やはり仮想現実でも俺の青春ラブコメはまちがっている。   作:鮑旭

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第44話 雪解け

 初めに気付いたのは、全身を包む異様な怠さと、硬く冷たい床の感触だった。

 次いで、何か柔らかくて温かいものが俺の頭を支えていることに思い至る。まどろみの中、身じろぎをすると、ふわりと甘い香りが立ち込めた。

 

「ハチ君? 気が付いたの?」

「……雪ノ下?」

 

 重い瞼をゆっくりと開けると、目の前にあったのは上下逆さになった雪ノ下の顔だった。

 互いの吐息が掛かりそうな距離である。俺はギョッとして身を固くしたが、対照的に雪ノ下は穏やかな笑みを浮かべて安堵したようだった。

 

 あの雪ノ下が、俺の顔を見て頬を緩めている。しかもこのアングル、いわゆる膝枕とか言われるシチュエーションである。え、これなんてエロゲ?

 混乱し、思考がフリーズする。しかしやがて気持ちが落ち着いて視野が広くなってくると、自分が白く狭い部屋にいることに気付いた。

 

 ここは、どこだ。

 壁と床を構成する石材は古めかしく、見覚えはない。淀んだカビ臭い空気は何処かの地下室のようで、まるでダンジョンの中に居るみたいな――。

 そこまで考えて、ようやく意識が覚醒する。その瞬間、俺は弾かれたように身を起こした。

 

「キリトとアスナは!?」

「落ち着いて。2人は無事よ。ただ……」

 

 顔を横に向けると、少し離れた位置にキリトとアスナの姿があった。2人ともHPバーは満タンである。しかしその事実に安堵するよりも先に、俺の頭の中は現在の状況に対する困惑でいっぱいになった。

 キリトたちの後ろに立っているのは、クラインを始めとする風林火山のプレイヤーたち。このダンジョンへと突入する段階で彼らとは別行動になったはずだ。それが何故かダンジョンの最深部であるこの場所まで至り、今は苦渋の表情を浮かべて佇んでいた。

 

「……なんでクラインたちがいるんだ? それに、あの死神は……」

「詳しいことは街に戻ってから話そう」

 

 疲れた顔でキリトが言った。俺はその時初めて、キリトの傍らに座るアスナが涙を流して泣いていることに気付いた。その手は何か大事なものを抱えるように、胸の前で強く握られている。

 セーフティゾーンの前には、あの死神の姿はなかった。何らかの手段を用いてあれを倒したのだろうか。しかし仮にクラインたちが援軍に来てくれたのだとしても、それだけであれを倒すことは不可能だったはずだ。

 

 そんな困惑を、ひとまず胸にしまい込む。雪ノ下とシンカーは生きていたし、今は差し迫って対処しなければならないことはない。キリトが街に戻ってから全て説明してくれるというのなら、それに従えばいいだろう。

 

 ゆっくりとそこまで考えて、立ち上がった。しかし未だ本調子とは言えない俺の体はその場で大きくふらついてしまい、隣に立っていた雪ノ下に支えられた。

 

「大丈夫?」

「あ、ああ……。いや、悪い」

「無理しないで。この数日、ろくに休んでいないのでしょう」

「いや、それ言ったらお前らの方が……」

「精々床が固くて寝苦しかった程度よ。保存のきく食べ物もいくらか持っていたし」

 

 こちらを見る雪ノ下の眼差しは柔らかかった。その態度には過去、俺に向けられていたようなとげとげしさは一切含まれていない。この状況では当然と言えば当然なのだが、どうにも居心地の悪さを感じてしまった俺は、すぐに雪ノ下から身を離して話題を変えた。

 

「あー……。これ、もしかして俺待ちだったのか」

「ええ。でも、あなたが気を失ってからまだ10分も経っていないわよ」

 

