綾小路がAクラス卒業ではなく童貞卒業を目指す話 作:ファウストの劫罰
#55 マスコットの秘密
俺は4歳を迎えた時、プロトコールマナーを叩き込まれた。
これは本来、外交の場での国際的な標準を作るために生まれたものだ。
目的は多文化共生。文化の違いによる意図せぬ無礼が外交関係の悪化に繋がることを防ぐため。
だが今ではビジネスマナー講師なんていう怪しい職業が度々炎上していたり、大御所にタメ口を使う女優が逆に斬新だと評価する業界もある。
そういう奴は例に漏れず海外ではそれが普通だからなんて言う。
なら土足で家にあがるのか?素手でご飯を食べるのか?用を足した後のお尻を手で拭くのか?友人にチークキスで挨拶するのか?
結局は、他国の文化を自分に都合よく当てはめているだけに過ぎない。
郷に入っては郷に従えと同じ言葉が海外にも存在することを知らないのだろうか。
When in Rome do as the Romans do.
とどのつまり、日本で生きるなら、日本の礼儀作法が必要なのだ。
常識とは18歳までに身に着けた偏見だといわれるが、礼儀作法はその限りではない。
国際的な標準が存在するれっきとした公的なルール。
すなわち、プロトコールマナーとは日本社会の生き方だ。身に付けておいて損はない。
俺は幼少期から体に染みついている国際標準である4回のノックで生徒会室の扉を叩いた。
お手本のような礼節のある入室を見て、堀北兄に以前こう言われた事がある。
「来客が来たのかと思って身構えたぞ。その、就活生のような他人行儀は不要だ」
あれは遠回しに生徒会は俺の居場所であると教えてくれているんだよと後に橘先輩に補足されたがピンとこなかった。
生徒会は部活じゃない。結束力の欠片もなければ個々でバラバラに仕事をしているだけ。
だが、橘先輩の顔は噓をついていなかった。
まるで、この生徒会業務を心の底から楽しんでいるように見えた。
俺にもいつか、橘先輩のようにこの生徒会が居場所だと思える日が来るんだろうか。
いや、絶対に来ないな。この仕事のどこにやりがいを見出せばいいんだ。
「橘先輩も物好きな先輩だ。この生徒会は変態の溜まり場だな。」
俺は自分にも刺さりそうな独り言を呟きつつ、中から返事のなかった生徒会室の扉を開ける。
「失礼します」
無人の生徒会室に口癖でつい言ってしまい、少し羞恥を覚える。
これが、誰もいない部屋に帰って「ただいま」を言ってしまう独身の気分だろうか…。
星之宮先生辺りは、「おかえり~」「帰ったらただいまでしょ」「そうとも言う~」とか一人でやってそうだ。
…俺の星之宮先生の悪いイメージが先行しすぎた偏見であってほしい。流石に虚しすぎる。
俺は恨めしいくらいの大量の書類を自分の席に置く。
アナログすぎて嫌気が差した。
いや、わざわざデジタルで管理されているデータを印刷して書面で管理するという意味の分からない仕事をアナログと呼んでいいのかは不明だな。
俺の吐き出した憂鬱な溜息が、小さな寝息と重なった。
無人だと思っていた生徒会室を見渡すと、窓辺に紫色の髪が揺れているのが見えた。
「…不用心すぎだろ。田舎のおばあちゃん家くらいのセキュリティだぞ。」
開けっ放しの生徒会室にまさか人が寝ているとは思っていなかったため、この展開は俺の予想外だ。
橘先輩はそよ風の気持ちよさそうな窓辺に体を預けて、静かに眠っている。
いつも表情豊かな橘先輩が退屈そうな寝顔を浮かべているのには少しギャップを感じた。
「…橘先輩」
俺は近づいて声をかけて、起こそうと試みる。
間違っても寝ている橘先輩にブランケットをかけて慈しみの表情を浮かべたりしない。
ましてや、寝顔を不用意に見られたくないだろうと気遣って静かに退室したりもしない。
俺が真面目に働いている中、仕事をサボって寝ている橘先輩に優しくする理由なんてないからだ。
例え、どんな可愛い寝顔であってもだ。
「橘先輩。仕事は終わったんですか?」
「…」
俺は肩を軽くゆするが、小さい体がそれに合わせて揺れるだけ。
一向に起きる気配はない。…この人、朝起きるのとか苦手そうだなという感想が自然と浮かんできた。
スヤスヤという擬音が合わないくらいに静かに深く眠っている。
寝息が微かにしか聞こえないのは、無意識下でも口呼吸ではなくしっかり鼻呼吸出来ている証拠だ。
俺は橘先輩に、携帯を向けてカメラモードを起動した。
