをあなたの天使で叶えて下さい。そうすればわたしの魔王が道を切り開きます」
女王は告げる、己が反転していると。
「ずっと探していたのです。わたしにかつてセフィラを埋め込んだ者を―――わたしを陥れ、死なせた者を。今度はわたしがその誰かも分からなかった何者かを滅ぼすために」
女王は打ち明ける、自らの殺意を。
「今ここで初めて敵を知りました。蓮さん、あなたを破滅させた始原の精霊はわたしの敵です」
女王は認める、蓮が自分の同盟者足りうると。
蓮は笑った。
それは今までとは異なる、困ったような、呆れたような、賛同するようなほんの少しだけ優しい笑み。
それは、この自分と似通ったところもある奇妙な少女への同情と共感ではあった。
「つまりあなたは復讐者と言うわけか。もはや、自分はあなたに嘘はつく気はない……あなたが憎む始原の精霊への復讐は失敗する、確実に」
「一つ訂正を。わたしは会ったことも無ければ、雲を掴むような、女神らしき誰かに憎しみを持っている訳ではありません……単に邪魔でうっとおしいだけです。わたしが本当に憎み、復讐したい相手は別にいます」
目の前の少女から叩き付けてくる、憎しみが物質的圧力となったかのような強い感情。
それが自分の母に対するものではなく、それでも彼女は始原の精霊を打ち倒すと宣う―――それも気にくわないという理由で。
理解と言うより納得した。
この人は敵であると言うだけでどんな相手でも気に病むことも、躊躇もなくにこやかに殺せる、生粋の冷酷な支配者。
そんな彼女が持つ誰かへのとてつもなく強い憎悪。
蓮は自分を顧みる。
自分を世界の狭間に追いやった、恐ろしく美しい自分の母とでも言うべき存在への重い重い感情。
それは『きっと』目の前の彼女に負けないほどの憎悪、のはず。
蓮は初めて彼女、この白い女王本人に興味が沸いた。
「見返りを頂きたい、女王様」
「聞きましょう」
それは女王に傅く道化の構図。
気が付けば口が勝手に彼女に褒美を求めていた。
少し驚きながらも言葉は続く。
「あなたは始原の精霊相手ではあまりに無力だ。まるで月に手を伸ばす子供の様なもの。この自分、蓮を脚立に上ったところで、宇宙の彼方に何の変化も起こせない」
蓮は語る。
彼女が始原の精霊を相手取るのは戦いにすらならないと。
女王は蓮の発言に特に異を唱えない。
蓮は女王の左右異なる目をまっすぐ見つめる。
「それでも、あなたは諦めないのでしょう。反転しても憎しみで理性を保つような、器用で不自由なあなたは」
「……無論です。そこにいると知った以上、わたしが彼女を放っておくことは最早ありません」
「そんな無謀で蛮勇なあなた様、是非この自分にあなたの名前を頂けませんか。自分はあなたに共感しました。それこそ、あなたが無様に散った時、その死に様を語り継ぎたくなる程には」
蓮は語る。
彼女が始原の精霊に挑む、それはほぼほぼ負け戦であり、だから意味があると。
皮肉であっても冗談ではない。
お前が戦う相手はそういう相手だ、必ず死ぬ。
だから何だ、わたしは一度死んでいる―――他でもない奴の手で。
目と目のやり取り、今さら相手が強いと言う程度で決意は揺らがず。
だから女王が口に出せないのはそれとは別の女王の本質―――彼女の名前。
蓮の要求はある意味妥当ではあったが、女王はしばし沈黙し、どうにか伝えずに済まそうとしているかのようだった。
それでも
「―――山打紗和、それがわたしの名前です」
蓮はその名を知る、たったそれだけのこと。
それでも、それは間違いなく、この日初めて蓮が女王に強いた譲歩には違いなかった。
「……良いだろう。では山打紗和、あなたが諦めない限り、この蓮が始原の精霊と戦うための一助をしよう。気張ると良い。自分はあなたに一番近い特等席から、物語の最後にあるだろう、あなたの破滅、あるいは万に一つ崇宮澪の破滅がどんなものかを楽しみにさせていただこう」
「無論です。蓮さん、あなたこそ、このわたしに使い潰されない様、励みなさいな」
どこまでも続く青空の下、美しい二人の少女がお互いに笑い合う絵になる光景。
―――それは美しく咲く花々のような笑みでもあり
―――毒々しい憎悪からなる笑面夜叉の様でもある
最も悪しき反転精霊と悪意によって形作られた精霊の娘、二人の契約は、このように成された。
矛盾だらけの様で、それでいて違和感のないこの同盟が何をもたらすか。
それはあたかも神様のようでありながら、やはり神ではない、『デウス』と呼ばれる彼女ですら知る由もない。
最後に蓮はふと思いついたことを尋ねることにする。
「……それで山打紗和。最後に一つお聞きしたい。もし仮に、あなたが始原の精霊を首尾よく打倒したら、その偉業の後、あなたは何を望みなさるおつもりで?」
蓮のそんな質問に一瞬、言葉に詰まり、それでも山打紗和は笑って答える。
「その時に考えますが、特には。別に興味はありませんもの」
そう答える彼女の笑みは今まで見た中で一番儚くて、どこかへ消えてしまいそうで―――
ああ、あなたは本当に何もかも終わらせること以外興味を持てないし、持たない様にしているのだね
その言葉は蓮も口にはできなかった。