明らかに周りの奴らの生きる世界が違う件   作:ポルポル

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SH,YS,MY 分岐点①

 最近、夢を見なくなった。

 あの、悪夢のような現実を生きた夢を。

 

 暗い空。汚れた建物。

 果ての無い迷路。

 名前のない化け物たち。

 

 そこでは、逃げても逃げても、進んでも戻っても、必ず「最初」に戻された。

 助けは来ない。

 選択肢は最初から間違っている。

 生き延びるほど、心が削れていく世界。

 

 ――あそこでは、希望を持つこと自体が、罠だった。

 

 だから私はきっと、自分の意思で、『あの世界』に記憶を差し出した。もう壊れたくなかったから。そしてあの世界は……私の絶望を食べて、成長していった。

 

 それなのに。

 

 あの日。

 あの人は、迷い込んできた。

 

 突然。

 何の前触れもなく。

 いつも通りの『絶望』の中に。

 

 銃も、魔法も、特別な装備も持たず。

 ただ、当たり前の顔で、そこに立っていた。

 

 強烈な光。

 救いと希望の象徴。

 

 世界のルールそのものを、壊す存在。

 

「……東堂さん」

 

 ベッドに腰掛けたまま、入院服の胸元をぎゅっと掴む。

 心臓の音が、少しだけ速くなる。

 

「……雷留さん」

 

 名前を思い浮かべるだけで、体温が上がる。

 胸の奥が、じんわりと温かくなる。

 お腹の奥も……。

 

 ――必ず迎えに行く。

 

「えへへのへ」

 

 にやける。

 

「……会いたいな」

 

 声に出すと、少しだけ現実味が増す。

 私を救った人。

 もう一度、立ち上がる力をくれた人。

 暗闇の中で、道を示してくれた人。

 

 あの人は、優しかった。

 暖かかった。

 

 怯える私に寄り添ってくれた。

 「大丈夫だよ」と言えば、本当に安心をくれた。

 

 私がもう『普通』として受け入れてしまった『絶望』と『諦念』を、『普通じゃない』と断じてくれた。

 

 その瞬間。

 あの地獄は、ただの閉じた箱になった。

 ドアを開ければ出られる、ただの小部屋になった。

 

 思い返すたびに、少しだけ怖くなる。

 もし、あの人が来なかったら。

 もし、あの人が途中で離れていたら。

 

 私は、もう『私』ではなかった。

 

 でも。

 

 あれから、もう少しで半年が経つ。

 医師が驚くほどの回復速度で、私は失われた一年分の時間を取り戻している。

 食事もできる。

 眠れる。

 外の音を、怖がらずに聞ける。

 

 私は退院の日を、明日に控えていた。

 

(……サプライズ、だもん!)

 

 連絡を取らず、こっそりとリハビリを頑張った。

 歩く距離も、体力も、黙って伸ばした。

 誰にも言わずに、準備を進めている。

 

 だって――あの人は、きっとこう言う。

 

「無理しなくていいよ」

「焦る必要はないよ」

「いつでもいいんだよ」

 

 ―――待ってるからね。

 

 だから。

 

 驚かせたい。

 ちゃんと立って、ちゃんと笑って、会いに行きたい。

 

 ――私は、もう、『怯えることすらできないほどの絶望に染まった女』じゃない。

 

 そう、証明したい。

 

 けれど。

 

 ―――ちょっとくらい東堂さんから電話をくれても……。

 

 ち、違う。

 

 そう。

 あの人は、間違いなく、私を救った。

 でも――あの人自身は、どこにも縛られていなかった。

 

 私が近づいても離れない。

 離れても、追いかけて来ない。

 怯えても、笑ってくれる。

 立ち止まっても歩いていく。

 挙句の果てには、置いて帰ろうとさえした。

 

 同じ場所に留まってくれるとは限らなかった。

 

(……それでも)

 

 それが、今はとても心地いい。

 もう一度、今度はちゃんと……。

 

 先日、クラスメイトから告白された。

 私の退院が決まった日だった。

 

 眠っている私のお見舞いに、少なくとも週に一回は来てくれていた―――とお母さんから聞いていた、爽やかで純朴な男の子だった。

 

 優しくてユーモアのある、活発なスポーツ少年。おしゃれにも気を遣っていて、クラスの女子の人気者。私も憧れなかったか、と言えば嘘になる。

 私が入院してから好意を自覚して、ずっと起きるのを、そして回復を待ってくれていたらしい。私のお母さんとも仲良くなっていて、お母さんから私の退院について知らされたとき、男泣きをしていたらしいとお母さんから聞いた。

 私の前では、明るくて、微塵も見せなかったけど。

 

 正直に言うと、嬉しかった。

 とても素敵な男性だと思った。なんて優しい人なんだろうと、そう思った。

 

