やはり仮想現実でも俺の青春ラブコメはまちがっている。 作:鮑旭
「どういうことだ!? 説明しろ!!」
部屋に、ハフナーの声が響いた。
第73層主街区。俺とキリトがこのフロアの拠点として使用していた民家の一室である。しかし現在、この場にキリトの姿はない。
一堂に会するのは、攻略組の中でも主だった面々だ。血盟騎士団からはヒースクリフとアスナ、聖竜連合からはハフナーとシヴァタ、アインクラッド商人組合からはエギル。リビングにあたる一室はそれなりの広さがあったが、フル装備の攻略組プレイヤーが数人も集まってテーブルを囲むと、さすがに少し手狭に感じた。
「落ち着きたまえ。そう興奮しては話すものも話せないだろう」
「これが落ち着いていられるか!」
諌めるヒースクリフには取り合わず、ハフナーは声を荒げたまま言葉を続けた。
「攻略組の
ハフナーは群青色のガントレットをテーブルに打ち付け、強く握りしめた。沈黙と共に、深刻な空気が部屋に広がった。
既に各々メッセージによって粗方の事情は知っているのだろう。冷静に装ってはいても、この場に集まる全員が内心穏やかではないのは確実だった。
「順を追って話す。3日前から、キリトが体調が悪いと言い出したんだ」
テーブルの一点を見つめたまま、俺は口を開いた。全員の視線が、ゆっくりとこちらに向けられる。
今日この場に攻略組のメンバーを集めたのは、キリトの現状について詳しい話をするためだった。
3日前から体調不良を訴えだしたキリト。しばらくすれば勝手に治るのではないかと様子を見ていたが、この3日症状の改善は見られなかった。現状、ゲーム攻略に参加させられるような状態ではなく、しばらく風林火山のホームで養生させることに決まったのだった。そして今日、攻略組の最大戦力の1人であるキリトの戦線離脱に際し、事情を説明するためにこの場に攻略組のプレイヤーを集めたのである。
――という
「ずっと目眩と耳鳴りが止まらないらしい。休んでいれば少しは楽になるみたいだけど、しばらくするとまた同じ症状を繰り返すみたいだ。風林火山の中に医大生がいたから診てもらったんだけど、症状はメニエール病って奴に近いそうだ」
「メニエール病……聞きかじりだが、確か内耳の異常で起こる疾患だったか」
俯きながら、ヒースクリフが呟くように言った。
俺自身は知らなかったが、メニエール病とはそれほど珍しい病気ではないらしい。不摂生やストレスが重なると発症しやすい病気だと聞いている。その症状は耳鳴りや眩暈がしばらく続くというもので、今のキリトの状態と一致していた。
「ああ、診てくれた奴もそんなこと言ってた。最近の薬を使えば長くても大体1ヶ月以内には完治するらしいけど、この世界じゃそれは無理だ。薬に頼らなくても治るは治るらしいけど……」
「しかし、そもそも症状が似ていると言うだけで、キリト君がメニエール病だと言う可能性はありえないはずだ。ほとんどの現実世界の身体の感覚はナーヴギアによって脳幹と脊髄でカットされる。仮にメニエール病を患ったとしても、末梢神経の疾患である限りこの世界にいる私たちにはそれを知覚することは出来ない」
小難しい言葉を並べて、自分の考察を口にするヒースクリフ。俺自身はその内容を飲み込むのに少し時間が掛かったが、この場に集まった他の面々はすぐに理解したように頷いていた。
ヒースクリフの言い分はもっともである。メニエール病では均衡感覚などが可笑しくなるわけだが、そもそも現実世界の俺たちの身体は病院のベッドに横たわっているのだ。その状態がこの世界に反映されてしまえば俺たちは身体が横になった感覚のまま立ったり歩いたりするという妙な現象が起こってしまう。現実世界の身体の感覚が全てカットされているからこそ、俺たちはこの仮想世界で何の違和感もなく動けるのである。