 体感的にはかなり眠ってしまったような気がしていたのだが、違ったらしい。それほど長い時間待たせてしまったわけではないことに安堵する反面、この数日ずっとダンジョン奥に閉じ込められて憔悴しているはずのシンカーや雪ノ下まで付き合わせてしまったことには若干の罪悪感が湧いた。

 

「案外時間経ってないのか……。けど、別にお前とシンカーまで待ってなくても――」

「あなたを置いて先に帰れるはずないでしょう」

 

 強い語調の雪ノ下に遮られて、俺は閉口する。少しの沈黙が場に降りた。やがて、雪ノ下が躊躇いがちに再び口を開く。

 

「その、ハチ君、さっきのことだけど……」

 

 さっきのこととは、俺が気を失う前の話だろうか。しかし、かなり記憶が曖昧だ。死神に右腕を切り飛ばされたところまでは何となく覚えているが……。そう思いながら右手に手をやると、そこには瑕疵ひとつない俺の右腕があった。気を失っている間に回復したのだろう。

 そんな俺を前にしばらく言葉を探すようにして俯いていた雪ノ下だったが、ややあって彼女は力なく首を横に振った。

 

「……いえ、やっぱりこれも街に戻ってからにするわ」

「え? あ、おう」

 

 なんだかよくわからないうちに、雪ノ下が言葉を引っ込めた。その意味深な発言に困惑する間もなく、立ち上がったキリトが全員の顔を見回しながら声を上げた。

 

「転移結晶は全員分あるみたいだ。ひとまず何処かの街に戻って、落ち着いて話そう」

 

 その場に居る全員が頷いた。

 クラインたちの重苦しい表情、アスナの涙、雪ノ下の意味深な態度。分からないことだらけだったが、シンカーと雪ノ下を助けるという当初の目的は達成できたはずだ。ひとまずはそう割り切り、俺は転移結晶を使ってダンジョンを後にしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 第62層に存在する風林火山のギルドホーム。その中でも会議などで使用される広めの一室だった。

 現在は虚ろの九天から帰還したグループにトウジとユリエールを含めたメンバーが一堂に会している。軍のギルドホームにはまだキバオウの手の者が潜んでいる可能性があったので、シンカーたちもひとまずこちらに身を寄せることになったのだった。

 

「ユイが、人工知能(AI)だった……?」

 

 思わず、聞き返していた。もたらされた事実に理解が追いつかず、俺は呆然とキリトの顔を見つめる。

 

「ああ。《メンタルヘルス・カウンセリングプログラム》、その試作一号、コードネーム《Yui》。それが自分だって話してくれたよ」

 

 キリトの説明は淡々としたものだった。周りの人間は暗い顔で俯くだけで、その言葉が嘘ではないということを否が応でも思い知らされた。

 この場で驚いた表情を見せていたのは俺、トウジ、ユリエールの3人だけである。既に他のメンバーは知っていたのだろう。俺が気を失っていた10分程度の時間に、何かがあったのだ。

 

 しかしユイがAIだったなどとは、にわかには信じられない。出会った当初はNPCである可能性も考慮に入れていたが、あの活発な少女に触れるにつれ、次第に人間であるということを疑わなくなっていた。

 それだけ高度なAIだった、ということなのだろうか。喜怒哀楽、その豊かな感情表現だけではない。誰かを思いやるような優しささえ持ち合わせていた。それはもはや、人間の持つ心と何も変わらないのではないか。

 

 それからキリトはユイについて知っていることを全て、順を追って説明してくれた。

 

 本来プレイヤーのメンタルケアを使命とするAIだったユイ。しかし彼女はSAOの正式サービスが開始された時点で、何故かカーディナル――SAOにおいて自動でゲームバランスの調整や、メンテナンスを行うシステム――によって「プレイヤーに対する一切の干渉禁止」という命令を下されてしまった。