 お見舞いに来てくれた彼と、病室で一緒に過ごす時間は心地よかったし、話をするのもとても楽しかった。クラスメイトや授業のこと、楽しいお話をたくさんしてくれた。私は一年留年することになるわけだけど……良かったら学年が違っても会いに行く、とさえ言ってくれた。

 

 だからお付き合いの申し出を断ったとき、お母さんはすごく驚いていた。

 お母さんの中ではもう公認の中だったみたいで、私としてはすごく申し訳ない気分ではあったけど。

 

 告白された瞬間、頭をよぎったのは彼のことだった。

 あの光の奔流の中、私の前に差し出された掌だった。

 

 ――好きになれなかった、わけじゃない。

 ――大切にしてくれた事実も、疑いようがない。

 

 けれど。

 彼の言葉が、胸に落ちてこなかった。

 

 あの世界。

 終わらない夜。

 足音だけが迫ってきて、息を殺して、隠れては見つかって、何度も何度も殺されて。

 壊れて、諦めて、感情がすり減って、それでも終わらなかった、あの地獄。

 

 そこに現れた、あり得ない存在。

 

 世界観も理屈も無視して、まるで『通りすがり』みたいな普通の顔で、私を見つけて。

 淡々と、でも確かに、命を……『尊厳』を守ってくれた人。お漏らしも……多分……バレてたし……。

 

 ――必ず迎えに行く。

 

 その言葉は、約束というより宣告だった。

 私が信じるとか信じないとか、そんな選択肢すら与えない、断定された事実。

 

 だから私は、生きることを選べた。

 

 それ以来、誰かの「好意」を向けられるたびに、無意識に比べてしまう。

 比べること自体が失礼だと分かっているのに、どうしても。

 

 お母さんも、お父さんも、クラスメイトも、友達も。

 

 みんな大好き。大切な人達。それは本当。あの悪夢に囚われる前以上に、皆が大切で、大好きで堪らない。またみんなと会えたことが、この世界に生まれてきたことが、私は心から嬉しいと感じてる。

 

 だけど……本当に苦しいときに。

 何もかもを実際に(・・・)諦めてしまったときに、『諦めなくていいよ』と教えてくれて、実現させてくれたのは。

 傍に居てくれたのは……大好きで大切な『みんな』じゃない。

 

 たった、一人。

 

 ―――特別(・・)な人。

 

 優しい。

 誠実。

 一緒にいて楽しい。

 

 その男の子は、「普通」を全部、普通以上に満たしている「特別な男の子」のはずなのに。

 

 ――「この人となら、死なずにいられる」と思えるか。

 

 その問いに、私は頷けなかった。

 

「ごめんなさい」

 

 病室で、私はそう言った。

 できるだけ、誠実に。

 できるだけ、傷つけないように。

 

 彼は驚いた顔をして、それから困ったように笑った。

 そして、「それでも好きでいたい」と言われた。

 なんと言って良いか分からなくて、ただ頷いた。

 

 その背中を見送ったあと、胸の奥が、じくりと痛んだ。

 罪悪感。

 後悔。

 そして、それから彼が来なくなって、ほんの少しの安堵。

 

 自分の感情が、分からなかった。

 それでも。

 

 嘘はつけなかった。

 

 夕方、カーテンの隙間から、世界の光が滲む。

 

 私は、胸の前で手を組んだ。

 

「……雷留さん」

 

 声に出すと、不思議と呼吸が落ち着く。

 まだ会っていないのに。

 現実では、ほとんど何も知らないのに。

 

 それでも、私は知っている。

 あの人が、私を「壊れたもの」扱いしなかったことを。

 弱さも恐怖も、面倒くさがらず、淡々と処理したことを。

 

 ――ああ。

 

 ―――ああ……。

 

 溜息一つ。

 

 私はたぶん、恋をしている。

 

 健全でも、普通でもないかもしれない。

 依存に近いのかもしれない。

 それでも。

 

 この気持ちを、軽々しく上書きすることは、できなかった。

 

 退院まで、あと少し。

 私は、まだ夢を見ない。

 

 でも目を閉じると、暗闇の向こうに、確かに光がある。目を閉じてなお眩しい、身を焦がすほどの白い光が。

 あの日、私を掬い上げた、あの……。

 

 ――迎えに行くって、言ってたよね。

 

 今度は、私の番だ。

 

 あの人がいたから、私は“外”に戻れた。

 なら、次は私が、外から会いに行く番だ。

 

 気づいたら、スマートフォンの画面を撫でていた。

 

 いつものことだ。

 

 まだ、連絡先は開かない。

 

 ――会いたい。

 

 その決意は、静かで、まっすぐで。

 涙が出そうなほどに暖かいもの。

 

 病室の扉が開いた。

 入って来たのは、お母さんだった。

 続いて、叔母さんと叔父さん。

 

「どうしたの?」

 

 直前まで考えていたことなんて匂わせもしない。

 『普通』の私がそこにいた。

 

「律……」

 

