「……今のわたくしは無力な分身体の一人。いくらなんでも紗和さんがわたくしを試す必要がありませんわ。ならばあなたの言葉を信じましょう。それで、あなたはわたくしに何をお求めになって?」
「ありがとうございます……!わたしも実はできることはかなり限られてるんで、正直、狂三さんに手伝ってもらえないと手づまりだったんですよねー。わたしは基本的に裏方の方が明らかに得意なんですけど、やっぱり隠れてこそこそも限界ありまして……」
「……一応聞いておきますけど、どのようなことをなさっていたので?」
「えーとですねー、紗和さんの反転における負担を軽減するべく、強制的にネコのイメージでハイにする、精神が暗黒面に墜落着水しそうな時に挑発、もとい応援して水上胴体着陸させる、あとは参考にすべく狂三さんにデレさせるべく高校時代のうぶくて恥ずかしい記憶を覗……いたたた!!」
「おーと、これは失礼しましたわ。わたくし、聴覚は人並には自信あるのですが。何かおかしな発言が聞こえたのは、気のせい、と言うことでよろしくて?」
「ハイ、ヨロシイデス……ああ、でもこの狂三さんの柔らかい手につままれる感覚、昔を思い出してこう、何と言うか懐かしくて興奮する……すいません、影の弾丸でも自分みたいな虚弱貧弱には洒落にならないです、はい……」
「……はあ、最初からあまり不安にさせないでくださいまし。脱線しましたが、あなたが紗和さんの精神に働きかけるのに、私に手伝え、ということですの?」
「はい、そうなのですが、いささか問題がありまして……今まで紗和さん狂三さんのことになると必ず重い重い重―い友情や慕情と一緒に、遅れて憎悪を無理矢理思い起こして、強引に反転を維持する方向にマインドセットしているんですよね、ほんっと強情ですよねー、わかってましたけど」
「……まあ、それは当然でしょう。紗和さんにはその権利と資格がありますわ。性格は……まあ、確かに昔から彼女はそうでしたわ」
「ただ、陥落まであと少しな気もするんですよねー。何かそういう憎悪を思い出すこともないきっかけがあれば良いのですが……」
「……いえ、いますわ。一人、いえ一組。紗和さんが無条件で肯定的な感覚しか持てない方々が」
突然だが帰宅することにした。
別に狂三に言われたからではない。
義務ではないが、義理はある、それだけだ。
帰るべき家があるわけではないが、それでも帰っていた場所はある。
山打家はまだそこにあった。
深く考えることは無い、ただの興味だ。
単に自分の家や部屋がどうなっているかを見るだけだ。
(なーんて、噓にもなっていないなぁ)
紗和は隣界で常に強く心を抑制していた。
こちらに戻ってきてからはそれが破綻しつつある。
どこにいるかもわからない敵は圧倒的に強く、自分を取り巻く盲目的な従者たちはいない。
もはや紗和が常に圧をかけた様な精神状態である必要は無い、むしろ気楽にした方が良いだろう。
それでも紗和は負の感情を燃料とする反転精霊なのだ。
最後の瞬間まで、戦えるよう憎悪や悪意を維持しなければいけない。
こんな形で帰宅したのもそのためだ―――そのためでなければならない。
例え本当は、恐らく遠からず最後を迎えるであろう紗和が郷愁に駆られたのだとしても。
家の中に誰もいないのは確認済みだ。
流石にこの姿で会うことはできない。
念のため、響の姿で来ている。
狂三の分身体に影をつたって家の中に入れてもらう。
家の中はあまり変わっていない。
広い廊下も、16畳はあるリビングも、二階に続く階段も、そして―――
「……そうか。そのままにしてくれてたんだ」
階段の先のドアを開ける。
