その夜はとても静かであった。
各家々に灯る明かりがまるで、夜空に浮かぶ星のように輝いている。
アイリス・ミドガルは王城の一室から夜景の美しい街を見下ろしていた。
その胸中に浮かぶのは一人の妹の顔だった。
「いかがされましたかな? アイリス王女」
少し物思いに耽っていたアイリスに、柔らかい声がかけられた。
「いいえ。何でもありません」
アイリスは首を振って、ゼノンの対面に座る。
ゼノンは白い湯気の立ち上る紅茶に角砂糖を二つ入れ、銀色のスプーンでゆっくりかき混ぜた。
「改めまして、妹──アレクシアとのご結婚おめでとうございます」
「ありがとうございます。アイリス王女」
ゼノンは紅茶の香りを嗅いで、一口だけ飲んだ。
「もう五年になりますね」
「あぁ、もうそんなに経ちましたか」
過去を振り返るように、アイリスは話す。対してゼノンの反応はどこか薄いものだった。
「王都ブシン流がここまで広まったのも、アイリス王女のお力があってこそ。素晴らしい弟子を持つのは師の誉れですよ」
「ありがとうございます」
昔から見ている笑顔、何度も聞いた声だというのに、アイリスにはその言葉がどこか空虚なものに思えてしまう。
どこか遠く、ここじゃない別の場所を見ながら、ゼノンは話しているみたいだ。
「妹……アレクシアの様子はどうですか?」
「彼女は──」
アイリスはゼノンの顔をじっと見る。それはまるで紙面の裏にある文字を見通そうとするかのようであった。
その視線を受け、しかしゼノンは朗らかに笑った。
「大変元気で健康ですよ、アイリス王女。少々つっけんどんなところがありまして困ってはいますがね」
「そうですか……それは妹が失礼をしました」
「いえいえ、そういった溝も今後埋めていければと思っておりますよ」
話が途切れたところで、ゼノンはふと時計に目をやる。
「おや、もうこんな時間ですか。失礼、アイリス王女。この後用事があるので私はここで」
「えぇ、雑談に付き合っていただきありがとうございました。お気をつけて」
ゼノンは立ち上がって礼をし、扉から退室をする。
アイリスは窓辺に再び立って街を見下ろした。アイリスの胸で何とも言えない胸騒ぎが産声を上げていた。
□□□
長い停滞とは得てしてあらゆる感覚を麻痺させるものだ。どのくらいここに拘束されていたのか、今の自分の状態でさえはっきりとは分からない。
アレクシアの虚ろな瞳は天井か、はたまた遠い過去か、いずれにせよ虚空を見つめていた。
「静かね」
アレクシアは呟いた。その呟きにジャラッと鎖の音が反応する。
「あなたも大変ね」
虚空を見つめたままアレクシアは言う。
あの白衣の男はアレクシアから血を抜き、感情のままに罵詈雑言を浴びせあの化け物を蹴っていた。
ジャララと鎖の音がする。しかし、それっきり静寂が訪れる。街を彩る喧騒も、退屈な先生の話もここまでは届かない。
それから更に、どのくらい経ったか。唐突に扉が開き、白衣の男が入ってくる。
「時間がないっ! あいつ、突然費用を打ち切るだなんて言ってっ!」
男はガシガシと頭を掻きむしる。汚いフケが辺りに飛び散った。
アレクシアは何か変化があったのだろうかと期待を胸に抱いた。
「ご機嫌よう。何かあったのかしら?」
「血、血がないと……!」
男が最早見慣れてきた注射を取り出す。何も変わらない状況に、アレクシアの儚い希望は打ち砕かれた。
「はぁ、あまり抜き過ぎないでくれると嬉しいわ。まだ死にたくないもの」
アレクシアの腕に針が刺さる。透明なシリンジには見る見る間に赤い液体が溜まる。
一本、二本と使われた注射器が増えていく。
「血はいっぱい欲しい……けど、今必要なんだぁ! は、は、早くしないと、時間がぁ……時間がない」
