664番は半ば呆然と立ち尽くしていた。眼前に広がるのは、荒れに荒れた研究室だった。多くのガラス片が飛び散り、様々な薬品が床に、机に広がっている。それらが混ざり合い、ツンとした刺激臭が鼻をくすぐった。
「ミスリルの、ピンセットと……」
664番は心ここにあらずといった風に、のろのろと動き出す。たとえ思考が停止したとしても、叩き込まれた教えが、彼女に任務を遂行しろと命令しているのだ。
棚や机から必要なものを集めていく。その際に、様々な破片や断片で体に裂傷を負うが、痛みはなかった。心を満たす虚無に比べれば、命の滴下などないも同然なのだ。
「……地竜の骨の粉末。これで、全部だわ」
あとはニューに届ければ任務完了だ。
664番が荷物を抱え、部屋を後にしようとしたときだった。
「ひっ……!」
首筋に冷たい感触がする。そして、静かな殺気が心の臓を震わせた。
「お前、所属は?」
冷たい声が聞こえる。女性の声だ。
664番は慌てて答える。
「現在はニュー様の指揮下にある664番です!」
「何故ここにいる?」
「ニュー様より命じられたものの回収をしています!」
664番が答えると、首筋の冷たい感触が離れる。ふっと安堵の息を漏らしたのも束の間───
「がッ!?」
頭を掴まれ、地面と熱い接吻を交す。鼻の奥が嫌に熱くなる。鼻血が出たのだろう。
「簡単に情報を喋るな、664番」
「す、すみません……」
翡翠の瞳が冷たく664番を見下ろした。体の芯がやけに冷える。
「イータ様の居場所は分かるか」
「敵を追いかけて、窓から飛び出して以降は……」
「そうか」
金髪のエルフはそう言って窓辺に行く。彼女は……カイだろう。イプシロン直属の部下で、ボーイッシュな風体だ。
彼女は窓を開け、そこから外へ出る。その後を、数人の構成員が追いかけた。
664番は叩きつけられたときに散らばった荷物を拾おうとして、
「あれ……」
それらが机の上にまとめて置かれているのを見つけた。カイが置いたのだろうか。
「全然分からなかった……」
「ぅぅ……」
再び自分の無力さを痛感した直後、微かな呻き声を拾った。
664番が室内を見回してみれば、部屋の隅に倒れている男を発見した。髭が印象的な大柄の男だ。
「だ、大丈夫ですか?」
足早に近付き、様子を伺う。どうやら、意識はないようだ。
続いて脈を測る。規則的に鼓動が伝わってきた。特に問題はない。
「良かった……」
ほっと息を吐く。
664番は、動物などはさんざん殺して来たが、人殺しの経験はない。従って、人の死に対する耐性もほとんどなかった。
「駄目ね、私……」
自嘲気味に口の端を吊り上げる。
「うーん、こっちかな?」
その時、ふと廊下から声がした。男の声だ。664番は直ぐ様物陰に隠れる。意識のない男も引っ張り机の後ろに隠した。
664番が物陰からドアを見つめる。人の気配はなかった。足音も呼吸音も聞こえない。
確かに声は聞こえたのに、それ以外誰かの存在を示す証拠が見つからなかった。
「ねぇ君。ちょっと聞きたいんだけど」
「───ッ!?」
気のせいだったのかと思い始めた頃、背後から声を掛けられる。
咄嗟のことに、664番は思考が停止して動けない。死を覚悟する664番とは裏腹に、緊張感のない声が続く。
「大丈夫?」
「は、はい」
敵意のない声に困惑しながら振り向く。背後には、平凡な顔立ちをした血まみれの少年がいた。
「ここってシェリー先輩の研究室で合ってる?」
どうしてこんな所に学園の生徒がいるのだろうか。その答えを見つける前に、少年が言った。
「え? まぁそうですけど……」
どことなく、掴みどころのない印象を受ける少年だ。その漆黒の瞳は664番を見ているようで、別の遠く知らない場所を見ているようにも思える。
けれど、その遠い場所は美しく、気高く、そして何より暖かい場所なのだとも思った。漆黒の瞳の、その奥に宿る淡い光が664番にそう思わせたのだ。
664番は少年に対し、疑念と警戒心、そして少しばかりの好奇心を抱いた。
「そっか。ありがとう」
「ど、どういたしまして」
「もう一ついいかな」
「なんですか?」
「探しものがあるんだけど、手伝ってくれない?」
少年の図々しい言葉に面食らう。
664番には任務がある。早くニューに荷物を届けなければならないのだ。
「…………。……いいですよ」
だが、この少年の頼みを断ることが何故だかできなかった。理由は分からないが、それはやってはいけないように思えたのだ。
「ありがとう。それで……」
少年がメモを見ながら探しものを挙げていく。
「───ガータの実はあっちの棚です」
「あー、あれね」
「───銀皿はあそこです」
「オッケー」
「───ミスリルのピンセットはそこの棚にあります」
「うん」
一通り探しものを集め終え、少年はメモと集めたそれらを見比べ始める。
「それ、何に使うんですか?」
「アーティファクトの調整かな」
「アーティファクトの……!」
一体どうして少年がそんなことをするのかは不明だが、それがすごいことには変わりがない。
664番は純粋に驚いた。
「ところで、君はここで何してたの?」
「それは……」
少し前のカイの言葉を思い出す。
───簡単に情報を喋るな。
『シャドーガーデン』の構成員相手ですらそうなのだ。関係ない外部の者に喋っていい道理はない。
「……」
「言えないならいいよ。そこまで聞きたいわけじゃないし」
664番が黙っていれば、少年は変わらぬ調子で言った。
こちらを気遣ってくれたのだろうか。
