綾小路がAクラス卒業ではなく童貞卒業を目指す話 作:ファウストの劫罰
「は?何言ってんの?」
喉から絞り出した低い声と蔑むような眼。
願ってもいなかったことだが、俺の常識外れの目的は櫛田に英語の発声法を修得させた。
これで、櫛田もまたネイティブスピーカーに一歩近づいたな。
「…正気じゃない。恋愛をギャルゲーか何かだと勘違いしてんじゃない?」
櫛田は俺の確信を突いたつもりだろうか。
俺の回答をじっと待っている。
もし、そうなら櫛田は既に攻略済みに含まれるのだろうか。
仮にそうだとしても、彼女との関係は恋愛と呼べるものではないし、全年齢向けじゃないからギャルゲーとは言えないか…。
エロゲーもとい、抜き…。いやこれ以上はやめておこう。
「その場合、櫛田の俺への好感度はいくつになるんだ?」
「今、真面目な話してるの分かってるよね?」
壁をドンと叩く音で一喝し、俺の軽口を制してくる櫛田。
デパート裏のフェンスが脳にちらつく。…そういえば、こいつ物に当たるタイプだった。
隣の部屋って誰だったかな…。明日謝っておかないと。
「凄まれても何も言えない。俺にとってのこれは櫛田にとっての承認欲求と同じだ。」
櫛田が腹の底から湧き上がってくる自分の承認欲求が抑えられないように。
俺の悲願も出所や対処法を説明できるものではない。
だが、女子の黒い部分だけを煮詰めたような彼女でも、俺の欲望には理解を示せないようだ。
櫛田で3人目だな…。俺の心の内をさらけ出すのは。
「気にいらない。」
「声が小さくて聞こえなかった。何て言った?」
「…絶滅しろ。絶倫ヤリ○ンモンスターって言ったんだけど聞こえなかった?」
櫛田の毒舌も慣れたもんで、あまり酷いとも思わなくなってきた。
というか、明らかに口の中でもごもご言ってた時より文字数増えてませんか。
「おい、どこ行くんだ?」
「あんたに関係ないでしょ」
まるで家出していく少女のように櫛田は玄関を飛び出していった。
もしこれが恋愛小説や恋愛ドラマなら走って追いかけるんだろうか?
ギャルゲーなら目の前に選択肢が浮かんでくるんだろうか?
ゆっくりと閉まっていく玄関の扉がガチャリと音を立てるまでそんなことを考えていた。
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ペーパーシャッフルまで残り1ヶ月と少し。
2日前の会議の結果、俺は恵、佐藤、篠原、佐倉達を筆頭に計8人のメンバーに勉強を教えることとなった。
敵クラスに情報を漏洩しないためにも、勉強場所に教室を選べない。
俺の部屋にぞろぞろと女子が入りあっという間に女子高生が好みそうな香水が混ざった匂いが充満する。
体育後の女子更衣室の匂いみたーいなんて恵が言ってたからそうなんだろう。いらない情報がまた増えてしまった。
「50,52,48,55,50。佐藤、これが何か分かるか?」
「…素数?」
おかしいな。俺の知らないうちに素数の概念変わった?
数学ってそんな日本史みたいに改変入るものだっけ?
