綾小路がAクラス卒業ではなく童貞卒業を目指す話 作:ファウストの劫罰
「糞ビッチ…」
黒い腹の底から掬い上げたような言葉。
櫛田のそれはあまりにも彼女とのイメージとかけ離れていて、一之瀬のことを指していることに気付くのが遅れた。
だが櫛田の口から、テノール歌手のような声で罵詈雑言の類が出ていることもまた、佐倉と一之瀬にとってはイメージからかけ離れていたそれだった。
佐倉は寝起きなこともあってか、完全に脳の処理が追いついていない。
「…櫛田さん?」
戸惑う一之瀬にズカズカと詰め寄り、櫛田は強引にシャツの胸倉を掴む。
引き上げられたシャツが一之瀬の体のラインを露わにして、視線を持ってかれそうになるがそれどころではない。
「櫛田、その手を離せ」
「…なんで、あんたに指図されなきゃいけないわけ?」
「ここは俺の部屋だ。秩序を守る義務がある」
及び腰が染み付いてきているのか、中立の立場を崩さないとって付けた理由がすんなりと口から出た。
彼女達に優劣をつけることがどうしても出来なくて、どっちの肩も持てなかった。
「私の部屋でもあるし。それに、秩序を乱してるのはこの淫乱女王だし」
櫛田は俺の斜め上の理由に、斜め上の回答を返す。
そして再三言うようだが、お前の部屋では断じてない。居候が所有権主張してくるんじゃねぇ。
あと、そのレジェンドの異名はもう、とうの昔に死んだ言葉だ。
「櫛田、二度も言わせるな。その手を離せ」
正義執行。
これ以上は暴力をもって制圧することを匂わせるために、立ち上がり一之瀬の側まで向かう。
「…ふーん。そういうこと」
櫛田は一之瀬を乱暴に投げて、見下すように一瞥した。
被害者の一之瀬はというと、彼女の裏の顔を初めて見た人間にしては、割と落ち着いていた。
「そこの男は騙せても私は騙せないから」
目の前に広がる光景を喧嘩と呼ぶには余りに一方的すぎた。
一之瀬は櫛田の言葉を全て受け入れるだけで、反論一つ返さないからだ。
それに、櫛田は俺が騙されていると断言できるくらい、俺と一之瀬との会話を聞いていたようだ。
思えば、彼女の帰りが遅かったのは、部屋の前に一之瀬がいて入口を塞がれていたからではないだろうか。
そしてそのまま一之瀬の後をついて部屋に入り、廊下で全てを見ていたのだ。
「聞き捨てならないな。論拠は示せるんだろうな?」
俺の問いに今一番に反応したのは櫛田ではなく一之瀬だった。
どうやら、櫛田の言葉が荒唐無稽というわけでもなさそうだ。
一之瀬が今日の一連の流れで唯一俺に明かしていない部分といえば、2000万の出処だ。
だが、それも大方予想がついている。だから俺は聞かなかったのだ。
仮にそれが予想外の結果だとしても、俺が騙されているということに繋がるとは思えなかった。
「…いいよ。それも、とびきり馬鹿なあんたにも分かるように教えてあげる」
一之瀬の顔を窺った後、少しの思案を経て櫛田は頷いた。
すると櫛田はきょとんとした顔でちょこんと隠れるように座っていた佐倉へ距離を詰める。
今さっき、彼女が胸ぐらを掴んでいる光景を目の当たりにしたばかりだ。
佐倉は屠殺前の養牛のように怯えて動けずにいた。
「牛。これ持ってて。得意でしょ?」
櫛田は佐倉に自分のスマホを押し付ける。
身に覚えのない名前で呼ばれた佐倉は動揺を隠せない様子だ。
乳女からの牛女からの牛。
櫛田の佐倉への呼び名の推移には目を見張るものがある。
ついに人間から牛へのジョブチェンジまで果たしてしまった。
佐倉には悪いが、次は何になるのかと少し楽しみだった。
「もしかして、う、牛ってあたし?」
「そうだけど?チー牛のあんたにはぴったりでしょ?」
まさかのダブルミーニング。
佐倉の身体的特徴と、精神的特徴を上手くかけていた。最低だが。
もはやここまで行くと、蔑称ではなく愛称なのでは…?
