やはり仮想現実でも俺の青春ラブコメはまちがっている。   作:鮑旭

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フェアリーダンス編
第1話 帰還


 どこか、見覚えのある女性だった。

 病室に置かれた花瓶の水を入れ替えたところだったのだろう。サイドテーブルにガラスの花瓶を置いて、彼女は軽く息を吐いた。その横顔を、俺はぼんやりと見つめる。

 薄茶色の、ミディアムショートの髪。ハーフアップでサイドにまとめられたお団子ヘアーは、高校時代幾度となく目にしたものだった。この2年で随分と大人びたようだが、俺が彼女を見間違えることはなかった。

 

「ぅぃ……が……はま……」

「え?」

 

 2年ぶりに発した声は上手く言葉にならなかったが、確かに彼女に届いたようだった。目が合った彼女――由比ヶ浜結衣は驚きに目を見開き、そのまま、まるで時が止まったかのように動かなくなった。

 俺はベッドから体を起こそうとしたが、上手く力が入らず、すぐに断念した。左腕には点滴の太い針が刺さっていて、動かそうとするとじわりと痛みが広がる。この2年、久しく感じることのなかった感覚に、現実世界に帰ってきたのだという実感が湧いてきた。

 腕だけならば、辛うじて動かせそうだった。ベッドに寝転がったまま、ナーヴギアに手を掛ける。震える腕でなんとか灰色のヘッドギアを脱ぎ捨てると、長く伸びた髪が鬱陶しく首にまとわりついた。

 

「ヒッキー……?」

「その、呼び方も……久し、ぶりだな……」

 

 上手く回らない舌を酷使し、なんとか言葉を紡ぐ。俺がぎこちなく苦笑を浮かべると彼女はようやく状況を理解したようで、途端にその大きな瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。

 

「い゛っぎぃー!!」 

「おぐッ……!?」

「夢じゃない!? 夢じゃないよね!?」

「おま……もうちょっと、手加減……」

 

 顔をくしゃくしゃにして涙を流す由比ヶ浜の頭突きが腹部に炸裂し、俺はくぐもった声を上げた。……いや、多分本人的には抱擁のつもりだったのだろう。

 一言文句を言ってやろうかと思ったが、俺にしがみついて子供のように泣く由比ヶ浜を見ては、すぐにそんな気もなくなってしまった。

 

「よがったぁ……! よがったよぅ……! あたし、もし、このままヒッキーたちが居なくなっちゃったらって、ずっと、ずっと……!! うぅ――!!」

 

 由比ヶ浜の言葉は支離滅裂だったが、その心の内は伝わってきた。俺と雪ノ下がSAOに囚われ、奉仕部で1人残されてしまったこいつの心労はどれほどのものだったか。ベッドサイドに飾られた生花を見るに、きっとかなりの頻度で見舞いにも来てくれたのだろう。申し訳なさと、ありがたさが俺の胸に広がった。

 

「……悪い。心配、かけた」

「うん、うん……! いっぱい……いっぱい心配したっ! けど、いいの……ちゃんと帰って来てくれたから……!」

 

 俺の腹に顔を押し付けて泣いていた由比ヶ浜が、ようやく顔を上げてこちらを見た。目が合うと、再びその相貌に大粒の涙があふれる。

 

「ヒッキー……ヒッキーだっ……! ホントに……帰ってきたんだぁ……」

「ああ……」

「そ、そうだ! ゆきのんは!?」

「あいつも、帰って来てるはずだ……。ここに?」

「うん! ゆきのんも、ここの病院に……」

「行ってやれ。俺のことは、いいから」

「……うん!」

 

 少しの逡巡の後、由比ヶ浜が頷く。彼女は服の袖でゴシゴシと涙を拭い、勢いよく立ち上がった。それを視線で追った俺の眼に、ようやく周囲の状況が映る。

 病院の中は、既に大混乱になっているようだった。廊下からも騒がしい雰囲気が伝わってくる。そして同じ病室には、俺と同じようにナーヴギアを外してベッドに横になる患者の姿が並んでいた。きっと、SAO被害者が多く入院している病院なのだろう。

 

「お、おい……。あれ、風林火山のハチじゃ……」

「あ、あんな可愛い子と……」

「リア充許すまじ」

「あとでサイン貰お……」

 

 気付けば、同じ病室のSAO帰還者らしい男たちから、何やら妙な視線が向けられていた。いや、サインなんか絶対書かねえからな。

 