「あっ、あと
「それなら、そこの机の上に」
「ほんとだ」
少年は机の上にある白い羽根を取る。そして、ふと思いついたように言った。
「そういえば、この部屋だいぶ荒れてるけど、何かあったの?」
664番はなんと答えようか考える。あのくらいなら素直に話しても良いと思うが、先に言われたことが思考を掠める。情報を、簡単に話してはいけないのだ。
それに話したところで、信じて貰えるかは分からない。それほどまでに、あの光景は人の想像を越えていた。
「あなたは……」
「うん?」
「あなたは、自分が何のために存在しているのか、って考えたことありますか?」
考えて、考えて、考えが一巡した結果、全く関係ないことを口走る。
「さぁ、どうだろう。考えたことないかもね」
「そうですか……」
664番はその答えに肩を落とす。この少年ならば、664番の欲する答えを持っているかもしれないと、勝手に淡い期待を抱いていた。
けれど、現実はそう甘くないようだ。結局、答えは自分で見つけなければならないのだ。
見つからないのならば……。
664番の心は深く深く奈落の底へと落ちていく。海底に沈みゆく石ころのように、ゆっくりと暗い底へと落ちていく。
「───でも、僕にはやりたいことがある。なりたいものがある」
そんな664番に少年は言う。まるで闇夜に差し込む月光のような響きを孕んだ声だ。
「世界の誰もが一度は夢見て、けど諦めて。いつかは"できるところの現実"に染まって、忘れてしまう」
「……」
「それでも、僕はそれを諦めないし、追い求め続ける」
どうしてだろう。少年は声の調子を変えたわけでも、喋り方を変えたわけでもないのに、その言葉に圧倒される。彼は一体、何を背負って、何を目指しているのだろう。
「どれだけ遠くても、険しくても、たとえそれ以外の全てを捨てなければならないとしても、僕は諦めない」
「…………」
「……そう考えると、僕の存在理由は"それ"になることかもしれないね」
少年は微笑んだ。
「君がどんな悩みを抱えてるかなんて知らないし、興味もない。けど───」
少年は荷物を抱えて歩き出す。
「───諦めなければ割とどうにかなったりするよ」
続けて、魔力だって見つかったしね、と少年は呟くが、664番には聞こえなかったようだ。
「探すの手伝ってくれてありがとう。美人なエルフさん」
少年はそう言い残し、去っていった。
結局、あの少年はなんだったのだろうか。分からない。
分からないことだらけであるが、それでも少しだけ勇気を貰えた。
「役に立てるように、追いつけるように頑張ろう」
頬を叩き、664番は荷物を抱えて走り出す。
その表情は心なしか晴れやかなものとなっていた。
その後、戻りが遅かったため、ニューに怒られたのはまた別の話である。
□□□
辺りもだいぶ暗くなった。持ち込んでいた刃物で手の拘束を外したローズはひたすらチャンスを待っていた。
額を一筋の汗が流れ、落ちた。
「まずいわ……」
徐々に体の魔力が吸い取られている。それは微々たるものだが、如何せん拘束されてから長い。既に魔力欠乏により倒れている者も出ていた。
「時間は味方してくれない……」
騎士団も、魔力が使えないこの状況では手出しができないようだ。
ローズは全身を甲冑に包んだ人物を見る。ローズが最も警戒する相手で、恐らく敵の首領だ。
彼の騎士が纏う雰囲気は只者ではない。面と向かって対峙しているわけではないのに、ピリピリとした感覚がする。
少なくとも、彼の騎士がいるときに行動するべきではないだろう。
「もう一人……」
そして同じようにローズが注意する人物がいる。
こちらは完全に黒い衣装に身を包み、フードを深く被った人物だ。そのため顔は見えない。
一見すれば、その他の兵卒と変わらない風体であるが、放つ空気が奇妙なのだ。
一言で表すならば、虚無。そこにぽっかりと穴が空いているようだ。視界に入っているはずなのに、見失いそうになる。
そんな得体の知れない人物だった。
「サーテライト、カースはどこに行った?」
騎士が苛立たしげに言う。
「分からないわ。そもそも、まだ帰って来ていないのだから」
「やられたのか?」
「さぁね。知らない」
騎士が剣呑な空気を纏う。だが、サーテライトと呼ばれた黒衣装はどこ吹く風だ。
「まぁいい。それで、アーティファクトの回収は?」
「あれが帰ってきてないのよ? それに、バーネット……いえ、シェリーの元へ放った3rdも帰って来ない」
言外にサーテライトはまだだと告げる。
騎士は舌打ちをした。
「まぁいい。どうせすぐに向こうから来る」
「あら、詳しいのね」
「───」
一触即発の雰囲気になる。爆発しそうな程に、緊張感が膨れ上がった。
「チッ」
先に外したのは騎士だった。舌打ちし、そのまま別室へと籠もる。
「さてと……」
続いてサーテライトも部屋を後にする。
今がチャンスだ。
そして、偶然か否か、ローズがそう考えると同時に、大講堂が白い光に包まれる。
考える前にローズの体は動いていた。
「───魔力が、使える……!」
魔力を使い、身体能力を上げて近くにいる黒装束を蹴り飛ばす。その際に、腰に差した剣を奪い取る。
胸に描くは一人の少年の顔だ。決して、彼の死を無駄にはしない。
「魔力は解放されたっ! 生徒たちよ、反撃のときが来たっ!!」
高く剣を掲げて、ローズは声高に叫んだのだった。
664番ちゃんの話が予想以上に長くなってしまいました。
あと2,3話で終わると思います(内一話は後日談)。