病院での暮らしの中で桃香ちゃんは安定した。
信乃ちゃんへの依存を抜けて、自分で立とうとしている。
ただ、それだけのことだ。
桃香ちゃんは今まで、信乃ちゃんの大声が平気だったわけじゃない。
怯えていなかったわけでもない。
以前、駅で助けて貰ったという記憶と、信乃ちゃんにしがみ付く気持ちが、「信乃ちゃんだけは大丈夫」にしていただけだ。
今の状況はオレのせいでもあるんだろう。
きっと変化の始まりは……盗んだ車で走り出した、あの夜だと思うから。
いま、桃香ちゃんの中にはオレもいて、心配してくれるナースさんたちもいる。桃香ちゃんは足りなかった何かを受け取り始めている。それが愛なのか厳しさなのか、はたまた『普通のこと』だったのかは、オレにははっきりとは分からないけど―――「信乃ちゃんだけが特別」である必要が無くなり始めた。
二人は―――少なくとも桃香ちゃんは、傷をなめ合う場所から出ようとしている。痛いものは痛いと伝えられる場所へ。
オレが信乃ちゃんに会ったとき、「その態度は嫌だ」、と伝えたように。桃香ちゃんも自分を大切にしようとしている。
それって、依存されていた側からすると凄く身勝手に感じることだけど。
オレは良い変化だと思うよ。
だからオレは、乞われるまでは何も言わない。
―――じれったいな……。
信乃ちゃんは今パニックになってる。桃香ちゃんの「特別」でいられなくなったことを、もう感覚で分かっているからだ。失わないように、耳を塞いでいる。
でもね。
それは「特別」の終わりじゃない。形が変わり始めているだけだ。
だから、さっきオレは言ったんだ。
桃香ちゃんを見て、と。
『信乃ちゃんへの態度』じゃない。
桃香ちゃんという人間を。か細く信乃ちゃんの名前を呼んだ桃香ちゃんの姿を、見て欲しかった。
彼女は誰にでもそんな話が出来るわけじゃない。
聞いてくれる人にだけ、彼女は震えながら言葉を渡す。
でも……それは信乃ちゃんが一番分かってるんじゃないかな?
だって君はずっと……、この世界の中で
だからね。
君は今、否定されているんじゃない。
―――祈られている。
嫌いになりたくない。
もっと仲良くなりたい。
―――ずっと、一緒に。
その祈りを、桃香ちゃんは必死に差し出している。
黙って壊れる前に。
心が離れてしまう前に。
震える手で。
むき出しの心を。
でも―――。
人生って、ままならないものだよね。
桃香ちゃんの変化は、信乃ちゃんには『早かった』。
桃香ちゃんはこれ以上の伝え方を、
信乃ちゃんには、受け取るための余白が
桃香ちゃんは傷付いて、信乃ちゃんは殻にこもる。
そうやってすれ違って、痛みを知って、もしかしたら道を違えて、そうやって大人になっていく。
オレは思った。
―――めんどくせえな。
「……おーい」
のんびりと二人に声を掛ける。
二人が凄い速さでオレを見た。
なんてことだ。
二人とも、この世の終わりみたいな顔をしてる。
二人の心境を思うと心苦しいな。
だが、笑いが零れた。
テーブルの上、がさがさと音を立てながら、オレはコンビニ袋の中を漁った。
「おやつ食べようよ。ぬるくなっちゃうし」
信乃ちゃんを見る。
「苦いの、飲めないんだっけ?」
「……」
「なら、こっちどうかな。おすすめだよ」
袋の中からリンゴジュースのパックを持ち上げて、信乃ちゃんに見せる。
「はい、桃香ちゃんも」
そして桃香ちゃんにも同じものを差し出す。
桃香ちゃんはぴく、と口端を動かした。
不満があるようだ。
「リンゴジュース嫌い?」
「いえ~」
桃香ちゃんはのんびり答えながら近づいてきて、袋の中にあるブラックコーヒーに視線を落とす。
「どうして私には聞いてくださらないのでしょうか~?」
「え? さっきめちゃくちゃ嫌そうに飲んでたでしょ?」
ブラックコーヒーのことだろう、と思って答えたオレに、桃香ちゃんは少しだけ眉を上げた。
「そんなことありません~。飲めます~。苦いのなんて、些事です~」
「そう? じゃあ、あげるよ」
缶コーヒーを手渡す。リンゴジュースは置いておこう。
桃香ちゃんは受け取った缶を見つめて固まっている。
「あれ、飲まないの?」
オレは袋からショートケーキを取り出しながら聞いた。
「飲みますよ~?」
プルタブを開けた桃香ちゃんの顔は、少しだけ固かった。
無理しなきゃいいのに。
頑固なんだな。
まあ、聞いて貰えないんだったらもうしゃべらねぇ、って心が決断するくらいだもんな。意思が物凄い強い子なんだよ、この子。
「ほどほどにね」