クッション、ベッド、テーブル、ぬいぐるみ、勉強机―――埃一つない。
紗和が知っている自分の部屋が、20年前とほとんど変わらずここにある。
娘に対する無償の愛情、それ以外の何物でもない。
紗和はもう、それに値する様な人間ではないのに。
そんな懐古心が揺り動かされる中、この場にそぐわない異物に目が行く。
小さなテーブル―――ここで昔は狂三を迎えたりした―――の上には30㎝くらいの高さのきれいな巾着袋が置いてあり、その前に小さな水の入った小皿がある。
場違いに大きな巾着袋、その口に何かが掛かっている。
古ぼけた革製の輪っか、ネコの首輪。
「……マロン……」
正体を悟った紗和は、思わずその袋を抱きしめる―――固い骨壺の感覚。
もういい、これ以上は危険だ。
紗和の中の白の女王が警告を発するが、今の紗和に関係はない。
悲しくて嬉しい。
家に戻ってきたことに今更ながら罪悪感が押し寄せる。
紗和は撫で続ける、20年ぶりに出会った愛猫がそれで喜ぶかのように。
どれ程の時間そうしていたのか。
外から音がする。
驚いて窓を覗くと、下に車が戻ってきている。
両親が帰ってきた。
急いで家を出ないといけない。
自分でも意外なほど動揺していたことを隠す様に、袋から目をそらした机の上には写真立てが置いていた。
日に焼け、セピア色に変色しつつある古ぼけた写真。
その前に二つのティーカップが、中身が入った状態で仲良く置いてある。
二人の女学生が仲良さそうに写る。
一人は紗和―――もうどこにもいない自分
もう一人も紗和―――白の女王あるいは狂三
眩暈がする。
立っているのが辛い。
息が苦しい、動悸がする。
戻りたかった、もう戻れない過去。
戻れないと思っていたのは自分だけなのか。
両親はどんな気持ちでこれを維持していたのだろうか。
紗和、そして狂三が戻ってくると思っているのだろうか。
自分はその友人を監禁し、どうすれば良いのだろうか。
玄関が開く音がする。
紗和にも馴染みのある良く知った懐かしい安心する音―――
気が付けば、紗和は廊下に出ていた。
そのまま紗和は窓を開き、そこから空へ飛びあがった。
自分の姿が誰かに見られるかどうかはもう考えていない。
ただ、ここから少しでも早く逃げたかった。
空を駆け、降りた地面でも走り抜け、脇目もふらずに急ぎ行く
―――それは白の女王、初の敗走に他ならない。
その様子をここまで連れてきた狂三の分身体は、ただただ黙って見ていた。
やがて家の中に戻ると、人がいた痕跡を消し、骨壺を撫でて写真に一礼し、影に消えた。
帰宅した老齢の夫婦が今しがたまでいた者たちのことを知ることは、幸運にも無かった。
「おや、久しぶり……では無いようだ。初めまして、になるのだろうか」
「どちらでも構いませんわ。わたしはただの『女王』が一休みする間の代理ですしい……それにぃ、わたしたちがいずれも白の女王であることに、何の間違いもないのですから」
ここは時崎狂三が使用していた拠点の一つ、とあるマンションの一室。
机や椅子、ベッドなど最低限のものしか置いてはいないが、無宿の蓮にとっては申し分ないシェルターだ。
無主の部屋をありがたく利用している蓮のもとにやってきたのは、しばらく前に一人で出かけて行ったもう一人の同居人、山打紗和。
元に戻っているということを除けば、彼女の姿に変わりはない。
いつも通りの白い霊装、白い髪―――白の女王そのもの。
それでも蓮は一目見て察する。
目の前の彼女がいつもの彼女ではないことに。
まだ蓮が知らない別の人格だろうということに。
山打紗和が複数の人格を使い分けている。
この可能性に気が付いたのは少し前で、確信したのはさらに直近のことになる。
