やはり仮想現実でも俺の青春ラブコメはまちがっている。 作:鮑旭
あれは中学時代。俺がまだ恋愛と言うものに甘い幻想を抱いていた頃の、ある日の放課後のことだ。
当時想いを寄せていたクラスメイトの女の子と、教室に2人きりだった。降り注ぐ陽光に、揺らめくカーテン。そんな光景まで覚えている。そこで俺は心臓をバクバクと鳴らしながら、彼女に想いを告げたのだった。
今にして思えば、駄目な告白の典型だった。事前のアプローチなど何もなしに、いきなり一方的に想いを伝えたのだ。そんな独りよがりな気持ちが通じるわけもなく、俺はあえなく撃沈した。
そこまでなら、まだよかった。この話がそれで終わっていれば、ただのほろ苦い思い出として俺の記憶に刻まれただけだっただろう。
問題に気付いたのは翌日。俺の告白は、既にクラス中の人間が知るところになっていた。
誰かがあの現場を見ていたのか、彼女自身が周囲に話したのか、それはわからない。わかるのは、そうして俺はクラスの晒し者になってしまったという事実だけだ。やんちゃ盛りの男子中学生がそんな面白いネタを放っておくわけがなく、それからは毎日のようにからかわれた。
いじめと言うほど大したものではなかった。誰かに殴られたわけでも、蹴られたわけでも、何か物を取られたわけでもない。ただ、ずっと胸の内で大切に秘めていた想いを嗤われることは、俺の存在そのものを否定されているような気がした。ひとつひとつは些細な言葉でも、それが毎日のように続けば多感な中学生の心を歪ませるには十分だった。なにより、好きだったあの子さえも周りの空気に合わせるように、その光景をただ笑って眺めているだけだったのが悲しかった。
人の噂も七十五日。流行り廃りの早い中高生ならば一月もしないうちに俺への興味など失うだろう。そう自分に言い聞かせ、ただ耐える日々が続いた。
無遠慮な男子たちからの揶揄にも、遠巻きにする女子たちからの好奇と侮蔑の混じった視線にも、ただ蹲って耐えて、耐えて、耐えて……気付けば、かつてあれほど色付いて思えたあの子への恋心は、暗く淀んだ想いへと歪んでしまっていた。
俺は、失望したのだ。彼女に。
そしてなにより、この程度のことで手のひらを返し、彼女を逆恨みしてしまう浅はかな自分自身に。
確かに1度は好きになったはずなのに。
彼女を幸せにしたいと願ったはずなのに。
彼女のためなら命だって懸けてみせると、馬鹿な妄想を大真面目に考えていたのに。
かつて間違いなく抱いたはずのそんな想いは、まるで最初から嘘だったかのようにもう心のどこにもなくなってしまっていた。
恋とは、もっと純粋で綺麗なものであるべきだ。もっと献身的で、揺るぎない想いであらなければならないはずだ。簡単に揺らいでしまう気持ちなど、本物ではない。見返りを期待する恋愛など、ただの自己愛だ。
そうして、俺は思い知ってしまったのだ。
かつて俺が大事に大事に胸に抱いていたはずの恋心は、どうしようもなく偽物だったのだと。
だから俺は、恋愛というものを信用することが出来ない。
◆
「おい! ハチ!」
「――んおっ!?」
焦りの込もったキリトの声が響く。思考の海に沈んでいた俺が唐突に我に返ると、眼前には牙をむき出しにした狼のモブが迫っていた。
間抜けな声を上げながらも、体に染み付いた動きで咄嗟に攻撃をいなし、そのままモブをキリトに押しつけるように立ち回る。キリトは間髪入れずにソードスキルを発動し、その高い攻撃力で一気に敵のヒットポイントを削りきった。
青白いポリゴンが舞い散る中、お互いに一息つく。石壁に囲まれたダンジョンの小部屋である。周囲には他のプレイヤーはおらず、閑散とした小部屋に静寂が広がった。
そんな中、一旦剣を収めたキリトが責めるような視線を寄越す。
