御者さんの頭が吹き飛んだ。
頭があったはずの場所からは真っ赤な血を噴水のように吹き出し、頭部を失った胴体はゆっくりと倒れた。
嗅いだことがないくらい濃い血の匂いと、御者さんの返り血で、視界と思考が真っ赤に染まる。
動けない。叫ぶことすらできない。
「グリ坊ッ! 骨女ッ! 今すぐこ──」
今までにないくらい焦った表情のレフさんと目があって、僕は理解した。
「お前……」
人間は本当の
空気すら凍りつくような声が、僕のすぐ後ろから聞こえる。
「(いる…………)」
振り向かなくても、振り向けなくても分かってしまう。
御者さんを殺したのも……今、僕の後ろにいるのも。
全て、この悪魔が。
「(どう……やって…………)」
コレは悪魔だ。しかもそこらの悪魔とは格が違う。
二人には気づかれない速さで、顔も見えないくらい遠いところから一瞬で僕の後ろに回り込んできた。
「(なんなんだ……この悪魔……!)」
僕とレフさんが一歩も動けない中で、唯一シスターだけは臨戦態勢に入ることができた。
もっとも、言葉通り臨戦態勢に入った
「Gott i──」
詠唱が終わる前に、シスターは馬車の外へと蹴り飛ばされる。
まるで蹴られた小石のように、シスターが……人間が道を転がり、そして止まった。
道に突っ伏したまま、ピクリとも動かない。
「今の女は……そうか、なるほどな」
「しす……た……」
「グリ坊伏せろッ!!」
遅れてレフさんが猟銃で僕の後ろを狙う。
ダァン!!
「な……!」
「銀でできた弾丸か。確かに悪魔に有効であるが、当たらなければ意味が無いな」
硝煙の匂いに交じって、レフさんの絶望に似た表情が僕の鼓動を更に加速させる。
「この距離で……避けた……ッ!?」
「"恐怖"しているな、人間」
「……っ!」
恐る恐る後ろを振り返ってみる。
そこにいたのは人間、の姿をした
白い短髪に冷たい目をした青年。真っ黒なコートと、寒くもないのに首には真っ黒なマフラーを巻いている。
見た目は人間、でもその雰囲気は僕が今まで出会ったどの生き物のものとも違う。
恐怖。
この世の恐怖を一身に集めたような……そんな雰囲気を感じた。
「だが恥じることはない。恐怖という感情は生物が生きていく上で必要な感情だ」
「生きとし生けるものは全て、己より格上、己より上位の存在に恐怖を感じる」
「恐怖があるからこそ、人は自らに危害を加えるものから距離をとろうとし、結果自分の命を救う」
「もし恐怖という感情がなければ……あの女のようになってしまう」
「俺からすれば恐怖という感情がないあの女にこそ"恐怖"を感じる。……まぁ、アレの場合は例外とも言えるか」
何だ……何なんだよこいつ…………
こんなに目の前で悠長に話して、無防備で隙だらけに見えるのに……
何もできない。
僕も、それにレフさんも、
かろうじて銃口を向けながら、しかしその場から一歩も動こうとしない。動くことができない。
「っ……何なんだよ……テメェはッ!!」
蹴り飛ばされたシスターに声をかけることも、レフさんに助けを求めることも、ここから逃げだすことも、
まるで僕の行動すべてを封じられたように、動けない。
「それより、俺が恐怖しているのは……」
男が僕を見つめてくる。
怖い、怖い……怖い怖い怖い怖い……!
「お前……」
鼓動がうるさい。呼吸ができない。全身がこわばって何もできない。
「グリ坊ッ!! 逃げろッ!!!」
死が、こちらへ向かって伸びてくる。
「ッ!?」
その時だった。
馬車が大きく揺れ、僕の身体は何かに巻き取られた。
「あぁ!?」
「んだよこれ!!」
レフさんのやったことではない……? じゃあ何これ!?