健康的に眠っているところ悪いが、この労働態度は堀北兄に報告する必要があるだろう。
ピポンという思ったよりも大きい起動音が鳴る。
まあ、揺らしても起きないなら、このくらいで起きないだろう。
「…ふぇ…?…ま、まなぶくん…?」
「…」
俺が橘先輩の羞恥心を煽る証拠を撮るために、毛穴まで映る距離でカメラを構えたのが仇となった。
さっきまで起きる気配のなかった橘先輩の目が徐々に開いていく。
「おはようございます。橘先輩。」
「…はっ。あ、綾小路君!?」
俺の声を聞いてガバっと顔をあげて、慌てだす。
よし、慌てるところまで、撮れれば十分だろう。
「お疲れのようですね。橘先輩」
「…そ、それ、どうするつもりですか?」
それとは、俺が今手に持っている携帯のことだろう。
削除を迫られても面倒だ。念のため、恵にLINEで送信して履歴に保存しておくか。
「安心してください。私用にしか使いません。広まることはありませんから。」
俺は携帯を操作しつつ、ぶっきらぼうに答える。
まあ、もうこれで既に一人には広まってしまったわけだが問題ない。。
恵が俺とのLINEの履歴を他人に見せるとは思えない。
恵からは動画が流出することは万が一にもないだろう。
「し、し、し、し、私用!!?」
橘先輩は顔を真っ赤にして、今までで一番の吃りを見せる。
おいおい、どうしたいきなり…。急性の吃音症でも発症したか?
「橘先輩。起きたなら仕事しましょう。仕事は山積み状態なんですから。」
体育祭が終わってから1週間と少しが経過した。
あれから、南雲と一之瀬は一度も生徒会に顔を出していない。
南雲が新会長就任前の仕事で一之瀬をこき使っているかららしいが、本当のところは分からない。
「ま、待って。そんなことはもうどうでもいいんです」
橘先輩は相当焦っているのか、早口なうえ、敬語とタメ語が混ざっている。
だが、それよりも生徒会一員として仕事を放棄する宣言をしたことが俺にとっては重大だ。
「何言ってるんですか。橘先輩が仕事をしないとその分まで俺にしわ寄せがくるんですよ。ほら、サボってないで始めてください」
ただでさえ、一之瀬と南雲の分の仕事が俺に任されている。
感染症が広がったパンク寸前の限界職場みたいになっているんだぞ、今の生徒会は。
俺は橘先輩の手を引いて、席に座らせる。
幸い、俺と橘先輩は隣の席だ。サボっていればすぐに気付けるだろう。
「じゃあ、自分はこれをやるんで、橘先輩はこれを。」
俺はしれっと橘先輩に自分の仕事を押し付けてキーボードを叩き始める。
それにしても、使いにくいExcelシートだ。フォーマットの構成が終わっている。
だが、それを使いやすいシートに更新している余力もないのだ。
「あの、綾小路君。さっきの…」
「口を動かすなら手を動かしてください、橘先輩。作業効率が落ちますから」
「で、でも…」
橘先輩はどうやら、さっきの動画が気になって仕方ないらしい
仕方のない人だ。そっちを解決した方が効率がいいか…
…驚いた。てっきり、橘先輩はさっきの話を引きづって、手が進んでいないものだと思っていた。
だが、俺の方を伺いながら、ノールックでデータ入力をしていく。
マルチタスクとかいうレベルじゃない。生徒会に2年近くいた経験が技術に変わっているのだ。
…なんていう無駄のない無駄な技なんだ。ここ以外での使い道は皆無だ。
「…分かりました。片手間でよければ話を聞きます」
「じゃ、じゃあ、さ、さっきの私用って話を詳しく聞きたいんだけど…」
「私用について?」
「う、うん…」
「私用は私用ですよ。別に限定的な使い方じゃありません」
これは橘先輩に対しての保険に過ぎないからな。
「…そ、それって詳しくは言えないってことで合ってる?」
「まあ、明言するのは不可能ですね。」
「…や、やっぱり、…ア、アレに使うんだ…」
橘先輩は表情七変化のようにコロコロ歪ませつつも、カタカタというキーボードの打鍵音を奏でることを辞めない。
その洗練された匠の技は、橘先輩が照れようが、恥ずかしがろうが、俯こうが、一切ブレない。
「…念のため聞くんだけど、け、消してくれたりしないよね…?」
「無理な相談ですね。これには利用価値がありますから」
「…り、利用価値…」
橘先輩は俺の言葉を嚙み締めるように復唱する。
…今、何かおかしなことを言ったか?