 お母さんの表情に影が落ちている。

 違う。

 叔父さんと叔母さんも。

 

 見たことがある。

 

 それは……あの世界にいたときの、私。

 背筋に冷たいものが走った。

 

「実はね……」

 

 お母さんの声が遠くに聞こえる。

 これ以上は聞いちゃいけない、と体が強張る。

 

 これは、忘れかけていた感覚。

 

「美空ちゃんが……」

 

 従姉の名前だ。

 大学生の、お姉さん。

 天真爛漫で、年上なのにお姉さんぶって、逆に妹気質な感じになっちゃう、大好きな従姉の名前だった。

 

「なに……?」

 

 私の声は震えていた。

 

 そして、決定的な言葉を聞いた。

 

「意識不明なの」

 

 どくん、と心臓が跳ねた。

 いやな予感がした。

 いや、確信があった。

 

 美空ちゃんは2か月前に突然倒れて、意識が戻らないらしい。医学的には何の問題も見つからない。それはまるで、以前の……私みたいに。

 

 お母さんは、退院へ向けて頑張る私に心配を掛けまいと、ずっと黙ってくれていたらしい。

 確かに、美空ちゃんがお見舞いに来なくなったことは気づいていた。でも大学生だし、忙しいんだろうと思ってた。

 

 でも私の退院が決まって、リハビリもひと段落して……。もしかしたら―――と、どうしても―――と、藁にもすがる思いで、何か知っていることは、分かることはないか、と。

 叔父さん叔母さんが、私に助けを求めに来たらしい。

 

 

 私に、助け(・・)、を。

 

 

 ごくり、と息を吞む。

 

 瞬間的に過ったのは、嘘偽りのない、本能的な忌避感だった。

 

 怖い。

 行きたくない。

 もう、あそこには戻りたくない。

 帰って。

 いやだ。

 知らない。知らない。

 

 ぎこちなく、首を振る。

 叔父さんと叔母さんが悲痛に表情を歪めた。

 

(そんな、そんな顔、されても……っ)

 

「それとね……」

 

(まだ、あるの?)

 

 嫌気がさした。

 ごめんなさい。自己嫌悪。

 

 お母さんが続けた。

 

「三島君……」

 

 それは、告白してくれた男の子の名前だった。

 

「彼も……先週から……。さっき、聞いたの。あの子のご両親と偶然会って……」

 

 ぞくり、と背筋に寒気が走る。

 

(だから、なに? 私に何の関係が……)

 

 ふとなにかを感じて……壊れた人形のように首を動かした。

 

 あの、抜い痕だらけのクマの縫いぐるみが……淡い光を放ち、棚の上に座っている。

 

(ち、ちが……っ。そ、そんな、そんなわけ……。だって……うそ……うそだよ……)

 

 わなわなと首を振った。

 震える手が……スマホをぎゅっと握っていた。

 

(そ、そうだ……っ。と、東堂さん……っ。東堂さん……っ!)

 

 私は迷わず、電話のアイコンを押そうとして―――異常なほどに汗ばんでいた手が震え、電話を取り落とした。

 

 からん……。

 

 乾いた音がやけに鮮明に響く。

 叔父さんと叔母さんの見る目が冷たくなったような気がした。

 

(いや、いや、行きたくない…っ。行きたくない。いや、いや……っ)

 

 流れが感じられる。確信があった。

 私は今、行かされそうになっている。

 あの、絶望と諦念の地獄の世界へ。

 

(行きたくない行きたくない行きたくない)

 

 震える手がスマホを何度も取り落とす。

 叔父さんと叔母さんの視線が怖い。

 

 喉が詰まって声が出ない。

 呼吸が荒くなる。

 

 ようやく。

 ようやく、電話のボタンを押した。

 

 ―――おかけになった電話番号は……。

 

(あ、あ、あ……っ)

 

 返って来た機械音声を聞いて、眩暈がした。

 吐き気がする。

 世界が遠くなっていく。

 

 なんで。

 なんで。

 

 お、終わったんじゃ……。

 なんで私が……。

 なんで……?

 なんでなの……?

 何か悪いことした……?

 告白、断ったから……?

 付き合えば良かったの……?

 

 荒唐無稽な問いが溢れ出る。

 

 そのとき、世界が止まった。

 比喩じゃない。

 お母さんも叔父さんも叔母さんも、動かない。

 一瞬前の姿で、微動だにしない。

 

 あ、あ……。

 あああああ……。

 

 世界が色を失くしていく。

 そんな。

 うそ……。

 いやだ。

 なんで……。

 

 あ、あ、あ……。

 手が震える。体が震える。

 目がきょろきょろと落ち着かない。

 

 誰かが私を呼んでいる気がした。

 

 縫いぐるみを、見る。

 縫いぐるみが、見ている。

 その光はどんどん弱くなってきている。

 

 時間は無い。

 今、この時に、決めなければならない。

 

 何故か、そう理解した。 

 

 私はベッドから降りた。

 震える足。リハビリを続けた結果、入院前より足腰は強くなった……はずなのに、歩くのがおぼつかない。

 

 ―――呼んでいる。

 

(いや……。いやだ。絶対に行きたくない……。絶対……)

 

 縫いぐるみに近づくにつれ、体の震えは強さを増していく。

 

(なんで……っ!? とまれ、とまれ、とまれ!!)

