やはり仮想現実でも俺の青春ラブコメはまちがっている。   作:鮑旭

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第29話 死域

 これほど気持ちの高ぶりを感じるのは、いつ以来だろう。

 危機的状況を前に、場違いにもフィリアはそんなことを考えていた。

 彼と共に、命を懸けた戦いをしている――その事実が、フィリアに酩酊にも似た高揚をもたらした。しかし、この場を託してくれた彼の信頼に応えるためにも、逸る心を必死に諌める。浮ついた気持ちで乗り切れるような局面ではなかった。

 

 キリト、アスナ、そして――ハチ。

 フィリアは以前から、同世代でありながらアインクラッドの最前線で日々戦う彼らに憧れにも近い感情を抱いていた。その中でもとりわけハチはフィリアの愛読書『Hachiという漢』の主人公であり、好意を抱くなという方が無理があった。

 このダンジョンで彼らと出会った時、実を言うとフィリアは心臓が飛び出るのではないかというほど驚愕していたのだ。しかしあまりミーハーな反応をしてしまうと彼らに嫌がられるのではないかと考え、なるべく何でもないように振る舞ったのだった。

 パーティに誘われた時など、本当は天にも昇る気分だった。自然と緩んでしまう頬を悟られないようにするのが大変だったほどだ。

 それでもフィリアは心の中で自分のことを必死に諌め続けた。自分が彼らに抱いている人物像は、自分が勝手に伝聞から作り上げたものだ。それを独りよがりにも本人に押し付けることはとても失礼なことだと思ったし、ハチが小説に書かれた通りの人物であるのなら、その行為を酷く嫌うはずである。だからフィリアは先入観に囚われないように努めていたのだった。

 

 しかし、結果から言えばそんなフィリアの努力は徒労に終わった。

 彼らの振る舞い、言動、実力、その全てがフィリアの期待していた通り、いやむしろそれ以上だった。アスナは意外と気さくで話しやすく、キリトは性根が真っ直ぐすぎるほど真っ直ぐで、そしてハチはやっぱり卑屈で捻くれていて――それでいて、心根はどこまでも優しい少年だった。

 

 彼に惹かれているという自覚はあった。だが、最前線で命を懸けて戦っている彼らの間に、自分が入り込む余地はないということもよくわかっていた。だからせめてこの場だけでも彼の力になれたらいいと、フィリアはそう思っていた。

 

 恐怖は、ある。そもそもフィリアは本来もっと臆病で引っ込み思案な女の子だった。だが、今ここにいるのはそんなか弱い女の子ではない。

 いつか見た、アニメの登場人物。どんな状況でも取り乱さず、ニヒルな笑みを浮かべながら危機を乗り越えてゆくトレジャーハンター。このSAOの世界でなら、自分もそんな憧れの存在に近づける。

 現実世界の何も出来ない女の子ではなく、今の自分はSAOのフィリアだ――彼女はそう自分に言い聞かせる。それは自分に酔っている、と言えるのかもしれない。それを自覚しつつも、しかしフィリアはそれでも良いと思っていた。それで彼の力になれるのだから。

 

 荒い息を整えながら、フィリアは相対する敵をよく観察する。

 スケルトン・キャプテンロバーツ――海賊の財宝が隠されているとされるこの洞窟で船長(キャプテン)の名を冠するのだから、間違いなくボスモンスターに当たるはずだ。当然、フィリア1人では荷が勝ちすぎる相手だった。

 無理にダメージを与える必要はない。タゲを取りながら、少しでも時間を稼ぐ。格上の敵を前に、フィリアは全神経をそれだけに集中していた。

 

 近づけば右手のタルワールで、離れれば左手の拳銃で攻撃を仕掛けてくる。常に気を抜くことは出来ない。

 幸い拳銃は1発撃つごとに装填が必要なタイプで、連射はきかないようだった。撃った後はあらかじめ用意しておいた新しいものに持ち替えているので、もしかしたらどこかで打ち止めになるかもしれないという希望もあった。

 銃口の向きからおおよその弾道を予測するのは難しくない。だから近づいてタルワールを捌くよりも遠巻きに拳銃を警戒する方が楽だ。大部屋の中央で戦っているハチにタゲが向かないように隙を見ては投擲スキルでチクチクと攻撃しながら、常にある程度の距離を取って戦う。ハチは大部屋を駆け回って上手くタゲを管理しているようで、フィリアに向かってくる他のモブはまだ一体もいなかった。ただ、詳しい戦況は分からない。気にしている余裕がないのだ。ボスから目を離した瞬間に銃弾が飛んで来ないとも限らない。

