試合開始の合図が会場に響き渡る。耳を塞ぎたくなるほどの観衆の声援にローズは包まれた。
その声援は、熱狂とも歓声とも言えない。いわば、純粋なる興奮により、忘我した民衆たちによる狂宴の叫びのようなものだった。
熱に浮かされた民衆たちの咆哮は、本来波動であるはずの声に、物理的な質量さえ与えているように思われる。
圧倒的な"物量"が、ローズには感じられた。
そんな中で、ローズは相手を観察していた。
相手の一挙手一投足に気を配り、相手の得手不得手、実力の一端を探り合う。
剣を持たなかった頃のローズは、この最初の間の意味を理解できなかったが、今は違う。この僅かな読み取り合いが、戦いにおいて勝敗を決める大きな一因になることを知っているのだ。
───見られている。
ローズが相手を見ているように、相手もまた、彼女のことを見ていた。しかも、恐らく彼女以上に正確な眼力を以てしてだ。
ピリピリとした空気をひしひしと感じる。
頬に冷たい一筋の汗が流れる。
緊張も高まり、今にも戦闘が始まろうとしていた。
「なっ、何のつもりですかっ!?」
「……」
そんな状況なのに、ギニューは剣を収め、腕を組む。そのままじっとローズを見る姿は無防備に他ならない。
「今のあなた相手に、剣は必要ない」
あまりに平然と言ってのけるギニューに、ローズは唇を噛む。
「後悔しても、知りませんよ」
「……」
未だ棒立ちのままのギニューへ向けて、ローズは徐々に距離を詰める。その慎重さは、相手の間合いがどこまでなのか分からない上に、あの棒立ちの真意も不明であることによる警戒の表れであった。
いつでも反応できるように重心を下げる。呼吸のリズムは一定にして、瞬き一つにも気を使う。
そうして、ようやくローズ自身の間合いまでやって来れた。そこは踏み込めば、一歩で相手に刃が届く距離だ。
だが、それは相手にとっても同じことだ。
そして何より、この相手は不気味であった。
本来、距離が縮まれば縮まるほど、感じるプレッシャーは大きくなる。それに伴い、集中力も高まっていくはずなのだ。
対して、今のローズはそこまで深い集中をしているわけではない。何故かと言えば、いくら距離を詰めても、プレッシャーが高まるどころか、感じることすらなかったからだ。
そうまるで、戦う意思そのものがないかのように。
それがローズにとって、不気味以外の何ものでもなかった。
「ふぅー……」
だが、相手が何であれ、ローズが引く理由にはならないのだ。
───きっと観戦してくれているだろうあの少年のためにも、弱い姿は見せられないから。
「行きますッ!」
ローズが鋭く足を踏み出した。
ギニューは全く動かない。まるで反応していないかのようだ。
彼女の剣は美しく半円を描く。白光を反射して輝く軌跡は、一種の芸術のように、ささやかなる存在感を誇示した。
その芸術的な一閃と、ギニューの姿が交わった。
「───っ!?」
そう、確かに交わったのだ。
言うなれば、それはガラスに映る自分と、奥にある風景が同化をするかのように交わったのだ。
直後、ギニューの姿が溶けるようにして消える。
消えて、遅れ遊ばせながらも、彼女が今まで見ていたものは残像であったことに気が付いた。
「誰が、後悔すると?」
背後から声がした。
「シッ!」
ローズは振り向き際に剣を薙ぐ。
しかし、その刃は宙を切る。
背後から声が聞こえてきたというのに、そこには誰もいなかった。
「なっ……どうして……」
「あなたの剣には、迷いがある」
未だギニューを視界に収められないままに、その声だけが響く。
ローズは、ギニューの言葉に何も言い返せなかった。
「何を迷っている? 何に悩んでいる? 『ブシン祭』に出て何がしたい?」
「何って……」
ローズは言葉を失った。
───私が『ブシン祭』に出る理由は何?
自身に問いかける。
───学園の選抜大会で勝ち抜いたから?
違う。それは本質じゃない。
───誰かに言われたから?
違う。これはまさに自分の意志で、選択だ。
───じゃあ、何のため?