 

 足が進んでいく。 

 光の柱の前で東堂さんに貰った言葉たちが脳裏を過る。

 

(行きたくないよ……。やだ……)

 

 それでも、私の震える手は……縫いぐるみへと伸びていた。

 

 ―――私は今、選べる。 

 

 行っても行かなくても、どちらを選んでも良いんだと、そう理解していた。

 あのとき、東堂さんの言った「一緒に帰っても、ここに残ってもいい」という言葉が脳裏を過る。

 私の足は、縫いぐるみに歩かされてたんじゃない。

 

 分かってる。

 行きたくない。

 分かってる。

 行きたくない。

 

 ―――分かってる。

 

(だって……)

 

 涙が溢れ出る。

 

(だって……)

 

 今、美空ちゃんを見捨ててしまったら。

 三島君を忘れてしまったら。

 

 それは、あのときの私を見捨てるのと……おんなじだもん。

 

 涙が溢れる。

 

(できないよ……)

 

 きっと今、私の顔はぐしゃぐしゃだ。鼻水と涙でびしゃびしゃだ。

 

(できないよ、そんなこと……っ)

 

 私はあまりの恐怖でおかしくなっている。

 だって、ぐちゃぐちゃな顔で泣いてるのに、

 

「あ、あ、あは……あは……」

 

 笑ってる。

 

 ぐちゃぐちゃの感情が、言語化できない涙を流す。

 

 そのとき。

 クマのぬいぐるみが、とても温かく、そして身を貫くような光を放った。

 

 かつて見た光の柱と同じ輝きだ。

 

 あのときの私にとって、終焉と解放の証として収束した光の帯は。

 今の私にとって、始まりと絶望の兆しとなって、拡散した。

 

 光の奔流の中、縫いぐるみを握り潰すように、震える手で鷲掴みにした。それがせめてもの反抗だった。

 

(東堂さん)

 

 多分それは、声にはならなかった。

 かちかちと歯は鳴ってたし、唇はずっと震えてたから。

 

 ―――必ず迎えに行くから。

 

 きっと、迎えに来てね。

 きっと、探し出してね。

 

「ああああああああああああああああああああああああああ!!」

 

 叫び声をあげる。

 身勝手な約束、届かない願いと知りながら―――私は希望に縋り、絶望の道を、選んだ。

 

 

 

 

☆彡

 

 

 

「ただいまー」

 

「おかえり!」

 

 鈴院家に戻ると、涼音が笑顔で迎えてくれた。

 分厚い伊達メガネに、古風なお下げ髪。巫女服の袖をたくし上げ、日曜大工の成果だろう土埃に塗れている姿は、逞しくも儚げで、まさかニートだとは思えない。

 いや、ホントにまさかだ……車も持ってるのに。

 

「進捗、どう?」

 

「ぼちぼち。式神使ってやらせてるし」

 

「ふうん……」

 

「な、なに? これだって、ちゃんとした実力なんだよ!?」

 

「いや、何も言ってないけど……」

 

 涼音は照れ臭そうに顔を赤らめ、肩を怒らせる。けれどその目は誇らしげでもあり、どこか幼さを残している。

 オレはそんな彼女を見て、思わず微笑んだ。土埃まみれで泥だらけの手でも、涼音らしさは消えない。強さと可愛さの絶妙なバランスだ。

 

「ふふ、わかったわかった。すごいってことだろ」

 

「ほんとにもう……!」

 

 涼音の口調には軽い怒りも混ざるが、その裏にはオレに認めてもらいたいという素直な気持ちが透けて見える。ただ微笑んでうなずいた。

 

 涼音はオレの後ろにいる雅さんに気づいて、一気に眉を寄せた。

 

「あ、狐。お前、サボって! やっぱり雷留くんについて行ってたんだな! あ……」

 

 涼音が雅さんに詰め寄って、捲し立てようとした―――が、ふと動きを止め、オレを見た。

 これまでオレが言って来たことを守ろうとしてくれているんだろう。

 

「ああ、良いよ。その件は好きにして」

 

「え? ええ!?」

 

「……っ!」

 

 オレの端的な返答に涼音は一瞬戸惑い、雅さんの顔にはショックが広がる。

 この件で雅さんを庇うつもりは、オレにはない。

 

 涼音が雅さんに、

 

「おま、おまえ、なにしたんだよ。雷留君、相当怒ってるじゃん……」

 

 と小声で問い詰めている。

 雅さんは蒼褪めて動かない。

 