 

 距離を詰めてくるボスの剣戟を捌き、バックステップで再び距離を取る。度々撃ってくる拳銃の弾を、弾道を予測して何とか避ける。ひたすらにそれだけを繰り返しながら、ただ時を待った。

 なんとか致命傷は避けられているが、それでも完全に攻撃を回避出来るわけではない。ここまでの攻防で、5つ用意してあった回復結晶(ヒールクリスタル)は既に残り1つになっていた。

 

 あとどれだけ時間を稼げばいい。自分はあとどれだけ耐えられる。

 焦りが、胸中に広がってゆく。だがフィリアは、自分の選択を後悔するようなことだけはしないようにと心を強く持った。

 

 遠巻きにこちらを伺っていたボスが再び急接近する。咄嗟に短剣を合わせるが、勢いに乗ったタルワールの一撃は捌き切ることが出来ず、フィリアは後方へと大きく吹き飛ばされた。地面を転がりながらも何とか体勢を整え、追撃に備えようと顔を上げた瞬間乾いた発砲音が鳴り響く。

 銃口から立ち上る硝煙。銃弾はフィリアの胸部を貫き、HPは一気に半分ほども削られた。フィリアは迷わずに回復結晶(ヒールクリスタル)を使い、瞬時にHPを全回復させる。

 ここからが正念場だ。フィリアは自分にそう言い聞かせ、気合いを入れる。

 

 対するボスはこれまでと同じように使用した拳銃を放り投げ、新しい拳銃を求めて腰元を探る。しかしどうやらもう打ち止めらしく、苛立った様子で再び掲げた左手には何も持っていなかった。

 これでもう遠距離攻撃はない――そう安堵したのもつかの間、ボスは雄叫びを上げながら左手を頭上へと掲げる。それに呼応するように、地面から無数の骸骨たちが這いずるようにして出現した。

 その光景に一瞬ぎょっとしたフィリアだったが、すぐに冷静になる。ランクの高いモンスターではない。ここまでに散々見かけたスケルトンクルーだ。ボスにもう遠距離攻撃がないのであれば彼らを壁に使うことも出来るので、時間を稼ぐことだけを考えればむしろ好都合である。しかし生み出されたスケルトンクルーたちはフィリアの予想外の行動に出たのだった。

 地面に点々と散らばる拳銃。ボスが今まで投げ捨てていたそれを拾い、何やら作業を始めたのだ。空になった拳銃に弾を装填しているのだと気付いたフィリアは慌ててそれを止めようとしたが、2体のスケルトンクルーを倒すのが精一杯だった。

 数体のスケルトンクルーが、装填を終えた拳銃をボスへと手渡す。それを受け取ったボスは腰のホルスターへとそれを仕舞い、残った一丁を手に取った。

 

 振り出しに戻された――いや、スケルトンクルーが8体追加である。そして用意してあった回復結晶(ヒールクリスタル)は既に底をついている。その状況にフィリアは息を呑みながら短剣を構え直した。

 細かいことを考えるのは、もう止めだ。あとは全力で戦うしかない。そう腹を括ったフィリアは先手を打つべく先頭に立つスケルトンクルーへと踊り掛かった。

 突き、斬り、足元を蹴り払って転倒させる。囲まれる前に大きく下がりながら、ナイフを投擲。ボスの射撃を地に臥せって回避しつつ、再びスケルトンクルーの群れへと突っ込む。もはやフィリアに恐怖はなく、思うがままに剣を振るうだけだった。

 

 生きている。私は今、生きている。戦っている。生きるために戦っている。

 そう叫びたくなるような衝動が、体を駆け巡っていた。

 

 一手でも選択を誤れば、形勢は一気に敵へと傾くだろう。そんな綱渡りのような攻防を続けながら、何とか1体、2体とスケルトンクルーを屠っていく。HPにはまだ余裕があった。だが、極限状態での集中力はそう長くは続かなかった。

 振り下ろされる、眼前の刃。受けるべきか、避けるべきか――そんなミスとも言えないような一瞬の逡巡が、致命的な隙になった。

 一拍、反応が遅れた。そこを狙ってここぞとばかりにスケルトンクルーたちが攻撃を畳みかける。捌き切れない。そう悟った刹那、フィリアの目が捉えたのは振り上げられたボスのタルワールだった。