『…ふぇ…?…ま、まなぶくん…?』なんて言ってる橘先輩以上に美味しいネタはないだろう。
もしかして、あの時の意識は朧気でその事実に気付いていないんだろうか?
「そ、その、い、一生のお願いでも、ダメ?」
そんな何の担保にもならないものを引き換えに出すほど、橘先輩は切羽詰まっているようだ。
まあ、さっきの疑問を解消するくらいはやってもいいか。
仕事をサボって寝ている自分を密告されることに純粋にビビっているだけか。
それとも、恥ずかしいことを口走った自覚があって羞恥心に殺されそうになっているのか。
「なら。一つ聞いてもいいですか?」
「え?答えれば消してくれるってこと?」
そんなことは一言も言っていないだろう。
だが、都合よく解釈した橘先輩に希望を持たせるために頷いておく。
「橘先輩は会長のことが好きなんですか?」
俺の質問に橘先輩の手がピタリと止まった。
先程まで、流れるように動いていた手が硬い動きに変わる。まるで自分のものじゃないようだ。
「なんでそんなこと聞くの?」
「なんでだと思いますか?」
俺の考えは的中していた。
橘先輩は『…ふぇ…?…ま、まなぶくん…?』の発言を覚えていない。
その確信はある。
だが、だとするなら橘先輩の先程までの動揺は何に対してだ?
これは、まだ泳がせてみるのも面白いかもしれない。
「…ご、ごめんなさいっ」
「え?」
いきなりステーキよりもいきなりの謝罪に俺は驚きを隠せなかった。
いや、いきなりステーキはそんなにいきなりじゃなかったわ。
普通に牛丼チェーン店の方が提供速度速いし…。
「なんで謝るんですか?」
「え?だって、綾小路君私のこと好きなんでしょ?」
…どうしてそうなった。
ワンチャン狙ってはいるが、断じて好きではない。
自分で言っておいてなんだが、クズすぎる発言だな…。
「どうして、そう思うんですか?」
「…え?そ、そんなの私に言わせる気?」
「いえ、本当に純粋に分からないんです。」
「そ、そんなわけないよね?さっき、私用とか利用価値とか…。」
「言いましたけど、それが何でしょう?」
俺の真顔の問いかけに、橘先輩は自分の思考を振り返っているようだった。
「え、もしかして、私何か勘違いしてる?」
「その勘違いの内容を話してもらわないと分からないです。続きをお願いします。」
俺は間違った青春ラブコメを謳歌する男子高校生ほど愚鈍じゃない。
少し前の問答で橘先輩の勘違いに気付いている。
俺にはなかった思考回路だったから、気づくのに時間は要した。
つまり、今やっていることは客観的に見てセクハラ行為当たるんじゃないだろうか。
だが、それは俺が橘先輩の勘違いに気付いているということに橘先輩が気付いている場合だ。
「…最後に確認だけさせて。綾小路君は私の寝顔に明言出来ない私用において利用価値があるって言ったんだよね?」
寝顔に利用価値があるとは言ってないな…。
「そうですね。あの動画はそういうものです。」
俺は肯定から入り、後に濁す発言を付け加えることで言い訳の余地を作っておく。
「つまり、それって、そ、その…ひ、ひとりでする時に使うってことでしょ?」
橘先輩の顔が信じられないくらい赤くなっていることが分かる。
俺の想像通りの答えだったが、俺はその答えに対しての心底意外そうな顔を作って応える。
息が詰まるほど気まずい空気が生徒会室に充満した。
「……」
「……」
「な、何か言ってよっ!!?」
羞恥に耐え切れなくなった橘先輩はやけくそ気味に叫ぶように言う。
「いえ、橘先輩ってそういうこと言うんだなって思って…」
「……っっ!!そ、そういう風に受け取れるようなことしたの綾小路君だからねっ!?」