「…い、陰キャの自覚があるから言い返せない…。」
そんな自覚は捨ててくれ。自己肯定感下げるだけだぞ。
陰の自覚を持っていいのは帝光中学校バスケットボール部の幻の6人目だけだ。
「…ぷっ。それで、言うと一之瀬さんは淫キャラって感じだねっ。」
櫛田が面白いことを思いついたとばかりに言ったこっちは、完全に蔑称だった。愛は微塵も感じない。
冒頭から櫛田が一之瀬を揶揄していた言葉に、佐倉と同じく一之瀬が言い返せなかったことがたまらなく面白いようで、下卑た笑みを浮かべている。
「ほんと、気持ちいいくらい良い性格してるな。お前」
「ちょっと、皆の前で気持ちいい女とか言うのやめてよ。恥ずかしいじゃん。」
「曲解すぎるだろ」
すぐに反論するも、櫛田の言葉に反応して2人がぎょっと見てくる。
佐倉には俺と櫛田の関係性がバレているが、それを暗に仄めかすような発言にドキドキしている様子だ。
櫛田はそんな佐倉に幼い子供にスマホを預けるように慎重に握らせる。
そして、俺のすぐ目の前まで来て、俺の胸に手を当ててこう言うのだ。
「曲解かどうか試してみる?」
…試すまでもない。曲解なんかじゃないのはよく知っている。
俺達が幾度も交わした夜の盃。
それは蜜月な関係を外には漏らさないという誓いの乾杯。
だが、今は違う。佐倉も一之瀬も俺達に目が釘付けになっている。
なのに目の前には、脳の記憶に新しい妖艶の空気を纏った櫛田。
いつもの始まる5秒前の雰囲気だ。
誰かが生唾を飲む音が聞こえた。
俺だっかもしれないし、佐倉や一之瀬だったかもしれない。
いや、もしかしたら…
「ねぇ、いい?」
たった4文字。
それだけなのに、一之瀬や佐倉のこともぶっ飛ぶように忘れさせる威力。
脳内が快感物質を絶え間なく流してしまっているのは、この先にある物を覚えてしまっているからだ。
櫛田の手が、俺のスラックスの染みの痕へと伸びた時にはもう、制御不能の劣情が全身を支配していた。
「櫛田、興奮しすぎだ。」
…そう俺じゃない。
これは叙述トリック。一人称を消しただけの初歩的なもの。
制御不能の劣情が体を巡っているのは目の前の彼女だった。
俺に触れてこようとした手を掴むと、それは異常なほどに熱を持っていた。
「人に淫キャだの女王だとビッチだの言っているが…」
「俺はお前よりエロい奴なんて知らない」
俺は至って冷静だった。
いつもの俺なら発情した櫛田に誘われるまま、劣情に体を任せていただろう。
だけど、今は違う。
佐倉は俺と櫛田に向けてスマホを持っていた。
どんなに魅惑的な状況でも、機械的なレンズが光る場所で興奮なんて出来ないように俺は出来ている。
ホワイトルームでの経験が櫛田の誘惑を跳ね除ける盾となったのだ。
「でも、悪いが一旦お預けだ。櫛田」
「………ぇ」
櫛田は急に会社からリストラ言い渡された幹部職のような顔に急変して、現実を受け入れられず言葉を失う。
まあ、それも仕方ない…。
彼女の誘いを断ったことなんて今まで一度もなかったのだ。
始まりはいつも彼女から。
卒業したのではなく、卒業させてもらった。
そういう意味では俺は本当の意味で童貞とやらを捨てられていないのかもしれない。
「…やだ」
俺は櫛田を女性的に好きという気持ちを行動で示し続けていた。
今の俺の選択はもし俺達が交際関係持っていたら、探偵に浮気調査を依頼する程度には不審なもの。
彼女にとって、俺が自分の体を愛してくれているという事実だけは揺るがないものだったのだ。
だが、それは揺らいでしまった。
「示せって言ったのはあんたでしょ」
「もう分かったから十分だ」
当然、俺が幼少期に魂に刻まれた仕様なんて櫛田は知るよしもなく、
彼女は今、自分の立場が他の誰かに置き換わってしまうかもしれないという危機感に襲われている。
「分かってない…。いつものように私を押し倒して、いつものように服を脱がせて、いつものように…」
「櫛田」
俺は櫛田があれやこれやを暴露し始める前にピシャリと言葉を止める。
「そのいつもはもう終わったんだ」
突き放すように告げた言葉に、櫛田は俺の目を見てそれが本気であるかを問いかけてくる。