「おい、しっかりしてくれよ。全然マージン取ってないんだから、気を抜いたら冗談抜きに死ぬぞ?」
「……わり」
俺は素直に謝って、うな垂れた。
アインクラッド攻略最前線、第70層の最北端に位置する
謎解きギミックの多いダンジョンで、選択肢を誤ると大量のモブに囲まれたりエリアボスクラスの強力なモブが湧いたりと、なかなか気の抜けないダンジョンである。しかし幸い謎解きについては周辺の街などでヒントが得られるので、しっかりと準備していれば探索についてはそう難しくない――のだが、俺たちはあえて難易度を上げるようにしてダンジョンに挑んでいた。
強力なモブをポップさせるギミック。本来はペナルティであるはずのそれだが、倒せば経験値自体は手に入る。敵の強さの割には貰える経験値が少ないという欠点はあるが、元々がこの階層には不相応なほど高レベルな敵である。多少目減りしていようとも今の俺たちにとっては十分な経験値だった。さらにここのギミックは繰り返し何度でも発動させることが出来るので、普通の狩りのようにリポップを待つ必要がなく、出てくるモブを倒し続けることが出来るならかなり効率が良い。それを利用し、俺とキリトはしばらくこの場所を狩場としているのだった。
まあ効率が良い分、リスクは高い。常に十分な安全マージンを心がけているアインクラッドのプレイヤーたちならばこんな狩場は選ばないだろう。俺たちはユニークスキルでゴリ押しているが、それでも一歩間違えればゲームオーバーとなってしまうような危険な狩場である。だというのに、先程は敵が残り少なくなって来たことで油断し、完全に上の空になってしまっていた。
「またユキノさんのことか?」
キリトに図星を突かれ、言葉に詰まった。何だかんだあって、先日の雪ノ下の告白については既にキリトもあらかた事情を知っている。というか、あれだけ不自然な態度を取っていれば誰だって気付く。
項垂れたままの俺を見て、肯定だと受け取ったのだろう。キリトはひとつため息をついて、再び口を開いた。
「今日はもうやめとくか?」
「……いや」
頬を叩いて、気合いを入れる。さすがにこんな理由で狩りを中断してはキリトに申し訳ない。
「悪かった。こっから集中するわ。時間もないしな」
「ああ。じゃあ、頼むぜ」
その後、HPの回復を済ませてから狩りを再開した。
ギミックを起動して大量のモブを湧かせ、2人で殲滅する。それをひたすらに繰り返す作業である。幾度となくHPはレッドゾーンにまで差し掛かったが、どちらも途中でやめようとは言い出さなかった。
俺たちには、目的があった。
現在アインクラッドの最前線が第70層。クォーターポイントである第75層まではあと5層ある。トラブルがなければ基本的に1フロア攻略にかかる時間は10日前後のため、猶予は1月半程度だ。
第75層のフロアボスに挑むまでに、ケリを付ける。俺たちは話し合って、そう決めていた。これはそのための強行軍だ。作戦の決行までに、なるべくレベルを上げておきたい。
奴を――ヒースクリフを、倒すために。
◆
――数日前。
「ヒースクリフさんが、茅場晶彦……」
トウジの呟くような声が部屋に響いた。黙って考え込むトウジの顔は、しかしそれほど驚いているようにも見えない。隣の席に座る雪ノ下も同様である。
ギルドホームの一室だった。現在は俺とキリトを含む4人でテーブルを囲んでいる。少し話があると、俺たちがトウジと雪ノ下の2人を呼んだのだった。ここしばらく俺は雪ノ下を避けていたのだが、さすがに今日は重要な話であるので腹を括ってこの場に臨んでいた。
ギルド《血盟騎士団》の団長であり、現在アインクラッド攻略の最前線を牽引するプレイヤーであるヒースクリフ。そんな人物が、俺たちをSAOの世界に閉じ込めた張本人である《茅場晶彦》と同一人物である可能性。