「よって考えられるのは中枢神経、それも脳の疾患。あるいは……ナーヴギアの機能面における異常だ。どちらにせよ、外的な処置なしに原因を取り除くのは難しいだろう」
「つまり……今後キリトの戦線復帰は絶望的ということではないか……!」
テーブルの上に置かれたハフナーの両手が再び強く握りしめられた。
既にキリトはヒースクリフと並んで攻略組を支える主柱の1つとなっていた。フロアボスのラストアタックボーナスを高確率で攫って行くキリトに対し他のプレイヤーは複雑な思いを抱いていただろうが、それでもなおキリトに頼らざるを得ないほど、その力は攻略組の中でも突出していた。
そんなプレイヤーが、この第73層という道半ばでの戦線離脱。さらに
嫌な沈黙が、再び場を支配する。
10秒ほどそうしていただろうか。沈黙を破ったのは、これまで口を真一文字に結んで静かに話を聞いていたエギルだった。
「いつの間にか、俺らはキリトに頼り過ぎてたのかもしれないな……」
呟きのような声は、静まった部屋によく響いた。一拍の後、深刻な空気を一掃するように力強く息を吐いたエギルが、集まった面々の顔を力強い眼差しで見渡す。
「けど、ここで立ち止まるわけにはいかないんだ。これからキリトなしでどうやって戦っていくか、それを話し合うべきだ。そうだろ?」
「……ああ。その通りだな。取り乱してすまなかった」
素早く気持ちを切り替えるように、ハフナーも頷く。
さすがにここまで最前線でアインクラッドを攻略してきたプレイヤーたちだ。皆、深刻な現状を冷静に受け止めながらも、その上でこの状況をどうにか打開しようと頭を切り替えたようだった。
その後、キリトの抜けた攻略組における今後の方針がすぐに話し合われた。
その光景を眺めながら、俺はほっと一息ついたのだった。
なんとか騙し通せたようだ、と。
◆
その日の夜。俺は風林火山のホームへと戻っていた。
既に飯も風呂も済ませ、今はキリトの部屋で寛いでいる。いつもなら自室に籠っているところなのだが、今日は諸事情によってキリトの部屋に訪れていた。
とは言っても今のところ特に何をするでもなくベッドサイドの椅子にだらりと腰掛け、一冊の本を広げて時間を潰している。本のタイトルは『やはり俺の妹の友達がこんなに少ないのは間違っているだろうか? D×D ツヴァイ』である。なんかもう色々と詰め込み過ぎた感の凄いラノベだが、まあ素人作品にしては中々面白いと思う。リアルでこんな本出したら色んな方面から怒られそうだが、そこは安心のアインクラッドクオリティである。あの版権にうるさいディスティニーのグッズですらパチモンが出回っているのだから、いまさら怖いものなどない。一種の治外法権のようなものだと言えるだろう。
風林火山によって例のあの本が出版されてからというもの、それに影響されたのかゲーム攻略などそっちのけで創作活動に勤しんでいるプレイヤーがそれなりの数存在している。今では同好の士が集まった専門のギルドも複数存在するようだ。元々SAOなんてコアなゲームをやるくらいだし、この世界にはオタク気質な人間が多かったのだろう。
さらに余談だが、彼らは他の生産職などとは違い直接的にはゲーム攻略になんの恩恵ももたらさないため、一部のプレイヤーとは折り合いが悪かったりする。人間こういう息抜きも必要だろうと個人的には思うのだが、まあ不謹慎だなんだと余計な口を挟んでくる奴らはどこの世界にもいるものだ。気に入らないなら関わらなきゃいいのに、なんでわざわざ絡んでくるんだろうなああいう奴らって。
なんだか読書という気分でもなくなってきてしまったので、本をストレージにしまって一息ついた。ついでにシステムウインドウで時刻を確認すると、もう20時を幾らか過ぎている。