紗和が蓮に願いを叶えるように訴えた時に、少し鎌をかけたら、紗和はあっさり認めた。
いわく、紗和は複数の人格を作り、自由に入れ替えられる。
いわく、蓮が最初に願いを叶えたのは、紗和の『将軍』という人格とのこと。
いわく、サマエルの願いの対象がどのように決まるかを知るための実験として行ったとのこと。
そこまで聞いたことで蓮はサマエルの設定が突如、変更した―――即ち、噓をつけないのは、白の女王が『将軍』の人格の時だけに再定義された―――ことを認識した。
その性質上、そう何度も使える天使ではないのでサマエルの詳しい仕様は蓮自身把握していないことも多いのだが、サマエルは意外とファジーな天使なようだ。
もっともだからと言って紗和を簡単に騙せるかというと、それはまた別の話だ。
実演してみせた通り、紗和はいつでも人格を入れ替えられる。
『将軍』以外に話した内容を、『将軍』に後から確認されてもおいしくない。
結局できるのは、紗和が気にしない範囲で話を誤魔化すくらいだろう。
(何より、うちの女王様は頭が切れる。よほど上手くやらないと誤魔化すだけでも一苦労だ)
発覚する可能性が高すぎるので、大きな嘘をつく必要性はほぼ無い。
童女の様にあどけなく、深窓の姫の様に典雅に微笑みをたたえている、いつもと同じ顔でいつもと異なる紗和を見て、これも強敵そうだと、蓮は内心溜息をつく。
「あらあら、蓮さん。それで今は何をなさっているのです……まあまあ、動画をご覧になっていたのね。それもわたしが薦めたものを。ええ、ええ。『女王』もお喜びになります。いいですわね、オペラ」
「それに関しては感謝するよ。オペラと言うのは初めて見るけれど、なかなかどうして興味深い」
蓮は椅子を動かし、机の上にあるパソコンの前から女王の方へ向き直る。
蓮に今の時代の電子機器類の使い方を教えた紗和だが、まるで興味を見せない蓮にあきれつつ、それでも紗和が勧めたいわゆる動画サイト、その中の演劇に関するもの検索結果。
今蓮が見ているものがそれだが、実は同じ物ばかり見ていることは気が付かれていないはずだ。
「しかし、ノルマとは。それも英語でご覧になっている。確かに名オペラですが、蓮さんも中々どうしてお目が高いですわ」
「ああ……どういう訳か気に入ってしまった様でね。見ている内に英語も理解できるようになったさ」
歌劇ノルマはケルトの巫女、ノルマが主人公の悲劇の愛を歌うオペラだ。
オペラとしては他にまだまだ有名なものがあるが、主役の難易度が高いこと、何より第1幕第1場のアリア「清らかな女神よ」で知名度は高い。
「うーん、別に意外ではないですよ? 初めて会った時から、あなたが恋する乙女、いえ、愛に生きる人だと言う予感はありましたからぁ」
「おやおや、女王の人を見る目も意外と問題があるのではないかな。この自分が誰かを愛しているとおっしゃるので?」
―――前言撤回
今この瞬間ほど、全力で嘘がつけて良かったと思ったことはない。
蓮の母とも言うべき存在、崇宮澪が己の憎悪、殺意を捨てるため、霊力をもって形を成した悪意ある存在、それこそが蓮。
ゆえに蓮は士道を愛したい―――母が愛したから。
ゆえに蓮は士道を殺めたい―――母が愛したから。
その感情があったからこそ、今ここにいる。
それを知るのは蓮だけで良い。
「前から疑問に思っていたのですよねぇ……蓮さんは一体どうして『彼』の居場所がわかるのかしら? おかげでわたしも彼のお城の近くまでたどり着けたのですけれど……どうしてなのか考えるとおもしろいですよねぇ。あなたが世界の狭間に放逐されてから、『彼』と会ったことは無いはずです。不思議ですよねぇ謎ですよねぇ」