「それは困ったわね。でも死んじゃうともう取れないのだから、ほどほどにしておいた方がいいわよ」
「わ、分かってる。ひ、ヒヒ、死なないギリギリでや、止めるから」
「えぇ、そうして頂戴」
三本、四本とどんどん注射器は増える。それに合わせてアレクシアの意識は混濁し、不鮮明になっていく。
心なしか、部屋の気温が下がった気もする。
「ヒヒ、も、もっと──」
「それは困るな」
白衣の男が五本目の注射器に手を伸ばしたときだった。開いた扉に寄りかかる影が白衣の男に声をかける。
沈んでいたアレクシアの意識が徐々に浮上する。
「なっ、ど、どうしてここに!?」
「それはここが私の施設だからだよ。忘れたとは言わせないよ」
新しく来た声の主が剣を抜く。白衣の男は持っていた注射器を落とし後退る。パリンと音を立てて注射器が割れた。
意識がはっきりしてきたアレクシアは目を開ける。
「あなたは……!」
声の主は剣を振る。紙でも切り裂くように白衣の男は切られ、断末魔を上げた。
だが、その断末魔が不快にならないほどの驚きがアレクシアを呑み込む。
「──ゼノン・グリフィ。ここがあなたの施設ってどういう意味かしら?」
「そのままの意味だよ。アレクシア」
「気安く呼ばないでくれるかしら? この国の王女を拘束しといて、まだ婚約者でいられるつもり?」
小馬鹿にしたようにアレクシアは鼻で笑う。対して、ゼノンも何も分かってないとでも言うように、首を振って薄い笑みを浮かべる。
「君はこれからしばらく、体調不良で表舞台からは姿を消すことになる。周りがどう思おうと関係ないさ。誰も与えられた真実しか見れない、誰も隠された真相には気づかないのだから」
「何を言ってるの? たかだか剣術指南役にそんなことができるとでも思っているのかしら?」
「剣術指南役? そんなくだらない地位なんてどうでもいいさ。私は君の血と、そこの男が残した研究成果でラウンズの第12席に内定するんだ」
アレクシアはちらりと地面に伏す男に目をやる。
恐らく研究に全てを懸けて全てを失った哀れな男だ。だが、同情の余地はない。
興味を失ったアレクシアはゼノンを見る。ツンとした鉄の香りが鼻をくすぐった。
「ラウンズ? 狂人たちの集まりかしら?」
「教団の選び抜かれた十二人の騎士ナイツ・オブ・ラウンズ。地位も名誉も富も、これまでとは比べ物にならないほど手に入る。礼を言うよ、アレクシア」
大仰に手を広げてゼノンは笑った。
「さてと、もう時間がない。奴らが来る」
「奴ら?」
「あぁ。小規模拠点をいくつか潰していい気になっている奴らさ」
「あー、その"奴ら"が怖いのかしら? ラウンズさん」
ゼノンは小さく笑う。
「万が一にも僕が負けるなんてことはあり得ない。けれど、もし君が傷つけられるようなことがあってはいけないからね」
「実にロマンチックなセリフね。吸血鬼に言われたのでなければ、惚れていたかもしれないわ」
アレクシアが皮肉げに言うと、ゼノンはやれやれと肩を竦めた。そして、布に何やら薬品を染み込ませる。
「まぁそんなわけだから、君には眠って貰うよ」
アレクシアは目を瞑る。はてさて、次はどんな施設に連れてかれるのやら。
諦めの境地に達していたアレクシアの耳にコツコツという足音が聞こえてきた。
そして、その足音は扉の前で止まる。
「少し、遅かったみたいだ」
アレクシアは目を開けた。
そこには漆黒のロングコートを纏った男が立っていた。
シドくんが五日間拘束されなかったので、その分研究できなかった白衣の人。更にゼノンの都合で研究費を打ち切られてしまい、原作よりも踏んだり蹴ったりです。