そろそろかな。そう思ってドアの方にチラリと目をやると、丁度ノックの音が部屋に響いた。こちらの「どうぞ」という返事を待ってから、神妙な表情を浮かべたアスナが顔を覗かせた。
「……こんばんは。キリト君、お見舞いに――え?」
「お、アスナ。久しぶりだな」
ドアを開けたままの体勢で固まるアスナ。そんな彼女に声を掛けたのは、部屋の中で元気に剣の素振りをしていたキリトである。アスナの反応も無理はない。キリトが床に臥せっていると聞いて、彼女はお見舞いにやってきたのだ。
素振りを終わらせたキリトは大きく息を吐くと、持っていた2本の剣をストレージにしまってアスナに椅子を勧めた。しかし彼女はまだ状況を飲み込めていないようで、怪訝な表情を返すだけだ。
「え、いや、だって……え? どういうこと?」
「あー、うん。説明するから、とりあえず入ってくれ。他の奴らには聞かれたくない」
「……わかった」
色々と飲み込めないものはあるだろうが、俺がそうして促すとようやくアスナはドアを閉めて勧められた席に着いた。部屋には2脚しか椅子がなかったので、キリトは自分のベッドへと腰掛ける。
妙な沈黙が場を支配していた。アスナは怪訝な表情を顔に張り付けたままである。そんな中、口火を切ったのはキリトだった。「まずは」と口にしてアスナに向かって頭を下げる。
「騙すようなことしてごめん。俺の体調が悪いっていうのは嘘なんだ」
「う、嘘? どうしてそんな嘘を……?」
「それは順を追って説明する」
キリトと互いに目を合わせて頷く。それから俺たちは、ゆっくりと口を開いたのだった。
ヒースクリフが茅場晶彦なのではないかと疑っていることと、その根拠。
その正体を暴き、茅場晶彦と直接交渉してこのゲームのクリアを目指していること。
アスナは最初こそ驚きに目を見開いたが、その後は取り乱すこともなくじっと黙って話を聞いた。その態度は淡々としたものに見えたが、行儀よく膝に置かれた両の拳は何かを抑え込むかのように固く結ばれていた。
一通り俺たちが語り終えると、アスナは視線を伏せて小さく「団長が……」と呟いた。
それは彼女にとって認めたくない可能性のはずだ。俺たちがヒースクリフを疑うのとはわけが違う。アスナは血盟騎士団の副団長として、第25層からずっとヒースクリフのことを支えてきたのである。その信頼関係が最初から全て茶番だったなどと、どうして認められようか。
だが彼女は、感情的に全てを否定しようとはしなかった。努めて冷静に、その可能性を飲み込もうとしていた。
もしかしたら、ずっとヒースクリフの近くにいた彼女だからこそ気付くこともあったのかもしれない。あるいは、ヒースクリフよりも俺たちのことを信じてくれたのか。
本当のところ彼女の心の中でどんな葛藤があったのかは分からない。ただアスナは時間を掛けて俺たちの推論を飲み込み、最終的に理解を示してくれたのだった。
「もし……もし2人の言うことが本当で、団長があの茅場晶彦なんだとしたら……私、許せない」
呟いたアスナの声は小さなものだったが、そこには隠し切れない怒気が滲んでいた。
「あの人を信じて、ゲームクリアの夢を託して死んでいった団員たちだっているのよ。それが、最初から全部嘘だったとしたら……」
伏せられた瞳には、散っていったかつての仲間たちの姿が映っているのだろう。握り締めた拳に一層力が込められ、やりきれない想いにアスナは身を震わせた。
その怒りは至極正当なものだと言えるだろう。だが、今の時点でアスナに先走った行動をされるのはまずい。そんな一抹の不安を覚えた俺は、彼女を諌めようと口を開いた。
「まあ、まだ可能性の話だ。今その辺りの話をしても――」
「でも2人はそう仮定して、もう行動を起こしてる。そうなんでしょう?」