「はいはいはいっ!!それ分かった!」
篠原の無駄に元気のいい甲高い声が狭いワンルームに響く。
通知表に「元気だけはいい」って教師に書かれてるタイプだろ、こいつ。
そもそも、今の数字に篠原は関係ないはずだが…。
「それ、コダックの種族値でしょ!!しかも初代の方!!」
篠原の的外れな発言に俺が与えた課題をやっていた他数人も顔をあげてこちらを見る。
…こいつ、塾とかに遊びに行くタイプだ。帰らそうかな。
「コダックって進化前ポケモンだけど二段階進化だから地味に種族値高く設定されてるんだよね~。あと、初代のポケモンは特殊攻撃力と特殊防御力が一つの数値に纏まってて…」
「分からん分からん。これは佐藤の中間テストの結果だ。佐藤も自分の結果くらい覚えといてくれ。」
「そうだったそうだった。ごめんねー、綾小路君。」
無駄に流暢にコアな知識を披露する篠原を一蹴して、俺は佐藤に向き直り、窘めるように言う。
だが、おどけるような佐藤からは、どこか「可愛い私を見て」というような雰囲気を感じた。
厄介な二人だ。二人の空気はどうしてもまわりの危機感ごと霧散してしまう。
俺はまわりに目配せして、集中が途切れてた何人かを勉強に戻すために軽く睨んでおいた。
「篠原。遊んでいる暇はないぞ。40.45.40.56.35。正直言って、一番絶望的だ」
「40.45.40.56.35…。噓…。あたし、初代のポッポじゃん…。」
さっきから、こいつの無駄な知識量は何なんだ…。
しかもポケモンって今、確か10世代近く出てたよな。こいつ一体何歳なんだ。
「篠原。暗記力はありそうなのになんで前回の日本史が赤点ギリギリなんだ?暗記教科だろ」
「あはは…、歴史上の人物って可愛くないからさ、どうも熱が入らなくて…。」
一昨日の風邪がぶり返したのかのように頭が痛い。
こいつは勉強に何を求めてるんだ。
「登場人物が美少女美男子ならやる気が出るんだな?」
「えっ?まあ、それなら…」
「あった。これの3巻~12巻あたりがテスト範囲だ。とりあえずこれを読め」
そんなものはないという先入観をもっていた篠原からすれば目から鱗。
日本史というのはオタクや作家達が挙って好むコンテンツ。美少女美男子なんて序の口だ。
新しい玩具を手に入れた子供のように篠原は黙々と読み始めた。
とりあえず、これで基礎的な部分を学習させて、細かいところは補填だな。
篠原にはまず、最低限赤点ゾーンを回避してもらう学力をつけないと話にならない。
正直、今垣間見えた暗記力頼りにはなるが、真剣に漫画を読み始めた彼女を見るにそこまで未来は暗くないかもしれない。
「では佐藤にもこれをやってもらう。」
「…単語帳?」
「ああ。これを明日までに完成させてもらう。」
佐藤は俺の指示に疑問符を浮かべながら、単語帳をめくる。当然白紙だ。
自分が何をするべきなのかが見えてきたようだ。きょとんとしていた目が絶望の色を帯びる。
「400枚だから、1教科あたり50問だな。ちなみに終わるまで帰れないからな」
「あ、綾小路君のドS~。」
こいつ、なんでそれをいう時だけ嬉しそうなんだよ。
まあ、その笑顔も400枚の単語帳すなわち400問の問題作成をすればやつれるだろう。
「遅れてきた佐藤が悪い。自業自得だ」
「ご、ごめんって~。」
放課後の勉強会は各自部屋に戻った後、荷物を置いてすぐ俺の部屋に集合という手筈だった。
だが、佐藤と篠原はマイペースのせいか、他の人より30分近く遅れてきた。
その間に他の人には既に同じことをやらしている。全員同じ条件下だ。
明日からは時間指定しないとな…。
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シャーペンが紙の上を走る音だけが聞こえる。
だが、手の動きが遅くなっているところを見ても集中力は落ちてきているようだ。
(21時か。22時以降は校則違反になる。ここに残すわけにはいかない。)
むしろ彼女達が私語やスマホの使用をしたい気持ちを抑えて、ここまで真剣に取り組めるとは思えなかった。
…いや、空気を読むことに長けた彼女達だからこそだろうか。相互監視恐るべし。
「よし、今日はここまで」
俺は張りつめた空気を割るように大きく手を叩く。
凝り固まった筋肉をほぐすように各々が伸びをし始めていた。
だが、その中まだペンを走らせている少女がいた。
「佐倉。」
「キ、キャッ。」
「お疲れ。もう今日の勉強会は終わりだ」
没頭して周りが見えていなかった彼女の曲がった背中をポンと叩くと女の子らしい声を出して背筋が伸びる。
勢い良く伸びた背中に釣られて、大きく揺れた胸に目を取られないように彼女の顔を見る。
叩いたのが俺であると分かると、目に見えてホッとしていた。
「わ~、綾小路君のえっち~。」
「えっち~」
「「…普段、何食べてるんだろ…」」
俺と佐倉のやり取りのどこからそれを感じ取ったのか、共鳴するようにからかい始める。
その声と同じくらい別の声も聞こえたが。
「今、俺をからかった奴、単語帳追加な」
「まってまって冗談だって~」「それだけは~、それだけは~」「綾小路君、佐藤さん単語帳マシマシで!!」「普段、何食べてるんだろ」
佐倉はこういういじりに上手く返せないだろう。
そう思い、フォローするために適当に言ったが我ながら場の空気の流れを掴むのが上手くなったと思う。
入学当初の俺には爪の垢を煎じて飲ましてやりたい。
あっという間に、そこかしこで話題が広がり既にさっきのいじるような空気はない。
「マシマシとか聞くとなんか一気にお腹空いてきた…。」
「それな~。てかもう9時なのウケる~。」
「そうだ、皆で今から近くのファミレス行かない?ガンダで行けば間に合うっしょ」
恵グループのすごいところは連想力だな。すぐに連想ゲームの如く話題を展開していく。
そして、すぐさまファミレスに行くことが決定した。時間のこともあるからだろうが、相変わらずの行動力だ。
これ、ラストオーダー前に押し寄せる迷惑団体客みたいになりそうだな…。
「ちゃんと門限守ってくれよ。まとめて校則違反になったら洒落にならない」
「え?あんた行かない系?」
こいつすぐに○○系って使うの何なの?恵だけにってか?