「……」
ローズは自身に投げかけた問いには、答えられなかった。
そんなローズに、ギニューは更に問いかける。
「あなたの奥底で燻ぶるそれは、何?」
「奥底で、燻ぶる……?」
ローズはギニューの言葉を反芻した。
□□□
暗闇の中でチリチリと舞う火の粉を幻視する。本当に真っ暗で、そこには儚いオレンジ色の花しか咲いていない。
その花の数は徐々に増えていく。徐々に、徐々に増えていった。
やがて、暗闇を明るく照らすほどまでに、その規模は膨張する。
そうして見えてきたものを、ローズは知っている。そこにある"それ"の名前をローズは知っていた。
これはそう、"怒り"だ。
では、何に対する"怒り"なのか。
言うまでもない。ローズ・オリアナの婚約者、ドエム・ケツハットへの"怒り"だ。
ローズはあのとき───シドと別れた後に、オリアナ国王と会った。そのとき、耐え難いほどの"怒り"を感じた。自分では冷静でいるつもりであったが、後から考えてみればやはり、頭に血が登っていたのだろう。
何らかの薬による作用なのだろうか。虚ろとしたあの瞳。ドエムの言いなりになるしかできないあの状態。
咄嗟に腰の細剣に手をかけた。それはもはや衝動的な反応であった。そして、視野狭窄に陥っていたために、その選択が最善だと信じて疑わなかったのだ。
そんな彼女を止めたのは、一体何であったか。
ふわりと、芳ばしい香りが鼻に触れる。それは何だか懐かしくて、愛おしかった。
それでふと思い浮かぶのは、あの少年が渡してくれたまぐろサンドだった。もう中身は食べてしまったけれど、あの味は今でも思い出せる。
それだけではない。今も、昔も、どんなに苦しいときもずっと。ずっとローズの側にいた存在を、改めて感じる。
細いけれどしっかりしていて、守ってはくれないけれど一緒に戦ってくれる。彼女が夢を追い始めた頃からずっと、手の中で共に歩んできた"戦友"だ。
その"戦友"が、古い記憶を呼び起こしてくれる。
それは昔、誘拐されたローズが見た夢のような光景だ。
月下に煌めく一枚絵のような剣閃。次々に盗賊を葬る姿はまさに圧巻。空に絵を描くことはできないが、彼の人物はそれを体現しているかに思えた。
その古い記憶に付随して、『学園襲撃事件』での出来事も思い出す。
懐かしく思えたあの剣筋は、スレイヤーさんのものだった。
それら過去の記憶が、ローズに問いかけた。
お前の剣は何のためにある、と。
お前の剣は"怒り"に任せて人を切るためにあるのか、と。
答えは否。断じて否だ。
彼女の剣は、あの日見た美しい剣に憧れ、追い求めた剣だ。それは感情に任せて振るうべきにあらず。そして、そんな状態で振れるものでもない。
一度深呼吸をして、ローズは細剣から手を離した。
そして、感情に蓋をして、全てを滞りなく終わらせたのだ。
これが、最善であったかは分からない。むしろ、悪化した可能性もある。でも、早計に動いて取り得たはずの手段を潰す愚は免れたはずだ。
ローズにはもう時間がない。既に〈悪魔憑き〉の症状が出てきているからだ。あるいは、王族と下級貴族が結婚など夢物語だったのかもしれない。第一、それはおとぎ話での出来事なのだ。それは分かっている。
それでも、ローズはあのときの選択は間違っていないと信じている。
それに、あの少年は言ってくれたのだ。
どんなことがあっても、最後までローズのことを信じてくれるって。
彼が信じてくれるならば、ローズに迷いはない。たとえ行く先に正解がなかろうと、必ず最善の未来もいつか見た夢も描き出してみせる。
それが、オリアナ王国王女、ローズ・オリアナの選択だった。
□□□
ローズはぐっと細剣を握りしめる。そして、自分の愚かさを笑う。
感情に蓋をして、それで覚えてなければいけない大事なことまで忘れてしまうとは、救えない話だ。
「───なにがおかしい?」
ギニューが問いかける。
「いえ、あなたのことを笑ったわけではありませんわ。少し……ほんの少し、道に迷っていた自分を笑っただけです」
「……」
何のために『ブシン祭』に出るのか。
今なら、その問いに真摯な気持ちを持って答えられる。
「さぁ、試合を再開させましょう」
「……」
ローズは真っ直ぐな瞳でギニューを見据えた。
ギニューは右手を天にかざす。
「受け取るといい……」
そして、その右手から青紫色の光が溢れ出る。その光は天高く闘技場の空へ昇り、花火のように弾けた。
キラキラと星のような光が降ってきて、ローズを包む。それはとても温かくて、あるいは生命さえ宿っているように感じられた。
その温かみが、ローズの奥深くで暴れまわる魔力を沈静化させる。無理やり押し込むのではなく、潤滑油を差し込むように、内側の魔力に流動性を与えてくれた。
気付けば、ローズを苦しめていた〈悪魔憑き〉による症状がなくなっていた。
「嘘……」
ローズが啞然としていると、ギニューは黙って剣を抜いた。
ようやく、剣士として戦ってくれる気になったのだろう。
そして同時に、凄まじいまでのプレッシャーが叩きつけられる。それは今まで経験したどれよりも強烈なものであった。
「ふぅ……」
ローズは剣を構える。バクバクと心臓は激しく鼓動し、冷たい汗が背中を伝う。
けれど、今まで感じたことのないほどの魔力を感じる。それはローズの内側から溢れるものだった。
そして、心はひどく穏やかであった。
「吹っ切れた、は美しくありませんね」
喩えるなら、強敵に立ち向かう英雄の心境だ。
「……あまり、変わらない表現ですね───さて」
ローズの周囲で黄金の風が渦を巻く。
大気が震え、髪がなびく。
いつしか観衆の興奮は絶頂を迎え、しかし、静けさが会場を包む。
ギニューはただ何もせずに立っているだけだった。先手は譲ってくれるのだろう。
「それならお言葉に甘えて───行きますわッ!」
一歩目の加速でトップスピードまで持っていく。それから更に、二歩目、三歩目を踏んで、ローズのスピードはついに自身の限界を越えた。
それは、ローズが生まれて以来最高の一撃だ。速さも、剣筋も過去のローズの遥か上を行く。
「はぁァァッ!!」
大上段から振り下ろされる細剣が弧を描く。黄金を纏いし弧は、さらには陽光さえも吸い取った。
眩しいまでの光が周囲を覆う。
手には何ら感触はない。人生最高の一撃をもってしても、ギニューには届かなかったのだ。
「自分の信じる道を行け」
不意にそんな声が聞こえた。
直後、衝撃がローズを襲う。
最後に見たその剣は、どんな芸術よりも美しかった。
「スレイヤーさん……」
───必ず、あなたに追いついてみせますから。
願わくば、そのとき隣にはあの少年も……。
そこでローズの意識は途切れた。
〈悪魔憑き〉のくだりは忘れていまして、後から挿入しました。