「少しゆっくりするよ。コーヒーでも飲むつもり」

 

 一拍置いて、付け加える。

 

「話が終わったら来てくれる? 涼音と話がしたい」

 

「えっ」

 

 涼音の表情がぱっと明るくなる。

 オレは苦笑した。

 

「何を勘違いしてるのか知らないけど、仕事の話。求人誌を貰って来たから」

 

「あ……。そうだよねー」

 

 涼音の肩が落ち、分かりやすく落胆した。

 雅さんの表情は固い。固く口を結んでいる。

 

 二人を見ていると安心する。

 雅さんには反省という概念がある。

 数百年。そうやって生きてきた女性だ。強制したくはない。でも、学ぶべきルールはある。

 

 涼音はまた雅さんとオレの間で視線を彷徨わせているし、雅さんはじっとオレを見つめている。

 涼音も丸くなったんだな。てっきり、ここぞとばかりに捲し立てると思ってたけど。

 

 二人に笑い掛け、その場を離れる。

 少しして、足音が一つ追って来る。涼音のものだ。

 

 ちらりと振り返る。

 涼音がぱっと表情を明るくして、足早に並んだ。

 

「もういいの?」

 

「いいのいいの」

 

 涼音は穏やかに笑っている。でも、雅さんをちらと見る目は少し……。

 

「あいつ、なにしたの?」

 

「別に……」

 

 涼音は小首を傾げた。

 気になって仕方がないと言った様子だが、オレは何も言わなかった。

 

「気になる」

 

「そう」

 

「教えてよ、雷留くん」

 

 静かに首を振ったオレに、涼音は唇を尖らせた。

 

「そんな顔しないでよ」

 

「じゃあ教えてよ」

 

「どうしても知りたいなら、本人に聞いて」

 

「……」

 

 涼音から視線を切る。

 涼音は立ち止まるが、オレはそのまま歩いていく。

 少しして、また足音が聞こえた。

 

「ねえ、怒ってる?」

 

「怒ってないけど、どうしてそう思うの?」

 

「……」

 

 涼音がまた黙った。

 

 ああ、そういうことか。

 

「涼音。オレは早く涼音の就職の話がしたいんだよ」

 

 そう言って笑いかける。

 涼音はすぐに表情を明るくし、そしてひきつらせた。

 

 良かった(・・・・)

 やっぱり、涼音は距離を取られることに過敏に反応するんだな。

 

「あ、あはは……」

 

 涼音はそれ以上は何も言わず、オレに付いてきた。

 

 休憩を取っていた神主さんに涼音を借りることを伝える。

 雅さんはオレの傍で黙って立っていたが、やることないなら手伝えば?と伝えると、黙々と従った。

 

 ふうん……。

 これはこれで……。

 

 オレはコーヒーカップの縁をなぞりながら、去って行く雅さんの背を、見えなくなるまで横目に追った。

 

 涼音と同じテーブルに付き、二人でアルバイト先について話し合う。

 

 人間関係が密になるような職場は嫌。

 

 というのが最初に出た要望だった。実際にはもっと遠回りで、まどろっこしい言い方だったけど、要点はそこだ。

 

「ねえ、やっぱり雷留君と同じところがいいな」

 

「おれ、夕方からしかいないよ。昼間、ご婦人方の中に入って行けるの?」

 

「……」

 

「やっぱり、コンビニの夜勤とかが良いんじゃない?」

 

「夜は寝たい」

 

 こいつ……。

 

「そうだよね。時給は良いんだけどな……」

 

「あ、ほんとだ……。へえ~」 

 

 涼音がぺらぺらと自主的にページをめくり出す。

 真剣に興味津々な感じで仕事を探し出した涼音の横顔が微笑ましい。

 

「え? こんなのもあるの?!」

 

 涼音が目を輝かせた。

 

「どうしたの?」

 

「ほらみて、時給が5000円だって! カフェだって。良くない?」

 

「……」

 

「ふんふん、女性が活躍中……。巫女服や制服でマッサージ。男性客が多い時間が―――」

 

「やめなさい」

 

「え?」

 

「やめなさい」

 

 有無を言わせぬ圧に涼音が屈する。

 

「これも良いかも。パーティースタッフで、ドレス姿で個人宅の夕飯を―――」

 

「やめなさい」

 

「夜景の中で水着の試着と撮影……? うーん、時給はかなりいい……」

 

「やめとこう」

 

 どこからそういう求人を見つけるんだ。

 

「あ、これなんか良さそう。薬関係だって」

 

「ああ、治験か……。大事な仕事ではあるけど……」

 

「ねえ」

 

「なに?」

 

「さっきから文句ばっかりだけど、ホントに私の仕事見つける気、あるの?」

 

 こ、こいつ……。

 

「確かに、そうだね。ごめん。涼音の言う通りだ。気になる仕事があったら、とりあえず応募していこうか」

 