クラインあたりなら飛び上がって驚いてくれそうなネタだが、目の前の2人は冷静に考え込むだけだった。
やがて頭の中で整理がついたのか、トウジがゆっくりと顔を上げる。
「確かに、言われてみればあの茅場晶彦がプレイヤーの中に紛れているという可能性は高いように思えます。ただ、それがヒースクリフさんだと言うのは……」
「考えうる最悪のパターンね」
雪ノ下の言葉は、部屋に重く響いた。最強の味方が一転して最強の敵になってしまう可能性を考えれば、それは過言ではない。
「一応、根拠を伺っても?」
「確たる証拠はない。根拠といえば、奴が不自然に強いってところかな」
「まあ一応細かく言ってけば理由はいくつかある。ほぼ確定だって言われてるパライズダガーの麻痺毒が何故かあいつには効かなかったこと。誰もその存在を知らなかったはずのPoHの《暗黒剣》をまるで元から知ってたみたいに完璧に捌ききったこと。今までの長い攻略の過程で1度もあいつのHPが半分を割ったところを見たことがないこと……色々と不自然なんだよ」
トウジの問いにキリトが答え、俺も補足するように言葉を続けた。疑惑の域を出ない話ばかりだったが、全てが偶然だと片付けるには出来過ぎていた。
そんな俺たちの推察に耳を傾けながら、内容を咀嚼するように深く頷くトウジと雪ノ下。確信はないにせよ、それなりの理由に2人は一応の納得はしてくれたようだった。
「なんにせよ、その仮定を否定するだけの材料を私は持ち合わせていないわ。だから今はあなたたちの話を信じるとして……それで、2人はどうするつもりなの? わざわざこんな席を設けたのだもの。話はそれで終わりではないのでしょう?」
頭のいい奴は話が早くて助かる。そんなことを考えながら俺はキリトと頷き合った。
「俺たちはヒースクリフの正体を暴いて、このゲームを終わりにしたいと考えてる」
キリトの言葉に、2人の目が大きく見開かれた。
SAOからの解放――多くのプレイヤーが切望しその目的へと向かって邁進しながらも、ゲーム開始から2年近くもの時間が経った今でもゴールまでは未だ遠い道のりであった。俺たち攻略組ですら心の何処かでは本当に実現可能なのかと不安に思ってしまうような、そんな大望。
それが第70層という道半ばで転がり込んできたのである。2人が呆気に取られるのも無理はなかった。
「……それは茅場晶彦と交渉して、アインクラッド第100層クリア以外の方法でこのゲームを終わらせる、ということでいいのかしら?」
「ああ。まあ交渉って言っても、最終的には戦うことになると思うけど」
「ちょ、ちょっと待ってください。色々と聞きたいことは多いんですが……。御二人の作戦ではどういった経緯を辿るにせよ、最終的には茅場晶彦次第ということですよね。不確定要素が強すぎませんか。最悪、自分の正体に気付いた御二人を口封じに殺してしまう可能性もあるでしょう?」
「その辺りは他のプレイヤーも巻き込んで、簡単に口封じ出来ないようにするつもりだけど……どちらにしろ、リスクがあるのは確かだな」
「なら……」
そうして食い下がろうとするトウジに、しかしキリトははっきりと首を横に振った。
「このままゲームクリアを目指すのだって安全じゃないんだ。どちらにしろリスクがあるなら、俺は少しでも早くこのゲームを終わらせるべきだと思う」
キリトの言葉に反論出来ず、トウジは押し黙った。トウジの危惧は一見もっともにも思えるが、今さらどうあがいてもリスクのない手段など存在しない。
それに、俺から言わせればそもそもトウジは前提条件から間違っている。
「つーか不確定要素が強いっていうけどな、普通にゲームクリアを目指すのだって似たようなもんだと思うぞ。第100層までクリアしたって、本当にこのゲームから解放してくれるのかどうかなんて結局のところ茅場晶彦次第だ。気まぐれでやっぱり全員殺される可能性だって否定できないんだからな」
