タクシーの運転手さんがありがたいことに胃液で汚れたオレ達を乗せてくれると言ったその瞬間だった。
―――喰われた。
タクシーの運転手さんが喰われた。
車の影から飛び出してきたのは、蛙のような姿をした巨大な魔獣だった。どうやって隠れていたのか、その巨体は車の影に隠れられるとは思えない。巨大な蛙は俊敏な動きで現れ、巨大な口で運転手さんを丸吞みにすると、「ゲコゲコ」といやに低い音程で耳障りな泣き声をあげる。
なるほど。
巨大な蛙を見据える。小さな家一つくらいはありそうだ。
「ひいっ」
腕の中でか細い悲鳴が上がる。瑠璃ちゃんが震えていることは見なくても分かった。
恐らくは茶々ちゃんと葵さんを失ったことで、瑠璃ちゃんはトラウマを抱えているんだろう。以前とは明らかに違う魔獣に対する態度でそのことはすぐに理解できた。瑠璃川家が「ない」ことを踏まえると……瑠璃ちゃんは奪われた両親を取り戻すために二人の制止を振り切って強大な魔獣を相手に無謀な攻勢に出た。結果返り討ちに遭い、瑠璃ちゃんを救うために二人は犠牲になった。そして自身の過失で友人を失い、両親という拠り所さえ失ってしまった瑠璃ちゃんはそれ以後、頼る場所もなく一人で彷徨っていた……といったところか。学校などに頼ろうとしなかったのは……瑠璃ちゃんという存在を生み出した二人が「消えた」結果、瑠璃ちゃんの存在も宙に浮いてしまったのかもしれない。
以前はあんなに強気だった瑠璃ちゃんが変貌するには十分な理由だろう。
それはそれとして、魔獣の法則を思い出す。魔獣について知る者だけが狙われるという法則だ。運転手さんが今の瑠璃ちゃんとオレの会話を聞いていたとしても、魔獣という存在に直結するような情報は無かったと思う。だけど出てきた以上は「何か」が「法則」に抵触したんだろう。いや、そもそも何か違和感があるな……。
何が「法則」に触れてしまったのかは後で瑠璃ちゃんに確認するとして、この状況をどう切り抜けるかに思考を切り替える。
瑠璃ちゃんはオレの腕にしがみ付き、恐慌状態に陥っている。戦うことが出来ない。
雅さんも涼音も傍にはいない。
茶々ちゃんや葵さんの増援も期待できない。
手元には武器になりそうなものも無いし、火種や燃料も持っていない。近くにそういったものもない。
今は逃げよう。
タクシーの運転手さんには本当に申し訳ないと思う。
瑠璃ちゃんを抱えて逃亡を開始する。
巨大な蛙は「ゲコゲコ」と耳障りな泣き声を上げ続けているが、追いかけて来る気配はない。道を走り、曲がり角を曲がる直前、女の人の悲鳴が聞こえて、すぐに消えた。そして蛙の楽し気な泣き声が続く。
誰か喰われたのかもしれない。
「あ、あ、あ」
オレの腕の中で瑠璃ちゃんが小さく声を出す。強くオレの服を握りしめて震えている。
オレは限界まで走り抜け、もう走れないという状況になって立ち止まり、瑠璃ちゃんをそっと降ろした。瑠璃ちゃんがオレの足にしがみ付く。
オレの息は荒く、話せる状態じゃない。瑠璃ちゃんの背中を優しく摩るくらいが精いっぱいだった。
「ごめんなさい」
瑠璃ちゃんが言った。
「ごめんなさんごめんなさいごめんなさい」
瑠璃ちゃんは繰り返し言い続ける。
オレは息を整えながら質問する。
「ふぅ……ふぅ……。瑠璃ちゃん、なにか悪いことをしたの?」
「あたしが悪いの。あたしが悪いの」
「瑠璃ちゃんが悪いの?」
「あたしが悪いの」
「さっき言ってた……二人の言うことを聞かなかったこと?」
「……」
瑠璃ちゃんが謝るのをやめる。小さく頷いたのが分かった。
「瑠璃ちゃんはご両親を奪われて焦ってたんだよね。そうなるのは仕方がないことだとオレは断言する。それは別に普通のことだよ。あとのことは結果でしかない」
「……っ」
瑠璃ちゃんが弾かれたようにオレを見上げた。見開いた目を揺らし、数歩後退る。
「どうかした?」
「……」
瑠璃ちゃんは瞳を揺らしながらオレを見つめている。
オレはしゃがんで瑠璃ちゃんに視線を合わせ、こう言った。
「いいかい? 悪いのは魔獣なんだ。瑠璃ちゃん、間違えちゃいけない。悪いのは魔獣なんだよ。君じゃない。言ってみて?」
瑠璃ちゃんが目を揺らしながら震える唇を動かし始める。
「わ、悪いのは……」
「うん」
「悪いのは……魔獣……」
「そう。省みることは必要でも、自分を責めたてるのはやめよう。その結果に繋がる行動を促したのは、魔獣という『原因』なんだ。悪いのは魔獣なんだよ、瑠璃ちゃん。君はご両親のために頑張った。その行動が正しくなかったのだとしても、悪いのは君じゃないんだ。分かる?」