「あ、そうだ! 小町ちゃんたちにも連絡しないと! あ、でも、ここ病院だし、電話は……」

「い、いいから、とりあえず雪ノ下のとこ、行ってやれ。どうせ、すぐにニュースになる」

「あ、そっか」

 

 どうにも妙な空気になってきた病室からさっさと追い出すように、由比ヶ浜を促す。頷いた由比ヶ浜は「また後で来るから!」と言い残して、足早に歩き出した。

 しかし、病室のドアの前で立ち止まった由比ヶ浜は、振り返って俺に目をやった。また泣き出しそうになるのを、必死になって堪えているのがわかる。それを誤魔化すように大きく息を吸って、彼女は口を開いた。

 

「ヒッキー……おかえりっ!」

「……ああ。ただいま」

 

 立ち去る彼女を見送って、俺はゆっくりと目を閉じた。茅場晶彦との戦いによって溜まっていた疲労が、今になって体に返ってくる。思わぬ再会によって少しだけ目が覚めたが、脱力してベッドに体を預けるとすぐに睡魔が襲ってきた。

 病院の中に蔓延する喧騒を他所に、俺は睡魔に身を委ねる。帰還の満足感と達成感に浸りながら、俺の意識は微睡みの中へと落ちて行った――のだが。

 

「お゛に゛い゛ぢゃーんッ!!」

「おぐッ……!?」

 

 最愛の妹からの抱擁(頭突き)によって俺が叩き起こされたのは、それから間もなくのことだった。

 いや、だからお前らもうちょっと手加減を……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 帰ってきた兄は、以前とはどこか変わって見えた。

 悪夢のようなあの日から2年以上もの時間が経ったのだ。当然と言えば当然だけど、高二病を拗らせたあの兄が、と考えると信じられない変化だった。

 

 3000人以上の死者を出した未曾有の電脳テロ《SAO事件》

 私の兄、比企谷八幡はその被害者だった。不運にも兄はその電脳世界に囚われ、そして幸運にも2年の時を経て生還を果たした。

 ゲームの中にいた2年間について兄は多くを語らなかったし、私もあえて聞き出そうとはしなかった。国のSAO事件対策課からもあまり詮索しないように注意されていたし、公式にもSAO内部のことは今のところほとんど情報公開されていない。だから確かなことは何も言えないけど、あの兄のことだからずっと安全な場所にでも引きこもっていたんじゃないかと私は思っている。

 まあ何があったとしても、兄は兄だ。今は生きて帰ってきてくれただけで十分だった。

 兄の変化と言うのも悪いものではない。身に纏う雰囲気は柔らかくなったし、前よりは素直に自分の気持ちを口にするようになったと思う。

 

「小町的にはポイント高いけど……大丈夫? 個性死んじゃってるよ?」

「いや、別にキャラ付けのためにやってたわけじゃねーから……」

 

 そんな話をしたのが、兄が帰ってきてから1ヶ月くらい経った頃。リハビリの合間の休憩時間のことだった。柄にもなく毎日真面目な顔をしてリハビリに励む兄を見て、やっぱり変わったなと私はしみじみと感じたのだった。

 

 それから更に時間は流れて、そろそろ兄の退院が見えてきた頃だった。兄の友人を名乗る少年が、見舞いに訪れたのだ。

 話を聞くにどうやら彼もSAO事件の生還者らしい。まだ松葉杖をつきながらだけど、それでももうちゃんと1人で歩いていた。

 兄より一足先に退院し、様子を見にきたのだそうだ。私は兄にゲーム内で友達が居たことに驚きつつも、すぐに彼を病室に招き入れた。

 少年は桐ヶ谷和人さんと言うらしい。第一印象は可愛らしい男の子だった。見た目はなんだかジャ○ーズジュニアとかに居そうな感じで、多分歳は私と同じくらいだと思う。だけれど、桐ヶ谷さんにはなんとなく同世代とは思えない独特の空気があった。

 上手くは言えないけど、妙に余裕があると言うか、凄みがあると言うか。奇しくも、最近兄から感じる雰囲気に近い。雪乃さんも大分雰囲気が変わっていたし、SAOからの生還者はみんなそうなのだろうか。

 桐ヶ谷さんの顔を見た兄は驚き、そしてとても喜んでいた。本当に友達だったんだと少し失礼なことを考えながら、再会に水を差すのも悪いので飲み物でも買ってくると言って私は一旦席を外したのだった。

 病院の廊下をゆっくりと歩くうちに、私は自分の頬が自然と緩んでゆくのを感じた。SAOがクリアされたと聞いたあの日から、兄を取り巻く環境は全てが上手く回っているように思えた。