それ、そんな便利な言葉じゃない系だから。
添加物を体に入れて、筋トレを無駄にしたくなかった俺は当然行かない。
だが、断ろう。そう思った矢先、不安そうな佐倉が会話に入れない絵が頭によぎった。
俺は一学期の時に佐倉が孤立しないように集団に入れたがそれは間違いだった。
コミュ力のない佐倉が陽キャ集団に溶け込めるはずもないのだ。
リスをアフリカゾウの群れに入れるような行為だった。
あの頃は松下と打ち解けていた分、彼女が講師役として洋介のサポートをしている今、浮き彫りになったように浮いている。
「夜に女子だけで歩かせるわけにはいかないな。門限も気になるしついていこう」
「…あんた、格好つけすぎ。キモい」
俺の脇腹を肘で小突いてくる恵はボソっと言ってくる。
「いや、これぐらい普通だろ」
「普通じゃないあんたが言ってるからキモいの」
チクチクと俺に着実にダメージを与えてくる。
櫛田の毒舌で耐性つけてなかったら枕濡らしてたな…。
「悪いが慣れてくれ、これから、こういう系でやってくから」
「ふーーん」
何一つ具体的じゃない俺の言い訳は恵には完璧に伝わったようだ。
言語の力を超えたコミュニケーション能力を見た気がした。そのうち猫とか犬の気持ちも分かりそうだ。
したり顔で納得したような素振りを見せた彼女はすぐさま他の皆に振り返った。
「みんなー、今日は綾小路君の奢りだってー。」
「え、マジ?やったー。」
「綾小路君。ありがとう。」
「神だ…。神がいる…。」
「佐倉さん、普段何食べてるの?」
…あいつ、したり顔を浮かべてたのはこれか。余計なことしやがって。
しかも弁明する間もなく、もう既にお礼まで言われてるんだけど…。
なんで、そんな満面の笑みで言えるんだ。少しは申し訳ない気持ちにならないのか?
女子8人の会計。控えめに計算しても1万ptはあるんだぞ?
「あ、綾小路君。わ、私も半分出そうか?」
「…。佐倉大丈夫だ。佐倉もすきなだけ食べていいからな」
私の分はいいからとかじゃなくて、半分出そうとしてくる佐倉。健気すぎる。
まあ、ここは佐倉の顔に免じて、振る舞ってやるとしよう。勉強も頑張っていたしな。
それに、坂柳からの臨時収入もあったしな。
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支払総額が22000pt?