瑠璃ちゃんの目をじっと見つめる。瞬きすら忘れるくらいに真剣に。
瑠璃ちゃんの肩から少しずつ力が抜けていくのが分かる。呼吸も落ち着いてきているようだ。
オレは額の汗を拭い、笑いかけた。
「話を聞かせてくれるかな? 二人を助けるための作戦を一緒に考えよう」
瑠璃ちゃんは頷き、話し出した。
オレが瑠璃ちゃんと茶々ちゃんにコンタクトを取ろうとした少し前、それは起こったらしい。まず茶々ちゃんのご両親が再び魔獣に喰われた。不思議なことに今回は前回と違い、茶都山家の人達は魔獣について一切情報を得ていない状態だったらしい。そしてその魔獣は以前スーパーで現れた犬の魔獣よりも強い魔獣だった。茶々ちゃんはその魔獣を相手に敗北したが、喰われる寸前で葵さんが到着した。葵さんは茶々ちゃんを救出した後、そのまま魔獣を倒そうと交戦したが……葵さんと魔獣が戦っている最中に瑠璃川家でも魔獣が発生。瑠璃川家の人達が喰われ、瑠璃ちゃんが魔獣と交戦している最中に茶々ちゃんと葵さんが合流した。
ここまでは瑠璃ちゃんも茶々ちゃんから聞いた話らしいが。
瑠璃川家に現れた魔獣を相手に、葵さんはスーパーのときのように二人を足手纏いだと断じ一人で戦おうとしたが、瑠璃ちゃんはやはり葵さんの忠告を聞かなかった。そして芋蔓式に茶々ちゃんも参戦。ただ以前と違うのは、二人もまたスーパーのときより腕を上げていたこと。葵さんの強さに及ばないまでも二人も必死で食い下がり、瑠璃川家の魔獣をあと一歩で封じられそうなタイミングで……茶都山家の魔獣が合流した。
それで二人がやられたのかと思った矢先、瑠璃ちゃんはこう続けた。
「そこまではまだ良かった。名前はもう……分からないけど、二人の友達と一緒に……倒せたの。でも……っ」
瑠璃ちゃんが拳を握った。震えている。
「あいつが現れた……!!」
声が震えている。
瑠璃ちゃんの言う新たに現れた第三の魔獣。それは空に浮いていた。肌面積の多い服を着た、セクシーな女の人だったそうだ。瑠璃ちゃんは最初、それが魔獣だとは気づかなかった。人間の姿そのままだったからだ。ともすれば葵さんのような大人の魔法使いだと思い葵さんの方を見た瑠璃ちゃんは、葵さんが今まで見たことが無いほどに青褪めていることに気が付いた。葵さんはそのとき、目を見開いて唇を戦慄かせ、凍ってしまったかのように微動だにせず女性を見つめていたらしい。
これは只事ではない。瑠璃ちゃんがそう思った矢先、今しがた助け出されたばかりの瑠璃ちゃんと茶々ちゃんの両親をその魔獣が吸収した。そして同時に、葵さんが絞り出すような小さな声で呟いた言葉。
「『霊長』の魔獣……ッ!!」
葵さんから魔獣という単語を聞いたこと、そして目の前で『三度』両親を奪われたことで、瑠璃ちゃんの戦意にスイッチが入った。
瑠璃ちゃんは第三の魔獣に突撃した。
そのとき葵さんはイメージにないような金切り声を張り上げ、「やめなさい!!」と瑠璃ちゃんを制止したらしいが、そのときの瑠璃ちゃんの耳には届かなかった。
そして向かって行った瑠璃ちゃんに対し、第三の魔獣から放たれた攻撃は……片手で構えられた拳銃から発せられた弾丸だった。
……拳銃かぁ。これまで盾だの剣だのフレイルだの、まだファンタジー感あったのにいきなり現実叩きつけて来るんだ。
突っ込んでいた瑠璃ちゃんは一発目の弾丸を魔法剣で受け止めた。しかしその威力があまりに強く、瑠璃ちゃんは剣を弾き飛ばされたうえに、仰け反って跳ね返され、地面へと強かに背中を叩きつけられて転がってしまったらしい。そして手がしびれ、背中の痛みに呻き身動きが取れない瑠璃ちゃんに二発目が放たれて……葵さんが瑠璃ちゃんを庇った。
失礼かもしれないが、そう聞いたときにオレは意外だなと思った。スーパーの一件を思い出したからだ。
第三の魔獣は葵さんへと拳銃を連射して葵さんは必死にそれを捌いていたようだが、鎖を撃ち抜かれてモーニングスターの部分を失った。そのとき葵さんが何を思ったかは分からないが、その瞬間、葵さんは宙を彷徨う鎖の先を見つめたまま動きを止めたらしい。そしてその隙を突かれ、葵さんは腹部を撃たれて倒れ込んだ。
負傷した葵さんは何かを悟ったような表情でこう言ったらしい。「逃げて」と。
「……」
瑠璃ちゃんが言い淀む。
しかし唇を戦慄かせながらゆっくりと瑠璃ちゃんは続けた。
