魔剣凄春譚   作:桜餅

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第一話 壬生狼、凄春の地に立つ!

 

 

 

 

 

 

 

 雨が降っていた。

 

 

 しとしと、のようにも、さあさあ、のようにも聞こえる、小刻みな雨であった。

 天から降るそのような漣のなかを、鬼方カヨコは進んでいた。

 穏やかな歩調とは反対に、右手に握った透明色の傘を時折見上げる眼差しは、濃い憂いに濡れている。それが、低い気圧によって生じた鈍い頭痛に根差している事は、少女自身も深く理解していた。底から浸透した雨水のせいで、靴下はとっくに濡れそぼっている。愉快か不愉快かで謂えば、間違いなくいまのカヨコは不愉快であった。

 しかし、それで引き返す事も、何処かで雨を凌ぐ事も選ばず、淡々と歩を進めてゆく。

 少女のなかに強い意志がある事は、もはや疑う余地もないだろう。

 

「……」

 

 やがてカヨコの足は、一つの路地裏を前にして立ち止まった。

 薄汚れた路地裏である。壁に描かれた無軌道な落書きの群れと、地面に転がった空瓶や空き缶の数々。悪天候も相俟って、近寄り難い空気がこれでもかと放たれている。

 カヨコは、躊躇なく踏み込んだ。

 入ってすぐさま腰を屈ませたのは、銃弾を警戒したからではない。

 地面に置かれた小ぶりな箱──簡素な家としての役割を持ったダンボールにこそ、用があった為である。

 

「出ておいで」

 

 箱に声をかけながら、彼女はもう片方の手に提げていた袋から缶詰を取り出した。猫用のツナ缶である。

 濡れてしまわぬように傘を肩に預け、プルタブを引き開ける。

 その軽い音に釣られたか、入り口の風体をしている四角から、まだ子供と思しき三毛猫が恐る恐ると顔を覗かせた。

 

「ほら、持ってきたから。食べな」

 

 ツナ缶を地面に置き、指で子猫の目前まで押し出す。

 子猫はまだ警戒を解かない。上半身だけを箱から出して、すんすんと鼻を動かしている。だが、缶詰から漂う匂いに気付くと、慌てるようにツナのなかに顔を突っ込んだ。

 

「あんたしかいないんだから、誰も取ったりしないよ」

 

 呆れながら、カヨコはペットボトルを開けると、裏返したキャップのなかに水を注いでいく。

 それを缶の横に置くと、またも子猫は舌を突っ込んで、忙しげな音を奏で始める。

 

「まったくもう……少しぐらい人の話を聞いたら?」

 

 口では苦言を呈しつつも、少女の顔に苛立ちは見られない。むしろ何処までも暖かな柔和さが、爛漫と咲き誇るばかりであった。

 鬼方カヨコがこの路地裏で野良猫と出逢いを果たしたのは、つい先月の事である。

 そこから、毎日とはいかずとも、空いた時間があれば様子を見に行ったり、餌を差し入れに行ったりしている。自分でも不思議に思うほど、カヨコはこの小さな三毛猫に肩入れしていた。

 何者にも縛られず、何物にも囚われず。そのような在り方が、いまの自分と通じているように思えたからである。

 けれど、カヨコは人間であるゆえに、一人でいる寂しさを知っている。だから、時折こうして子猫の傍らで羽を休めた。それは同情などではなく、自己満足の為であった。そうである事を、誰よりもカヨコ自身が望んでいた。

 そうして物思いに耽っているうちに、食事を終えたらしい。ごろごろと喉を鳴らしながら、足に頭を擦り付ける子猫の姿があった。

 

「現金なヤツ」

 

 たまらず微笑が零れた。カヨコが裡から溢れ出ようとしている衝動のままに、子猫の頭を撫で摩ろうとする。

 

「もし、そこの乙女」

 

 その手を、男の低い声が止めた。

 雨のなかにあってよく通る、涼やかな声であった。音色は軽やかで、警戒心というものを知らない風に見える。

 しかし、鬼方カヨコにとっては違う。子猫を咄嗟に抱きかかえ、声がした方向に稲妻の速度を持って銃を向けた。

 そこにいたのは、キヴォトスでは見受けられぬ格好をした男であった。

 浅葱色の羽織を、合羽のように広げて頭に被っている。しばらく雨に当たっていたのか、その色は酷く重たげである。肩に立て掛けている長い棒状の物は、傘かなにかと思ったが、よく見ると持ち手に奇妙な装飾が施されていた。

 羽織の下にちらちらと見える身体は、肋骨が浮いて見えた。手足の長さもある為か、男のそれにしては、些か不安になる細さであった。

 しかし、それは不健康な細さなどではなく、ある強い意志を持って研ぎ澄まされた末に産まれる細さだと、カヨコは自然に理解した。

 

「そう熱く見つめられると照れるなァ。わたしはそんなに美味しそうですか」

「……アンタ、何者?」

 

 指摘されて初めて男の身体に魅入っていた事に気付き、カヨコは羞恥に顔を染める。それでも銃を持つ手は揺らぎない。ぐっ、と眉間に皴を寄せれば、たちまち元通りになった。

 少女が浮かべた文字通り鬼のような形相にも、男は動じず、警戒を緩ませるように軽やかな笑みを浮かべた。

 