「……な、なんか雷留くん、怒ってる?」

 

「ううん。怒ってないよ。本当に、その通りだと思ったから。悪かったね、色々言って。涼音がやりたいなら、やればいいと思う」

 

 それがオレのスタンスだし。

 

「……」

 

 オレはにこやかに、目を泳がせる涼音を見る。

 

「どうしたの?」

 

「コンビニにします……」

 

「え? なんで? さっきの、高時給なのにもったいないよ」

 

「コンビニにします……っ!」

 

 涼音が肩を落とした。

 涼音の声が、少しだけ掠れた。

 

「そっか。じゃあ、ここ丸つけとこ。付箋も張るね」

 

 涼音は頷いたけど、顔は上げなかった。

 オレは別の場所を見る。

 

「少し遠いけど、ここはさっきのより時給が良いね」

 

「いい」

 

「なにが?」

 

「近くので良い」

 

「そっか」

 

 小さく息を吐き、涼音を見る。

 

「ごめんね」

 

 涼音の肩が小さく揺れる。

 

「ホントに怒ってないよ。ただ、涼音が困ってるところを見たくなかっただけ」

 

 やっぱり、と思った。

 

 さっきのは意趣返しだ。

 雅さんのことを教えなかった仕返し。

 でも本気で危ない方向へ行く気はなかった。

 止めてくれる前提の甘え。

 

 それを、オレが全部受け入れて、そして梯子を外したから、戸惑ってる。

 きっと想定外だったんだろう。

 

 涼音の表情はまた明るくなる。

 

 ……可愛い、と思った。

 

「ねえ、じゃあさ。あそこのコンビニで私が働いたら、遊びに来てくれる?」

 

「いかない」

 

「えっ」

 

「仕事中でしょ。邪魔できないよ」

 

「……」

 

「まあ、近所だし、買い物くらいは行くかもね」

 

「雷留くん……っ! 待ってるからね!」

 

「まずは面接うかってね」

 

 ホントに。

 

 

 

☆彡

 

 

 

 ――面会。

 

 あのヴィジョンは正しかった。あのとき、ライルくんは居てくれた。なのに、帰らせてしまったのは、アタシだ。

 

 紫色の着物の女。

 項垂れた、根暗そうな女。

 顔を改めて見る。

 意地の悪そうな顔。

 

 そう伝えると、女は顔を真っ赤にして、怒鳴った。

 隣で桃香が縮こまる。

 

 いつもは広い面会室が、狭かった。

 

 扉を背に、男が二人立っている。二人の真ん中に、男が一人。

 

 視線がずっとアタシを捉えて離さない。

 

 声を出さずに、人を測る目。

 

(……最悪だ)

 

 しのぶは内心で舌打ちした。

 喧嘩なら慣れている。殴る相手がいるなら、どうにでもなる。

 

 でもこれは違う。

 

 殴れない。

 

 怒鳴れない。

 

 逃げても意味がない。

 

 ここにいる時点で、もう『負け』が敷かれている。

 

 アタシの母親と、桃香の母親を連れて、男達は現れた。ライルくんが帰った日の、夕方。

 男達だけ、最初に入って来た。

 アタシは威嚇したし、桃香も『些事』モードで対応した。

 だけど……アタシの母親と、桃香の母親が現れて、アタシたちは固まった。それを見て、真ん中の男は薄ら笑いを浮かべた。

 見抜かれている、と悟ったときには、もう手遅れだった。完全に、ペースを握られた。

 

「――で、や」

 

 ようやく、中央の男が口を開いた。

 

「君が、信乃ちゃんやな」

 

 名前を呼ばれただけで、腹の奥がひりついた。

 知っている、という宣告。

 

「随分と、派手にやったそうやないか」

 

 くっくっく、と腹に響く低い声で笑っている。

 

(値踏み、か)

 

 アタシは拳を握った。

 

 ――あの人(・・・)は、ここにいない。

 

 それだけが、救いだった。

 

「なんだってんだよ、アンタら」

 

 声は、震えなかった。

 自分でも驚くほど、冷静だった。

 

「まあ、こういうもんやわ。おう」

 

 真ん中の男が言うと、左の男が名刺を出してきた。

 見ても、読めない。

 難しい漢字。なんとか工業、とか書いてある。名前は、『野山』。

 

 アタシの母親は、借りてきた猫みたいに静かで、桃香の母親は項垂れている。

 

「色々、元気にやっとるらしいな」

 

「……言っとくけど、あいつらが」

 

「ああ、かまへん、かまへん。ちゃうがな」

 

 真ん中の男は手を振った。アタシを宥めるように。

 

「あいつら言うのが、誰なんか、ちいーっとも、分からへん。ただ、わしは聞いたことあんのや。病院前で跳ねた(・・・)アホと、勇敢なお嬢ちゃん」

 

 1、2、と男は指を折り、数える。

 