オレはそう言って、信乃ちゃんの前へ。
信乃ちゃんは一度目を閉じて、初めて会ったときのことを思い出す顔で、オレを睨みつける。
「……なんだよ」
「なんでもないよ」
オレは笑いかけた。
「喉、渇かない?」
リンゴジュースのパックを差し出す。
信乃ちゃんはオレをずっと睨みつけている。
オレの後ろでは、桃香ちゃんが「う゛……」と息を深く吐いた音が聞こえた。オレの買って来た缶コーヒー、苦いのが標準のメーカーの奴だから、さっきのよりはるかに苦い。無理するなって言ったのに。
「いらない?」
「いらねぇよ……っ」
信乃ちゃんはじっとオレを睨みつけている。
彫刻かってくらい眉にしわが寄って、瞳だけは揺れていた。
怖くて、不安で、緊張しているんだろう。何を言われるのか、考えている。どうしたらいいかも分からない。
その出力の仕方を、彼女は『これ』しか
怒りだ。
でも怒鳴らない―――。
それだけで、桃香ちゃんの祈りは、きっと届いている気がした。
オレは苦笑して、信乃ちゃんの額を指先で小突く。
「態度が悪い」
「っ! な……っ!」
「前にも言ったろ。オレは敵じゃない」
「っ……!」
信乃ちゃんの表情がみるみるうちに変わって行く。
顰め面を保とうとして、それでも抑えきれないほどの感情が溢れ出る。
唇が震えている。
「どうすればいいか分からないの?」
信乃ちゃんは下を向いた。
後ろで桃香ちゃんの足音。
「聞いて良いんだよ。どうすればいいの?って。恥ずかしいことじゃない」
「……」
「桃香ちゃんは……少し変わったみたい。きっとそれは、君との日々の中で、だよ」
信乃ちゃんはオレの後ろをちら、と見て、固まった。
オレの後ろにいる桃香ちゃんは今、どんな表情をしてるんだろう。
それは信乃ちゃんにしか分からない。
ただ……信乃ちゃんの泣きそうな顔を見るに。
きっと、優しい顔をしているんだろう。
「じゃ、オレ帰るね」
「「えっ」」
前と後ろ、同時に声があがる。
仲いいなお前ら。
「元気そうだし、お見舞いも渡したし。桃香ちゃんとも、話せたし。良いものも見せて貰えた」
カバンを手に取り、少し間を置いて肩をすくめる。
「オレ、もう用事ないでしょ」
「あ……アタシは……」
信乃ちゃんの縋るような声を聴いて、オレは静かに言った。
少し心苦しさはあるけど。
「今は、話が出来る状態じゃないでしょ」
「ま、待って……!」
信乃ちゃんの声が裏返った。
「ちが……ちがうんだって……!」
オレに手を伸ばかけて、止まる。
だが、オレは止まらない。
「ま、待ってよ! 待てって!」
桃香ちゃんが小さく信乃ちゃんの名前を呼んだ。
「お、置いていかないで……」
それは怒りでも、言い訳でもなくて。
ただの、依存だった。
「信乃ちゃん」
名前だけ、呼ぶ。
「先にやらなきゃいけないこと、あると思うよ。そしてそれは、君なら出来ることだとオレは思う」
病室の外に出て、振り返る。
「じゃ、信乃ちゃん、それはそれとして、また電話してくれていいからね」
オレは朗らかに笑いかけた。
信乃ちゃんは困惑している。
見捨てられた、嫌われた、拒絶された、そう捉えていたんだろうな。でも違った反応をオレが見せたから、驚いている。
そんなところか。
たぶん今、信乃ちゃんはものすごい勢いでオレを引き留める言葉を色々と考えて、全部捨てている。
どれも、本心じゃないからだ。
今の信乃ちゃんは
彼女はオレの力を借りずに信乃ちゃんに向き合った。なのにオレが信乃ちゃんに肩入れするのはアンフェアだろう。それでは桃香ちゃんがあまりに報われない。
本来は、柄の悪い屈強な男達を相手に大立ち回りを決められる度胸も強さもある女の子なんだけどね……。
信乃ちゃんもまた、桃香ちゃんとの日々の中で変わったのかもしれない。勢いだけでじゃどうしようもないことを学んでいる、という意味で。
「桃香ちゃんも、お大事に。またねー」
少しだけ手を振って、オレは病室を出た。
オレはその足でナースステーションに向かい、信乃ちゃんたちを担当してくれている人を呼んだ。残念ながら今日は休みということで、メモとペンを借りて、簡潔に今の状況を書き記す。対応してくれたナースさんには、口頭で。
「というわけで、二人はちょっと喧嘩してまして。
ナースさんは驚いた様子で目を丸くして、瞬きを繰り返した。
「ええっ!? 喧嘩、ですか……? あの子たちが?」
「はい」
ナースさんからすると、二人が喧嘩するというのは、想定外過ぎることだったようだ。
