死ぬような経験は今まで何度もしてきたが、実際に死んだことは一度だってなかった。
闇の中に沈んでいくかのような感覚。それは無に落ちていく感覚と言い換えてもいい。視覚も聴覚も味覚も嗅覚も触覚も、全てが麻痺してしまったかのように何も感じられない。だというのに、何故こうも意識があるのだろう? あるいは、ここが死後の世界だとでも言うのだろうか。
「……」
ふと、遠く闇の向こうに淡い光が見えた気がした。いや、気がしたではない。実際に今、そこにあるのだ。
青紫色の光が次第に闇の中に広がっていき、やがてアレクシアを丸ごと包みこむ。
そして、太陽のように暖かい光は、徐々にアレクシアの体の中へと浸透していく。体の内側から温められる感覚がして——
「——っ!」
——強烈な痛みが襲ってきた。
それと同時に、五感が戻ってくる。むせかえるような血の臭い。荒い自分の呼吸音。血の味。重い瞼を何とか開けてみれば、暗い部屋を青紫の光が照らしている。それはとても暖かい光で、幾何学的な模様を描いては消えていく。
「動くな」
未だ状況が分からず、さらに周囲を見回そうとしたアレクシアに声がかけられる。これは、シャドウの声だ。
「しゃ、どう……」
「待て。すぐ終わる」
その言葉の通り、それから一分も経たずに青紫色の光が消える。残ったのは冷たく暗い闇と、傷一つないアレクシアだけだった。
起き上がり、同じく片膝をつき座り込むシャドウの目を見る。
「……どうして、私を助けたのよ」
傷が治ったとはいえ、失った血は戻ってこない。頭がやけにぼーっとして、ここはやけに寒い。口の中の血の味が、喉を通っては鼻までやってくる。それが気持ち悪くて、吐きそうになった。
だが、そんな状態でも考えねばならないことは多い。その一つが、何故彼が敵であるアレクシアを助けたかだ。
睨むようなアレクシアの視線を受けても、シャドウは全く動じる様子はない。それもそうだろう。彼は勝者で、アレクシアは敗者なのだから。
しばらくの無言を経て、シャドウは口を開いた。
「お前はまだ必要だ」
「それは、王国を裏から統治するために、私が必要という意味かしら? だとしたら——」
「いや違う。王国に、お前はまだ必要だ」
シャドウはそう言って立ち上がった。
「王国に私が必要? どういう意味よ」
「そのままの意味だ。これからの王国にはお前が必要だ」
「それだけじゃ分からないわ」
この男、まともにこちらと話をする気があるのだろうか。
若干の苛立ちを見せつつ、アレクシアは言った。
「主、やっぱりこの女、殺しておこう」
と、戦闘が始まってからここまでずっと影のように存在感を消していた獣人の少女が言った。その刺々しさからは、相当アレクシアに敵意を持っていることが伝わってくる。
「落ち着け、ゼータ。それでは折角『対話』をした意味がない」
「そうは言っても、主の叡智を理解できないこの女は……いや、何でもない」
「『対話』……」
彼の言ったその言葉に、アレクシアはドキリとする。
自分がそうしたように、彼もまた『対話』によってアレクシアから何らかの情報を得ていたということだろうか。
「それで、さっき言った王国に必要というのは、どういう意味かしら?」
「……俺は、教団のように全部を支配することに興味はない。教団を潰して、そのまま権力を取ろうとは思っていない。だからこそ、何かあったときのために協力者が必要だ」
「その協力者に私がなれと? でも私は王国を裏切ることは——」
「問題ない」
アレクシアは自分が王国を裏切ることは絶対ないと言おうとして、しかしシャドウはきっぱりとそれを許可した。なんか、狐につままれて、雲を掴んでいるような気分だ。話が見えてこない。
そのアレクシアの困惑が伝わったのだろう。シャドウは説明を付け足す。
「お前はその愛国心に従って、行動をすればいい。ただ、緊急時にすぐ話せる協力者が欲しいだけだ」
嘘は言っていないようだ。そもそも、『対話』をした感じ、嘘を吐くのはそこまで上手くないように思える。
「……でも、そっちが力で脅してきたら? 私が従わなかったとして、国に被害が及ぶとしたら?」
「それがないとは言い切れないが……それなら、別にお前を助ける必要はなかろう。脅すなら、別に誰だっていい」
それもそうだ。あまり権力のないアレクシアを脅すよりも、彼女の父や姉、大貴族たちを脅す方が手っ取り早い。ここでほとんど死んだも同然だったアレクシアを助ける必然性はない。
つまるところ、彼から見たアレクシアの存在意義は、
「平和的な協力者が欲しいってところかしら」
「まぁ、そんなところだ。こちらの提案も、そちらに利益がないと思ったなら拒否してくれて構わない」
「それは、嘘じゃないわよね?」
シャドウは何も言わずに頷いた。
なるほど。そうか。
アレクシアは長く大きなため息を吐く。
先ほどまでの『対話』において、アレクシアは彼に教団に感じていたようなどす黒い悪意を感じていなかった。むしろ感じたのは、何か目標や夢に向かって進むある種純粋な心だった。
彼のそれが何かは分からないが、少なくとも悪意はない。アレクシアはそう判断した。
「いいわ。協力者とやらになってあげる。でも、尻尾は振らないから、勘違いしないでよね」
そう言って、アレクシアも立ち上がり、右手を差し出す。
「ふっ……」
シャドウも同じく右手を差し出して、その手を握った。
□□□
「複雑な心境……」
そんな和解ムードの中で、ゼータは一人不満げな顔をしていた。
そもそも、あの女は学校などで事あるごとにシャドウに接触するし、その癖疑って刃を向けるし、その後殺されたかと思ったらあの青紫の魔力で治されるし、協力者というポジションはちょっと羨ましいし……。
とても、複雑な感情であった。だが、主が決めたことならば仕方がない。ゼータは黙って従うだけだ。
「——っ!?」
そこで、唐突に背筋に寒気が走る。全身の毛が逆立って、警鐘が激しいほどに鳴っていた。
「シャドウ!」
「分かっている。これは、外か?」
「あっ、ちょっと!」
ゼータとシャドウはアレクシアを置き去りにして走り出す。梯子に足をかけ、十数段飛ばしのほぼ垂直跳びで一気に外に出た。
「あれは……」
そして、外に出たゼータは呆然とした。
ゼータの視線の先、遠く山の向こうの空。天に向かって真っすぐと青紫色の光が伸びていた。主の魔力の色と同色のそれは、しかし、とても禍々しく、何より膨大な魔力の塊であることが分かる。
何が起こったのか、ゼータはただ茫然としていることしかできなかった。
最後の前振りみたいな話でした。