 胸部に走る衝撃と共に、大きく後方へと跳ね飛ばされる。受け身も取れずに転げまわり、そのまま岩壁へと衝突した。視界の端のHPバーが赤く点っているのを確認したのも束の間、左手に拳銃を構えるボスモンスターと視線が交わった。

 避けられない。その瞬間、フィリアは時が止まったかのような錯覚を覚えた。

 

 ――楽しかったな。

 

 何故か酷く緩慢に映る世界の中、頭に過ったのは場違いにもそんな感情。フィリアは存外に穏やかな心境で、ゆっくりと目を閉じる。

 次の瞬間、洞窟内に渇いた銃声が鳴り響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何か壁を1枚、越えたような感覚があった。

 

 視界を埋め尽くすほどのモブの軍勢。それを少しでも早く殲滅するために、俺は我武者羅に槍を振るった。

 5合、6合、武器を合わせてから、生じた隙を突く。それが俺の戦闘のリズムだった。凡庸な俺にふさわしい保守的な戦い方だ。それはそれで使いどころはあるのだが、しかし今は状況がそれを許さなかった。

 今求められるのは、もっと強引な攻めだ。相手の動きを見極め、大胆に踏み込んで一気に押し切る――思い描くのは、キリトの動きである。

 槍を短く構え、波のように押し寄せる攻撃を掻い潜って懐から敵を突き崩す。そんな俺の立ち回りは理想(キリト)とは程遠いものであったが、この場ではステータスにものを言わせてごり押すことが出来た。槍を疾らせ、1体2体と順調にモブを屠ってゆく。しかし当然、消耗も激しかった。

 普段の狩りとは、わけが違う。数十体のモブを相手に、休むことなく全力で攻め続けなければならないのだ。

 目まぐるしい動きと慣れない立ち回りに、自然と息が上がる。人間の全力運動とは本来、数秒しか持たないものだ。この仮想世界には肉体的疲労がないとは言え、やはり精神にもそれに準じた限界があった。むしろ肉体というリミッターがない分、脳に掛かる負担は現実世界の比ではない。

 体が重い。息が苦しい。そんな思いを捻じ伏せて、槍を振るう。しかし確かに限界は迫りつつあった。

 

 倒したモブの数は10を超えたあたりから数えるのをやめたが、敵の軍勢はだいたい最初の半数ほどにまで減っていた。ここまで時間にして20分弱。ペースとしてはそこまで悪くない。しかし、もはや体は鉛のように重く感じていた。

 

 突き、薙ぎ払い、踏み込んでソードスキルを放つ。技後の硬直から立ち直った瞬間にまた駆け回る。スケルトンクルーの持つ剣の切っ先が頬を掠めるが、ダメージを気にしている余裕はない。

 チカチカと視界が白く霞み始める。食いしばって意識を保ちながら、何とか槍を突き出した。我武者羅に槍を振るいながら、それを何度も繰り返す。

 もう、限界だ。いいじゃないか。俺はよく頑張った。今諦めたとしても、きっと誰も俺を責めはしない。そんな仄暗い感情が首をもたげるが、その度に何故かキリトやアスナの顔が頭にちらつき、俺に諦めることを許してくれなかった。

 あいつらなら、きっと諦めない。いや、あんな規格外な奴らの不屈の精神と同等のものを俺に求められても困るのだが、それでも俺のちっぽけな矜持が、少なくとも今ここで諦めることを是とはしなかった。

 1度、大きく雄叫びを上げた。ここで槍を置くわけにはいかない。疲弊によって混濁する意識の中、もはや何のために戦っているのかも曖昧になっていたが、そんな意地だけが残っていた。

 

 こうなったらトコトンまでやってやる。そう半ばやけくそ気味に腹を括った瞬間、何故かふと体が軽くなったような感覚を得た。同時に、視界が途端にクリアになる。そしてあれだけ息苦しかったのが嘘のように呼吸が楽になった。

 何だ、これは。そう困惑しながらも、槍を疾らせる。

 敵の動きが、止まって見える。俺はモブの間を縫うようにして駆け抜け、すれ違い様にスケルトンクルーの首を3つ飛ばした。

 妙な感覚だ。ただ、調子が良いだけではない。いつまででも戦えるような気分だ。自分が限界だと思っていたライン。そこを踏み越えると、不思議な空間が広がっていた。

 もう何も怖くない――いや、死亡フラグだ、コレ。と、そんなふざけたことを考える程度に思考にも余裕が生まれていた。

 