「失礼ですが……急ぎのご用事がおありなんでしょうか?」
「いえ。今日は暇ですよ。この後はコンビニに寄って、求人誌を持って帰るくらいですけど……。なにか?」
「いえ……でしたらなおのこと、東堂さんが居てあげた方が……。二人とも、あなたを信頼していますよ」
「ええ。分かってます。でも、大丈夫ですよ。オレがやりたいことはもうやって来たので」
「……」
「ご納得いただけませんか」
「あ、いえ……」
納得できて無さそう。
「優しいんですね。二人のことを、あなたはただの患者とナースの関係以上に、気に掛けてくれているように感じます」
一拍置いて、オレは嬉しくて笑った。
「ありがとうございます」
「え? あ、そんな……わたしはただ……」
オレは静かに微笑んでいた。
ナースさんはオレを見て、静かに頷いた。
「では、帰る理由をお伝えしても良いですか?」
「はい。伺います」
「これ以上いると、オレはどちらかに肩入れせざるを得なくなります。どちらかが、あるいは両方が、オレに縋りついて来るでしょう。すると状況はより悪くなります。二人の気持ちのすり合わせは、オレを挟んでの感情のぶつけ合いに変わる。既に、兆候を見ました」
ナースさんが目を見開く。
「場を丸く収めることは出来ます」
断言する。
それはきっと難しくない。
オレが信乃ちゃんに謝罪を促せば、彼女はやるだろう。
オレという依存先に「言われた」から。
「ただ、その選択は今後の彼女たちの関係や、これからの彼女たちの『普通』の在り方に影を落とします。間違いなく」
これも断言する。
「二人の関係だけでは終わりません。今後の人生で同じようなことがあったとき、彼女たちは『誰か』を頼らないと生きていけなくなる。オレはそれが嫌なので」
穏やかに笑う。
「あとは彼女たちが自分たちの関係をどうしたいか、だと思ってます。このままでいいなら、そうするでしょう。守りたいなら、動くでしょう。別に感情のぶつけ合いというわけでもないですし、どっちも悪くありません。誰かが急ぐと壊れます。それを防ぐための布石も打ってきました。だから、オレは帰ります。納得していただけますか?」
ナースさんは大きく息を吸い、こう言った。
「す、すごいですね……」
「いえ、普通ですよ」
「……わかりました。わたしたちは見守れば良いんですね?」
「はい。ありがとうございます」
あとは情報共有だけお願いします、と頭をさげて、オレは階を移動した。
エントランスを歩いていると、駆け足の音が聞こえて来て、名前を呼ばれた。
振り返ると、桃香ちゃんが駆け寄って来る。
「あの、東堂さん」
「ん? どうしたの?」
桃香ちゃんの息が整うのを待つ。
「本当に、ありがとうございました」
桃香ちゃんは深々と頭を下げた。
「……。それって、どのへんのこと?」
オレがそう言うと、桃香ちゃんは「あはは」と無邪気に一度笑った。
「全部です。初めて会ったときから、全部です」
「そっか」
「はい。あの……」
桃香ちゃんは間を開けて、続けた。
「東堂さんの連絡先、教えて貰ってもいいでしょうか?」
「いいけど、信乃ちゃんが知ってるよ」
「いえ~」
桃香ちゃんは頬を赤らめて、表情をやわらげて、こう言った。
「私が、知りたいんです~」
「なるほど……。分かった」
携帯を取り出して、連絡先を交換した。
桃香ちゃんは自分の携帯を見つめながら言った。
「電話、してもいいですか~?」
「いいよ。ただ、バイトとか大学とかもあって忙しいから、日中は出られないことも多いことは覚えていて欲しい」
「存じてます~。あの、それと……」
「うん?」
「私はどうすればいいでしょうか~?」
「どうすればって……何の話? これからのこと? それとも……」
信乃ちゃんとのことだとは思うけど。
これからのこととかの相談かもしれないし……。
「信乃ちゃんとのことで……」
「うん」
「私、信乃ちゃんを傷つけちゃいました~……」
「先に君を傷つけたのは信乃ちゃんでしょ?」
信乃ちゃんにそんな気がなかったことは断言できる。
彼女は悪くない。
ただ無知だっただけ。
でも、これまでの日々の中で知ることは出来ただろうし、気づく機会だってあっただろう。
そもそも、声を人前で張り上げるってのはマナー違反だ。大人になってから孤立するより、今のうちに仲間内で学んだ方がお得だろう。
向き合うことから逃げられない、個室という環境。
うん、すごくいい機会だと思うよ。
微笑みを絶やさないオレを、桃香ちゃんは困り顔で見つめている。