この感触、まるで迷いの森の……
「「植物!?」」
僕とレフさんは突如どこからか伸びてきた植物のツタに絡まれて、その場から引っ張り出されたみたいだった。
あの迷いの森の大木と似た力? でもこの植物のツタからは、どこか温かい力を感じる。
「これは…………」
白髪の男を僕たちから遠ざけるように植物のツタが男へと向かっていく。
「なるほど、加護の力か」
周囲から向かってくる無数のツタを、驚異的な速度で何でもないように避ける。
その動きは明らかに人間を超越していた。
「『加護の力』?」
「やれやれ……久しぶりに娘が帰ってきたと思ったら、とんだ招かれざる客が来ているようですね」
声の主はツタが伸びてきているところにいるようだった。
「お前はブロッサムのところの……」
「白髪の悪魔よ、大人しく立ち去るか、ここで私に四肢を引きちぎられるか、好きな方を選びなさい」
声の方に顔を向けると、灰色がかった後ろでに短く纏められた髪と、鋭い目つき。片眼鏡をかけ、そして年齢を感じさせないほどしゃんと伸びた背筋をしたおばあさんがいた。
「私は、どちらでも構いませんよ」
そのおばあさんは悪魔を全く恐れることなく、むしろ相手を震え上がらせるような口調でそう言ってのけた。
「あの修道服、シスターと同じだ……」
ということは、王都にある教会の
「ふむ……ここは引くとしよう。
「臆したのですか? 白髪の悪魔」
「…………人間よ、一つだけ教えておいてやろう」
「俺の名はフィア・ヘルズゲート。俺の存在は恐怖によって確立される」
「恐怖こそが俺の存在そのもの。その俺が貴様ら
「格上の相手に恐怖を持つことなく、無謀にも戦いを挑むそこの人間より、よほど人間的だ。怖いもの知らずほど早死する者もいないだろうに」
「そうは思わないか? 我らが
同胞? 一体誰のことを……
「と言っても聞こえないか……まぁいい。いづれまた会うことになる」
「さらばだ人間たちよ」
空気を引き裂いたような音がして、その男……フィアと名乗った悪魔は、どこかへと去っていった。
「は……はは…………」
レフさんの乾いた笑いが聞こえる。
「おいグリ坊…………生きてるか?」
「は、はい……」
「だよなぁ……オレも生きてる…………はははっ……!」
生きている。
間違いなく、生きている。
「僕……生きてる……」
今度こそダメかと思った。けれど今、僕の心臓は確かに動いている。
「は……あはは……」
笑いと一緒に、なぜか涙が出できた。
恐怖から開放されたからか、それとも度重なる命の危機で心身ともに疲弊していたからか、
「おい、グリ坊?しっかりしろ!おい!」
僕の意識は薄れていった。
……リ…………マ…………
「こ、ここは……?」
どこだここ……周りが真っ暗で何もない……
確か僕はさっきまで……
……リー…………マ……
「……!」
どこから女の子の泣き声がする。
「そこに誰かいるんですか?」
辺りを見回してみると僕に背を向けてうずくまる小さな女の子を見つけた。
ここからじゃよく見えないけれど……多分、この泣き声はあの子のものだ。
聞いているだけで胸が張り裂けそうになる、悲痛な泣き声。
マ…………リー……マ
「……?」
泣きじゃくりながら、女の子は誰かの名前を呼んでいるような気がした。
思わず彼女に一歩近づいたその時。
「っ!?」
誰かに、何かに引っ張られる感覚がして、僕の視界がだんだんと光で覆われていく。
「待って! 君は──」
「君はッ!?」
「おはようございます。グリフ」
目覚めると、そこはどこかの建物の中だった。
「こ、ここは……」
石造りの高い天井にどこか懐かしさがある内装。天井付近には僕らを囲むように綺羅びやかなステンドグラスが。
そして奥の壁に設置された、女性が赤ん坊を抱いて微笑んでいる一番大きなステンドグラスと祭壇に向けて、等間隔に配置された木製の長椅子。
「教会?」
「はい、目的地のブロッサム教会です」
すごい……僕の村にあった教会とは比べ物にならないくらいに大きい……
「というか、なんで僕はシスターの膝の上で寝てるんですか?」
「ベンチでは首を痛めるかもしれないので」
「顔! 顔が近いですシスター! もっと離れ……」
「グリフ」
起き上がろうとした僕の頭に、シスターの白くて細い手が添えられる。
「痛いところは無いですか? どこも怪我はしていないですか?」
心配そうに僕の頭を優しく撫でる。
恥ずかしいような、けど少し安心するような、そんな不思議な感情に包まれた。
「は、はい……大丈夫です……」
「申し訳ありません。私がついていながらグリフを危険な目に合わせてしまいました」
感情が無いはずのシスターが悲しそうな顔でこちらを見つめてくるのに耐えられず、僕はシスターの膝の上から飛び退いた。
「待ってくださいグリフ」
「いや! もう大丈夫ですから! ホントに気にしないでください!!」
「しかし」
「何やってんだテメェら」
僕とシスターの座っている椅子から離れた位置に立っていたレフさんが、呆れ顔で話しかけてくる。
「レフさん!」
「ったく……随分とうなされてたみてぇだな。悪夢でも見たか?」
「夢……」
あれ……僕は確かさっきまで……
「思い出せない……?」
「マジで見てたのかよ……ま、どうでもいい話か。それより──」
「どうやらお目覚めのようですね」
僕らがいる部屋の入口らしき扉から、修道服を着たあのおばあさんが入ってきた。
「具合はどうですか」
「あ、あの……ありがとうございました。助けてくれて」
「お礼にはおよびません。
口調にどこかシスターに似た冷たさがあるこのおばあさんは、やはりと言うべきか、自らを
「
「これは失礼しました。まだ名乗っていませんでしたね」
「私、このブロッサム教会で
聞いたこちらの背筋が伸びてしまうくらいに礼儀正しい自己紹介。
「は、はじめまして! グリフといいます!」
「なんでテメェはそんなに緊張してんだよ」
「それは……いや仕方ないじゃないですか!」
王都の教会の、それも
「緊張する必要はありませんよ。代表と言っても形だけですから」
「バァさんもよく言うぜ。どこの世界に"形だけ"の加護持ちがいんだよ?」
「貴方の減らず口も相変わらずですね『赤頭巾』」
「そっちこそ、余生を謳歌してそうで何よりだよ」
レフさんと、このガーデンさんは知り合いなのか?