無駄なことだ。
俺の中に答えなんてないのだから。
空っぽの箱をいくら覗いたところで空虚が帰ってくるだけ。
「…騙されてる」
「そうだな。騙されているかもしれない」
櫛田が示そうとした論拠は再現だった。
2000万の出処は南雲の謹慎処分と大きく関わっている。
その全貌は佐倉に持たせたスマホと俺を誘惑するような櫛田が全てだった。
「だけど、それなら俺だって騙していることになるんじゃないか?」
櫛田にとって、その答えは聞きたくなかったかもしれない。
腹の内をぶちまけあう俺達のような関係性を特別視していたから。
俺と一之瀬が騙し合う関係性の先に同じような物があると認められなかったのだ。
櫛田は文字通り膝から崩れ落ちて、虚ろな顔で問いかけてくる。
「…あんた、一之瀬さんのこと好きなの?」
櫛田の口から出るとは思えない、可愛いらしい質問だった。
ありきたりな理由を欲しがるのは納得できない自分の心を落ち着かせるためだ。
本当に困ったやつだ…。
少し拒絶しただけで、俺が櫛田ではなく、一之瀬を選んだと勘違いしている。
「かもしれないな」
俺達の行く末を見届けることしか出来なかった一之瀬の目が見開く。
櫛田は諦念にも近い表情で『やっぱり』と呟いた。
「だけど、それは櫛田を嫌いになる理由にはならないだろ」
非常識的で人倫に悖る発言を俺は堂々と言い放つ。
そして俺は腰を下げて、玉砕した後の欠片みたいになっている櫛田に続けて耳打ちした。
「悪いって言っただろ。俺にとっての櫛田との関係は簡単に他人に見せるほど安いものじゃない。」
「お預けって言っただろ。その時は必ず俺から誘う」
俺にとって櫛田は特別で必要なものだと伝えるのに言葉を尽くす。
それは本心でもあり、建前でもあった。
だがそれを櫛田は都合よく解釈してくれたようだ。
「…っ、あんた…分かりにくいっ!!」
急に顔をあげた櫛田の頭突きは俺の顎先にクリーンヒットした。
こいつなんで、攻撃手段頭突きしかないの?
突進しか使えないダンバルなの?
「いっ…。おい、舌を嚙んで死んでたらどうするつもりだ」
「は?知らないし。そこの○○○二毛作女にでも看病してもらえば?」
「まんっ…。」
死人に看病って慣用句にありそうだな…。そんな思考はすぐに消えた。
直接的な単語に驚き、佐倉が思わず復唱しかけたからだ。
編集のピー音とか伏字を台無しにするタイプだな、こいつ。
そして、いまだ何も言えない無表情のまま固まっていた一之瀬に櫛田は呆れたように言う。
「はあ。ここまで私に暴露されておいて、まだだんまり?言いにくいなら私が全部言おうか?」
『少々の脚色と齟齬があるかもしれないけど』と付け加えて櫛田はきゃっきゃっと笑う。切り替えはやすぎだろ。
そして絶対、少々じゃない。それに卑猥な単語を物ともせずに言える櫛田の説明なんて聞けたもんじゃないだろう。
「わ、私が言うからっ。く、櫛田さんは黙っててくれない?」
強い口調が慣れていない感が丸出しだが、一之瀬が今日初めて櫛田に反撃した。
だが、その妹をしかるような言葉では百戦錬磨の櫛田は止まらない。
「なら、さっさと言ってよ。3~2~1~」
歯切れの悪い一之瀬に向かって、櫛田の無慈悲なカウントダウンが始まった。
だがそれは意外にも有効で、踏ん切りがつかなかった彼女の背中の最後の一押しとなった。
「わ、私、処女じゃないのっ!!」
いきなり別角度から右ストレートで殴られたようなCOだった。
てっきり、ハニトラで南雲を騙したとか、そういう2000万pptを汚い手段で得た経緯を語るものとばかり思っていた。
だが、当の本人は胸のつかえがやっと吐き出せたような表情。
まるで、美少女Vtuberが中身は実は男でしたと明かした時のようだ。
そういえば、櫛田の能力は…。
「私、今日、ほんとはそれを綾小路君で上書きしてもらおうと…」
彼女のCOに対しての思考が纏まらないうちに、さらなる追撃がやってくる。
さっきのCOがどうでもよくなるくらいヤバい事を口走っている自覚がないのか!?こいつ…。
…え?女の上書き保存ってそういうこと!?
