「はぁ……」
まだ朝日も登らないような早朝、アルファは自分の執務室で盛大にため息を吐いた。ぐーっと伸びをすれば、肩や背中の辺りがゴキゴキと鳴る。
「お疲れですか」
今し方報告を終えたガンマが尋ねる。
「いえ、大丈夫よ」
アルファはゆるゆると首を振る。
彼女の机の上には、ここ数日で様々な方面から寄せられた報告書や申請書などの書類が、山積みになっていた。部下に代行を命じていたとはいえ、彼女らの権限では判断できないものもある。
アルファはそんな書類群をミスがないようにと、精査しながら読んでいた。
「続けてくれる?」
「は、はい。それで、今月の売り上げについてですが……」
ガンマの報告を聞きつつ、手元の資料も読み進める。本当は、一つずつ丁寧にいきたいところだが、如何せん、時間がないのだ。
というのも、敵対する商会勢力が連合を組むという怪しい動きを見せたり、教団に属すると思われるオリアナ貴族のドエム・ケツハットが来たりと、予断を許さない状況だからだ。
だがしかし、数日休んだだけでこんなに書類まみれになるとは思わなかった。
「……いえ、これもガーデンが大きくなった証拠ね」
「アルファ様?」
「何でもないわ」
だいぶ集中力が切れてきたようだ。
気合いを入れ直そうと、ティーカップに手を伸ばす。しかし、やけに軽いそこには、もう何も入っていなかった。
「……悪いけれどガンマ。紅茶を淹れてきてくれる?」
「分かりました」
退出するガンマを見送り、手元の資料に目を落とす。
『研究費の増額求む』
丸っこい字で、余白を埋め尽くす程びっしりとその理由が書かれている。イータだろうか。
「まだ必要なの? しかもこんなに……」
ざっくり、『ミツゴシ商会』での今月の純利益、その三分の一に匹敵する予算をイータは要求している。流石にそれは無理だ。
「はぁ……」
アルファが冒頭と同じようにため息を吐いたところで、コンコンコンと軽いノック音が響く。
「お茶を淹れてまいりました」
「ありがとう」
アルファの前に置かれた紅茶は、ゆらりと湯気を立ち上らせる。そこから溢れる香りは、いつも彼女が嗅ぐものだった。
「腕を上げたわね」
「いえ、そのようなことは……」
彼も美味しいと言っていた味に、少し心が落ち着く。
「報告はまだあるかしら?」
「ありませんが……」
「───?」
「その、少し休まれてはどうでしょうか」
物思わしげな表情で、ガンマは言う。
「仕事が溜まっているのは分かります。しかし、本来アルファ様がやらなくてもいいようなものもあるでしょう」
「……」
「それら仕事の方は、できる限り私たちがやっておきますので、どうか今は休んでください」
ガンマの言うことにも一理あった。というのも、アルファは自分にできないことは他人に任せるが、自分にできることは自分で抱え込む質だからだ。
その性質故に、本来ならアルファがやらなくていいような仕事も少なからずあり、それがアルファの仕事量を増大させていた。
「分かったわ……任せてもいいかしら?」
「勿論です。アルファ様の代わりはいませんから、無理をなさらないようにお願いいたします」
「えぇ」
結局、ガンマに説得される形で、アルファは臨時休暇を得たのだった。
□□□
「……もうこんな時間」
それから、ベッドに入り、目が覚めたのは昼頃だった。
今朝から何も食べていないせいか、腹の虫が鳴る。
「これは……」
とりあえず何か食べようと起き上がったところで、テーブルの上に『まぐろなるど』の包みがあるのに気が付いた。
「ガンマね……」
どうやら新作のようで、『自信作です!』と走り書きされたメモがあった。
「美味しいわね」
流石、ガンマが自信作と
「後でガンマに感想を伝えないと」
食べ終わったアルファは包みをゴミ箱に放り込む。
「さて、これからどうしようかしら」
アルファは悩んだ。仕事に戻ってもいいが、ガンマに見つかったら休んでいろと、追い出されそうだ。
降って湧いた休日は意外と使い道に困る。
「……とりあえず、街を散策してみましょう」
そんなわけで、私服に着替えたアルファは王都に出たのだった。
□□□
昼時の王都はすこぶる賑わっていた。あちらこちらから、集客しようと元気な声が飛び交う。入り乱れるように人々が行き交い、流れる馬車の列は途切れそうになかった。
ここは、王都でも屈指の商店街。端に行けば様々な露店が、中央であれば王都を代表するような大手の店が立ち並んでいる。無論、『ミツゴシ商会』もその一つだ。
アルファは慣れた足取りで、雑踏の中を進む。誰もアルファに気が付かないのか、視線を向けられることはなかった。