 そこからは、蹂躙だった。こちらを囲むモブたちの剣や牙はもはや俺に届くことはなく、一呼吸のうちに2体、3体と敵を屠ってゆく。敵の数が残り少なくなり、ようやく終わりが見えてきた。

 そこで一旦息を吐き、俺はフィリアとボスの様子を伺う。モブたちのタゲは上手く管理していたつもりだ。だが、俺の視線の先にはスケルトンクルーたちに囲まれるフィリアの姿があった。

 

 馬鹿な、何故――そんな思考が頭を過るが、原因を探っているような余裕はなかった。次の瞬間、乱戦の中ボスモンスターの振るったタルワールがフィリアに直撃し、大きく吹き飛ばされた。

 咄嗟に、フィリアの元へと駆け出した。途中残っていたモブたちが道を阻んだが、駆け抜けながらその体を両断する。青白いガラス片が舞い散る中、フィリアへと拳銃を向けるボスモンスターの姿を視界に捉えた。

 無心で、ソードスキルを放った。急加速し、大きく槍を払う。渇いた銃声が響いたのとほぼ同時、穂先が小さな鉄球を弾いた手ごたえを感じた。弾道は大きく逸れ、フィリアを貫くはずだった銃弾は後ろの岩壁に着弾する。

 マジか。その結果に自分で驚愕する。これ、もう1回やれって言われても絶対無理だな……。そんなことを考えつつ、フィリアを背にして槍を構え直し、口を開く。

 

「悪い、待たせた」

「……ハチ」

 

 呆けた声を上げるフィリアに、ポーチから回復結晶(ヒールクリスタル)を取り出し投げて渡す。ボスモンスターとその取り巻きはすぐに動く様子はなく、こちらを伺っていた。

 

「後は任せて、お前はそこで休んでろ」

「う、ううん。私も……」

「いや、足元フラフラじゃねえかお前。無理しないで休んでろ。それに今、俺、何か調子がいい」

「でも――」

 

 なおも食い下がろうとするフィリアを目線で制し、俺はなるべく安心させるように強く頷いた。ややあって、フィリアは力なく頷き返す。そしてそれを待っていたかのように、ボスモンスターたちが動き出した。同時に、俺も地を這うように駆け出す。

 

 取り巻きなど、今さらものの数ではない。目の前のスケルトンクルーたちを蹴散らし、奥に立つボスモンスターへとソードスキルを放つ。それは無防備に拳銃を構えようとしていたボスモンスターに直撃し、大きく後方へと吹き飛ばした。

 訪れるスキル後の硬直。その隙を狙って周囲のスケルトンクルーたちが俺に斬りかかるが、寸でのところで硬直から抜け出し、回避しながらカウンター気味に槍を走らせる。それを受けた敵が2体、3体、とガラス片となって砕け散った。いまだ体勢を崩したままのボスモンスターを横目に確認しながら、残りのスケルトンクルーたちに躍りかかる。武器を打ち合わせることなく強引に押し切り、一息のうちに全てのスケルトンクルーを撃破した。

 

 体勢を立て直したボスモンスターと、視線が交わる。2メートルに達しようかという巨躯に、虚ろな眼窩。普段ならば気圧されてしまいそうなその雰囲気に、しかし何故か今は微塵も恐怖を感じない。

 手に馴染む重みを妙に心地よく感じながら、槍を低く構える。油断するわけではないが、全く負ける気がしなかった。

 

 先に仕掛けたのはボスモンスターだった。接近し、タルワールを振り下ろす。その安易な一撃を真正面から弾き飛ばすようにソードスキルを放ち、敵の胸部を穿つ。刺突系の攻撃はスケルトン系モンスターには相性が悪いが、正中線を捉えたからかその一撃は大きく敵のHPを削った。

 敵の動きが鈍る。やがて立ち合いを仕切り直すべく敵は下がろうとしたが、硬直から立ち直った俺が追いすがる方が早い。俺の槍に2合、3合と何とかタルワールを合わせるが、やがて捌き切れなくなったところで俺の渾身のソードスキルが放たれる。それを体で受けたボスモンスターは骨を軋ませながら耳障りな悲鳴を上げたが、俺は追撃の手を緩めずにひたすら攻め続けた。そうして休む間もなく何度もそれを繰り返し、敵のHPを削ってゆく。

 感覚が、研ぎ澄まされていた。敵の剣筋、足さばき、その一挙一動に至るまでが良く見える。耳をすませば、相対する敵のその衣擦れの音まで聞こえる気がした。

 