「あなた、70層まで攻略してきて、今さら身も蓋もないこと言うのね……」
「解放してやったぜ……くくく、恐怖からな!」とか言いながら大量虐殺しちゃう
しかし結局、SAOの中に居る限り何処まで行っても俺たちは茅場晶彦の手のひらの上であることは変わりない。このゲームから解放されるためにどんな手段を取るにしても、最終的にはある程度茅場晶彦の良心性に期待せざるを得ないのである。どちらにせよ不確定な方法ならば、少しでも早くこのゲームから解放される方を選ぶべきなのは明確だ。
「ヒースクリフは、頭のいい男だ」
会話の流れをぶった切るように、キリトが言った。自分に集まった視線をゆっくりと受け止めて、言葉を続ける。
「あいつが本気で自分の正体を隠そうとしていたら、もっと上手くやることも出来たはずなんだ。そうなれば、きっと俺たちはあいつを疑うことすらしなかっただろう」
「……つまり自分の正体に辿り着けるよう、あえてヒントを与えていたと言いたいのね」
「ああ。きっと茅場自身がプレイヤーの中に紛れ込んでいることも、ゲームの演出の1つなんだ。そうして与えられたヒントから、俺たちがあいつの正体を暴いたとなれば……」
「こちらの交渉に応じる可能性はある、というわけですか……」
ヒースクリフにとっては、恐らく自身の正体が暴かれる可能性も織り込み済みなのだ。そもそも《神聖剣》スキルが発現した後ならともかく、その以前から誰も奴のHPバーが半分を割ったところを見たことがないというのは異常である。こんな露骨な不自然を晒している時点で、奴には自分の正体を何が何でも隠し通そうとする意志はなかったのだろうと思う。
故にヒースクリフの正体を暴いたところで、俺たちを口封じに殺してしまう可能性は低いと考えていた。そして上手く交渉に持ち込めば、こちらの提案を飲ませることも不可能ではないはずだ。
「でもそれでは、全てのリスクをあなたたち2人に押し付けることになるわ」
鋭い視線を俺に向けながら、雪ノ下が口にする。良い意味でも悪い意味でもプライドの高い彼女のことだ。リスクを他人に丸投げして、自分は利だけを得ようなどと、そんなことを許せるはずもないのは当然だった。
しかし他に妙案がないことも理解しているのだろう。雪ノ下の鋭い視線の中には、現状に際して無力な自分への苦々しい感情と諦念が混じっていた。
「それが最善手なら、仕方ないだろ。俺もキリトも納得してる」
「……本当、勝手よねあなたは。こっちの気も知らないで……。まあ、事前に相談してくれるだけ、まだマシになったとも言えるけれど」
言葉を返した俺から視線を外し、雪ノ下は脱力するように呟いた。
「一応、もう作戦は考えてあるんだ。ギルドとして、2人にも手を貸して欲しい。頼む」
そう言って、キリトは頭を下げる。
『ギルドとして』と言いつつギルドマスターであるクラインはナチュラルにこの場からハブられているのだが……。まあ、あれだ。あいつ腹芸とか無理そうだし。正直実務を取りまとめているトウジと雪ノ下の2人にさえ話が通っていれば作戦には問題ないのだ。仮に今後クラインの協力が必要となったとしても、きっとトウジの方から声を掛けてくれるだろう。
「私個人としてはもう反対しないわ。でも、最終的にはギルドとしての判断に従います」
改まって頭を下げるキリトに対し、雪ノ下はすぐにそう答えて判断をトウジへと委ねた。この場の視線がトウジへと集まる中、しばらく目を閉じて考えていた彼はやがてゆっくりと頷く。
「わかりました」
見開いた瞳を、俺とキリトへと向ける。普段より数段力強い口調で、やがてトウジは宣言したのだった。