「ほんで……ガソリンまき散らしてたっちゅう、狂った男」

 

 空気が、ぴしりと固まる。

 いや、固まったのは、アタシだ。

 

「あ、あれはガソリンじゃ……」

 

「そこは、どうでもええねん。ガソリンかそうやないかは、些細なことや。なあ? お前らもそう思うやろ?」

 

 男は左右の男に笑いかけた。

 猫なで声。気味が悪い。

 

「てめぇ、ライルくんに手ぇ出したら、殺すぞ」

 

「ほお、ライルくん、言うんか」

 

 冷や汗。

 馬鹿。

 アタシの馬鹿。

 

「その話、もうちょっと聞かせて貰えへんやろかなぁ? ワシらも探しとるんやけど、なんやこれが不思議でな、まったく足取りっちゅうもんが追えへん。おかしな話やでぇ? 今日、ここに確かに来たはずやのに、そのあとどこにいったんか、まぁーったく分からへんのや」

 

 しのぶは眉をひそめる。

 

「死んでも言わねぇよ、おっさん」

 

「ほお?」

 

 そこで、男の視線が――ゆっくりと、隣へ移った。

 

「……ほな、桃香ちゃんに聞いてみよか」

 

「てめ―――っ」 

 

「些事です」

 

「は?」

 

 男が面食らった。

 

「同じです。火をつけて、死にます」

 

 男は目を丸くし、

 

「あ、っはっは!」

 

 膝を叩いて笑った。

 

「ほお。ほお? 今時、珍しいのぉ。うちの若い衆にも見習わせたいくらいやで。なあ、お前ら?」

 

 両サイドに控える男達が笑った。

 男は立ち上がり……男たちを順に殴り飛ばした。

 

 母親たちが小さく悲鳴を漏らし、震えあがる。

 

「なにがおかしいねん、アホンダラ。わしは、見習わせたい、言うたんやぞ。ボケ共」

 

 男は懐からハンカチを取り出して拳を拭った。

 赤く染まったハンカチは放り投げられ、倒れた男達の上にひらひらと落ちた。

 

 アタシと桃香は、眉根を寄せた。

 

 中央の男も、それに気づいたらしい。

 目が、わずかに細くなる。

 

「怖くないんか?」

 

「怖くねぇよ」

 

「些事です」

 

 沈黙。

 

「まあまあ、そんなに構えんでええ。わしはな、君らの敵やない。味方や(・・・)

 

 野山は穏やかに笑った。

 

 気持ち悪い。

 そう思った。

 

 怒鳴られた方が、殴られた方が、まだ分かりやすい。

 

「わしとしてはな。君みたいな子は、嫌いやない。好きやとすら思うてるんやで?」

 

 ただ「事実」を述べている調子。

 

「女でも、度胸がある。筋も通す。部下も持たんで、ようやっとる。たいしたもんやで。正直うとな、信乃ちゃんでもええんや。その男やなくても」

 

 評価されている。

 それが、はっきり分かった。

 

 しのぶは腕を組んだまま、視線を逸らす。

 

「……用件は」

 

「せっかちやな」

 

 男は苦笑した。

 

「簡単な話や。どっちか、連れて行く」

 

 息を吞んだ。

 

「せやけどな、君に、選択肢をやりたい」

 

 選択肢。

 その言葉に、胸の奥がわずかにざわついた。

 

「今のままでもええ。けどな」

 

 机の上に、何かが置かれる。紙切れ。

 

「小切手……こ、この額……」と桃香の声。

 

 その反応に、野山は満足げに笑った。

 

「金も、後ろ盾も、自由もある。そういう道もある、言う話や。なーんも怖ない。安心安全な、自由の道やで」

 

 自由、という言葉が引っかかった。

 

 家を出て、殴って、逃げて、守って、守られて。

 それでもまだ、何かに縛られている感覚が、確かにあった。ずっと。

 

「君、守りたいもんがあるやろ。なあ?」

 

 野山が桃香に視線を向けた。

 ほんの一瞬動いたアタシの指先を、男は見逃さなかった。

 

 頭の中で、何かが音を立てて崩れた。 

 

「安心せえ。逆や。守れる」

 

 机の上に、別の書類が置かれる。

 

「治療費、生活、身元。全部、手配できる。この女、信乃ちゃんの母親やが。たいした女みたいやないか。苦労したんやなぁ。たいへんやったなぁ。せやけどな、もう大丈夫や。助けたる。わしが助けたるがな。今後、何の苦労もせんでええ。自由に、買いたいもの、喰いたいもの、全部用意したれる。行きたいところには何時でも行けるし、ブランドもん、宝石のアクセサリー、なんでも買いたい放題や」

 

 餌だ。

 

 分かっている。

 分かっているのに。

 

「ちょっとな、喋って欲しいんや。ほんまに、それだけやねん。悪いことにはならへん」

 