「いけない。いつもの癖で気配を消していたわ……」
これでは却って不自然だ。もし教団の者がいたら、目を付けられてしまう。
アルファは立ち止まって、自然体を装う。要は、彼みたく大勢の一人として、周りに溶け込めばいいのだ。
「あらごめんなさい」
「す、すみません……」
そうして、流れの中立ち止まっていたことが災いして、背中から誰かにぶつかられてしまう。
振り向けば、藍色の髪をした小柄な少女がいた。
「怪我はな───」
「あ、アルファ様!?」
「───」
驚いた声で少女はアルファの名前を叫ぶ。
彼女の判断は早かった。少女の口を塞ぎ拘束し、路地裏に入る。
あまりに手慣れたその一連の行動に、少女は何ら抵抗を示すことはできなかった。
「『シャドーガーデン』の者ね?」
口を塞がれた少女は、こくこくと懸命に頷く。
それを見て、嘘がないと判断したアルファは、拘束を解く。少女は少し涙目になっていた。
「迂闊に名前を呼ばないように」
「は、はいっ!」
「あと静かに」
「はい……」
この少しのやり取りで分かったが、だいぶ真面目な子のようだ。
「あなた、番号は?」
「664番です」
「664番ね。ここで何をしていたの?」
「それは……」
言いにくそうに、少女は目を逸らす。心なしか、耳が赤くなっていた。
「友達と、遊びに……今日は、休日なので」
「そう」
アルファは微笑んだ。それは、昔のことを思い出したことによる笑みでもあった。
「ガンマやイプシロンたちと……懐かしいわね」
全てが終わったら、またみんなで集まるのも悪くないだろう。
「こんなところにいたのですね」
「あっ……」
そんな風に物思いに耽っていると、聞き慣れない第三者の声が割って入った。
「リズさん、そちらの方は……?」
「あの、えっと、その……」
可愛らしく小首を傾げる金髪の人物───ローズ・オリアナだった。
彼女は、手にいくつかの紙袋を持っていた。
リズと呼ばれた664番はどうしていいか分からずに、オロオロしている。
彼女の言う友達とは、ローズのことだったのか。
「私はこの子の姉です」
そう言って、664番の頭にポンと手を乗せる。
「まぁ! お姉様がいらしたのですね!」
呑気なローズは全くこちらの言葉を疑っていないようだ。
664番は石像の如く固まって動かない。
「あなたは、この子とはどういった関係で?」
「そうですね……友達、でしょうか」
一国の王女が気軽に友達など作ってもいいのだろうか。
けれど、これは僥倖かもしれない。
「友達……そうですか。なら、私はお邪魔なようですね」
「そんなことはありませんわ。よろしければ、これから一緒に観光などはどうでしょう?」
屈託のない明るい笑みでローズが言う。
「それはいいですね。ですが、これから私は用事があるので、失礼させていただきます」
そう言って、アルファは立ち去った。後ろからは664番とローズが楽しそうに話す声が聞こえてきた。
□□□
アルファがしばらく歩いていれば、いつの間にか昼時も過ぎていた。穏やかな昼下りの街を、川に沿って下っていく。
ここら辺は住宅街であるようで、大通りに比べると閑静で、それが心地良かった。
子どもたちがボールを蹴って遊び、お年寄りがベンチに腰掛け談笑に花を咲かせる。いたって平和で、この世に陰などないかと思わせる、長閑な光景だった。
「あっ……」
「えっ……」
そんな風景を眺めながら、ゆっくりと歩いていたアルファは、見覚えのある顔を見つけ、足を止めた。向こうも気付いたようで、二人して間抜けな声を漏らす。
「あ、アルファ様っ……」
「こんなところで何をしているの? ゼータ」
ゼータは、川に落ちないよう付けられた手すりの上で寝転がっていた。アルファに気付く前は、気持ち良さそうに喉も鳴らしていた。
「日向ぼっこだけど……アルファ様もする?」
「いいえ、遠慮しておくわ」
ゼータは気まずそうに目を逸らす。
「どうしたの?」
「いや、サボってた報告書の催促に来たんじゃないかと思って……」
手すりの上で器用にあぐらをかいたゼータは、おっかなびっくりと聞く。ピンと真っ直ぐに伸びた尻尾が、彼女の内心を表しているようだった。
その様子に、アルファは吹き出す。
「ちょっ、何で笑うのさ」
「……悪気はないのよ。でも、そんなに縮こまるなら、サボらず出せばいいのに」
「報告書を書くのって、飽きるんだよね。そうそう進展なんかないから、毎回同じような内容になっちゃうし」
「それでも、進展がないということを伝えるべきだとは思わない?」
「それは……そうだけど……」
いまいち釈然としないといった風に、ゼータは口を尖らす。その様子に、また懐かしさを覚えた。