「それは……。でも……」
「うん」
「それで……終わりにはしたくない……」
「そうだね」
「え……?」
「え?」
「え……?」
「え?」
桃香ちゃんがきょとんとする。
オレは思わず笑ってしまって、誤魔化すように肩をすくめた。
「終わりにしたくないって言ったから。そうだね、って」
「……」
「それだけだよ」
桃香ちゃんは、しばらく黙ってオレを見ていた。
考えてる、というより――確かめてる、って顔かな。
「……私、何かしなきゃいけませんか?」
「うーん」
オレは少しだけ考えてから、答える。
「無理に何かしなくていいと思うよ」
「え……」
「今すぐ分かり合おうとしなくていいし、正しい言葉を探さなくていい。たぶん二人とも、今は余裕がない」
桃香ちゃんは小さく身じろぎした。
「一応、確認しておきたいんだけど……。年上、なんだっけ。桃香ちゃんの方が」
「え? はい……。信乃ちゃんが14歳で、私が16歳です」
「そっか。それ、気負わなくて良いよ」
びく、と桃香ちゃんが固まった。
「あたり?」
「……すごいです」
「普通だよ」
ここを間違えると、彼女は「守る側」として自分を削ることを選ぶと思った。
それを背負わせたくなかった。
「すごいなぁ……」
桃香ちゃんは、少しだけ柔らかくて、少しだけ困ったような笑みを浮かべた。
「すごいなぁ……」
繰り返された言葉は、さっきとは少し温度が違った。
桃香ちゃんは泣きそうな顔をして、笑っている。
なんだろうな……。
悪いことしてる気になるんだけど。
「謝るとか、説明するとか、分かってもらおうとするとか。そのへんは、信乃ちゃんの殻がもう少し柔らかくなってからでいいんじゃないかな」
「……殻、ですか?」
桃香ちゃんは胸の前で、ぎゅっと指を組んだ。
「うん。あの子の生い立ち、知ってる?」
「いえ……あまり詳しくは……。私と同じで、お母さんと折り合いが悪かった、くらいで……」
「そうだね。それを知ってるなら十分だよ。君が言葉を失っていたように。あの子はあの子で出来ないことがある。それを受け入れてあげれば、それでいいんじゃないかな」
「待つ、ってことですか?」
「待つ、でもいいし」
一拍置いて。足元を指差す。
「先に自分の足元を整える、でもいい」
「……」
「君がちゃんと立ってたら、それだけで信乃ちゃんは安心する。あの子、そういうところ敏感だから」
桃香ちゃんは、ふっと息を吐いた。
「……難しいですね」
「そうだね」
オレがそう言うと、桃香ちゃんは小さく笑った。
「足元を整えるって、どうすればいいんでしょうか~……?」
「普通で居ればいいよ」
「普通……?」
「うん」
「普通……」
「東堂さんは……」
「ん?」
「さっき、部屋から出るときなんであんなに普通に……。あ……っ!」
桃香ちゃんは何かに気づいたように、はっと息を吸った。
「ずっと……普通……。ずっと……。あの夜も、病院前の事件のときも……。ずっと……。ずっと……」
桃香ちゃんはオレを見上げた。瞳孔が開いている。
「東堂さんは、ずっと、普通……でした……?」
「そうだね」
「ど、どうして……? 東堂さんは……どうして、そんなに『普通』なんですか? どうしたら、そんなに普通に……」
オレは一瞬だけ考えて、答える。
「普通でいたいから」
「……」
「ここだけの話だけど……。普通でいるの、けっこう大変なんだよ」
桃香ちゃんに笑いかけた。
嘘だ。
別に普通にしてるだけだ。
相手が何を考えてるかなんとなく分かるし、取り乱すとろくなことがないから、自分らしくと面倒で無駄なことをしない、を両立してるだけ。
桃香ちゃんは、今度はちゃんと笑った。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
エントランスの自動ドアが開く。
「じゃ、ほんとにまたね」
「あの~」
「うん? どうしたの?」
まだ何かあるのか。
「普通って、なんですか?」
「自分らしくあること、かな」
「自分らしく、ですか~。ふむふむ~」
いつもの調子が戻りつつある桃香ちゃんが微笑ましい。
「あとは、桃香ちゃんが信乃ちゃんとの関係をどうしたいのか、だと思うよ」
「どうしたいか、ですか?」
「うん。今までの関係じゃ満足できないんでしょ? つまり、もっと仲良くなりたい。友として―――合ってる?」
「……はい」
桃香ちゃんは力強く頷いた。
「じゃあ、もうやることは終わってる」
「え?」
「嫌なことを嫌と言えた。それが受け入れて貰えないと判断すれば、君はまた静かに控えるだろうし」