「糞ビッチ」
俺が脳内の辞書をアップデートしていると、櫛田の暴言は原初に還った。
だが、今度のその言葉はすっぽりとハマってしまった。
「いいんじゃないか?処女じゃなくても」
「…えっ、いいの?」
「え、あんた処女厨じゃないの?」
櫛田、それはこの前きっぱり否定したはずだが…。
まさか、これでこいつは騙されているだどうのこうの言ってたわけか。
目の前のお前に童貞を奪われている俺が人の貞操をとやかく言えるわけもないだろうに。
「まあ、あんたも私で童貞捨ててるもんね」
言っちゃうのかよ。それ…。
「…やっぱり櫛田さんと綾小路君、そういう関係だったんだ。櫛田さんがいつもと様子違うのは、彼氏を守るためだったんだね…」
「確信を得たなら、大人しく身を引いてね?私の彼氏に手を出さないでねっ?」
「いや、付き合ってないだろ。虚言癖の彼女は嫌だよ。」
「えぇっ。じゃあ、どういう関係なの…?」
どういう関係かを聞かれれば答えずらい。
俺達の関係を世間一般で言えばセフレなんだろうが、馬鹿正直に一之瀬に言うのは憚られる。
どう伝えるべきか…
そう思案していると、櫛田は代わりに答えをだした。
「初めての関係かな」
「意味深がすぎるだろ…」
「そ、それって…」
「ご察しの通りだよ。エロ之瀬さん。」
駄目だ、俺の言葉なんか聞いちゃいない。
櫛田は武勇伝を語るように俺との逢瀬を自慢し始める。それ、切実に辞めて欲しい。
しかし、猥談で盛り上がる2人を止めることは、寝不足の俺には役不足だった。
途方に暮れている中、不意にシャツの袖を引かれて振り向くと顔を赤らめた佐倉がいた。
「わ、私はその…まだ、だよ?」
でしょうねっ!!!
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あの後すぐ、一之瀬と佐倉にはお帰り頂いた。
俺が誘うとかお預けとか言ったからだろう。
二人きりになった途端にそわそわし始めた櫛田を視界から追い出して、壁を見つめながら俺は速攻で寝た。
睡眠欲が性欲に勝った瞬間だった。
この場の敗北者は櫛田だけだ。
下半身が心臓である男子高校生の看板に泥を塗ってしまったが、不名誉だとは思わなかった。
据え膳食わぬは男の恥なんて言葉は人間の格を落とす言葉だ。
ドックフードを前にした犬でも、欲望を制御出来るというのに。
朝早くに起きると、隣で櫛田がこっちを向いて寝ていた。
同棲するとなれば、当然ベットは一つしかないわけで。
シングルベットで二人で寝ることよりも床で寝ることに対しての抵抗が強い俺達となれば行き着く先は決まっていた。
問題があるとすれば…
「…こいつ、なんで下着姿なんだよ」
一つ悪態をついて、俺はするりとベットから抜け出す。
事後に恥ずかしいからと言ってすぐに服を着てた女と同一人物だとは俄かには信じがたかった。
身支度を整えて、俺は部屋を颯爽と後にした。
太陽も出ていないこんな朝に学校に向かっている理由は一つだ。
「星之宮先生はいらっしゃいますか?」
人気の少ない静かな職員室にその声はよく響いた。
職員室で化粧をしている星之宮先生がそれに気付いたようで大仰に手招きしてくる。
化粧くらい家でやってこいよ…と思う俺は女心を分かっていないのだろうか。
そんな内心を抱えたまま、俺は職員室に足を踏み入れて彼女の元へ向かう。
「おはよっ。こんな朝早くに珍しいね、どうしたの?」
今の時間帯、部活動によほど意欲的な生徒くらいしか校内にはいない。
部活動に入っていない俺がこの場にいるのは確かに不自然だろう。
「大事な話があるんです」
「…え、私に?」
口紅で自分の顔を指して、問いかけてくる星之宮先生はどこか大人らしさを帯びていた。
濃い色の口紅がそうさせているのかもしれない。
「はい」
「なに、なに~?ついに愛の告白?うわあ、どうしよっかな~」
仮にそうだとして、迷う余地があるのかよ…。
生徒と教師の関係だぞ。