「これを聞いて貰えれば、俺がそんな事をしていないと分かって貰えると思います」
俺は携帯にある動画を再生する。
『…ふぇ…?…ま、まなぶくん…?』
普段、人前では気取った声で会長と呼んでいる橘先輩が甘えるように堀北兄の名前を呼ぶ声が生徒会室に響いた。
この動画の攻撃力と橘先輩の勘違いによる自傷ダメージで橘先輩は失神した。
「もうやめて、橘先輩のライフはゼロよ」状態を無視して、俺はいつの間にかオーバーキルしてしまったらしい。
俺は自分が鬼であることを自覚しつつ、口元から涎を垂らして失神している橘先輩の顔もしっかりカメラにおさめた。
…仕事が増えた。今日も定時では帰れないようだ…。
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東京では高校生が23時以降に外出していると、補導の対象となる。
そんな背景を元に、この高度育成高等学校では最終下校時間が22時半と決められている。
ちなみにこの補導時間は条例で決められるため、地域差がある。
もしこの学校が田舎に建っていたら、あと、1時間や2時間ははやく帰れたかもしれない。
……クソ大東京め。
俺は22時を回った今、ようやく帰路についた。
昨日よりは30分もはやく帰れているな…。
一週間近く続くこの生活習慣に体が麻痺してきていることに気付くがどうしようもできない。
生徒会の引継ぎのタイミングで、南雲陣営に加えて一之瀬がいない。
俺と橘先輩と堀北兄の三人でその分の仕事量をこなさないといけないわけで、残業対応は必然だった。
…これ、ブラック企業の手法なんだよなあ。
南雲はこの学校を真の実力主義に変えるとか言ってるが、その前に生徒会の働き方改革の方が急務だろう。
「はぁ…はぁ…。綾小路君、逃がしませんからね…。」
橘先輩が後ろからレース中のウマ娘のような速さで走ってくる。
コーナーの加速具合が半端じゃない。優秀なサポートカードを採用しているようだ。
だが元気な所を見ると、無事に目が覚めたらしい。
「大丈夫でしたか?橘先輩。」
「へ、平然な顔してっ…!!なんてことしてくれたんですか!綾小路君っ!!」
橘先輩の分の仕事までやった俺に酷い言い様だ。
感謝されることはあっても怒られることはないはず。
起きた後、堀北兄が傍にいるようにセッティングするアフターサービスまでつけてやったというのに…。
(失神した橘先輩を堀北兄に丸投げして帰っただけだが)
「か、会長に『橘。泡を吹いてたけど何かあったのか?』なんて心配されたのなんて始めてですよ!!恥ずかしくて目も合わせられなかったんですからっ!!」
「…まさか、それで逃げ出してきたんですか?勿体ない。」
「勿体なくありませんっ!綾小路君は乙女心が理解できてませんっ!!泡をふいている瞬間を見られるなんて、お嫁にいけないとかそういうレベルの話なんですよっ!!」
「大袈裟ですね。橘先輩なら貰い手くらいすぐに見つかるでしょう」
「…え?それって…」
「何を驚いているんですか、容姿も良くて性格もいい。そんな先輩をほっとくほど、Y染色体の消滅は進んでませんよ。」
俺が唐突に褒め始めたことで、橘先輩は虚をつかれたような顔を浮かべる。
「…誤魔化そうとしてませんか?綾小路君」
駄目だったか~。
橘先輩は勢いよく俺に両手の手のひらを向ける。
気功砲を出すかの構えだがそうじゃない。手のひらに書かれた文字を見せにきてるのだ。
「…その様子だとお気に召さなかったようですね。それ」
「当たり前です!!女子高生がやりがちな手にメモする非効率的なやり方でなんてこと書いてくれてるんですかっ!!」
中々起きない橘先輩のせいで仕事が増え、苛立ちから悪戯心が芽生えて、油性マジックを手にしたことを忘れていた。