「……」
「信乃ちゃんに何か柔らかな変化が起きたなら、それは信乃ちゃんが君の
だから。
「もうやることは終わってる。あとは普通にしてればいいよ」
これ以上動くと、多分、拗れる。
桃香ちゃんは、でかい声を出すな、と命令しているわけじゃない。
苦手だから、配慮してくれると嬉しい、と伝えただけだ。
信乃ちゃんが桃香ちゃんをどうでもいいと思うなら、変わらない。
桃香ちゃんを大切にしたいと思うなら、変わる。
それだけの話だ。
構図としては―――昨日、神主さんが涼音に謝ったときと同じ。
神主さんは自分のプライドよりも、涼音の未来と、心の安寧を取った。涼音を大切にしたいと思う心の現れだ。
美しい、とオレは思った。
でも、信乃ちゃんがそれを自力で為せるかというと――見ている限り、多分無理だ。
彼女は『怒り』という感情の殻を纏う以外に、自分の心を守る方法を知らない。そうやって生きてきた子だ。
そしてそれは、彼女のせいじゃない。
環境がそうだった、というだけだ。
これは最初の見立てと変わらない。
だけど今。
これまでのやり方では守れないものがある、と学ぶことのできる局面に―――彼女は辿り着いた。
そしてそれはきっと、何よりも大切な友達を―――桃香ちゃんを失って、ようやく気付き、学ぶ類のもの。
桃香ちゃんと信乃ちゃんの絆は二人のものだ。
それをどうするかは彼女たちが決めることであって、オレが関与することじゃない。
でも。
このまま放って置くと多分、断裂する。分かっていて放置するのは、寝覚めが悪い。
だからオレは、布石だけ置いた。
『困ったら、電話を掛けろ』って。
桃香ちゃんはそれを聞いて、すぐに動いた。
信乃ちゃんへ向ける思いが、今の彼女の中で一番大きいからだ。桃香ちゃんは真剣に、信乃ちゃんを思ってる。
『今』は。
だから、比べるものじゃないけど、信乃ちゃんだって負けてはいないと思う。
だってそれは、もう
ただ、信乃ちゃんは桃香ちゃんと違う。
すぐには動けない。
殻が邪魔している。
それは孵化を待つしかない類のものだ。
外から無理やりこじ開けたら、中身の方が壊れる。
――だから、オレは帰る。
ああ、でも。そうだな。
少しだけ、信乃ちゃんの味方をしておこう。
その方が、オレも気持ちがいい。
「桃香ちゃん。オレはね……」
少しだけ、声の調子を落とす。
「信乃ちゃんも、桃香ちゃんのことをすごく大切にしてるな~って感じるよ」
「え?」
「あの夜。廃工場でさ」
記憶をなぞる。
「命の危機にあって、尊厳が脅かされて。半グレたちに囲まれながら、それでもそれが『
一拍。
「オレをして『カッコイイ』と思わされた」
だから。
「この広い世界で、彼女と出会えて良かったって―――オレは今でも、心から思ってる」
桃香ちゃんがゆっくりと目を大きくしていく。
息を吞む音がはっきりと聞こえた。
「誰にでも、そんなことしないでしょ? 大切に思われてるよ」
「あの……」
離れようとしたオレに、桃香ちゃんが縋るように声を伸ばした。
オレは苦笑する。
「もう少しちゃんと話そうか? そこのソファにでも座って」
「いえ……。ごめんなさい。これで、ホントに最後です……!」
桃香ちゃんは恥ずかしそうに笑った。
「わかった。これが最後だね。何を聞きたいの?」
桃香ちゃんは姿勢を正し、いつも通りの……彼女にとって普通の笑みを浮かべる。
「もう一度、質問させてください~。もしも……私が廃工場での信乃ちゃんみたいな状況に陥ったとしたら……。東堂さんは私を~。同じように助けてくれるんでしょうか~?」
「そのときの関係性次第かな」
しない。
ただ、オレは助けるかどうかで迷ったことはない。
雅さんのときも、助けること自体を迷ったわけじゃない。
オレでは助けられない、と判断しただけだ。
踏み込めば、オレの方が崩れると理解していた。
日常、未来、環境、人間関係。衝動・条件反射的ならばともかく、考える余白があるのなら、それらを天秤にかけて、普通の行動を取る。
それだけの話。
距離を間違えると、
後が、面倒になる。
それでも、関わらないことを選んだ結果、後の人生が酷く濁るなら。割り切れないほどの傷が残りそうだと思ったなら。
そのときはきっと―――オレは、あの夜と同じことをする。
それが、普通だ。
同じ質問に、同じ答えを返す。
「では、信乃ちゃんとの関係とは~?」
「大切な人だよ」
信乃ちゃんはきっと、考える余白があったとしても、省みず、同じことをする。