「……ああ」
アスナの問いに、俺は肯定を返すことしか出来なかった。それきり、部屋に静寂が降りる。
張り詰めた空気の中、アスナの放つ怒気はますます強くなってゆくかのように思えた。だがしばらくの沈黙の後、彼女は不意に大きく息を吐き、脱力するようにかぶりを振った。
「……ごめんなさい。少し冷静になるわ。ハチ君の言う通り、今怒っても仕方のないことなんだよね」
「……いや、無理もねえよ」
「ううん。2人とも、私を信じてこの話をしてくれたんでしょう。それには、ちゃんと応えたいもの」
言って、アスナは微かに目を細めた。
やはりアスナに全てを打ち明けてよかった。この瞬間俺は強くそう思ったが、同時に気恥ずかしさを覚えて彼女から目を逸らした。隣に座るキリトも、照れを隠すようにガシガシと頭を掻いている。
そんな俺たちを気にした様子もなく、アスナは気を取り直したように「それで――」と話を続けた。
「2人が、団長を疑ってることはわかったわ。その正体を暴いて、このゲームをクリアしようとしてることも。けどその話と、今日のキリト君の病気の話はどう関係してるの?」
「ああ、それはな……」
俺は頭の中で話を整理しながら、息を継いだ。今回の作戦のほとんどを考えたのは俺なので、その説明も一任されている。まあ日常会話とは違い、こういったプレゼンのようなものは苦手ではないので問題ない。
「俺たちの計画通りにヒースクリフとの交渉が進んだとして、最終的にはゲームクリアを賭けての戦いになる。でも俺もキリトも、正直タイマンであいつに勝つ自信はない。つーか、1人であいつの《神聖剣》の防御を抜ける奴なんて、多分今のところこの世界にいないだろ」
渋い顔で、アスナが小さく頷いた。ヒースクリフの強さは、ずっとそばにいたアスナの方がよくわかっているだろう。
《神聖剣》の防御性能は異常である。大型フロアボスの攻撃でさえ、あのタワーシールドで真正面から受け止めてしまうのだ。プレイヤーの攻撃など、渾身のソードスキルでさえ難なく受けきってしまうだろう。
通常、同レベル帯のプレイヤー同士の場合、ソードスキルによる攻撃を真正面から盾で受け止めれば、ソードスキルの方が押し勝つ。それだけで勝負が決するわけでもないのだが、そこから相手の体勢を崩していく戦法は、1対1で盾持ちの敵を相手にする時の定石だ。だから逆に盾を使うスタイルのプレイヤーはその流れに持ち込ませないよう、上手くシールドバッシュと呼ばれるソードスキルを合わせたり、攻撃をいなしたりする必要がある。
しかし、ヒースクリフの《神聖剣》にはそんな駆け引きなど必要ない。敵の攻撃を全て真正面から受けきった上で、あとは動きの止まった相手にカウンターを食らわせればそれで終わりなのだ。こと1対1の戦いにおいて、あいつは反則じみた強さを持っている。
俺の《無限槍》のスキルならばソードスキルで攻め続けて何処かで隙を衝くことも可能なのだろうが、十中八九ヒースクリフが崩れるよりも俺が消耗する方が早いだろう。
「だから、1対1では戦わない。1人で勝てない敵には、勝てる戦力や舞台を揃えて挑むべきだ。多少汚い手を使ってでも、勝てればいい」
「汚い手?」
聞き返すアスナに、俺はつい「ふひっ」と自分でもちょっとどうかと思う笑みを浮かべて答えた。
「俺がヒースクリフと一騎打ちをすると見せかけて、タイミングを見て
「……」
アスナの真剣な顔が一転、微妙な表情となってこちらを見つめた。
いや、いいだろ。みんな大好き《友情・努力・勝利》というジャンプ漫画の三拍子が揃った作戦だぞ。友情(2人で袋叩き)だけど。
「いや、まあ、言いたいことは色々あるだろうけど、とりあえず全部聞いてくれ」
「……わかった」