「なに、心配そうな顔してんの~。心配しなくても…」
「私、今、勤務時間外だよ?…なーんちゃって」
なーんちゃってじゃねぇよ。
教師が教え子に手を出す時は大体勤務時間外なんだよ…。
何の理由にもなっていない。
「星之宮先生。その口紅、何重に塗るつもりですか?」
「…分かってないなあ。口紅は塗れば塗るほどいいんだよ?」
「初耳ですね。クラスの女子に星之宮先生がそう言っていたと聞いてみます」
「ウソ、ウソ、冗談じゃない~。そんなことしたら、クラスが文化祭のお化け役に溢れかえっちゃうよ~。」
よく分からない例えだった。何せ、文化祭なんて未経験だ。
星之宮先生は厚すぎる口紅をハンカチで拭っていく。
「ふふ、お洒落は引き算。聞いたことない?」
ハンカチで押さえつけるように拭った口紅は、自然な薄さになっていた。
正直、普通につけているのと何が違うのか理解が出来なかったが、女心が理解できないと思われるのも癪なのでそれっぽい顔を浮かべておく。
「ねぇねぇ、見て〜。私のキスマーク」
お茶を口に含んでいたら十中八九吹き出していた。
唇の跡が白いハンカチについていて生々しいにも程がある。
何よりも、俺の首筋に残るひよりの跡を思い出してしまったからだ。
そんな俺の動揺を気取ったのか星野宮先生は意地悪く笑う。
「…もしかして、興奮した?」
「してないです」
「ほんとに?確認していい?」
「もし、自分に指一本でも触れたらセクハラで訴えます」
この人が聖職者?
『せい』の漢字間違えてるんじゃないのか?
「もう、ツレないな〜」
釣れないの意味ともかかってる気がした。
「しかも、今からの話もツレない話なんでしょ?」
この先生はどこまで把握してるんだろうか。
一之瀬の行動。2000万もの大金の送金記録。
全てを知っているなら俺のツレない話の中身も想像がつくだろう。
「場所変えよっか」
「お願いします」
「うーんどこがいいかな〜。女子トイレか女子更衣室か教員用女子トイレか…」
女子トイレと教員用女子トイレを分けているのが何となくそこはかとなく気持ち悪かった。
「俺はジェンダーレスの時代を利用して、男なのに女風呂へ行くような犯罪紛いな真似はしませんよ」
「あはは。猛烈な社会風刺だね〜。確かに女風呂に男子小学生とかいると襲っちゃいたくなるもんねー。あれはよくない」
遠回しなショタコンCOやめてね…。
それは冗談じゃ済まないから。あと、俺が例え話と微妙にズレてるし…。
「よし、ここで話そっか」
「ここですか?」
連れてこられたのは、生徒指導室でも空き教室でもなかった。
人気のない特別棟の廊下の十字路のど真ん中。
いや、ないのは人気だけじゃ…
「気付いた?ここ、監視カメラの死角になってるんだよ?」
「監視体制が厳しいのか緩いのか分かりませんね、この学校」
「ふふ、若いね~。わざと穴を作ってるんだよ」
一体何のためにと聞いても教えてはくれないだろう。
ホワイトルーム出身としては、この学校の監視はないのも同然だ。
その証拠に俺はこんなにも好き勝手出来ている。
「あれ、どうしたの、黙っちゃって…。あっ、もしかして穴って聞いて興奮…」
「してないです。小学生じゃないんですから」
この人は隙あらばこの軽いノリをぶち込んでくる。
…ぶち込むも多分、揚げ足取りの対象だ。くそ、話しにくい。
「小学生?ふふ、やっぱり若いね。それは子供から大人まで皆大好きだよ。隠してるだけで。」
実体験がベースにあるような妙な説得力。
俺と彼女では積んできた人生経験の種類がまるで違う。
「なら、先生も隠してください。品がないですよ」
「ひっど~い。綾小路君、佐枝ちゃんみたいなムッツリが上品だと思ってない?」
「言い方はあれですけど、実際そうでしょう」
「ぜっんぜん分かってないっ!!女子からすれば明け透けな方がまだマシだから!!性欲あるくせにひた隠しにするから、レス問題とか起こるわけ!!分かる!?」
分からない。ぜっんぜん分からない!!
