そこはとても暗い部屋だった。
どこまでも、遥か地平まで闇が広がっている。その闇は月夜のように澄んだものではない。もっと淀んでいて、汚くて、べっとりと纏わりつくような、そんな闇だった。
サーテライトの胸がぎゅっと締め付けられる。
切ない? いや違う。
悲しい? いや違う。
苦しいのだ。胸を圧迫するような圧倒的な気配がある。
体の芯に鉛を詰め込んだように重い。嫌に冷たい臓物が悲鳴を上げるように痛む。
「ご機嫌よう? ペトス様」
サーテライトは流れる冷や汗を拭いつつ、不敵な笑みを浮かべた。
「よく来てくれましたね。調子はどうですか?」
「えぇ、最高だわ。あなたに会わなければ」
「ククッ、これは手厳しい」
ペトスと呼ばれた男は何が面白いのか、くつくつと腹の底で笑う。
彼の髪は黒く、綺麗に切りそろえられ、丸いサングラスを掛けている。身なりのいいスーツは、最近流行りの『ミツゴシ商会』のものだろうか。
ペトスは白い手袋を嵌めた手で、くいっとメガネを持ち上げた。
瞬間、大気が唸ったのかと思うほど震えた───いや、それは正確ではない。実際には、大気は微塵も震えてなぞいない。全ては錯覚、つまり、サーテライトが勝手にそう感じただけだったのだ。
「計画は順調ですか?」
サーテライトは一度、大きく息を吐いた。
「えぇ、万事順調よ。あの娘はいい仕事をしてくれてるわ」
「そうですか。それは朗報ですね」
「それで? あのアーティファクトは、本当にこのまま解読していいのよね?」
「そうですね。急ぐ必要はありません。しかし、私が最も嫌いことは、分かっていますね?」
「浪費をすること、でしょう? 分かっているわ」
「それならばよろしい。努々、お忘れなきように」
その言葉を残して、ふっと圧迫感が消失する。まるで、始めからそこには何もなかったかのように、気配が霧散した。同時に、粘着質な闇はただの質素な闇へと変化する。
どっと、冷たい汗が流れ落ちる。ぽたりぽたりと頰を伝って、地面で弾けた。
「ふぅ……」
サーテライトは長いため息を吐く。そして、薄く笑みを貼り付けた。
「悪いわね、シェリー。これも仕事だから」
□□□
「がうーっ!! ボスー! もっかい投げてっ!」
「はいはい……ほら、取ってこーいっ!」
「わうっ!」
まだ空気の澄んでいる早朝。今日も今日とて、雲一つない快晴だ。
朝はいい。誰もいない静かな散歩ができる。ルンルン気分で散歩していた僕は、しかし、丁度寂れた倉庫のある辺りで、デルタに出くわしてしまった。
僕が投げた棒は綺麗な放物線を描いて、遥か上空、青い空へと消えていく。視力を、魔力で強化して見てみれば、ここから数キロ離れた森の中へ消えてくのが見えた。
その軌跡を辿るように、デルタが走る。というか、ぴったり真下に張り付いていた。棒のスピードは、音速までは行かないけれど、相当な速さはある。
それにぴったりと、確実に捕らえられる距離になるまで、デルタは並走していたのだ。
「十分は戻って来ないかな。今の内に帰ろう」
そうやって、僕が踵を返したときだった。
「ボスー! もっかい投げてっ!」
「あれ、もう戻って来たの?」
「ふふん、デルタは狩りが得意なのです!」
「これは狩りじゃないけどね」
「確かに! ボス! 狩りを投げて!」
「狩りは投げられないよ。あと、今の僕はボスじゃない」
「うっ……じゃあシド! 狩り投げて!」
「狩りは投げられないよ」
僕はデルタのよだれまみれになった棒を受け取って、大きく振りかぶった。気分はさながら、野茂英雄のトルネード投法だ。
さぁ、ピッチャー振りかぶって、第一級投げた───
「あれ?」
「どうしたの? シド?」
「いや、向こうから何か変な魔力を感じてね」
「デルタも感じた! びびっと尻尾に来たの!」
「行ってみる?」
「行く!」
「じゃあ行こうか」
「やったー!」
僕はポイッと手に持っていた棒を捨てる。そして、スライムスーツを身に纏ってシャドウモードだ。
さっき感じた魔力の方角は南だ。確か、シェリー先輩の宿舎がある方だったかな?