このファミレスが噂に聞くぼったくり店であることを一瞬疑う。
だが、レシートには席代やアイス代などはなく、この店でも高価なメニューがずらりと並ぶのみ。
あいつら遠慮なさすぎだ。
ちなみに、アイス代というのは、無料提供の水に入ってるものだ。
実際に水は無料だけど氷は有料ですみたいなぼったくりがあるらしい。
そんなのありかよ…。ありなんだよ(キリッ)。いや、なしだよ。
「お腹いっぱい~。」
「それな~。」
「前園さん、お腹やばー。妊婦みたいじゃん~。」
前を歩く恵達は余程満足しているのか、お互いの下っ腹をつつきあってじゃれている。
それを見て、こいつらの腹を解剖すれば、22000pt返還されるかな?なんてサイコな発想が出てくるほど俺には痛い出費だった。
22000ptって、俺の半年間の食費と同じくらいの額だ。
「後は帰ってお風呂入って寝るだけだね~。」
「うん。今日はぐっすり寝れそう。」
「盛り上がっているところ悪いが、俺が与えた課題。明日の勉強会で回収するから、そのつもりで。」
心に不満を抱えていたからか、普段より冷たい声が出た気がする。
「ちな、できてなかったら…」
「なんだ。篠原。やらないつもりなのか?」
「っっ…!!やります!!やらせていただきます!!」
篠原が焦ったように気をつけの姿勢で立ち止まり、敬礼する勢いでかしこまる。
彼女には3時間近く基礎をみっちり教え込み、その後に単語帳に取り掛かってもらっている。
3時間の遅れを考慮して皆の半分の200枚にしてあげた温情を彼女も分かっているのだろう。
まあ、それよりも課題追加に怯えている故の返事だろう。
「私、まだ100枚近くあるよ…」
「私なんて150枚…」
「まだ、21時45分だ。帰ってから3時間もやれば十分終わるだろ。」
深夜1時に寝れば睡眠時間は十分確保できる。
俺は何も致死量の課題を与えているわけじゃない。
だが、勉強とは縁のない生活を送る彼女達にはそうではないらしい。
「綾小路君。もしかして、Sっ気ある?」
「私も思った。それに、綾小路君になついてるみーちゃんはMっぽいし。」
「わ、私もMだけど…。このSは望んでないよ…。」
「それな~。ちなみに理想的なSってどんなの?」
「え、あの、首しめとか…。って何の話だったけ!!これっ!!」
前を歩く彼女達がひそひそと話し始めた内容はそんな話。
如何にも、陽キャな彼女達が好みそうな話題だ。
なんか自分の性癖をサラッとカミングアウトしてるやつもいるし…。
だが、意外にこういう話は苦手なのか恵は聞き手に回っているようだ。
「あ、綾小路君…。」
「佐倉か。どうした?」
いつの間にか、隣にきてたの佐倉が俯きがちに俺を呼びかける。
この話題は確かに彼女にとっても苦手な話題だろう。
「こ、これ…」
そうやって手渡されたのは単語帳。中身を見ると驚くことに既に完成していた。
問題の内容は褒められたものではないが、5時間の勉強会で完成させたことは素直に褒めるべきだろう。
この課題は一問一分でも400分かかる。それよりもはやいペースで終わらせるのは並大抵じゃない。
「わ、私は。次、何すればいい?」
俺が褒めるよりもはやく佐倉は俺に質問する。
餌を求める犬のような眼。貪欲な目だ。
彼女は素直で純粋だ。
他の人間とは違い、俺が課題を与えた時に、彼女はやることが大前提にある。
今は学力が最低水準の佐倉だが、俺は秘めたポテンシャルを感じた。
1年の3学期が始まる頃にはもう、彼女の名前が上位に食い込んでもおかしくない。
そしてその全ては俺次第。
認めたくない事実だが、俺は腐っても教育者の息子。
久々に心が高鳴るのを感じる。まさに気分はアイドルの金の卵を育てるプロデューサーだ。
「この後、俺の部屋に来い。色々教えてやる。」
「…ええっ。で、でも…。」
「俺の言うことが聞けないのか?」
真面目な佐倉のことだ。これくらい強引でなければ校則違反はできないだろう。
彼女は俺の真剣な目に押されるようにコクリと頷いた。
言い方が少し意味深で命令口調になっていたのは、SかMか論争で盛り上がっている彼女達に引っ張られたせいかもしれない。
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「あがってくれ」
俺が指定した22時半ぴったりに佐倉はやってきた。
つい何時間前にいたときは平然としていたように見えたが、今は分かりやすいくらい体が固まっている。
一昔前のロボットダンスのような動きで、靴を律儀に揃えて俺についてきた。
「そこに座ってくれ」
リビングの机には飲み物を用意しておいた。ホットココアだ。
コーヒーを用意して飲めないという事態を避けるがための無難な選択だ。
だが、佐倉はホットココアから立ち上がる湯気をぼーっと見ていて動かない。
どこか上の空だ。
「緊張してるのか?」
「…え、そ、そ、そんなことないよっ!?」