 やむなくプレイヤーのメンタル状態のモニタリングだけを続けるユイだったが、デスゲームと化したSAOの中でプレイヤーたちの精神状態は最悪と言っていいものだった。それを目の当たりにしながらも自分の使命を果たすことが出来ないという状況の中で、彼女はエラーを蓄積させていった。

 

 そんな時、ユイは俺たち風林火山のプレイヤーを見つけたらしい。過酷なデスゲームの中でありながら良好な精神状態を保ちつつ、その活動によって他のプレイヤーたちにも安らぎを伝播させていくギルド。そうして彼女は俺たちに興味を持ち、接触を図りたいと思うようになったらしかった。

 蓄積されたエラーによって、その頃にはもうユイのプログラムは相当壊れていた。記憶は欠落し、言語能力も失われるほどのバグの塊だった。だがそれ故にカーディナルの命令を無視し、あの日第65層の雪原地帯で俺たちと接触を図ることが出来た。

 

 俺たちと過ごす時間は彼女にとって心地よいものだったようで、蓄積されていたエラーも緩やかに解消されていったらしい。それでも失われた記憶を取り戻すほどではなかったはずだったが、あることが引き金になってその事態は急変した。

 虚ろの九天。最奥に位置するセーフティゾーン。その小部屋の中央に存在していた黒い石は、GMがシステムに緊急アクセスするために用意されたコンソールだったらしく、それに偶然触れてしまった彼女は全ての記憶を取り戻したのだった。あの場所に場違いなほど強力なボスモンスターが配置されていたのも、そのコンソールを守るためだったらしい。

 

「……いや、ちょっと待て。そもそも何であの場にユイが居たんだ?」

 

 話の途中、俺は口を挟んだ。

 ダンジョンに突入する前に、外で待機するクラインたちにユイを任せて行ったはずだ。少なくとも俺が覚えている範囲ではダンジョンの中でユイの姿は見ていない。

 そう思ってクラインに目をやると、彼は辛そうな表情で頭を下げた。

 

「悪い。オレの責任だ……。オレがちゃんとユイちゃんを見てなかったから……」

「いえ、あれはあの場に居た全員の責任です。弁解の余地もありません」

 

 暗い表情でトウジも口を開いた。詳しく話を聞くと、どうやら俺たちと別れたしばらく後、俺たちを追うようにユイも1人でダンジョンに入ってしまったのだそうだ。

 

「ハチがセーフティゾーンに向かって走り出したのとほとんど同時に、ユイが来たんだ。ユイはそのままハチを追って行って……」

 

 慌ててユイを追いかけたキリトとアスナは、その後ボスモンスターの隙を突いてなんとか彼女をセーフティゾーンに避難させたのだと言う。そして、ユイは例のシステムコンソールに触れてしまったという訳だった。

 

「記憶を取り戻したユイは、システムに直接アクセスして死神を消し去ったんだ。そのおかげで俺たちは助かったんだけど……その時、ユイはカーディナルにゲーム内の不具合として感知されてしまったんだ」

「じゃあ、ユイちゃんは……カーディナルに、消されてしまったんですか……?」

 

 震える声でトウジが言った。

 SAOを根幹から支えるシステムである、カーディナル。感知した不具合を、何もせずに放置しておくはずがなかった。

 俺がダンジョン内で意識を取り戻した時の、あの重苦しい雰囲気。涙を流していたアスナ。今の話を聞く限り、それの意味するところは明確だった。何より、今この場にユイの姿がない。

 ユイは、消されてしまったのだ。その結論に至り、俺はテーブルの下で強く拳を握りしめた。しかし俺の前に座っていたアスナは、穏やかな顔で首を横に振った。

 

「ユイちゃんは、生きているわ」

 

 言って、アスナはその手で握り締めていたものをそっと俺の前に差し出す。彼女の白い手のひらの上に置かれていたものは、大きな涙の形をしたクリスタルだった。複雑にカットされた石の中央では、とくん、とくんと白い光が瞬いている。

 