「あたしは……頭が真っ白になって……」
「戦いを挑んだ?」
瑠璃ちゃんは青白い顔で頷いた。
瑠璃ちゃんは葵さんを慕っていたから自制が利かなかったんだろう。
しかし葵さんに戦力で劣る瑠璃ちゃんが勝てるはずもなく、再び放たれた弾丸に肩を撃ち抜かれ葵さんの傍に墜落した。そして魔獣が二人に放った追撃の弾丸を、以前よりはるかに成長した盾の魔法で茶々ちゃんが受け止めた。
その盾の裏で変化が起きた。葵さんの体が縮み始め、瑠璃ちゃんや茶々ちゃんより少し年上くらいの女の子へと変化したらしい。
そのとき、魔獣は葵さんを見てこう言ったらしい。
「やはりお前だったのね」と。
魔獣と葵さんには浅からぬ因縁があるようだ。しかも葵さんが実は小学生だったとは驚きだ。でもそう考えるとスーパーのときの態度も分からなくはない。
なんか普通に喋ってるし、かなり大物なのかな、その魔獣。
そして葵さん改め葵ちゃんがふらつきながら立ち上がり魔法を使った。それはそこら中から無数の鎖を生やして魔獣へと攻撃するというものだったらしい。魔獣は体中を鎖で縛られて身動きを封じられ、葵ちゃんは「逃げなさい」とまた言ったらしい。
でも瑠璃ちゃんは葵ちゃんを残していくことに激しい拒否を示し、また両親を奪われたまま撤退することも嫌だった。だからまたがむしゃらに魔獣へと挑んだ。止める茶々ちゃんと葵ちゃんの制止も聞かず。
そして今までにないくらいの力を込めて振るった剣は魔獣を縛る葵ちゃんの『鎖』に直撃し、魔獣は緩んだ拘束を爆散させて自由になった。
瑠璃ちゃんは殴り飛ばされ、地面に叩きつけられて呻いた。
そして追撃に放たれた弾丸は……瑠璃ちゃんの前に飛び出た茶々ちゃんの盾に当たった。しかし既に何発もの弾丸を受け止めみんなを守っていた茶々ちゃんの盾はその一発で遂に砕け散り、放たれた弾丸は茶々ちゃんの体を貫いた。
瑠璃ちゃんは悲鳴を上げて血塗れで倒れ伏した茶々ちゃんに縋りつこうとしたが、魔獣の体から伸びた触手が瑠璃ちゃんが辿り着く前に茶々ちゃんを捉えた。そして茶々ちゃんをその体に取り込んでしまったらしい。
そして血塗れの葵ちゃんが瑠璃ちゃんを背に庇った。
瑠璃ちゃんは拳を震わせて俯きながら言った。
「その人は言ったの。逃げてって。もう『あたしだけ』だからって」
「瑠璃ちゃんだけ……? それってどういう意味なの?」
「分からない……」
葵ちゃんからすると、この場から逃げられるのはもう瑠璃ちゃんだけってことだったのかもしれない。茶々ちゃんが取り込まれ、自分の傷も致命傷だと分かってそう判断したのかな……。
「それで……その人が何かをして……気づいたらあたしは知らないところにいて……。家に帰っても、あの子の家に行っても、学校に行っても……。あの子のことも、あたしのことも。知ってる人がいなくて……ッ!!」
瑠璃ちゃんがまた泣き始めた。
やっぱりご両親が『消えた』ことでその子供の瑠璃ちゃんも『いなかった』ことにされたらしい。
「それでも、魔獣の狩りを続けたの。またあの人に会えるかもしれないと思って……っ! でも……! でも……!! 魔獣と戦っていると必ず……! あの女が現れるの!! あたしは、逃げ、逃げることしか、できなくて……ッ!! 魔獣が出ても、もう……! あたしは……! あたしは……!!」
瑠璃ちゃんが顔を覆って泣き崩れてしまった。
瑠璃ちゃんの背中を摩る。
瑠璃ちゃんは嗚咽の途中に振り絞るようにこう言った。
「こわい……! こわいよ……っ!! 助けて……っ! 助けて……!!」
「頑張ったね……。よく頑張った」
瑠璃ちゃんは可哀そうなほどに震えている。
だからなのかな。先日、神社で魔獣が出たときに誰も姿を現さなかったのは。
オレは思った。
―――この子の笑顔が見たい。
茶々ちゃんと戯れて、照れて怒って笑っている顔を見たい。
タクシーの運転手さんのことも心残りだ。知ってしまった以上はもうこの件が解決しない限り、オレは気になってしまってこれから先、普通に生きることはできない。
オレは瑠璃ちゃんにこう言った。
「力になってくれるかもしれない人を知ってる。これから紹介するよ。もちろんオレも協力する」
ただ、瑠璃ちゃんの様子からして時間は少ないんだろう。瑠璃ちゃんの記憶から茶々ちゃんと葵ちゃんのことが失われつつあるみたいだし。
電話が繋がれば涼音に迎えに来てもらいたいところだけど、生憎携帯は繋がらな……ん?