何か言いたげなアスナに先んじて、そう断りを入れた。彼女が頷くのを確認して、俺は説明を続ける。
「
俺は一旦言葉を止め、隣のキリトに目をやった。
「んで、キリトの病気云々の話になるけど、あれはヒースクリフを油断させるための嘘だ。ヒースクリフの正体を暴いて、そのまま俺とあいつが戦うことになれば、多分周りに居る他のプレイヤーは邪魔にならないように無力化される。だからキリトにはその影響の範囲外、何処か離れた場所で待機しててもらわなきゃならない。けど、ヒースクリフはその場に居ないキリトのことを当然警戒するはずだ。ゲーム攻略する時、俺とキリトは大抵セットだしな。だから、キリトが戦線離脱するのに不自然じゃない状況を作りたかったんだ」
SAOの正式サービス開始からもう2年近くもの時間が経つ。その間、ずっと病院で寝たきり生活を送っているだろう現実世界での俺たちの身体に加え、24時間稼働しっぱなしのナーヴギア。そんな状態では、どちらかに不具合が生じてもおかしくはない。実際、後発的にFNC(フルダイブ
全ては第75層でヒースクリフを倒すための布石である。現時点でのキリトの戦線離脱は第73層、第74層の攻略に相当な負担となるだろうが、その負担こそが『もうキリトは戦えない』と信じさせる要素になる。実際に何処まで騙し通せるかはわからないが、違和感を抱きこそすれ、いかにヒースクリフと言えども今この状況でキリトの体調不良を嘘だと断ずることは出来ないはずだ。そこに、きっと付け入る余地がある。
そんなことを掻い摘んで説明すると、アスナは理解を示すように1つ頷いた。
「大体のことはわかったわ。けどそんな方法で勝って、だんちょ……いえ、茅場晶彦は納得するの?」
訝し気な表情で、アスナがこちらを見つめる。彼女のその疑問は当然のものだった。
俺たちだってそれを考えなかったわけじゃない。だから交渉の段階で上手く会話を誘導して1対1とは明言せず、どういった経緯にせよ『HPがゼロになった方の負け』という言質を取ってから勝負に挑むつもりではある。
だが、それも苦し紛れの方法だ。どちらにせよ茅場自身が負けを認めなければ、約束など反故にされてしまう可能性もあるのだ。
ただ、俺は個人的にそうはならないと踏んでいる。
「俺も、最初はこんな作戦どうかと思ってたよ。けど、今は案外いけるんじゃないかと思ってる」
そう言ってアスナの疑問に答えたのはキリトだった。自信のこもった強い口調で、言葉を続ける。
「この世界の死は本物だ。どんな経緯があっても、そこにどんな理不尽なことがあっても、HPがゼロになれば死ぬんだ。相手が汚い手を使ったからノーカン、なんてことにはならない。他の誰でもない、茅場自身が決めたルールだ。自分が当事者になったからって、今さら文句なんて言わせないさ」
キリトの言葉に、アスナは目を見開いた。
道理の通った話である。HPがゼロになれば死ぬ。それはこの世界で絶対のルールである。もしこれが覆るようなことがあれば、この
つまりHPがゼロになれば、あのヒースクリフも例外ではなく
死人に口はない。ゲームオーバーとなった茅場の文句など、俺たちが聞いてやる筋合いはないのだ。
「つまり倒しちまえばこっちのもんってことだな。ま、どっちにしろ、あいつの性格的にちょっと汚い手使われたくらいで後から文句は言わないだろ。たぶん」
「……まあ、そうね。本当に団長が茅場晶彦なんだとしたら、私もそう思う」
認めるのは癪だが、ヒースクリフはあれでなかなか懐の深い男だ。最初の交渉さえ上手くいけば、後のことは何とかなるだろうと思っている。
この時点で、アスナに伝えるべきことはもう全て話し終えたので、俺は肩の力を抜いて息をついた。
「んなわけで、俺らはしばらく前から打倒ヒースクリフのために色々準備してたわけだ。……悪かったな、黙ってて」