手のひらにはただ油性マジックの線が蛇のように這っていうように見える。
だが、手のひらを自分に向けて、両手を合わせたとき、『まなぶくぅん』と読めるカラクリにしておいた。
「いつ会長がこれに気付かれるかと思うと戦々恐々で、あの場にいれるわけがなかったです」
「スリリングな体験だったでしょう?」
「求めてませんっ!!」
鼻をふんすと鳴らすほど、橘先輩は憤慨している。
「まあまあ、橘先輩の仕事もやっておきましたからそう怒らないでください」
「そ、それは、ありがとうですけど…。」
橘先輩は責任感の強い人だ。
自分の失態で後輩である俺に仕事を押し付けた形になったことはよしとすることではないだろう。
「あと、あの動画ですけど既に削除しました。橘先輩が甘えた声で会長を呼んでいた事実が明るみに出ることはないから安心してください。」
俺は画像フォルダを開いた状態の携帯を橘先輩に渡して確認させる。
橘先輩にはみーちゃんと同じような小動物のような可愛さがある。
あまり虐めすぎてもこっちの心が痛むからな。
それは断じて同情ではなく、力が弱く抵抗できないものに力を行使する弱いもの虐めが性に合わないだけの話だ。
「どうしてそんなに急に良心的になったんですか…。」
「あんなのは偶然の産物ですから。それを使って強請るのは大人げないと思いまして。」
「あ、綾小路君…。」
「それに、最後に可愛い寝顔見せて貰いましたし、俺は満足ですよ」
いいものはやはり生に限る。
世界遺産の写真では感動しないように、その光景を実際の目で見ることでしか得られないものがある。
橘先輩を寝顔をデジタルデータとして保管するのは勿体ない。
そんな歯の浮くような補足を聞いて、橘先輩は俺を見直したように目を光らせた。
…ちょろい…。
クズ男に優しくされたらすぐにキュンとする少女漫画のヒロインタイプだ…。
動画は無論、橘先輩の泡を吹いている顔もしっかり、恵とのLINEを使ってネットに保管してある。
…あれ、クズ男ってもしかしなくても俺?
「なるほど。綾小路君がモテるメカニズムが分かった気がします」
「俺、彼女もいなければ、モテてる自覚もないですけど…」
橘先輩は見惚れるような表情から一転、冷静な分析を始めた。
櫛田の二面性に似た何かを感じた。
「実力者なのに謙虚、冷たいかと思ったら優しい。」
俺が表現しているギャップを言語化する橘先輩。
「極み付けは相手が喜ぶであろう言葉を相手を一度落としてから絶対に刺さるであろうタイミングで自然に使う感じ。」
そうすることで聞き手は噓っぽく聞こえないんですよね。と締めくくる。
橘先輩は言葉を額面通りに受け取らず、何故その言葉をチョイスしたのかまで考えている。
「女子は急に優しくされることにすこぶる弱いってことを狙ってやってますよね。綾小路君は。」
総評の後に待っていたのは、俺の打算を丸裸にするような言葉だった。
橘先輩は俺の理屈で構成したコミュニケーションを既に紐解いた確信があるようだ。
橘先輩は俺のタネを明かしているような気になっているが、俺の考えは逆だ。
それはつまり、俺のやり方を理解した上でも、嬉しいという気持ちに変わりはないということ。
俺のこのやり方に確かな手ごたえを産んだ瞬間だった。
分かっていても止められないというのはいつだって最強だ。
「それって普通のことじゃないですか?例えば他人の誕生日にプレゼント贈る。これは相手が喜ぶと分かっていてやることですよね?」
「私がしているのはレベル感の話です。綾小路君からは全ての言動からそれを感じるんです。」
つまりは、俺の言動はどれも最終的に俺を好きにさせるような含みを持っていることを指摘している。