 こうして生きて帰ってこられたことについては言うまでもなく、さらにはあんな笑顔を向けることが出来る友達まで連れて戻ってきたのだ。一時期微妙だったらしい結衣さんと雪乃さんとの関係も、いつの間にか修復されて3人とも今まで以上に仲良くやっている。このまま上手くいったら、2人のどちらかが本当に私のお義姉ちゃんに、なんて展開もあるかもしれない。

 いや、SAOの中で友達を作って帰ってきたあの兄のことだ。もしかしたら勢いに乗って既に彼女まで作っていたり……うん、流石にそれはないか。

 ともあれ、そんな兄の先行きが明るいのは間違いないと思えた。兄も雪乃さんも、多分あと1、2週間のうちに退院となるだろう。国のSAO生還者への社会復帰支援はかなり充実しているから、これからの生活についても心配はない。多分SAO生還者のための特別支援学校に通うことになるはずだ。

 学年的には私と同じか1つ下。来月の学力テストの結果次第でその辺りが決まる。そのため兄はリハビリの合間に勉強にも励んでいた。曰く、小町と同学年になれれば、辛い大学受験も一緒に乗り越えられる気がするらしい。シスコン過ぎてちょっとキモい。まあ勉強を頑張ること自体は良いことだし、大目に見てあげようと思う。

 その後、病院のロビーでしばらく時間を潰した私は、これからの明るい未来に思いを馳せながら兄の病室へと戻った。けどそんな気分とは対照的に、私を迎えた兄と桐ヶ谷さんの間にはどこか重い空気が漂っていて――。

 兄が時々思い詰めたような表情をするようになったのは、それからのことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それじゃあ、ゆきのんとヒッキーの退院を祝って、カンパーイッ!」

 

 由比ヶ浜の音頭で、コップが打ち合わされる。ソフトドリンクが満たされたプラスチック製のコップからは、安っぽい音が響いた。

 1月某日。千葉市内のとあるファミレスである。4人掛けのテーブルを2つくっ付けて、懐かしい顔ぶれがそこに並んでいた。

 俺、雪ノ下、由比ヶ浜の元奉仕部3人に加えて、戸塚、川崎、平塚先生。

 俺と雪ノ下を除いた学生組は皆順調に進学し、現在それぞれ別の大学に通っているらしい。進路が分かれても交流は続いているようで、総武高ではないものの他校で教員を続けているという平塚先生にも連絡を取り、今日ここで俺と雪ノ下の退院祝いを開催してくれたというわけだった。

 SAO事件当初から2年以上も経ち、俺の記憶にある各々の姿からは随分と雰囲気が変わっていた。由比ヶ浜も川崎も大人っぽくなったし、戸塚に至っては少し髪も伸びて妙に艶っぽくなった。そしてビールジョッキを片手に持つ平塚先生はやさぐれ度が増した気がする。

 

「平塚先生、昼間からビールっすか……」

「祝いの席なんだ、固いことを言うな比企谷。ああ、でもお前らは飲むなよ。私の管轄じゃなくなったとはいえ、まだ未成年なんだからな」

 

 そういってグビグビとジョッキを傾ける平塚先生の左手薬指に、未だに指輪はなかった。……よし、その辺りの話題には触れないでおこう。

 

「……で、別にいいんだけどさ。なんでサイゼなの?」

「だってヒッキーがここが良いって言うんだもん。ゆきのんはどこでも良いって言うし」

 

 川崎と由比ヶ浜の視線が俺に刺さった。俺は目の前に置かれたミラノ風なドリアをつつきながら目を逸らす。

 

「いや、いいだろサイゼ。コスパ最高だし、混まないし、間違い探しもある」

「間違い探し、必要?」

「必要に決まってんだろ。誰かと来た時、間が持たなくなってもこれで30分は時間潰せるぞ」

 

 サイゼに用意されたキッズメニューの表紙には、お楽しみ要素として間違い探しのイラストが描かれている。子供向けのお遊びかと思いきや、大人がやっても意外と難易度が高いと評判だ。2つのイラストの中に10個の間違いがあるのだが、1時間近く探しても最後の1つが見つからないなんてこともある。

 もちろん俺はこの間違い探しを毎月欠かさずチェックしている。間違い探しのないサイゼなんて考えられない。

 

「つーか、そもそも間が持たなくなるような相手と来なきゃいいでしょ」

「いやお前……色々あるだろ。付き合いとか」

「あんたって案外流されやすいよね」

「ほっとけ」

 