―――そうなのだ。
何故か蓮はおおよそ、『彼』―――五河士道の場所がわかる、わかってしまう。
それは蓮にとって都合が良い、アーメン(かくあれかし)、とまるで誰かが望んだように。
蓮が疑問に思わなくなって久しい謎を顧みていると、「謎と言えばぁ」と宣う女王が人差し指を一本たて、甘ったるい撫でる様な声で蓮の意識を引き戻す。
「蓮さんが叶えたという二個目の願い、思い出せましたか?」
「……いや」
―――本当にこの人格は手強い。
蓮にも分かってしまった。
蓮自身がサマエルに願った二つの願い。
一つ目―――始原の精霊に自分が見つからないように。
二つ目―――思い出せない、願いを叶えたことしか覚えていない。
覚えていなくても察しが付くではないか。
何せ蓮は、五河士道を殺したいほど愛しているのだ。
彼に関することに決まっている。
「まあまあまあ、あらあらあら。折角叶えた願いを思い出せないとは、それはなんと悲劇でしょう―――それじゃあ、蓮さんに提案です」
いつの間にか迫る美貌。
その面に浮かぶ微笑みは柔和な姫のそれで。
「あなたの望みが叶うよう、この『わたし』がお手伝いしましょうか?」
左右で異なる異形の瞳孔
その眼に浮かぶ嘲りは冷酷な策士のそれで。
悪寒が走る。
彼女は蓮の真意に恐らく気が付いている、だからこう言っているのだ。
五河士道を殺させてあげましょうか
「そうですね、どんな風にかと聞かれれば、例えば……惨たらしく、華やかに、憎しみをこめて、愛をこめて」
傷一つない、陶磁の様な手が蓮の前に差し出される。
白魚の様な指が蓮の方に伸び―――すぐに閉じられる。
「あら、あら。そろそろ交代の時間のようですね。今回の事はわたしたちの秘密ですわ。それでは蓮さん、また会いましょう」
白い女王が優雅にお辞儀し、ごきげんよう、と言うのと同時に、大きな歯車が軋むような音が辺りに鳴り響き、じきに止む。
「ああ、休憩中、『令嬢』が出てたのか……あの娘の考えは、わたしにも完全には把握できていないからなぁ……うん? 蓮さん、どうしたの?」
どうやら今度こそ山打紗和本人の人格らしい。
そんなことに安堵する自分。
そして紗和に怪訝そうにそう言われて、蓮は初めて自分が恐ろしく険しい表情をしていることを理解した。
紗和が奥に入ってから暫らく、牛乳の熱されるにおいが充満する。
蓮の様子を見ていた紗和は、お茶にすると言い、準備し始めたのだ。
どうやら『令嬢』は紗和に起こったことを伝えていないように感じる。
少しだけ冷静になった蓮だが、それでも先ほどのやり取りは耳底に未だにとどまっている。
蓮は紗和に関して掴みかねている。
最初に会った時の冷酷な支配者然とした超越的感覚も、蓮にまるで同世代の女の子として気を遣う優し気な所も、一片の慈悲も見せない冷酷な復讐者も、そして自分の行いに苦しむ普通の年齢相応な部分も、全てが彼女に違和感なく当てはまる。
それらに関連していると思われる複数の人格。
前回の『将軍』、そして今回の『令嬢』。
―――何故、『令嬢』は気が付いたのか。
―――言うまでもない。
蓮は先ほどまでの話題の対象が移っていたパソコンの画面に目を向ける。
巫女ノルマ―――自分の友人の巫女を救い、愛する男の心を取り戻すため、火刑に処せられる男とともに心中した女。
激情的で計算高く、慈悲深くも冷徹な女の中の女。
「自分はノルマではないよ……そこまでご立派ではないさ」
誰に言うでもなく呟く蓮。
先ほどの彼女の柔らかな笑みと、そこから発せられた穏やかでありながら決定的に違えた発言は、到底忘れられそうになかった。