「これは……?」

「ユイの心だ」

 

 言ったキリトの顔に視線を向けると、彼はアスナの手の中にあるクリスタルを慈しむように見つめていた。

 

「ユイが起動したシステムコンソールの管理者権限が切れる前に、ユイ本体のプログラムをどうにかシステムから切り離してオブジェクト化したんだ。今は話したりすることは出来ないけど……あの子は確かにそこで生きてる」

 

 さらっと何やら凄いことを口にするキリト。コンピュータ関連に造詣が深いことは知っていたが、その知識や技術は俺の想像以上のものだったようだ。

 

「それにSAOがクリアされた時には、クライアントプログラムの環境データの一部として、俺のナーヴギアのローカルメモリに保存されるようになってる。容量ギリギリだったけどな。頑張れば、きっと向こうでユイとして展開させることも出来るはずだ」

 

 理系用語バリバリの内容に、もはや俺には半分以上何を言っているのかわからなかった。それでも、ユイが無事だということは何となくわかる。今の俺にはそれだけ分かれば十分だった。

 

「だから、クラインたちも自分を責めなくていい。多分、遅かれ早かれユイはカーディナルに見つかってたんだ。むしろこのタイミングじゃなかったら、ユイの心をこうして残せなかったよ」

 

 キリトは話をそう締めくくり、クラインたちを見た。彼らはばつの悪い顔を浮かべつつも、やがては小さく頷いたのだった。そして少しだけ、部屋の中の空気が軽くなった。

 

 次いで、シンカーと雪ノ下が改めて今回の救出についての謝辞を述べ始める。しかしユイについての話も終わり、一気に気が緩んでしまった俺は途端に猛烈な眠気に襲われていた。

 襲い来る睡魔に懸命に抗いながらも、やがてうつらうつらと舟をこぎ始めてしまう。数秒後、はっとして顔を上げると、苦笑いを浮かべるトウジと目が合った。

 

「ハチさんも限界みたいなので、あとのお話は後日改めてということにしましょうか。シンカーさんとユキノさんも疲れているでしょうし」

「だな。ほら、ハチ。部屋まで行くぞ。ここで寝るなよ」

 

 言って、キリトが俺の肩を担いだ。

 そのあと最後の力を振り絞って、なんとか自室まで辿り着いた。部屋に入るや否や、戦闘用の装備をキリトに乱暴に引っぺがされ、俺はベッドへと放り投げられる。雑な扱いに対して抗議の視線を向けたが、当のキリトは穏やかな表情でこちらを見下ろしていた。

 

「お疲れさん。起きたら、ちゃんとユキノさんとも話しろよ」

 

 そう言葉を残し、キリトは部屋を出て行った。

 

 雪ノ下、か。

 誰も居なくなった部屋で、小さく呟いた。

 

 先ほどまではユイのことで頭がいっぱいになっていたが、それまでここ数日はずっと雪ノ下と奉仕部のことばかり考えていた。

 今さら、ただの知り合いなどとうそぶくことは出来ない。俺にとって雪ノ下雪乃という存在がどういった意味を持つのか。それを思い知らされた。

 

 だがそれも、俺の心の中だけでの話だった。今回の件で俺たちの関係が何か変わったわけではない。律儀な雪ノ下のことだからしっかりと礼は言うだろうし、何かしらの形で恩を返そうとするかもしれないが、それだけだ。

 今はそれだけでいい。全ては、現実世界に帰ってからだ。

 

 それまで《軍》のギルドに雪ノ下を置いておくことは不安があるが、俺が口を出せるような問題ではない。今回のことでキバオウが放逐、あるいは監獄エリアに投獄されることになれば《軍》内部の環境もましになるだろうし、今はそれで良しとしよう。

 