「ギルド《風林火山》は、御二人の作戦に全面的に協力します。このゲームを終わらせて、皆で生きて帰りましょう。現実世界に」
◆
「あー、きっつ……。連日これはしんどいわ……」
「言うなよ。こっちまで疲れてくるだろ」
俺とキリトの2人、《愚者の霊園》からの帰路であった。それほど遠くない位置に街があるので、普通に徒歩での帰宅である。ここ数日はその街を拠点として、睡眠時間さえ削ってレベリングを行っていた。
薄暗くジメジメとしたダンジョンの中を、2人して覚束ない足取りで進む。休み休みとは言え15時間くらいはダンジョンに籠っていたので、俺だけでなくキリトまで心なしか目が死んでいた。互いに精魂尽き果てた表情で、最後の力を振り絞ってなんとか帰路を辿っているのだった。
ヒースクリフを打倒すべく、既に俺たちは水面下で動き始めていた。とは言っても陰謀智謀を巡らせてヒースクリフを追い詰めようという訳ではなく、やっていることは主に俺たちのステータス強化というある意味正攻法である。
理想通りにヒースクリフと交渉が進んだとして、最終的には奴とゲームクリアを賭けての戦いになるだろう。それに備えてのステータス強化だ。これはいくらやっておいてもやり過ぎと言うことはない。
ステータス強化となれば俺とキリトのレベリングは当然のものとして、風林火山の力も借りてアイテムや装備品の収集、有用なスキルの取得などを行うことになる。まあ普段やっていることの延長線だが、そのスケジュールや負担はかなり無理を押したものとなった。
正直レベリングはかなりしんどかったが、その甲斐あって既にこの数日だけでLVは3つも上がっている。今までは1LV上げるのに1週間ほどかかっていたので、これは異常な速度だ。
「まあ明日からは息抜きも兼ねて迷宮区攻略の予定だし、少しはマシだろ」
「息抜きに迷宮区……」
前向きなキリトの言葉に俺はうんざりした声で返した。あー、あれな。あの受験生がやる『数学で疲れたから息抜きに古文でもやるかー』って奴ね。それホントに息抜けてるの? って奴。
まあそうでも思わないとやってられないこともある。人間こうやって自分を騙しながら大人になってゆくのだ。おとなになるってかなしいことなの……。
「アスナの話じゃそろそろボス部屋も見つかるだろうってさ」
「ようやくか……。このフロア、かなり時間食ったな」
俺は言いながらシステムウインドウを確認する。今年ももう10月だ。確か第69層を突破したのが9月の
「ジェイソンイベじゃ攻略組にも少し被害が出たからな……。血盟騎士団も聖竜連合も攻略のペースは落として地盤固めと戦力の補強に走ってたみたいだ」
「まあ俺たちも攻略とは関係ないことばっかしてたしな。丁度いいと言えばよかったか」
ガイドブック製作に始まり、温泉旅行、《軍》でのいざこざ、さらに俺が数日間寝込んでいたことも含めると相当な時間を消費している。その間にすわボス攻略だと言われても参加は出来なかっただろう。
「あと3日、4日で70層のフロアボスに挑むとして……猶予はあと一ヶ月半くらいか。時間、あるようでないな」
「ああ」
俺は帰路を進む歩みを止めず、ただ頷く。
予定では、ヒースクリフとの決戦は第75層と決めていた。なるべく準備期間を取りつつ、犠牲が必至となるだろう強大な
正直、よく考えれば色々と穴だらけの作戦なのだが……他に妙案もなく、もはや腹を括るしかない段階にきてしまっている。
「なあ、本当に最後までアスナに黙ってるつもりなのか?」
しばらく黙って歩いていたキリトが、唐突に切り出した。
アスナにはまだヒースクリフが茅場晶彦である可能性について伝えていない。当然、俺たちがヒースクリフに挑む作戦についてもだ。
アスナに全てを知らせた場合と、黙っていた場合のメリット、デメリット。それを比較した時、どうしても天秤は黙っている方に傾く。頭では冷静にそんな勘定を行っていた。