俺のコミュニケーション能力は俺が生まれ持ったものじゃない。
この学校生活で培ってきたものだ。櫛田のあざとさ。一之瀬の優しさ。洋介や恵の気遣い。
この半年間で学んできたメソッドを適材適所で当てはめているだけに過ぎない。
だが、それを指摘されたのは初めてだ。
なるほどな。堀北兄が評価している点はここか。
「なるほど。かねてからの疑問が解消できました。会長がただ可愛いだけの生徒会の仲間を四六時中隣に置いておくわけがない。なぜ、橘先輩を選んだのか」
「…」
「人から好かれる能力が桁違いだからですね。」
俺は以前、マスコットキャラクターのような存在だと、橘先輩を比喩した。
それは正確じゃなかった。見誤っていたと反省する。
橘先輩はマスコットキャラクターの中の人のような存在だ。
橘先輩が生徒会室で俺に『私のことが好きなんでしょ』と聞いてきた時、一切の躊躇が無かった。
それは何故か。橘先輩の中で他人に好かれることが当たり前になっているからだ。
彼女は他人に好かれるためずっと行動してきたのだ。
それが自分の価値だと思い込んでいるから。
「皮肉なものですね。一番好かれたい人には好かれないんですから」
「…っ!!か、関係ないでしょ。綾小路君には」
橘先輩の観察眼は外交官として、あまりに優秀だ。
堀北兄には察知できないことも、彼女なら察知できる。
その能力を堀北兄に買われた橘先輩はマスコットキャラクターの着ぐるみを脱ぐことはできない。
橘先輩が堀北兄に好いてほしいのは中の自分だが、認めてもらったのは外の着ぐるみの姿だからだ。
「中々拗らせてますねぇ~。」
「…それは綾小路君もでしょ?さっきはモテてるって言ったけどあれお世辞。騙すのが上手いだけだよね」
「そうかもしれませんね。ですが、俺の噓は本心からの言葉じゃないというだけで、相手を損させるものじゃないです。」
思えば、橘先輩と二人で話したことは今日が初めてだった。
腹を割った話し合いというのは愉快だ。
相手に遠慮する必要も空気を読む必要も気遣う必要も感情を察する必要もない。
ただ、相手に確実に刺さる言葉を選択するだけでいい。
「だが、橘先輩は違います。会長が橘先輩につかせている噓が自分を苦しめて損させている。」
「違う、それは私の勝手な気持ちが…」
「橘先輩の気持ちは本物ですよ。それは自分も分かっているでしょう?だから、苦しいんです」
橘先輩に自分が堀北兄に恋をしてしまったことを後悔させることはしない。
「本心を偽れる噓は存在しないんです」
俺は堀北兄とは逆。
橘先輩の中身を尊重する。
橘先輩が抱えていた矛盾がどれほどの重圧だったかが分かる。
いつから堀北兄の事を想っていたのか。
いつまで堀北兄を想えばいいのか。
一人で抱えていた、一人で抱えるには重すぎる感情が爆発する。
俺がそのスイッチを分かってて押した。
彼女は誰もいない夜道に大声をあげて泣いた。
堀北兄が橘先輩に少しでも恋愛感情を抱いているなら、橘先輩の抱える矛盾は本来、堀北兄が何とかすべきものだった。
だが橘先輩の着ぐるみを引き剝がしたのは俺だ。
この事実には大きな意味がある。
今の彼女を見て、堀北兄は橘先輩に魅力を感じるだろうか?
長年続けてきた着ぐるみにより、今の彼女は本来の自分の形さえ見失っている。
外交スキルも洞察力も失った彼女は今までの彼女とは別人だ。
俺と橘先輩はこの夜。一つ約束した。
生徒会の任期が終わった次の日に、決着をつけると。
橘先輩を次の恋愛は、会長への恋心に決着をつけた先にしかない。
===橘書記 堀北会長 任期満了まであと5日===
多分、次も生徒会絡みです。
その次辺りに次の特別試験スタートって感じかも