例えそれが未熟と幼さから生まれた行動だとしても。
だからこそ、オレは彼女を尊敬する。
始まりはあの夜。
きっかけは、『昔の自分と似ている』と思ったから。
そして、見てみたいと思った。
怒り・拒絶という殻から孵化し、強く大きくなった彼女の姿を。
桃香ちゃんは大きく息を吸って、柔らかく笑いながら、ゆっくりと息を吐きだした。
「また……来てください」
「うん。タイミングが合えばね」
軽く手を挙げて、オレは外に出た。
振り返らなかった。
☆彡
病室の扉が開く音がした。
ライルくんが戻って来た、なんて思えるほど、アタシの頭は能天気じゃない。
ライルくんを追いかけて行った桃香が戻って来たんだ。
きっと何かを話して、何か……『答え』を貰って来た。
聞こえた足音は軽かった。
悩みなんてない、そんな感じだった。
―――ずるい。ずるいよ桃香。アタシの方が、先だったのに。
リンゴジュースを差し出されたときも。
額を小突かれたときも。
あたしが何に怯えてて、何を守ろうとして、何を失いかけてるか。
説明なんか一つもしてないのに。
ライルくんは、きっと分かってる。
「どうすればいいか分からないの?」
その言い方が、むかついた。
責めてるわけでも、慰めてるわけでもない。
ただ、事実を確認してるだけ。
ずっとそうだった。分かってた。
けど……。
見ないふりをしていた。ただ甘えて縋りついた。
初めてだったから。
無条件で守ってくれると思ってた。父親でもないし、母親でもない人。
でも……愛してくれると思った。受け入れてくれると思った
だけど突き放された。
むかつく。
そして、突きつけられた。
むかつく。
分からないって言えば、分からない前提で話が進む。
黙れば、黙った理由まで含めて理解される。
逃げ道が、ない。
むかつく。
何で分かってくれねぇの?
なんで受け入れてくねぇんだよ。
責任取れよ。あたしのこと、守ったじゃねぇかよ。
守ってくれるんじゃねぇのかよッ!?
わけわかんねぇよ!!
ホントは、分■っ■る。
でも―――。
怖いのに、怒鳴れなかった。
桃香が変わったことも。
それをあたしが怖がってることも。
このままじゃ、どっちも壊れることも。
全部。
あの瞬間に、突きつけられた。理解させられた。
だって、ライルくんは……いつでも、アタシの■■だった。
「オレは君の敵じゃない」だって。
知ってるよ……?
知ってんだよ……!
そんなことは……っ!!
アタシがどれだけ、アンタのことを―――ッ!
だから、俯いた。
答えを聞いちまったら、戻れねぇ。
言葉をぶつけちまったら、戻ってこねぇ。
でも聞かなかったら、もっと取り返しがつかない。
―――ずりぃ。ずりぃよ、ライルくん。意地悪だよ。あんまりじゃねぇかよ……。
普通の顔で、当たり前みたいに。
人の心の奥に手を突っ込んで、答えだけを取り出す。
アタシを連れてってくれよ。そこまで。
あの夜みたいに、
出来るくせに、やらねぇんだ。
本人はきっと、何とも思ってねぇんだ。
アタシが何をしても、きっと彼は怒らない。嫌なことを嫌と言って、静かに距離を取って、また戻って来てくれる。
むかつく。
アタシのこと、どう思ってんだよ。大切だって言ってたのに。だから……甘えてたのに。
真剣に話してて、もうダメなんだって。見捨てられたって思ったすぐに、「電話してね」なんて、クソったれ。あんなにやさしい顔で。馬鹿野郎。
わけわかんねぇよ。わかんねぇよ。わかんねぇ。なんなんだよ、あいつ。
―――■ントは、■かっ■る。
それが一番、
桃香は戻って来てから、何も言わない。
ライルくんに貰ったコーヒーでも飲んでるのかな。
たまに「う゛……」って呻き声が聞こえる。
桃香は……何もなかったかのように「普通」にしてる。まるで、ライルくんがそこにいるみたいに。
―――お前は……ライルくんとなにを話して来たんだよ。
布団の中、ディスプレイの光は、受話器のマークを浮かび上がらせていた。
手はまだ、動かない。
「信乃ちゃん」
桃香の声が、
「ケーキ、食べませんか~」
届いた。
☆彡
東堂さんがエントランスを出てから、胸がずっと静かだった。
さっきまで、あんなにざわざわしていたのに。
泣きたいのか、笑いたいのかも分からなかったのに。
東堂さんは、何も解決してくれていない。
仲直りの方法も、正しい言葉も、くれなかった。
なのに。
「もうやることは終わってる」
あの一言が、ずっと残っている。
考えてみて、分かった。