「ううん。私はずっと団長の近くに居たし、慎重になるのは仕方ないよ。実際、まだちょっと信じられない部分もあるし……」
「けどこれだけ準備して、結局俺たちの盛大な勘違いだったら笑うな」
「いや、笑えねえよ。どんだけきついスケジュールで準備してると思ってんだ」
ふざけたことを言ってけらけらと笑うキリトに突っ込みを入れる。
周囲には体調不良という嘘をついているので、ヒースクリフとの決戦までキリトはもう普通に外を出歩くことは出来ない。風林火山のギルドメンバーでさえトウジと雪ノ下以外には全てを話していないので、ほとんど自室に籠ることになるだろう。
つまり、俺を差し置いてキリトはここ最近のレベリング地獄から解放されるのだ。まだしばらくレベリングを続けなければならない俺とは違い、いい気なものである。
「くそっ、やっぱり役割逆にするべきだったか……。俺も部屋に籠って一日中だらだらしたい」
「いや、そこはちゃんと話し合って決めたんだから蒸し返すなよ。それに、部屋には籠るけどだらだらはしないぞ。生産系スキル使えば多少は経験値も稼げるし」
俺の恨みがましい視線を、キリトは涼しい顔で受け流した。
まあとりあえず文句は言ってみたものの、役割分担については俺も仕方がないと理解している。火力の高いキリトの方が奇襲役には適しているし、ヒースクリフと真正面から戦うなら《二刀流》よりも《無限槍》の方が相性がいい。互いに決まるべくして決まった役割というわけだ。
「ねえ、しばらく前から結構無理してレベリングしてたって言ってたけど、2人は今レベルいくつなの?」
「えーと、今は98だな」
「きゅうじゅうはち!?」
キリトの答えに、アスナは素っ頓狂な声を上げて飛び上がった。
「ちょ、ちょっと待って! 少し前まで90を少し超えたくらいじゃなかった!? 私なんてまだ91になったばかりなのに……」
「ここしばらく食うか寝るかレベリングしかしてなかったからな。しかも全然安全マージン取ってない効率だけ考えた狩り。……いや、マジでよく生きてたな、俺」
「あれくらいで根を上げるようじゃ、ハチもまだまだだな」
「いや、むしろお前は何でそんなに元気なの? 頭にマクロでも入ってんの?」
比較対象である俺自身が元々それほど集中力が長く続く方ではないのだが、それを抜きに考えてもキリトは異常である。なんで睡眠時間3時間であんなに元気よく狩りが出来るんだ。ゲーム廃人ってのはホント頭おかしいと思う。当のキリトは俺の言葉を冗談だと思って笑って受け流していたが、半分は本気だ。
「そのレベリングって、明日からはハチ君だけで続けるの?」
「いや、さすがに1人じゃな……。2人だからなんとかカバーしあえてた部分がでかいし、明日からはちょっとペース落とすつもりだ」
「とか言って、サボるなよ」
「…………………………わかってるっつーの」
「おい。今なんか妙な間があったぞ」
こちらを凝視するキリトから目を逸らしながら頬を掻く。いやほら、サボるとかじゃなくて、適度に息抜きした方が作業効率上がったりするじゃん。テスト勉強中に部屋の掃除を始めたりするやつ。……いやこれ、古い漫画見つけて全然勉強出来ないパターンだな。
そんなことを考えていると、何やら考え込んでいたらしいアスナと不意に目が合った。
「……明日からのレベリング、私も一緒に行くわ」
「は? いや、何で?」
「さっきの作戦聞いた限りだと、私に出来ることってあんまりないんでしょ? だったら、レベリングくらい手伝いたい」
アスナにはヒースクリフの動きに何か怪しいものがないか監視をお願いしたかったのだが、本人によると普段はそれほどヒースクリフと一緒に居ることもないらしく、あまり力にはなれないだろうということだった。無理に監視を敢行しようとすれば却って怪しまれてしまうので、結局アスナには普段通りの生活を送ってもらうという話に落ち着いていた。
