その日はぽかぽかとした、とても心地よい日和だった。冬も終わりを告げて、ようやく春が始まるといった感じだ。
今の僕は風のない海のように、心が和いでいた。まさに菩薩である。
「……って、聞いてますか。シド君」
「うん? ごめん、考え事してた」
「まったく、なにぼーっとしてんだ」
ガタンゴトンと規則的な揺れが体を震わす。今は電車で通学中だ。車内は多くの人々により埋め尽くされていて、押しくら饅頭状態だった。
「それで、何の話だっけ?」
「『ミツゴシ商会』の話ですよ。最近不穏な噂が流れているんです」
「へーどんな?」
「なんか怪しい組織と繋がりがあるんだってさ。みんな言ってるぜ」
「へー」
怪しい組織か。彼女たちも大きくなったから、そういったヤの字の人々とか、裏の組織とかと繋がりを持ったのだろう。
まぁ、やり過ぎないでくれればいいけど。
「この前も『大商会連合』傘下の店が襲撃されたとかで、連合はピリピリしていますね」
「あぁ、あの『ミツゴシ商会』の商品をパクってた店の話か? 市場に高値でレプリカが出回ってるから商会長が怒ったって話聞いたぞ」
「怒ったの?」
ガンマが怒るとは珍しい。そう言えば、あんまり見たことがなかったっけ。いつもクールビューティーなできるウーマンって感じ出してたし。
でも、確かに誰かに無断でパクられるのは良い気分がしない。僕だって仮に『シャドーガーデン』を騙る奴がいたとしたら、やっぱり許さないだろう。ガンマの怒りもさもありなんだ。
「そうそう、で──ひっ」
と、そこで電車がカーブをする。遠心力によってジャガがよろけた。そして、誰かの足を踏んでしまったのだろう。強く睨まれて声にならない悲鳴を上げていた。
「おいおい。今日始めて電車に乗ったんじゃないんだぜ? カーブするタイミングくらい覚えとけって──ひっ」
腕を組んで語り始めていたヒョロは、かけられたブレーキによって前につんのめる。そして、誰かの足を踏んでしまったのだろう。「チッ」という舌打ちをされ、声にならない悲鳴を上げていた。
どうやらもうすぐ駅に着くようだ。
□□□
放課後、寮の自室に戻るとアルファが来ていた。
彼女はソファから立ち上がると、僕の顔を見て笑った。
「久しぶりだ」
「えぇ、久しぶりね」
「何かあったの?」
僕が魔剣士学園に入学してからというもの、アルファと会う機会はかなり減った。彼女と会うのは大体面白いイベントが起こる前か最中だった。
今回も、何か面白いイベントがあるのかもしれないと、僕は少し期待する。
「街に出回ってる話は聞いたかしら?」
「話? あぁ、『ミツゴシ商会』の噂のこと?」
「えぇ、そうよ。やっぱり聞いているようね」
アルファは物憂げにため息を吐いた。
僕は構わずに制服をハンガーにかける。
「『大商会連合』が動き出したのよ」
その様子を眺めながら、アルファは話し始める。
「もしかしたら、向こうはガーデンと『ミツゴシ商会』の関係を見抜いたのかもしれない」
「ふむ……」
なるほど。ここで『シャドーガーデン』と噂を関連付けるのか。確かに、噂ではヤの字の方々と関わりがあるって言われてたっけ。アルファも今回はだいぶ練ってきているようだ。
着替え終わった僕はキッチンでお茶を淹れてアルファに出した。一応彼女もお客様だからね。
アルファは「ありがとう」と言って、一口啜る。
「ちょっと渋いわね」
「葉っぱだからね」
イプシロンが淹れてくれたお茶にはこんな渋みはなかったんだけど。不思議だ。葉っぱが違うのか。うん、きっとそうだ。そうに違いない。
「それで、アルファはどうするの?」
アルファはゆるゆると首を振る。
「この件に関しては、全面的にガンマに任せたの。彼女なら上手くやってくれるはずよ」
「だろうね。ガンマは昔から頭がいいから、こういうのは得意そうだ」