そのとき、オレの携帯が着信音を発した。
「瑠璃ちゃん、ちょっとごめんね」
オレはすぐに電話に出る。表示された番号は涼音だ。
「涼音、ちょうどよかった。頼みが……」
「わたしは鈴院涼音さんではありません」
「……というと?」
電話口から聞こえてきたのは知らない男性の声だった。神主さんでもない。声質が違う。
「落ち着いて聞いてください。わたしは×〇病院の者です。先ほど、鈴院涼音さんが意識不明となり病院へ搬送されました」
「それでどうしてオレに電話を?」
「登録されている電話番号が4つしかなく、うち3つは応答がなく、もう一つがあなただったからです」
あー……。
涼音、友達いないもんな……。
繋がらない3つって言うのは神主さんの携帯と神社と実家の番号かな……。
「それともう一つ。あなたの電話番号が画面に表示されたままだったからです。あなたに電話を掛けようとしていたようだったので」
「なるほど、そうでしたか。ありがとうございます。涼音の容態は?」
「外傷はありません。精密検査を行っていますが、いまのところ脳に異常はなく……原因不明です。ですが命に別状はありません。ご家族に連絡を取ることは可能ですか?」
「ええ、大丈夫です。同棲していますから」
「なるほど。お願いできますか?」
「分かりました」
そして電話を切る。
原因不明の意識障害……。魔獣関連ならみんなの記憶から消えるから、涼音のことで病院の人が今まさに電話をくれている以上、魔獣じゃない。
じゃあ魔人か?
魔人のことはオレもよく分かってない。もしかしたらそういうこともあるのかもしれない。
それか普通に病気か。
心配だな……。
どうやら涼音は大変な状態にあるらしい。頼ることは出来ない。
雅さんに縋ろう。
最初は彼女のことを拒絶したオレだけど、今となっては凄く助けられている。彼女とのコミュニケーションは楽しいしね。
彼女から下心を感じない日は全く無いが、可能な限り彼女のことを尊重しようと改めて思った。いつの間にかお互いに必要というか……なんていうのかな。ビジネスライクとでもいうのか、奇妙な繋がりを雅さんには感じているオレである。
ちらと瑠璃ちゃんを見る。
瑠璃ちゃんは不安そうにオレを見上げている。あんなに元気で強気な子だったのに、その顔には怯えが張り付き、かつての面影はない。
「瑠璃ちゃん、一度オレの家に行こう。体を綺麗にして、ご飯を食べて、服も着替えて……それからタクシーでその人達のところへ向かう。歩ける?」
足が無い以上、今はオレも瑠璃ちゃんも公共交通機関で動ける状態になることが最優先だ。
瑠璃ちゃんの手を引いて歩く。
歩きながら神主さんに電話を掛けるが繋がらない。日曜大工で忙しくしているのかもしれない。雅さんは……面倒くさがって電話なんて気づいても絶対に出ないだろうし。
「あっ……」
瑠璃ちゃんが突然声を零した。
「どうしたの?」
「魔獣が……」
瑠璃ちゃんが遠くを見る。
どうやら魔獣が現れたらしい。瑠璃ちゃんの手が震えている。
オレの知る瑠璃ちゃんは責任感が強い子だった。恐怖で身動きが取れないが、誰かを守りたいという正義の心はちゃんと残っているのだろう。だからこそ瑠璃ちゃんは自分を責めてしまう。
辛いね。
震える瑠璃ちゃんの手を握りしめ、オレ達は言葉なくオレの家へと歩いた。
その最中、オレは思っていた。
―――乾き始めた胃液の臭いちょっとヤバイかも。