 ゆっくりと、目を閉じた。数日ぶりのベッドの感触が心地よい。ダンジョンの奥底から帰ってきた雪ノ下も、今頃同じように安らぎを感じているだろうか。

 ぼんやりとそんなことを考えているうちに、意識が深く沈んでゆく。そうして俺は、泥のように眠りについたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 連日の無理が祟ったのか、シンカーと雪ノ下の救出作戦後、俺はしばらくギルドホームで睡眠と食事だけの日々を繰り返した。合間にシンカーやユリエール、雪ノ下が見舞いがてら謝礼に訪れたがまだ体も本調子でなかったため、事務的なやりとりがあっただけだ。

 

 《軍》のその後について聞いたところによると、キバオウとその側近数名は殺人未遂の罪状により監獄エリアへと投獄され今回の事件はほぼ収束とあいなったようだ。

 一部のシンパからは熱烈な支持を受けていたキバオウだったが今回の殺人未遂が明るみに出たことによって急速にその力も弱まり、当のキバオウ自身も牙を抜かれたように大人しくなってしまったことも重なって事後処理は呆気ないほど順調に進んでいるらしい。混乱した軍内部を再び掌握するにはまだ時間が掛かるそうだが、当面は大きな問題はないようだった。

 

 そうしてさらに数日が過ぎ、俺もそろそろ攻略に戻らなくてはならないかと思い始めた頃だった。

 時刻は午前9時過ぎ。夜型のプレイヤーが多いアインクラッドではそれなりに早い時間帯だと言えるが、風林火山に限って言えばもっと早くから活動を始めているのでこの時間になるとギルドホームにはほとんど人は残っていない。料理担当のギルドメンバーも買い出しやらなにやらに出かけているはずなので、そんな時間まで寝過ごしてしまった俺は朝飯は厨房から適当に残り物でも漁るかと考えてダイニングへと足を運んだのだった。

 しかし、俺はそこで意外な人物と遭遇する。

 

「あら、おはよう。今、朝食を用意するわ。食べるわよね?」

「……え、あ、うん」

「じゃあ適当な席に着いて待っていて貰えるかしら」

 

 そう言って厨房へと向かったのは、今は《軍》に所属しているはずの雪ノ下雪乃である。

 混乱するこちらを他所に、彼女は手際よく俺の分の朝食を用意してテーブルに並べ始めた。具だくさんのサンドイッチに、サラダとスープ。最後に紅茶を淹れて俺の前に差し出すと、彼女は当然のように向かいの席へと腰を下ろした。

 

「どうぞ。熱いから気を付けてね」

「お、おう。サンキュー……って、いや、なんでお前ここにいんの?」

 

 若干ノリ突っ込みのようになりながら、ようやくその疑問を口にした。俺からすればその問いは至極真っ当なものだったのだが、しかし雪ノ下は呆れたような眼差しをこちらに向ける。

 

「何を寝ぼけたことを言っているの? あなたが言ったんじゃない。『風林火山に来い』って」

「……」

 

 身に覚えのない台詞である。

 ……いや、違う。実は心当たりがないこともない。虚ろの九天の最深部で雪ノ下と合流した時、内容までは覚えていないのだが、朦朧とする意識の中で何かこっ恥ずかしい台詞を口にしたような気がしていたのだ。

 言葉に詰まる俺の様子を見て、雪ノ下はため息を吐いてやれやれと首を振った。

 

「やっぱり覚えていなかったのね……。まあ、そんなことだろうとは思っていたわ」

「……ホントに、俺が言ったのか?」

「ええ。疑うならシンカーさんにも証言して貰えるけど?」

「いや、大丈夫っす……」

 

 言って、俺は居心地の悪さを誤魔化すように食事へと手を伸ばした。雪ノ下は素知らぬ顔で自分の分の紅茶を淹れ、寛いでいる。もさもさとサンドイッチを咀嚼しながらその様子を伺っていた俺は、ゆっくりと思考を巡らせた。