東堂さんは、私の代わりに何かをしてくれたわけじゃない。
ただ―――私が、出来ることをやったのだと、教えてくれただけだった。
嫌だと言えた。
逃げなかった。
壊れる前に、声を出した。
それで十分だ、と。
それ以上は、私の問題でも、信乃ちゃんの問題でもない。
二人の「間」の問題だから、『二人』で決めるしかない。
……ひどい。
すごく、ひどい。
でも、優しい。
あの人は、私を「弱い人」として扱わなかった。
助ける対象にも、守る対象にも、しなかった。
立ってる前提で、話をした。
だから、胸が静かなんだ。
あとから、じわじわ分かってくる。
あれは、共感じゃない。
理解だ。
しかも、速くて、正確で、容赦がない。
それを「普通」って言う人は。
きっと、自分が異常だってことを、知らない。
怖い人。
ほんとうに……
ずるいよ、信乃ちゃん。もったいないよ。
こんな人と私より前に出会って、傍に居てくれてるのに……ただ、甘えるだけなんて。
冷めてしまっているコーヒーの苦みが、全然追い付かない。
胸の中が、甘かった。
―――もぞもぞと布団の中で動く信乃ちゃんに、いつ声を掛けようかな。
これまでは怖かった沈黙が、妙に楽しくて。
私は選んで良いんだ。
私は喋って良いんだ。
世界が広がって行く。
私は今、笑ってる。
「う゛……」
嘘。
やっぱり苦かった。
ケーキ、食べたいな。
「信乃ちゃん―――」
☆彡
正直に言っていいなら。
―――ちょっと、怖かった。
若い男性。
口調は柔らかい。
声も大きくないし、態度も丁寧。
なのに。
状況説明が、やけに整理されていた。
メモを見る。
誰が何に傷ついて、何が問題で、今どこまで来ているのか。
感情の話をしているのに、まるでカルテみたいだった。
「見守ってあげて貰えると嬉しいです」
お願いの形をしているけど、もう結論は出ている言い方。それ以外してくれるな―――と、有無を言わせない、厳粛な法のような言葉。
この人は、必要以上に関わらない。
でも、必要なところは、絶対に外さない。
人を安心させるのが上手、というより―――不安にさせない距離を、正確に知っている。
「す、すごいですね」
思わず出た言葉に、
「いえ、普通ですよ」
って返されたとき、背中が少しだけぞわっとした。
ああ、この人は。
自分がどれだけ人の内側を見ているかを、本気で自覚していない。
なんだろう。
すごく、彼氏に会いたい。
☆彡
病院を出て、バスには乗らず。歩いた。
しばらくして、周りに誰もいないことを確認し、オレはこう言った。
「雅さん、いるよね?」
返事はない。
「涼音に聞けば分かることだ」
一拍。
「一時的にでも姿が見えなかった、と涼音が言えば、オレは今、ここにいた、と捉える」
いないのかな?
考えすぎかもしれない。
気配とかそういうのは正直、全く分からない。
ただ、運転手さんの様子や、信乃ちゃんが見たヴィジョンから、そうじゃないかと推測しただけ。
少し待つ。
次の瞬間、街路樹の影が揺れて、
見慣れた女の姿が、そこに立っていた。
紫の着物。ふわふわの髪。
狐の耳は出していない。
いつもの、よそ行きの顔。
「……さすがでございますね、東堂様」
雅さんは笑った。
取り繕うような、柔らかい声。
「留守番って言ったよね」
「はい」
即答だった。
「守らなかったんだね」
「はい」
言い訳はしない。
いや、何が悪いかを分かってない。
「……理由は?」
雅さんは一瞬だけ、目を伏せた。
「……東堂様のお傍に、と」
「着いて来るな、って言ったよね?」
声を荒げたわけじゃない。
ただ、淡々と。
雅さんの肩が、びくっと揺れた。
「……はい」
沈黙が落ちる。
オレは、頭を掻いた。
「まあ、前に言った通り……オレの言うことを聞く聞かないは自由だけどさ。なんで来たの?」
「好奇心でございます」
「そう」
「罰は……」
「いらない」
即座に言った。
雅さんが、顔を上げる。
少しだけ、混乱した目。
雅さんの唇が、わずかに震えた。
罰を受ければ許される、という認識なんだろう。初めて会ったときから、変わってない。
対価と報酬。
生存と従属。
支配と安寧。
目に見えるそういうものに、雅さんは縛られている。
だけどオレはそれをするつもりはない。これまで雅さんがそういうことを好む人間としか関わって来なかったんだろうことは分かる。そうするしかないんだろうことも。
やりたいならやればいい。
だけど、オレはそれに応えるつもりはない。
「心配は……悪しきことでございましょうか。わたくしは、ただ……東堂様を……」