「とりあえず、報告書はいいわ」
「ほ、本当っ?」
「えぇ。ところで、いつの間に王都に来ていたの?」
「うん。つい先日ね。ちょっと気になることがあってさ」
「気になること?」
「そ。で、潜入は夜の方やりやすいから、今は待機中ってわけ」
ゼータはそう言って、手すりの上で再び寝転がる。そして、気持ち良さそうに喉を鳴らした。
「気持ち良さそうね」
「ん、そうだね。アルファ様もどう?」
「そうね。少しだけ、一緒しようかしら」
アルファは手すりに寄りかかる。流石に、ゼータのように寝転がるのは憚られた。
それから、二人はしばらく会話を楽しんだのだった。
□□□
夕刻。ゼータと別れた後、もう帰ろうと思ったアルファは、来た道を戻っていた。
「帰る頃には日が暮れていそうね」
美しき夕映えが、西の空に浮かんでいた。
仕事や学校帰りの人が、列を成して歩いている。彼らの表情は晴れやかであり、疲れてもいて、一日の終わりを実感させるには十分であった。
昼間賑わっていた商店街も、露店は既に店を畳み始め、熱気はとうに去っていた。中心に進むにつれ、人は増えていくが、やっぱりどこか物寂しい雰囲気だ。いや、そう感じるのはアルファだけかもしれない。
「あら?」
そんな中、アルファは『まぐろなるど』に入っていく一人の少年の姿を見つけた。
その少年の後に釣られるように、アルファも入店する。
「いらっしゃいませー! ご注文はいかがなされますか?」
「とりあえず、まぐろサンドとコラ・コーラを貰えるかしら」
「かしこまりましたー!」
商品を注文し、レシートを受け取って待機する。寸刻と待たずして、注文したものが出てきた。流石、ファストフード店だ。
「彼は……と。いたわね」
四人席に一人で座り、サンドを頬張る少年の姿を見つける。
アルファはその少年の向かいの席に座った。
「相席いいかしら?」
「それ、座る前に言うよね。普通」
少年は本を読んでいた。タイトルは『エルフ失格』だ。
「……うん? アルファか」
「そうよ。今気付いた?」
「今気付いた」
少年は本を読んだまま、ポテトを
「それ、面白い?」
「まぁまぁね」
「ふふふ、そう」
ベータも、これを聞いたらきっと喜ぶだろう。
「まぁ、完全にパクリなんだけどね」
「何か言ったかしら?」
「いいや、なんでも」
「そう。最近、調子はどう?」
「ぼちぼちって感じかな……あっ、そういえば今度ブシン祭があるよね」
「それがどうかしたの?」
「僕もあれに出たいんだよね。できれば、シャドウやシドとしてじゃなく」
その行為に、どのような目的があるかは分からない。きっと、アルファの想像も付かないような思惑があるのだろう。
「分かったわ。ガンマに掛け合ってみましょう」
「ありがとう」
「どういたしまして」
アルファはにっこりと微笑んだ。
「そういえば、『聖域』で彼女とは何を話したの?」
「彼女? ……あぁ、別に大したことじゃないよ」
彼は懐かしむような表情で目を細めた。ズズッと液体のなくなったカップを啜る。
「彼女は最後こう言ったんだ───私を殺してってね」
「あなたはどうするの?」
「さぁね、どうだろう」
「じゃあ、あなたはどうしたいの?」
「───ふっ」
彼はうっすらと笑みを浮かべるばかりで、何も答えなかった。
その笑みから、アルファは彼の思考について考える。
かつて世界に混乱と厄災を
『聖域』で何があったのか、アルファには分からない。彼は多くを語らないから。
彼はきっと、平和を望んでいると思う。それは、今までの彼の行動を見ていれば分かる。
そんな彼なら、いたずらにアウロラの復活はさせないだろう。
だが、"解放"は望んでいるかもしれない。
はっきりとは言わないが、アルファにはそう感じられた。
「ところで、前に魔力パワーで二百年は生きるって言ってたじゃない?」
「そうだね」
「あれ、もう少し伸びないかしら? ……エルフの寿命には少し足りないのよ」
アルファは冗談めかして言う。けれど、彼ならあるいは……という期待もあった。
「大丈夫。四百年は生きるつもりだから」
「えっ?」
「じゃあ、そろそろ帰るね」
彼は立ち上がり、そのまま店を出て行く。
「……あっ」
残されたアルファが、彼の座っていた席を見ると、そこには数枚の銅貨とメモがあった。
『この前のお礼』
メモには、そんなことが書いてあった。
「……私も、魔力パワーで四百年生きられるかしら」
自然とアルファの口元は綻ぶ。
それからすぐに店を出た彼女の足取りは、今日一番軽やかだった。
巻いた甲斐がありました。
次回からは四章ブシン祭編に突入です!