 雪ノ下がこんなくだらない嘘を吐く奴ではないということはよくわかっている。だからその証言通り、きっと俺が彼女を風林火山へと勧誘したのだろう。そして今彼女がここに居るということは、つまりそれを承諾したと言うことなのか。

 

「えっと……じゃあ、今お前うちのギルドメンバーなのか?」

「ええ。でも、知らなかったの? あなたにはクラインさんが伝えてくれたと聞いていたのだけれど」

「いや、聞いてないぞ……。くそっ、面白がって黙ってたな、あいつ……」

「なるほどね。ふふっ、つまりドッキリ成功ということかしら」

「お前な……」

 

 俺は抗議の視線を向けたが、いたずらっぽい笑みを浮かべる雪ノ下に毒気を抜かれてしまい、力なくため息を吐いた。

 食事を勧めながら、そうしてやり取りを交わす。全く予想していなかった展開に最初こそ動揺したが、しかし落ち着いて考えれば別に悪いことでもなかった。

 いや、正直に言えば、むしろ俺はほっとしていた。今回のような事件が起こってしまったことで、このまま雪ノ下を《軍》へと置いておくことに不安を覚えていたからだ。風林火山に居れば絶対安全などと言うつもりもないが、俺が全く知らない間に危険に巻き込まれているという事態は避けられるだろう。

 

 それに、ギルドとしても雪ノ下のような有能なプレイヤーが加入することは歓迎すべきことだ。戦闘行為が出来ないとはいえ、彼女の事務処理能力の高さは折り紙付きである。慢性的に人手不足に陥っている風林火山にとって、今後大きな力となるだろう。

 だが、逆に言えば《軍》はそんな人材を手放してしまったということでもある。期せずして雪ノ下を《軍》からヘッドハンティングしてしまった形になるのだが、ちゃんと向こうと話がついているのか少し気になった。

 

「けど、よくシンカーが許したな。つーか、お前もそれでいいのかよ」

「シンカーさんはむしろ快く送り出してくれたわよ。私自身も風林火山で働くことに不満はないし、それに――」

 

 言いながら、雪ノ下はどこか遠い目をして視線を伏せた。

 

「あなたが私たちを助けに来てくれた時……あの時のあなたにはどこか鬼気迫るものを感じたわ。認めたくないけど、私が圧倒されるほど。だから頷いてしまったのよ。あの時、あなたの誘いに」

 

 不意に顔を上げた雪ノ下の、2つの大きな瞳が俺を捉える。その時彼女は、はっとするほど穏やかな笑顔を浮かべていた。

 

「知ってる? 私、暴言も失言も吐くけれど、虚言だけは吐いたことがないの」

「……そうかよ」

 

 一言、そう返すのが精一杯だった。いつかのやり取りの焼き増し。しかしその時に比べて随分と吹っ切れたように思える雪ノ下の表情は、とても眩しく感じた。

 

「改めて、言わせてもらうわ。ありがとうねハチ君。助けてくれて」

 

 言葉に詰まる俺に畳みかける様に、雪ノ下が礼を口にする。不意打ちでそれは反則だろう……。そう思いながら、俺は視線を逸らした。

 

「……別にいいっつの。もうギルドを通して礼は受け取ってるし」

「それは形式的なものでしょう。これは私からあなたへの個人的なお礼よ」

「それこそ無駄な気ぃつかうなよ。俺個人でやったことじゃないし、別にお前だから助けたってわけでもないし」

「そう……。でも、あの時のあなたの言葉は、間違いなく私に向けられていたわ」

 

 言って、雪ノ下は大きく息を吐いた。

 彼女の言う、俺が口にした言葉とはいったい何なのだろうか。いまいちダンジョン内でのやり取りを思い出せない俺はそれを歯がゆく感じながらも、黙って雪ノ下の話に耳を傾ける。

 

「あのダンジョンの奥に閉じ込められて……私はここで死ぬのかもしれないと思った時、色々なことを考えたわ。家のこと、学校のこと、由比ヶ浜さんのこと、そして……あなたのこと」