「ふふっ、ガンマに伝えておくわ」
うーん、アルファから『ミツゴシ商会』の動きが聞ければ、いい感じに介入できると思ったんだけど。
というか、ふと思ったんだけど、何故アルファは全部ガンマに任せてるのに僕に話をしに来たのだろうか。いや、多分違う。本題は別にあるのだろう。そっちが、アルファが抱えている案件ということだ。
僕は足を組んで声を落とす。シャドウモードだ。
「……それで、本題は?」
「察しがいいわね。本題は──ゼータのことよ」
本題を告げたとき、アルファの表情に一瞬変化があった気がした。しかし、僕の魔力で底上げしまくった動体視力を以てしてもそれがどんな表情だったかは分からない。気のせいだったか。
「ほう……」
ゼータめ、また何かサボったのか。昔はよく、彼女がサボらないように言ってくれとアルファに頼まれていた。
まぁ、僕は基本的に放任主義なので、注意したことはなかったんだけど。
「彼女は彼女なりに考えている」
「……やっぱり、何か知っているのね。あの子があなたを裏切るとは思えない。でも、ガーデンからは明らかに離反した」
何か悪い結論にでも至ったのか、アルファが沈痛な面持ちになる。いや、待て。涙目になっている。
僕は考えた。こういうとき『陰の実力者』ならどういう言葉をかけるべきかを。部下に対してかけるべき言葉は──
「……大丈夫だ。何も問題はない。万事順調だ」
『陰の実力者』に失敗はない。同様に負けることもないし、計算外もない。
『陰の実力者』は全てを見通し、最強でなければならない。
僕はあえてアルファには視線を向けず、沈みゆく夕日を眺めた。誰だって、自分が泣いている顔は見られたくないだろう。
少しの間、静寂が訪れる。衣擦れの音すらしない静けさだ。夜が近い。
「……分かったわ。私はどんなことがあっても、最後まであなたを信じる」
「それでいい」
僕はスライムスーツに着替えて窓辺に立つ。こうすると、入ってきた風でいい感じにコートがなびくのだ。だが、今は無風状態でそうならなかった。
仕方がないので、僕は魔力によって自力で風を生み出す。ぶわっと室内に、冷たい風が渦巻いた。ついでに、風に強弱も付けてみる。
「相変わらず卓越した魔力操作ね」
「ふっ……」
「それじゃあ、私はもう行くわ」
そう言うと背後からアルファの気配が消えた。まるで霧になってしまったかのように、ふわっと消えたのだ。
いいな、僕もやってみたい。どうやるんだろう。
「……もう風はいいか」
□□□
「まったく、随分と賑やかになったね」
「フェンリル派の残党が動いてるみたい」
「それは知ってる」
ここは地下用水路の、かつてアレクシアが囚われていた部屋である。流石の『シャドーガーデン』の監視も、迷路のようになっているここまでは及んでいないのだ。
「助けに行くの?」
「……いや、動けば流石にバレる。それに、残党程度なら敵じゃないでしょ」
「そう。……そう言えば、『十三の夜剣』も動き出したみたい。『ミツゴシ商会』を潰そうとしてる」
「それは、結構まずいかもね」
「うん、まずい。でも、夜剣と連合の癒着の証拠があれば、向こうも揺らぐ……かもしれない」
「……なに?」
「シータは潜伏苦手だから」
「……。分かったって。私が行くよ」
ゼータは大きく息を吐いて、両手を上げる。降参ポーズだ。
「そう。ゼータが行くって言うなら仕方ない」
「まったく……集めたアレの管理は?」
「ウィクトーリアに任せた。血の気が多いから、頭を冷やすべき」
「じゃあ、シータはなにするの?」
「キツネさんに会いに行く」
「あぁ、そういうこと。バレないようにね」
「大丈夫。シータは潜伏が得意だから」
「どっちなの……はぁ」
シータといると妙に疲れる。まぁ、悪い気はしないが。
「じゃ、行ってくる」
「ん。行ってら」
本当に、世話の焼けるやつらだ。