「これで、終わりだッ!!」

 

 戦いの中、妙なテンションになっていた俺は柄にもなくそんな声を上げた。明らかな劣勢に立たされたボスモンスターも最後になんとか俺に一矢報いようとしたのか、下がりながら左手の拳銃を構える。

 光を灯した穂先が突き出されたのと、拳銃の発砲音が鳴り響いたのは、ほぼ同時。鉛玉が頬を掠めるのを肌で感じながら、俺はボスモンスターの眉間を刺し貫いた。その一撃が、数ミリ残っていた敵の赤いHPバーを削りきる。

 

「凄い……」

 

 まだ洞窟内に銃声の反響が残る中、感嘆するようなフィリアの呟きが後を追う。

 眉間を貫かれたボスモンスターはその瞬間動きを止め、口から漏らすように小さな呻き声を上げた。そして銃を構えたままだった左手をだらりと下げ、一瞬の硬直の後、青いガラス片となって砕け散っていった。俺は大きく息を吐きながらそれを眺め――糸が切れたように、大の字になって仰向けに倒れ込んだのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 《死域》と呼ばれる境地があるらしい。

 以前トウジから聞いた話だった。普段は大人しいイメージのトウジが、珍しく熱っぽく語っていたのを覚えている。

 

 ――僕の好きな作家さんが作った設定、造語なんですけどね。まあ僕は本当にあると信じてます。一流の武術家が極限まで自分を追い詰めてようやく至れる境地で……ゾーン体験とランナーズハイが同時に訪れるとイメージすれば分かりやすいでしょうか。

 人間の体力には限界があります。でも、一般的に限界と言われるラインよりも、本当の限界はもう少し先にあるんです。一般的に限界だと言われるラインというのは、限界ではなくその手前にあるリミッターなんです。そして弛まぬ鍛錬によって、人はそのリミッターを振り切ることが出来るようになる。

 そうしてそこを踏み越えた人間は、驚異的な力を発揮出来るんです。疲労はなくなり、頭は冴え、体は思うように動かせる。

 そんなリミッターと(本当の限界)の間にだけ存在する境地、故に《死域》というわけです――

 

 

 

 

 

 

 

「ちょ……!? だ、だだ、大丈夫ッ!?」

「……ああ。ちょっと疲れただけだ」

 

 一瞬飛びかけていた意識を、フィリアの声が現実に引き戻す。焦って駆け寄ってくる彼女をぼんやりと視界に入れながら、俺は何とか返事を返した。薄暗い洞窟の天井を眺めながら、そのまま再び大きく息を吐く。

 妙に調子のよかった先ほどから一転、今は指一本動かすのさえ億劫になるような疲労を感じていた。肉体的な疲労はないはずの仮想現実だが、体を動かしていれば脳が《疲れた》と錯覚することは間々あることだった。もちろんその程度は現実世界とイコールではないために無理は利くのだが、度が過ぎれば今回のようなことになる。

 

 しかし、死域か。今回、俺はその境地へと至ったのだろうか。

 疲労が吹き飛び、時が止まったのかと錯覚するほど思考が冴えわたる感覚。無心でいながら、頭を様々な情報が駆け抜けていく感覚。リラックスしていて、それでいて異様に集中している感覚。

 死域――その言葉以外に、あの感覚をどんな言葉にすればいいのかわからなかった。

 

 トウジの話では一流の武術家のみが至れる境地という話だった。だが、もちろん俺はそんなものではない。いくらSAOが始まってから戦い漬けの毎日だったとは言え、ずぶの素人が1年や2年でそこまでの域に到達出来るはずがない。

 だが、この仮想世界での身体能力だけを考えてみればどうだろうか。今の俺のステータスならば、現実世界ではあり得ないほどの能力を有している。つまり肉体だけで言えば合格点で、あとは極限まで自分を追い詰めれば死域へと至れる――のかもしれない。

 

 トウジからは「死域というだけあってそのままの状態で動き続けると本当に死んでしまうので気を付けてください。ある程度のところで動くのをやめれば自然の状態に戻れるそうですけど」と聞いている。気を付けるも何も、そもそも俺は一流の武術家じゃないし……とその時は聞き流していたのだが、今後また同じような体験をしたら気を付けた方が良いかもしれない。今回は多分大丈夫だと思うけど……。え? 大丈夫だよね?