だが同時に、理屈など無視して彼女には全て話してしまいたいという気持ちは、紛れもなく心の奥底に存在していた。そして数日前の温泉街、あの屋台でのやり取りによってアスナの芯の強さをまざまざと見せつけられ、俺の中でその気持ちはより大きなものへとなっていた。
「知らせない方が良いって理屈も、分かる。けど、やっぱりアスナには――」
「ああ、話しとくべき……かもな」
「……へ?」
声を上げて、急に足を止めるキリト。俺が振り返ると、間抜けな顔でこちらを見つめていたそいつと目が合った。
「んだよ。その顔は」
「あ、いや。ハチは絶対渋るんだろうなーと思ってたからさ」
「まあ、実際ちょっと前まで迷ってたけどな。けどあいつメンタル強いし、クラインに比べりゃ100倍信用できる。血盟騎士団を内部から監視できるっていうメリットもあるし。それに……このまま黙ってこのゲームクリアしたら、
「帰ったあと、か……」
呟くようにそう言ったあと、何が面白いのかキリトは弾けるように笑って足早に俺の横へと並んだ。
「ハハッ。確かに、リニアーで小突き回されてるハチが目に浮かぶよ」
「いや、リアルでそれやったら洒落で済まないからな……?」
良い顔でとんでもないこと言ってやがんなこいつ。けど俺自身、その光景が簡単に想像出来てしまうから恐ろしい。うん。やっぱりアスナには話しておくべきだな。別に暴力に屈したわけではない、決して。
俺は軽くかぶりを振って恐ろしい想像を脳内から追い出しつつ、冷静に考える。実際問題、アスナに話すとは言っても難しい問題があった。
「けどアスナに話すっつっても、タイミングがな。ヒースクリフも俺らに疑われてることには気付いてる節があるし……今、下手にアスナに接触したら絶対勘繰られる。さすがにメッセージで済ませるにはアレな内容だし」
「ああ。アスナもあっちのギルドに復帰したばっかで忙しいみたいだし、しばらくは自然に会うのは無理だな。1番タイミングがいいとすれば……第73層まで行って、作戦が第2段階になった時か」
「第2段階ね……。確かに、向こうから押しかけてくるだろうな」
ヒースクリフを倒すための作戦は、いくつかのフェーズに分けて進行している。俺とキリトで話し合った段階ではもっと大雑把な流れを考えただけだったのだが、トウジと雪ノ下というインテリ組の協力を得たことで、まるで会社のプロジェクトのような形にまとまってしまったのだった。
そうしてフェーズ分けされたプロジェクトを、キリトと共に睡眠時間まで削って着々とこなしているのである。最近、俺の社畜度がぐんぐん上昇している気がしてならない。もうどこに出しても恥ずかしくないレベルの社畜になれたのではないだろうか。何それ嬉しくない。
「まあ確定ではないし、結局アスナについてはしばらく保留かな。時機を見て、どこかでコンタクトを取ろう」
憂鬱になってきた俺の思考を遮り、キリトがそう締めてこの話題は終了となった。
その後は互いに取り留めもない話題に興じながら、とぼとぼと帰路を辿る。丸一日におよぶレベリングで精神は疲れ果てていたが、俺は何となく肩の荷が1つ下りたような気がしたのだった。
この3日後に、攻略組による第70層のフロアボス攻略が決行された。
その後は今までの停滞が嘘のようにゲーム攻略は順調に進み、大きな犠牲もなく第71層と第72層を突破。わずか2週間ほどで俺たちは第73層へと足を踏み入れることとなった。
結局その間アスナとコンタクトを取る機会には恵まれず、俺たちは当初の予定通りだたひたすら水面下で打倒ヒースクリフのための作戦を着々と進めていった。
そうして第73層到達から数日が経ったある日のことである。
キリトが斃れたという知らせが、攻略組を駆け巡った。