「悪じゃないよ」
雅さんの言葉を斬って、オレは首を振る。
今、その言葉を聞きたくはない。雅さんの言葉を、聞き入れるつもりにもならない。
「でも、それを免罪符にするつもりもない。オレは言ったよ。ついてくるな、って」
一拍。
「あの子たちが倒れたの、雅さんに関係ある? 運転手さんの怯えは?」
雅さんは、息を呑んだ。
分かっているから、黙る。
オレはそう捉えた。
「今回は」
オレは続けた。
「結果的に、問題は起きなかった」
「……」
「だから、伝えるだけで済ませる」
「ありがたき、お言葉にございます」
雅は、ゆっくりと膝を折った。
従属の姿勢。
それを見て、オレは眉をひそめる。
「それ、やめてくれる?」
「……え?」
「いや、いいや。今は普通に立ってて。誰かに見られても面倒だから。帰ったら、また少し話そう」
雅さんの動きが、止まる。
「あのさ。オレは雅さんの主でも神でもないんだよ」
雅さんが傷ついた顔をする。
「……面倒、でございますか」
「面倒というか……前から思ってたけどさ、対価求めてるでしょ?」
オレは苦笑した。
雅さんが言葉を失う。
「オレは苦手なんだよ、そういうの」
「で、ですが……こ、これまでは……その……」
「うん。だから話そう。帰ったら。ちゃんと、価値観をすり合わせようよ」
「……?」
「いや、ちょっとね。オレも、見習わなきゃなって思うことがあった。そう言う意味では、雅さんのおかげかも」
肩の力を抜く。
「縁ってのは、分からないもんだね」
「……?」
雅さんが小首を傾げている。怯えながらだ。
仕方ない。
だって今、オレは雅さんを
「覚えていて欲しい」
雅さんを見る。
「故意なのか、事故なのか。本当に雅さんが関係あるのか、ないのか。もう、それを聞くつもりはない。だって、雅さんは嘘を吐けるから」
少し声の調子を落とす。
「でも、人間二人、軽く当てられてた。体調を崩した。雅さんはオレの言葉を
「……っ」
「自覚ないだろうけど、今の雅さん、割と
一拍。
雅さんの目が、見開かれる。
「そんな……私は、抑えておりました」
「抑えてるつもり、が一番信用ならない。二度と起こさないで」
きっぱり言った。
雅さんは、何も言えなくなった。唇を噛む。
「……捨てられる、わけでは」
「それはない」
即答。
それを言うということは、気づいたんだろう。
危険という表現に含ませた、二つの意味に。
そこはやはり敏感だと思う。適応力というよりは、修正力に長けているのかな。長く生きているというだけはある。
危険だ、と判断したら、オレは退治の方向に舵を切る。オレにその力はなくても、在り方として、雅さんの味方ではなくなる。それが、最初に約束したこと。
つまり、今の雅さんは『人間にとって』危険な存在になりつつある、という伝達が一つ。
そして―――『立ち位置が揺らいでいる』という、『彼女にとって』致命的に危険な状況にあるよ、という勧告が、もう一つ。
「雅さんが勝手に離れるなら止めない。でも、オレから切る気はない。事情が事情だし。でも今は……」
一拍。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「かなり不愉快」
雅さんの目に、じわっと熱が溜まる。
「……では」
「ん?」
「次こそは……留守番、いたします」
「よし」
それだけ言って、歩き出す。
心の中で、少し笑う。
雅さんは今、少なくとも言葉では、オレとの関係を守ることを選んだ。大切だと意思表示した。だからあとは行動で確かめるだけ。
信乃ちゃんも似たようなものだ。
桃香ちゃんを傷つけたくないから、もうやらない。
そう気を付けていれば、それで終わる話なんだ。
だから、
数歩後ろから、足音がついてきた。
――分かってる。
雅さんは、見えなくても、最初からそこにいた。
それでも。
叱って、距離を測って、名前を呼ぶ。
それが、今のオレに出来る、普通の対応だった。
学んでくれるといいなぁ。まあ、すぐに難しいだろうけど。
時間が掛かってもいい。
できれば、決定的なことは、起きないで欲しい。
「雅さん」
「はい」
「そこのコンビニに寄るけど……。焼き芋、食べる?」
一瞬、間が空いた。
「……よろしいのでございますか?」
「うん」
「……はい!」
弾むような声と一緒に、雅さんが駆け寄ってくる。
その笑みは、年相応でも危険な『あやかし』でもなく――ただ、叱られたあとに許された、幼い子供の笑顔だった。