友人というわけではなさそうだけれど……
「仕事で何度か顔見ただけだっての」
「
「つーかよ、仲良しつったらそっちの骨女のほうがそうだろうぜ?」
「え?」
そういえば……
『やれやれ……久しぶりに娘が帰ってきたと思ったら、とんだ招かれざる客が来ているようですね』
「……娘?」
「オレのことでもなけりゃ、当然グリ坊のことでもねぇ。そうなったら一人しかいねぇだろ」
ならどうして、シスターはずっと黙ってるんだ……?
「おい骨女、テメェ確か『破門された』つったな」
「あ! でもそれなら……」
シスターは本当ならここにいちゃダメってことに──
「破門と言っても大したことではありません」
「いや、十分大したことですよね!?」
「そういえば、まだしっかりと挨拶していませんでしたね」
すると、ガーデンさんはシスターの方へしっかりと向き直った。
「お帰りなさい。元気そうで何よりです。ロゼ……いえ、今はスオンでしたか」
「お久しぶりです、シスター・ガーデン」
あれ? 意外と……
「……なんともねぇな」
「そう……ですね」
自分からふっかけたのに心配そうな顔をするレフさんに、僕も同調した。
「我々ブロッサム教会は確かに彼女を破門にしました。しかしそれはあくまでも聖教会による決定……我々としては彼女を手放したくはなかった」
「聖教会?」
「簡単に言えば、全ての教会を統括する組織のことです」
「本来は悪魔による被害の集計や、討伐のための情報を管理しているのですが、私のような規則を破った
シスターが破門になるほどの罰……一体この人は何をしたんだ……?
正直すごい知りたいけど、やはりどこか聞きにくいので大人しく口をつぐむ。
そういうのはレフさんが聞いたりするものだ……無神経に。
「あ? んだよグリ坊」
「何でもないです」
「……ならなんで目そらしやがる」
「何でもないですから!」
訝しげにこっちを睨むレフさんの目から視線をそらした。
「ふーん……ま、どうでもいいか」
「それで? 骨女がその聖教会とやらに破門させられたのは分かったけどよ、んな真似したらアイツが黙っちゃいねぇだろうが」
「アイツ?」
「お前らのとこにはいんだろうが。
言い方は不自然だけれど、僕にはレフさんが言わんとすることが分かった。
レフさんは今、僕たちがレフさんのギルド『
「『悪魔神父』……」
「僕を呼んだかい?」
「うぇあ!?」
「ッ!?」
祭壇の方から声がする。
咄嗟に僕とレフさんが振り返ると、そこにはシスターの着ている修道服と似たデザインの祭服に身を包んだ……神父?
「お久しぶりです。ロザリオ神父」
「よく帰ってきたねロゼ。また会えて嬉しいよ」
祭壇からゆっくりこちらに近づいてくる。
一歩、また一歩と歩を進める度に、レフさんの警戒心が強まっていく。
「そんなに怖い顔しなくてもいいじゃないか、レフィリアちゃん……もしかして君のギルドを真っ二つにしたこと、まだ怒ってるのかい? あの後ちゃんと謝っただろう?」
「…………オレはレフだ。そのガキみてぇな呼び方でオレを呼ぶんじゃねぇよ」
「はっはっは! 相変わらずだね君は」
その人はとても"悪魔"なんて呼ばれるような容姿ではなく、けれど話している内容は悪魔並に物騒だ。
「…………ハッ、テメェも相変わらずだな」
遂に『悪魔神父』は僕の目の前で足を止めた。
「君は……グリフくんだったか。君がロゼをここまで連れてきてくれたんだね。ありがとう」
「え、あ、いや、その……」
「ガーデンが先に紹介を済ませてしまったかもしれないが……」
「安心してください。どうせ自分で名乗りたいと言い出すと思ったので、あえて紹介はしませんでしたよ」
「それは助かる! それじゃあ改めて」
肩まで伸ばした黒髪を揺らした『悪魔神父』と、僕は
「ようこそ我らがブロッサム教会へ! 僕がここの神父、『悪魔神父』のロザリオ・ブロッサムだよ!」
ロザリオ・ブロッサム……『悪魔神父』……
「お…………」
今度の僕は、思ったことをそのまま口に出さずにはいられなかった。
それくらい彼は……いや、
「お……お…………!?」
「女の子ぉ!?」
僕より少し背の低いその少女は、幼さが残る瞳と、それに不釣り合いなほど穏やかな落ち着いた声で、
自らを『悪魔』と名乗った。
【ガーデン】
性別:女 推定年齢70歳
後ろで短くまとめられた銀髪に、片眼鏡を掛けた姿勢のいい老婆。
ブロッサム教会のシスター長をしている。