「沖田です。沖田総司。当方、よんどころなき事情により、難儀していまして」

「……」

 

 おきた、ソウジ。

 カヨコの脳は男の名を聞いて、直ぐに記憶の抽斗を漁り始めた。

 元より物覚えは良い性質である。抽斗の隅から隅まで調べて、まるで聞いた事の無い名前であるとの結論が差し出され、単なる濡れ鼠であるという判定が下るまでに、五秒もかからなかった。

 

「──残念だけど、人間にまで餌はやってないよ。お腹が減ってるなら、ヴァルキューレにお世話になったら?」

「そーできれば幸いなんですが、そのゔぁる何某には頼れない身の上なんだなァ、わたしは。はは、これ前にも言ったんスけど。

 それはさておき」

 

 男は言葉を切ると、肩に乗せていた傘らしき棒をすっと動かした。

 

「これを売って、着物か履物か──それから大福かなんかに替えてもらいたいんだ」

 

 棒に押されてカヨコの目の前まで滑らされたのは、金属製の板だった。

 出っ張り部分が極端に太い、十字木瓜形のそれこそは、まさしく魔刀菊一文字則宗の鍔である。

 しかし、カヨコに刀剣に関する知識は皆無だった。何故ならキヴォトスは学生の都市であり、同時に銃の都市であったからだ。

 なのでカヨコは、差し出された鍔をただの板だと判断した。もしくは、売れない骨董品かなにかだと。どちらにせよ、無用の長物であることに違いは無い。

 

「──」

「ダメですか」

「ダメも、なにも」

 

 問答を交わす片手間に、カヨコの手は、ポケットに突っ込まれている。

 直ちに通報を行い、然るべき処置を然るべき機関に取ってもらうべく、携帯を取り出す為であった。

 そして既に、携帯の感触は指先に当たっている。

 後は引き抜くだけで事は済む。済むというのに、カヨコの手は石のように固まって動かなかった。ソウジと名乗る男から時折感じる、抜き身の刃物のような気配が、そうすることを躊躇わせていたからである。

 動きたくとも、動けない。

 そのような膠着状態に陥って、抱いていた筈の子猫が何処にもいなくなっている事に、ようやく気が付いた。

 

「……!?」

 

 慌てて周囲を見回すが、それらしき姿は見当たらない。焦燥を感じ始めたその時、にぃ、と甘えるような鳴き声がすぐ近くから響いた。

 子猫は、男の傍らにいた。

 気持ち良さそうに目を瞑って、濡れるのも厭わずに、すりすりと顔を擦り付けている。

 

「あらら。とうとう猫にまで慰められるなんて、土方さんに見られたら大事も大事だ。それとも、あんたが責任取ってくれます?」

 

 困ったように頬を掻く男に、子猫がにぃ、と応える。

 

「参ったなァ。にぃじゃ全然わかりませんよ、にぃじゃ。やっぱり一人で怒られろって? ヤだなー」

「……」

 

 男はまるで、本当に猫と会話しているかのように、自然体で喋っている。その姿に、カヨコはあっという間に毒気を抜かれた。

 警戒を完全に解いた訳ではない。だが、銃口を突きつけられているにも関わらず、あまりにも開けっ広げな男の姿勢に、身構えている事がどうにも馬鹿らしく思えてきたのである。

 

「はあ……」

 

 カヨコは溜め息を吐きながら、携帯で時刻を見る。この時間。走りさえすれば、他の三人がまだ依頼を遂行している途中までに、事務所へ着く筈である。便利屋68が居を構えている今回の事務所は、幸か不幸かシャワールームが備え付けられてあった。

 ちら、と男を見た。男はカヨコの事など忘れたかのように、かりかりかり、と子猫の喉などを掻いてやっている。楽し気である。

 矢張り捨て置くべきかと一瞬思案しかけたが、結局のところ、鬼方カヨコは何処までも甘い少女であった。

 

「……少し走るけど、それでも良いなら」

「あざます!」

 

 子猫をダンボール箱に戻してから、カヨコは小走りに駆け出した。二、三秒してから、男が着いてくる。

 未だ止む気配を見せない雨が、歩調も歩幅もバラバラな足音を上書きしていく。

 瞬く間に隣に並んできた沖田が、ふと思いついたように尋ねてきた。

 

「そーいえば、まだ御名前を窺ってませんでしたね!」

「──カヨコ。鬼方、カヨコ」

「……鬼?」

 

 カヨコの苗字を聞いた沖田は、きょとん、と目を見開くと、それからアハハと大声で笑い出した。眦には涙まで浮かんでいる。

 苗字を笑われて気分が良くなる人間などいない。目つきの鋭さを、数段飛ばしで強くするカヨコに対して、沖田は指で涙を拭いながら弁明し始めた。

 

「いや、申し訳ございません。

 実はね、此処に来てからずうっと、わたしが呼ばれた理由を考えていたんですが。一番物騒なヤツがどうやら消えたようでして。それがどうにも、可笑しかったんです」

「……呼ばれた、理由?」

 

 沖田はええ、と頷くと、悪童のように無邪気な笑みを零した。

 

「──割の合わない、隠密の鬼退治です」

 

 

 

 

 

 

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