 

 しかし死の間際で覚醒して急に強くなるとか、なかなか中二心をくすぐられる設定だ。サ○ヤ人的な。

 

「ハチ? 何ニヤニヤしてるの? もしかしてどっかで頭打った?」

「いや、真面目に心配しないで。悲しくなるから」

 

 フィリアの声に再び現実に引き戻された俺は、そう言っていつの間にか緩んでいた頬を引き締めた。そして言い訳をするように言葉を続ける。

 

「……何か楽しかったな、と思ってな。こんな何も考えずに槍ぶん回したのは久しぶりだ。疲れたけど、嫌な疲れじゃない」

 

 本当のところは自分が死域(らしきもの)に至ったことについてニヤついていたわけだが、今の言葉も嘘ではない。疲労と共に、今の俺は妙な清々しさを感じていた。

 いつからか、しがらみに足を取られながら戦っていたのかもしれない。洞窟の天井を仰いだまま、俺は悟ったようにそんなことを思った。

 攻略組である、ということの責任感。ゲームをクリアしなければならない、という使命感。俺がやらなければならない、という強迫観念。きっと知らず知らず、そんなものを抱え込んでいた。

 

 久しぶりに、そこから解放されたような気分だった。余計なことが頭に過る余裕もなくなるほど我武者羅に戦い、そして勝利を掴み取ったのだ。あの境地に達するまでにはかなりの苦痛も伴ったが、喉元過ぎれば何とやらだ。

 何を求めて、SAOを始めたのか。そんな最初の気持ちを思い出せた気がした。

 

「そっか……。うん。ハチが楽しかったなら、私も嬉しい」

 

 母性を感じさせるような優しい笑みを浮かべながら、フィリアが頷く。その笑顔に少しドキリとしたが、それに狼狽える間もなく、気が付くとフィリアが浮かべていた笑みは妙にギラついたものへと変わっていた。

 

「でも、一番のお楽しみはまだ終わってないよ。トレジャーハントの醍醐味は、ここからなんだから」

 

 言って、フィリアは俺へと手を差し伸べる。その言葉の意図するところを察した俺は、いやに男前な彼女の振る舞いに苦笑いしつつその手を取った。

 ふらつく体を度々フィリアに支えられながら、エリアボスが待機していた小部屋の奥、巨大な宝箱の前まで移動する。人間が2、3人くらい入るのではないかという大きさだ。鎖でグルグル巻きにされて過剰なまでに封が施されていたので一瞬開くのか不安になったが、フィリアが軽く右手で触れると鎖は砕け散っていった。

 フィリアと顔を見合わせ、頷き合う。そして2人で同時に宝箱の蓋へと手を掛け、ゆっくりとそれを開いた。

 

「うわっ、すっご……!!」

「おお……」

 

 感嘆の声を上げるフィリアの隣で、俺も軽く息を漏らす。

 巨大な宝箱を埋め尽くす金貨。さらにそれに混じって高そうな宝石やアクセサリーなどもちらほら存在し、パッと見ただけでも換金すれば相当な額のコルになるだろうことは想像がついた。

 

「高価な素材アイテムとか、換金アイテムばっかりだよ……。あ! これ! ハチの探してたインゴットじゃない?」

 

 そう言って、フィリアは宝箱の中に手を伸ばす。金貨をかき分け、彼女が両手で大事そうに掴み上げたのは青い輝きを放つ綺麗な地金だった。

 

《マリンブルーインゴット》

 

 目の前に、アイテム名が浮かび上がる。風林火山に集まる情報の中でも聞いたことのない、珍しいインゴットだ。詳細をチェックするまでもなく、俺が求めていたアイテムであることがわかった。

 差し出されたそれを受け取り、再びフィリアと顔を見合わせる。嬉しそうにはしゃぐ彼女の様子を見ていると、様々な感情が込み上げてきた。

 柄ではないのは分かっているが、こういう事は1度はちゃんと言葉にしておかなければならないだろう。そう自分を鼓舞し、やや躊躇いつつもやがて俺は意を決して口を開いた。

 

「あー……。フィリア」

「ん? なーに?」

「いや、その、なんだ……。今回のこと――」

「あー! やっと見つけたー!!」

 

 俺の言葉を遮って、聞き覚えのある女の声が響いた。振り返ると、男女の2人組が遠くからこちらに駆け寄ってくる姿が目に入る。横目でフィールドマップを確認すると、パーティメンバーを表すマーカーがフィリアを含めて3つ点灯していた。

 潮騒洞窟最深部、エリアボスの居なくなったその部屋で、俺たちはようやくキリトとアスナの2人と合流を果たしたのだった。


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