 条件が、はっきり示された。

 しのぶは笑いそうになった。

 

 乾いた、嫌な笑いだ。

 

「……脅しかよ? その女がどうなろうとしったこっちゃねぇよ、おっさん」

 

「ちゃう」

 

 野山は首を振る。

 強く、断言した。

 

「脅しちゃう。脅しちゃうでえ。ちゃう、ちゃう、ちゃうがな!」

 

 野山は鋭くアタシを見つめ、そして笑った。

 

「現実や」

 

 その言葉が、妙に重かった。

 怒鳴られたわけじゃない。

 殴られたわけでもない。

 ただ、逃げ場を丁寧に塞がれていく。

 

「桃香ちゃんはどうや?」

 

 男が笑う。

 

「わるいなぁ。わしも貧乏でな。喋ってくれた方にしか、さすがにあげられへんねん」 

 

 男は立ち上がった。

 

「なあ、お母さん方。娘さんの幸せ、考えたってくれへんか? 説得、してあげたってくれや。なぁ?」

 

 横柄に座り、野山は二人の母親を見る。

 桃香の母親が桃香を見つめ、桃香もまた母親を見つめた。

 野山は頷いている。

 

「て、てめぇ……。桃香は関係ねぇだろ……!」

 

「せやな。関係ない。賢い子やなぁ。無駄な意地は張らん方がええ。それもわかるやろ?」

 

 野山が顎で桃香の母親に指示をする。

 

「も、桃香。帰りましょう」

 

「いやです~。治療が……」

 

「誰がお金を払ってると思ってるの!」

 

 びく、と桃香が固まる。

 野山が笑う。

 

「まあまあ、おかあはん、落ち着いてくださいや。子はびびらせるもんちゃう。可愛がったらな」

 

 野山は立ち上がった。

 背広を正すと、言った。

 

「ほな、家族で話、してみてくださいや」

 

 野山は転がっている男たちを蹴りつけて、言った。

 

「いつまで寝とんねん、ドアホ。おきんかい!」

 

 起きない。

 

「軟弱やのぉ……」

 

 そう言って電話を取り出し、誰かに掛けて、誰かを呼んだ。

 少しして、また男たちが現れて、倒れた男たちを担いで運んで行った。

 野山は扉に背中を預けて、腕を組んだ。

 

 静寂。

 それを破ったのは、アタシを産んだ女だった。

 

「あ、あ、あんた! とんでもないことを―――!」

 

「もとはと言えば、てめぇがアタシを―――!」

 

 つられて怒鳴れば、桃香が跳ねる。

 そして、桃香の母親も、声を張り上げた。

 そして、張り手。

 

 桃香の頬を。

 

「てめぇ!!」

 

「あなたたちのせいで! うちのまわり、何日も前から!!」

 

 桃香の家の周りには今、不審な男たちがタムロしているらしい。ルールもマナーも無い、しかし何もせずにうろついている男達。圧力だ。潰して来た暴走族のやつらが好んでやっていたことを、明らかな本職が。

 

 おかしい、と正直に言うと、思った。

 警察は……?

 あいつら、たよりねぇけど、でも、そんなことを放って置くのか?

 それに、アタシでも良い……って。

 女だぞ、ガキの、女だ。

 

 おかしくねぇか?

 だって、ライルくんは前に言ってた……。それは、普通じゃない、って。

 

 アタシの考えは、桃香の母親の金切り声に掻き消える。

 アタシを産んだ女も、ヒステリックに叫んだ。

 桃香が青褪める。

 

 病室が壊れる。

 

 ―――女の人の怒鳴り声、苦手なの。

 

 桃香……。

 桃香が……。

 

「やめろ!!」

 

 これまでで一番大きな声で、怒鳴った。

 

「やめてくれ。桃香が……」

 

「信乃ちゃん……」

 

 ポケットから携帯を取り出して……。 

 テーブルの上に置いた。

 中身の入ったリンゴジュースのパックが、目に入る。

 

(ライルくん……)

 

 ―――ちゃんと相談して。

 

 ―――電話をかけて。

 

(ごめん。ありがとう……)

 

「桃香」

 

「し、信乃ちゃん……」

 

「ライルくんに……」

 

「信乃ちゃん!」

 

「もう来なくて良いよ。って、伝えてくれ」

 

「信乃ちゃん!」

 

 アタシは野山に近づいて、見上げた。

 

「行くよ」

 

「ええ判断や。かっこええ(・・・・・)な」

 

「信乃ちゃん、だめ! 信乃ちゃん!」

 

 アタシは野山の先導についていく。

 ライルくんと同じ言葉(・・・・)をかけてくる、この男に。

 

「信乃ちゃん! 信乃ちゃん!!」

 

 桃香は母親にはがいじめにされていた。

 

「―――信乃!!」

 

 桃香の叫び、初めて聞いたな。

 

 少しだけ嬉しくて、アタシは振り返らず、病室を出た。

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