 

 その言葉に、俺の鼓動は波打つように早くなった。動揺を悟られぬように目を伏せたが、雪ノ下は気にした様子もなく言葉を続ける。

 

「学校での、あの生徒会選挙の後。私たちの関係が狂い始めた時、その程度で終ってしまう関係なら、そこまでのものだったのだと割り切るつもりでいたわ。本当に望むものが手に入らないのなら、いっそ突き放してしまおうとさえ思っていた」

 

 語られたのは、かつての彼女の思い。それは正しく俺の知る雪ノ下雪乃の姿そのもので、いっそ無慈悲と言えるまでの彼女の頑なさに胸が締め付けられた。

 かつての俺ならば、きっとその強さに憧れを抱いただろう。俺もそうありたいと願ったことだろう。でも、今の俺は――。

 

「でもね、あの暗く深い穴の底で自分の死を近くに感じ取った時、そのことをとても……とても後悔したの」

 

 ハッとして、雪ノ下に目をやった。力なく視線を伏せる彼女からはかつての強情さは感じられず、まるで見知らぬ少女がそこに座っているのかのような錯覚を覚えた。

 

「あの時の私は、つまらない見栄に囚われて本当に言いたかったことも、本当に聞きたかったことも、何ひとつ言葉に出来なかった。言わなくてもわかってもらえる、聞かなくてもわかっている、そんな関係に憧れて……」

 

 独白するように語る雪ノ下の言葉は、まるで自分のことのように胸に落ちた。俺たちはきっと、心の底では同じものを求めていたのだ。それが、いつしか何処かですれ違ってしまった。

 

「でも、そんなのは全て詭弁だったのよ。私は、ただ逃げていただけ。自分の本当の気持ちを言葉にすることが怖かったから。言わなくてもわかって欲しい、聞かなくても理解したい……まるで子供の我儘ね。でもあの時の私はそれこそが私の求める関係だと……上部だけの薄っぺらいものじゃない、本物の関係だと思っていたの。けど、違った。そんなものは私にとって都合のいいだけの関係だった」

 

 過去の自分を責め立てる雪ノ下の言葉は、そのまま俺の心にも突き刺さった。

 

「理解して貰おうとする努力も、理解しようとする努力も放棄して、本物の関係なんて手に入るはずがない。対価を支払わずに手に入るものに価値があるはずがないもの。きっと私は……私たちは、痛みを厭わずもっと正面からぶつかり合うべきだったんだわ」

「……そうかもな」

 

 脱力するように頷いた。紆余曲折を経て、ようやくたどり着いた答えはそんな当たり前のことだった。

 慣れ合い、群れることは弱さだと嘯き、他人に頼らず、求めず、独りで立ち続けることが正しさだと思っていた。今でもその全てが間違っているとは思わない。だが、過去の俺はそれを都合のいい言い訳にして、自分の心から逃げていただけだ。本当の気持ちをさらけ出すのが怖くて、耳触りのいい理由を盾に自分の殻に閉じこもった。

 

「もう随分遅くなってしまったけれど……私も、もう逃げないわ。だから以前あなたに言われたこと、今度は私から提案しようと思うの」

 

 顔を上げた雪ノ下の面持ちには強い意志が宿っているように思えた。普段の俺ならばすぐに目を逸らしてしまうだろう、真っ直ぐな瞳。俺は息を呑んで、その視線を正面から受け止めた。

 

「私、奉仕部(あの場所)が好きだった。あなたと、由比ヶ浜さんがいる奉仕部(あの場所)が。あれからどれだけ時間が経っても、その気持ちは変わっていないわ。だからもしこの世界から生きて帰ることが出来たら、3人で話をする機会が欲しい。もう1度、私たちの関係を始めるために」

「……ああ」

 