だけど、教師が高校生相手にする話ではないことだけは分かる。
「ヤりたいならヤりたいって顔しろ!!可愛いとかエロいって感じたらすぐ言え!!心の中で自己完結してんじゃねえ!!」
実感のこもった悲痛な叫びが特別棟にだけ響く。
ほんと、この人は教師の鏡だ。
絶対にこんな大人になりたくない。
「ここまで言ってもその反応っ!?」
「今のに、どう反応しろって言うんですか。」
「…綾小路君。女の子にリードされるタイプでしょ」
今までの言葉は何も響かなかったのに、それはグサりと俺の胸を刺した。
「図星~。ダメだよ~。女の子はいつだって、男の子から来てくれるのを待ってるんだから」
「…待ってばかりいるから、茶柱先生も星之宮先生も独身なんじゃないですかね」
「ん?何か言ったかな?」
「いえ、何でもございません。すいません」
禁句を口にしてしまったようだ。どこまでも伸びてくるような笑顔が怖い。
それに、この二人が結婚できないのは、待つとか以前に性格が大きく起因しているしお門違いだったな。
うん。ごめんなさい。心の中で謝罪を重ねておいた。
「そろそろ、本題に入っても?」
「え~、さっきも言ったけど、私、勤務時間外だよ~。生徒からの重たい相談なんか聞きたくない~。」
教師あるまじき台詞だが、心の中では皆そう思っているんだろう。
口にしないだけで。
「あれ、俺、重い相談なんて言いましたっけ?ツレないとは…」
言葉の途中で星之宮先生は俺の頭を掴み、強引に自分の胸に引き寄せる。
下着の固い感触とともに、柔らかい脂肪に沈んでいく。
「ダメだよ。綾小路君。一之瀬さんは…。一之瀬さんだけは渡せない」
自分の胸に俺の顔が沈んでいることなんて、彼女からしたら些末な事らしい。
俺の耳に届いた言葉だけが、彼女の感情を表していた。
『もう、手遅れです』と反論しようとしてすぐに気づく。
自分にとって都合の悪い言葉を言わせないために、彼女がこんな真似をしていることに。
「綾小路君。よく考えて。一之瀬さんをDクラスに引き込むことが本当に正しいのかを。」
彼女は言葉にしないが、それは俺がBクラスへと移動する可能性を示唆している。
一之瀬をDクラスに引き込んだ場合、Bクラスのクラスメイト達と一之瀬の溝は修復不可能なものになると星之宮先生は知っているのだ。
だが、そんなことを知っているのは俺も一之瀬も同じ。
違いは未練があるかないかだ。
俺は意外にも力強い星之宮先生の拘束から抜け出す。
「大貧民と大富豪の差は手札のカードの違いでしかありません」
「星之宮先生。これは下剋上ですよ」
入学したての頃、職員室で聞いた彼女が茶柱先生に言った台詞。
その時から、俺はBクラスがどん底に堕ちた時、彼女がどんな表情を浮かべるのか気になっていた。
でなければ、わざわざ朝早くに起きて彼女の元になんか訪れない。
「…やっぱり、綾小路君はすっかり佐枝ちゃん派だったかぁ」
「俺は無派閥無宗教の典型的な日本人ですよ」
「噓ばっかり。佐枝ちゃんの胸でしょ?胸がいいんでしょ」
「そればっかりですね。しかも、それなら星之宮先生も負けていないでしょう」
「まあね、なんなら私の方が大きいし…」
相当自信があるのはいいが、わざわざこれ見よがしに持ち上げないでほしい。
「これだけじゃないのになぁ。佐枝ちゃんに負けているとこなんて私にはないと思わない?」
「性格じゃないですか?」
「ぷっ。綾小路君、それは面白すぎだよ。」
「性格の悪さであの子に勝てる子なんていないよ」