だからまあ、俺とレベリングに行くという選択肢もないではない。だが、いくつか懸念する材料もあった。
「けどお前、ギルドの方は?」
「しばらく忙しかったけど、最近はもう落ち着いたわ。団員の指導も一通り終わっちゃったし、今はギルドに拘束されてる時間ってあんまりないの」
「そうか……。いやでも、このタイミングで俺とレベリングっていうのは、どうなんだ?」
「団長に怪しまれないか、ってこと? 私たちが一緒に居るなんて、今さらおかしいことじゃないでしょ。むしろ、キリト君が戦えなくなった今、ハチ君を1人で放っておくほうが不自然だわ」
そう言われてみれば、確かにそんな気もする。アスナとはSAOの中では長い付き合いだし、彼女が血盟騎士団に所属するようになってからもよくパーティを組んでいたのだ。ヒースクリフを警戒するあまり、神経質になり過ぎていたかもしれない。
そうして少し考え込む俺の顔を覗き込んで、しばらく黙って話を聞いていたキリトが口を挟んだ。
「いいんじゃないか? アスナが一緒に居てくれた方が俺としても安心だし」
「いや、お前は俺の保護者かよ」
「んー、保護者と言うよりは……ダメな兄の世話を焼く弟、みたいな感覚の方が近いかな」
「あ、その表現すごくしっくりくる」
「……ダメな、は余計だ」
思わず、と言った様子で膝を打ったアスナ。俺は苦い顔でそれに突っ込みつつも、正直自分としてもちょっと納得していた。兄や姉の失敗を見て育つから、下の子の方が要領がよかったりするものだ。うちの小町も世渡りという点では俺より大分上手である。
「まあ冗談は抜きにしてもさ、実際今の上層でソロ狩りはちょっと怖いだろ? 70層を越えたあたりから、モブのアルゴリズムにイレギュラー性が増してきてる。この先、ソロじゃ対応しきれない場面もあるはずだ」
「まあ、確かにな」
真面目な表情で語るキリトに、俺は頷いて返した。
モブのアルゴリズムの変化は、最前線で戦う者なら全員気付いているだろう。従来、同種族のモブならば別個体であっても大抵は同じような行動パターンを取るものである。それを見極めてこちらの《勝ちパターン》を構築し、狩りの安定化と効率化を図るのがこういったアクションゲームの鉄則である。
しかし第70層を越えたあたりから、同種族のモブにおける個体差というか個性というか、そういったものが如実に表れるようになったのだ。ステータス自体が大きく変化するわけではないが、好んで使用するソードスキルや攻撃パターンが変わるために、今までの《勝ちパターン》が通用しなくなってしまうことも多かった。
そんなモブそれぞれの《癖》とも言うべきイレギュラー。第73層まではキリトと互いにカバーしあって問題にはならなかったが、ここからソロで行くのならば大きな障害になるだろう。
未だにぼっちの習性が体から抜けきらず、俺は1人で出来ることはなるべく1人でやろうとすることが多い。それが悪いとも思わないが、今回のことに限って言えばリスクを減らすためにアスナを頼るべきだろう。
最終的にそう結論を出した俺は、じっとこちらを伺っていたアスナに視線を返した。
「そうだな……。じゃあアスナ、悪いけどパーティの件頼んでもいいか?」
「だから、最初からそう言ってるでしょ。ハチ君がダメって言ってもついて行くからね」
言いながらシステムウインドウを操作していたアスナが、パーティを申請する。それを承諾し、俺は視界の端に映るアスナのHPバーを確認した。
「これでよし、っと。じゃあ改めて、明日からよろしくね」
「お、おう」
微笑むアスナになんとなく眩しさを覚え、俺は目を逸らしながら頭を掻いた。