「よしデルタ、こっちだ!」
□□□
薄暗い室内には、カリカリと無機質な音が響いていた。ある一定のリズムで刻まれるその音は、カタンという音とともに終わりを迎える。
「あとは……」
シェリーは、机の上に無造作に積まれた本の山に手を伸ばす。そして、何かを探すように漁り始めた。
「うーん、こっちにはない、かな?」
続いて、今度は雑多に地面に放り出されているゴミ……ではなく、資料の山に目を向ける。最早、それは山というよりも海という表現の方が適切かもしれない。足の踏み場など、どこにもなかった。
「えっと、資料、資料……」
そんな海の中にシェリーは飛び込む。そして、遊泳するが如く資料を探し求めた。その姿は、あるいはシドが見れば「ダイビング中かな?」と評したかもしれない。
チクチクと時計の針が鳴る。
さて、それから短針が半周ほど回った。
薄暗かった部屋にも陽光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。
「はぁ……で、できたっ……!」
そして、シェリーは机に突っ伏していた。
その傍らには、怪しく薄紫色の光を放つ球状のアーティファクトがある。そのアーティファクトからは、一筋の光が伸びていた。
「これは……北に伸びてる? 確か、十番倉庫もあっちだったっけ」
シェリーは光のライン上に一枚の薄い紙を差し込んでみる。すると、その光のラインが、紙を透過することはなく、途切れてしまった。
「やっぱり、これは普通の光じゃなくて、魔力的なものなんでしょうか? ……っと」
今はこんなことをしている場合ではない。早く、このことをサーテライトに伝えなければ!
そう思い至ったシェリーはガタッと立ち上がる。
「この時間なら、まだ宿舎にいるはず───わっ!?」
そして、駆け出すと同時に、コケた。
ふわりと何枚もの紙が舞い上がる。それらはゆらりゆらりと踊るように舞い降りた。再び地面のゴミとなった。
「……少し、片付けていこうかな」
□□□
「サーテライトさん!」
結局、片付けに手間取っていたら、昼頃になっていた。
シェリーが廊下をとてとてと走りながら、十数メートル先を歩く女性の名前を呼ぶ。
女性は呼ばれたのに気付いたのか、ゆっくりと振り返った。
「あら? どうしたの?」
「はぁはぁ、サーテライト、さんっ!」
かなり息を切らせて、シェリーはようやくサーテライトに追いついた。
そして、追い付くと同時に、サーテライトの白衣にしがみつく。
随分と急いでいたのだろう。シェリーの額は汗でびっしょりとなっていた。
「あら、汗だくじゃない。そんなに焦ってどうしたの?」
サーテライトはポケットからハンカチを取り出して、シェリーの額に当てる。白いハンカチは少しくたびれていて、汗を吸ったそれは幾分か重くなる。
「あ、ありがとうござい、ます」
「それで、どうしたの? シェリー」
「……できたんです」
「はい?」
「解読が、できたんです!」
ぐっと、瞳を輝かせながら、シェリーは声を弾ませ言った。
「解読って……例のアーティファクトの?」
「はい! 実は、あのアーティファクトは丁度『強欲の瞳』のときのように、複数のアーティファクトを合わせて一つのものなんです! それで、あのアーティファクト自体の役割は恐らくストッパー、あるいは、何らかの制御装置なんだと思います! で、その対となるアーティファクトは恐らく、光の指し示す方向にあるんだと思うんです!」
「……へぇ、そう」
「あっ……」
サーテライトが少し低めの声でそう言った。その声で目が覚めたのか、シェリーは自分の行いを恥じらうように顔を赤らめる。
「す、すみません! つい、熱中してしまって……」
「いえ、いいのよ。私もそういうこと、よくあるから」
「す、すみません……」
サーテライトの優しい言葉に、シェリーは少し安堵するが、それでも再び申し訳無さそうに頭を下げる。
そんなシェリーの肩に温かい感触が乗った。
「ほら、いつまでも下を向いてないで。それより、その話をもっと聞かせてくれないかしら?」
「……いいんですか?」
「えぇ、私も興味があるから。それに、この研究をしようと言ったのは、私の方だしね」
「……はい!」
それからシェリーたちはアーティファクトについての話をしながら、歩き出す。
向かうのは、シェリーの自室だ。
シェリーは話すのに夢中で、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。だから、案の定と言うべきか。彼女はサーテライトの微妙な表情変化に気が付かなかった。
そして、気付かないままに、サーテライトの顔にはいつもの笑みが戻る。優しげで、それでいてどこか薄い、そんな笑みが。
本章はあとニ、三話の予定です。