 瞑目し、頷くことしか出来なかった。

 奉仕部(あの場所)が好きだったと雪ノ下が口にした瞬間、俺の胸の内からは様々な感情が溢れ出そうになった。歓喜、悔恨、自責、羞恥……ごちゃ混ぜになった感情の奔流を押し留めるためにただ頷いた。

 

 かつて俺が憧れを抱いた少女。孤高で迷いなど微塵も感じさせぬ凛々しい姿。しかしそんな彼女にも弱さはあった。いつかは身勝手にもそれに失望しかけたこともあったが、今はその瑕疵すらも愛おしく感じる。そして弱さを自覚し、それを克服しようとする彼女の芯には確かな強さがあった。

 俺は雪ノ下のことをまだ何も知らなかったのだなと、自嘲するように感じ入った。そしてそれはきっと雪ノ下のことだけではない。単純そうに見える由比ヶ浜にも、まだまだ俺の知らない部分が沢山あるのだろう。

 この世界から生還することが出来れば、もう1度彼女たちを知る機会を与えられるかもしれない。雪ノ下と由比ヶ浜にその意思があるのなら、もう俺に迷いはなかった。

 

 大きく息をついて、妙に清々しい気分で顔を上げる。まだスタートラインにすら立っていないのに、俺の心の中にあったわだかまりはもはや綺麗に無くなっていた。すべきことが明確に存在し、既に腹も括っているからだろう。

 まあ奉仕部の3人でもう1度話したところで、過去の問題がすんなりと解消するとまでは思っていない。俺自身譲れないことはあったし、雪ノ下と由比ヶ浜だってそうだろう。きっと、ぶつかり合うことになる。それでも俺たちが心の底で同じものを求めるなら、何処かで折り合いを付けることが出来るはずだ。

 

 場には温かい沈黙が流れていた。雪ノ下が淹れてくれた紅茶に口を付けながら俺はその穏やかな時間にしばらく身を任せていたが、対面に座る雪ノ下はニコリとわざとらしい笑顔を浮かべ、口を開く。

 

「言質は取ったわよ? 過去のことはもう私の中で折り合いはついているし、こちらにも非があったことは認めるけど、それでもあなたには言ってやりたいことが山ほどあるわ。覚悟しておいてね」

「……え? あれ? ここってそういうノリなの?」

 

 この場はなんかいい感じにふんわり終わるのかと思っていたが、しかし雪ノ下はそう甘くなかったようだ。俺が狼狽えながら言葉を返すと、雪ノ下は軽く吹き出すようにして小さく笑った。

 いや、まあ、腹は括っている。大丈夫だ、問題ない。そう自分に言い聞かせるように考えながら、キリキリとした胃の痛みを誤魔化すように紅茶を飲み下した。

 

「……ごっそさん。飯、美味かった」

「そう。お粗末様でした」

 

 やがて食事を終えた俺は食器を重ねて傍らのトレイに載せる。今度こそこの話も終わりだろう。そう思い、俺はトレイ片手に席を立ったが、しかし雪ノ下は呼び止める様に「そう言えば」と声を上げた。

 

「先にこれだけはあなたに伝えておこうと思うの。あなた、いつ死んでもおかしくないような生活をしているみたいだし」

「縁起でもねえこと言うなよ……」

 

 いや、自覚はあるけどな。キリトやアスナがいなければ多分10回くらいは死んでる自信がある。

 しかし、改まって今伝えておきたいこととは何だろうか。雪ノ下のことだ。恐ろしい罵詈雑言が飛んでくることも覚悟しなければならないかもしれない。しかし過去のことは色々とやらかした自覚もあるので、非難は甘んじて受け入れるべきだろう。

 内心そうして構えながら、俺は雪ノ下の続く言葉を待った。しかし当の雪ノ下は彼女らしくない少しの逡巡を見せた後、やがて頬を薄く赤らめながら口を開いたのだった。

 

「私、あなたのこと好きみたい」


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