「よし、まずは肩の力を抜こう。話はそれからだ。」
奇しくもアダルトビデオの冒頭のインタビューみたいな流れだが気にしない。
ただでさえ四十肩が20代前半くらいで来そうな恵まれた体付きだ。肩肘を張っていては苦しいだろう。
「あ、綾小路君っ!?」
「体の力を抜け。」
「あふぅ…。」
俺は佐倉を半ば無理矢理座らせて、凝り固まった肩をほぐすように揉む。
最初はくすぐったいかのように体を悶えさせていたが、すぐに気持ちよさそうに頬を緩め始める。
櫛田や鈴音ならすぐに俺の手を払うだろう。やはりガードが緩い印象だ。
「なんでそんなに緊張してるんだ?」
「え、そ、それは…。」
「校則違反だからか?」
「う、うん。そ、そう。」
歯切れが悪くなったまま、口を閉ざした佐倉に俺は逃げの選択肢を与えるとそのまま安心したように食いついた。
佐倉が緊張している理由なんて一つしかないが、今の彼女が俺にそのまま伝えることはないだろう。
そういえば、さっきは言いそびれていた。
教育者たるもの、飴と鞭は使いこなせないとな。
「さっきは驚いたよ。こんなにはやく課題を終わらせるなんて思ってなかった。よく頑張ったな。」
「あ、ありがとう…ございます…。」
急に敬語になって返答する佐倉。分かりやすく顔がにやけている。
「嬉しそうだな。もっと褒めた方がいいか?」
「だ、だ、大丈夫っ。そ、そうだ。勉強しないとっ。」
肩に置いていた手が優しく振り払われ、佐倉は机の上に勉強道具を展開し始める。
照れ隠しなのがモロバレだ。なんだ、この可愛い生き物。
昔、アイドルをやっていたと言っていたが、こんな純粋であの業界をよく生き抜いてきたものだ。
「褒められ慣れてないな。アイドルやってた時は持て囃されてたんじゃないのか?」
「わ、私、活動はほとんどがネットだったから…」
「それでも、佐倉くらい可愛かったらコメントとかで褒められてるものじゃないのか?」
「も、もうっ。綾小路君っ。」
俺のあからさまに褒めるような口振りに気付いた佐倉は俺に振り返る。
お風呂上りで上気しているかのように顔が赤い。それに、顔の表情筋がゆるゆるで面白い。
振り返ることを予想していた俺は、予め構えてた携帯のカメラでそれをパシャリと撮る。
「え…。あ、綾小路君っ!!」
その音を聞いて、一瞬きょとんとした佐倉。
次の一瞬にはぷんすかという効果音がよく似合う顔で俺の名前を叫ぶ。
普段無表情で人形のような佐倉とは思えないほど、表情がコロコロ変わる。
「悪い悪い、出来心で。消すから」
「そういうことじゃなくてっ!!」
なら、どういうことだってばよ…。と思いながら佐倉の言葉の続きを待つことにする。
「撮るんだったら可愛く撮ってっ」
魂の籠った声で俺にびしっと宣言するように要求する佐倉。
大人しい佐倉を知っている俺からすれば、信じられないらいの声量だった。
…そういうところはちゃんとアイドルなんだな。意外な一面だ。
「分かった。じゃあもう一回撮るぞー。」(パシャリ)
「待って…。綾小路君、ポーズの指定してないよね…?」
「…そういうのいるんだな。じゃあ、立つのもあれだから、座ったままの自然体な感じで…」
「自然体って人魚座り?モデル座り?お姉さん座り?」
「…えーと、じゃあ、人魚のやつで。」
もはや、これが俺の指示通りかは分からないが、佐倉はその通りに姿勢を整えてカメラに向く。
「じゃー撮るぞー。」(パシャリ)
「…綾小路君。私、まだ表情作れてないです。私が合図を出すので、それまでシャッター禁止です」
その後、有料の高画質カメラアプリのインストールし、照明の光の角度を計算し、ようやく撮影が終了した。
始まった時は、グラビアアイドルにポーズを指示する監督気分だったが、終わってみれば娘に納得いくまで撮影に付き合わされた休日の父親みたいに疲れた。
被写体を綺麗に撮影するのって大変なんですね。カメラマンという職業に敬意を覚えた。
「あ…、綾小路君、ごめんなさい。振り回しちゃって…」
「謝らなくていい、楽しかった。それにいいものも撮れたしな」
佐倉は自分の好きなことに夢中になったら我を忘れるタイプか。覚えておこう。
この後、数分の加工を経て、ようやく佐倉が満足する一枚が完成した。
俺が用意したホットミルクが入ったマグカップを顔の前に出して小顔効果を狙い、どこか上品さの帯びた表情で笑う佐倉。
確かにいい写真だ。だが、俺には最初に不意打ちで撮った彼女が一番可愛く見えた。
一仕事を終えた達成感か。急に眠気がやってきて欠伸をする。
すると、それに釣られてか佐倉も小さく欠伸をした。
「ふふ。うつちゃった…。ふふ。」
まだ、撮影の時に演技した上品さが抜けていないのか、佐倉は控えめに笑う。
すっかり、俺と話すことへの遠慮がなくなったのか、それとも眠気の影響か。おどけたように言う彼女。
控えめに言って可愛い。
(そんなことより今何時だ…?)