どこか遠くを見ながら言ったその言葉は、一之瀬の時とは真逆で、感情が一切こもっていなかった。
一切の情状酌量の余地はなく、判決を言い渡す裁判長の声のような冷たさだけあった。
「強いて言うなら、俺が茶柱先生につく理由は、茶柱先生が俺を必要としているからですかね」
「それは、一之瀬さんのためなんかじゃなく私のために、綾小路君にはBクラスに来て欲しいっていえばワンチャンあったってことかな?」
「はい。内容次第ですが」
「なるほどね~。佐枝ちゃん、そんなことまで君に言ってるんだ。で、君がそれを今更言ったのは?」
正直に言えば、星之宮先生の本音を聞いたら何となく言いたくなったからだ。
けれど俺はそれを口にせず、冷淡に振る舞って告げる。
「もう、ノーチャンだからですよ。星之宮先生、2000万ptで好きなクラスに移動するチケット売ってください」
「やっぱり…綾小路君は茶柱先生の教え子だね」
「まあ、それは事実ですけど含みを感じますね」
「ふんっ、佐枝ちゃんに似て性格悪くて捻くれててムッツリスケベだなんてこれっぽっちも思ってないんだからねっ」
29歳のツンデレは目に毒だった。
これでもかと皮肉をブツブツと並べながらも、星之宮先生はマニュアル通り処理を進める。
そして、俺の元に2020万ptの送金リクエストが届いた。
「あの、20万pt高くないですか?」
「私のおっぱい、タダだと思ってたの?」
「いや、あれは星之宮先生が…」
「ムッツリスケベ君。それで済んでいるうちに引いたほうが賢明だと思うなぁ~」
…ばれている。俺がいつでも抵抗できる状況だったのに抵抗しなかったことが。
…流されるまま、あの豊満な胸を堪能していたことが。
ここでゴネるのは、ラブホについていった癖に後からその気はなかったと言う女の子みたいなもんだ。
…その比喩が頭に浮かんだとき、もしかしたら、この人は一之瀬の思惑も全て把握していたのではと思った。
俺はそのたらればを振り払って、2020万ptをきっちり支払った。
「ほんと、ずるいよ…」
彼女の静寂に飲まれて消え入りそうな声を俺の無駄に性能がいい耳が辛うじて捕えてしまう。
「じゃあね、綾小路君。後は若いお二人で~」
邪推が激しい近所のおばさんが言いそうな言葉を残して、星之宮先生は去っていった。
そして、俺は耳に残った消え入る声にもしかしてと思い、スマホで検索する。
(…やっぱり)
一之瀬の2000万に自分の20万を足した理由。
「2020」のエンジェルナンバー。
それは夢に向かって努力するあなたを、天使が見守っているというメッセージ。
もう星之宮先生は勝負から降りていることを確信した。
作中では明確には表現していませんが、2000万ptの流れはこんな感じ。
一之瀬は南雲の女癖の悪さを見抜き、そこに付け込みます。
まんまと一之瀬の好意を仄めかす態度に籠絡された南雲は手を出してしまう。
(南雲の女癖の悪さは朝比奈先輩のカラオケ談でも既出)
一之瀬は南雲の部屋に誘われたときにその一部始終を目を盗んで撮影し、それを武器に2000万ptを交渉。
彼女がここまで体を張ることを決意したのは、体育祭のあれよりも前。
南雲に自分の過去を打ち明けた瞬間から、体育祭での龍園による暴露まで全て彼女が仕組んだ想定です。
そして、彼女の原動力は、綾小路と同じクラスになるその一点のみ。
原作同様。彼女の重すぎる愛情を表現した仕上がりになっています。
ベーカリーの紹介みたいな文章で今回は終わりです。ではまた