俺は時計を確認すると既に日付が変わる10分前。
…やべ、勉強教えるつもりが、カメ子みたいなことやらされてた。
だがまだだ。深夜1時に彼女を部屋に返すとしても、最低1時間は勉強を教えられる。この時間を無駄にする訳にはいかない。
「佐倉、そろそろ勉強…」
「なんか私、眠くなっちゃったかも…。」
なんで、酔っちゃったかも…。みたいな言い方なんだ。
だが、その言葉を最後に佐倉の瞼がどんどん落ちていく。
…自制力の弱い彼女のことだ。夜更かしとかは出来ないタイプなのだろう。
既に睡魔に完全に乗っ取られたのか、開いてもないノートに突っ伏して寝始めた。
…ほんと何の時間だったんだ今日。
俺は佐倉を早起きさせて朝勉強させる方向に考えをすぐにシフトする。
そのためにも、こんな体を痛めそうな姿勢で寝かすわけにはいかない。
俺は佐倉を抱えてベットまで運ぶことにする。
意識のない人間というものはやはり重い。
俺はどこにもぶつけないように慎重に抱えて移動させる。
すると後ろから、ゴンっと何かが落ちたような鈍い音が聞こえた。
佐倉をどこかにぶつけたかと一瞬思ったがそうじゃない。
俺がそのまま、佐倉をベットに寝かせて振り向くと、仁王立ちした櫛田がいた。
すぐそばには大きいスーツケース。さっきの音はそれか…。
「…だらしない乳。寝るときにナイトブラつけないなんて舐めてんの?垂れろ。」
俺の後ろにいる佐倉が寝ているのをいいことに容赦のない言葉を浴びせる櫛田。
俺への怒り半分、佐倉のフィジカルギフテッドに対する私怨半分と言ったところか。
「私、今日からここ泊まるから。とりあえず、私のベットにいるそれどけてくんない?」
短い家出だったな…。というか、ここは俺のベットだ。
ん?ちょっと待って、今なんて…。
「いつまでFPSでチーターに瞬殺されたみたいな顔してんの。とりあえず、これよけるから」
「お、おい待てって。そんな勝手に…。」
櫛田はたたっと歩いて、俺の横を通り過ぎ、宣言通りぐっすり寝ている佐倉を床に落とした。
ビタンっみたいなトムとジェリーじゃ表せなさそうな痛そうな音がした。
ベットはそこまで高くないし、マットも敷いてあるから大事には至らないだろうが…。
「なに、こいつ。」
櫛田が驚くのも無理はない。
こんな状況でも控えめな寝息をたてて佐倉はぐっすり寝ている。
「お、おっぱいがクッション代わりになったってこと!?」
なんだそれ、高性能すぎるだろ。車のエアバッグかよ…。
あまりの性能につい、佐倉の体の心配よりも、彼女の装備の方に俺の思考が囚われてしまう。
いや、そんな場合じゃなかった。
とりあえず、これ以上櫛田が暴れないように後ろから羽交い締めして拘束する。
うーん。この状況どうしよっかな~。
寝息と怒号のデュエットを聞きながら俺は必死に頭をフル回転させていた。
いろいろカオスになってきた。
全部、櫛田の攻略を先にしてしまった作中の綾小路のせい