 そんなやり取りの中、川崎が浮かべた表情は心なしか柔らかかった。雪ノ下のほどではないにしろ、彼女もここ2年で丸くなったのかもしれない。俺たちが仮想世界で駆け回っていたように、こいつらも現実世界で色々とあったのだろう。そんな当たり前のことを俺はしみじみと考えた。

 

「けど、材木座くんは今日来れなくて残念だったね」

「インフルだっけか、あいつ」

「そうみたい。薬飲んでもう体調はよくなったみたいだけど、まだ移るかもしれないからって」

「まあ残当だな。万が一にでも戸塚に移したら死刑だし」

「あはは。でも大丈夫だよ。大学でもテニスで体鍛えてるから」

 

 そう言って右手で力こぶを作る戸塚。うん。正直可愛さしか伝わってこないです。とつかわいい。

 

「材木座くん、ね……」

「どしたの、ゆきのん?」

「いえ、ちょっとあの時の衝撃を思い出してしまって……。彼、少し……いえ、かなり変わったわよね」

「あー、そだね。あたしはヒッキーのお見舞いの時とかに結構会ってたからあれだけど、いきなりああなってるの見たら驚くよね」

 

 遠い目をした雪ノ下に、由比ヶ浜が相槌を返す。その会話を聞きながら俺も深々と頷いた。

 ここにいる面々も2年間のうちにだいぶ見た目や雰囲気が変わったと思うが、材木座の変貌ぶりはその比ではなかった。

 

 2年前。SAO事件発生直後。俺がSAOに囚われたと知った材木座は、まず自分を責めたらしい。

 まあ経緯を考えればわからない話ではない。俺がSAOをやるきっかけとなったのは材木座からの誘いだったのだ。材木座から半ば無理矢理SAOのβテストに一緒に応募させられ、そして俺だけが当選した。その後材木座は限定1万本の正規版ソフトも入手出来ず、俺だけがSAOに囚われることとなったのだった。

 SAO事件の発生当初、材木座からは号泣しながら土下座されたと小町や両親から聞いている。まあ俺自身は材木座のせいだなどとは思ってないし、小町や両親も同じように伝えたそうだ。それでも1度芽生えた罪悪感というのはそう簡単に拭えるものではない。材木座はストレスによってみるみる痩せ衰えてゆき、無駄に蓄えられていた大量の贅肉はごっそりと削がれ、ついには男子高校生の標準体型になってしまったのだという。それなんてダイエット?

 病院に見舞いに訪れた材木座と再会した時には、冗談抜きに「誰?」と口にしてしまった。あいつ痩せたら割とイケメンなんだよな……。キャラ死んでるぞ。いや、別に妬んでるわけじゃない、決して。

 

「厨二臭さもなくなっちまったし、元の要素皆無だろ。ホントに別人なんじゃねぇの」

「あ、でもらのべ? はまだ書いてるみたいだよ」

「そういや、なろうに投稿してボロクソに叩かれたとか泣いてたな……」

 

 俺も材木座が投稿したものを読んでみたが、まあ叩かれても仕方のないような地雷要素満載の作品だった。しかし内容はともかく、以前は叩かれたくないからネットには投稿しないと言っていたので一応成長はしているのだろう。

 そうして互いの近況などを語らいながら、食事を進める。しばらくは和やかな雰囲気で歓談していたが、ドリアとポテトフライばかり食べていた俺を見咎めるように、雪ノ下が鋭い視線をこちらに向けた。

 

「ちょっとハチくん。ちゃんと野菜も食べなさい。ゲーム内では大目に見ていたけれど、現実世界ではバランスよく食べなきゃだめよ」

「母ちゃんみたいなこと言うなよ……。いや、それにほら、ポテトフライってじゃがいもだし、野菜取ってると言えなくもなくね?」

「それを本気で言っているのならあなたの正気を疑うわ。ほら、屁理屈言ってないでちゃんとサラダを食べなさい。取り分けるから、この分は義務よ」

「わ、わかった。食う。食うから、トマト増し増しにするのだけは勘弁して下さいお願いします」

 

 そう言って俺の皿にサラダを盛り付けている雪ノ下に苦い顔を向ける。女子力高いを通り越して、もはやオカン力が高い。

 しかし俺の懇願が届いたのか、雪ノ下はため息をついて盛ってあったカットトマトをいくらか自分の皿へと移して減らしてくれた。あ、1個だけは義務なんですね。

 そうして雪ノ下からサラダを受け取る俺を見て、隣に座る平塚先生が引きつった笑みを浮かべる。

 

「ず、随分と親しげなんだな君たちは……。なにやら呼び方も変わっているようだし?」

「ええ、まあ。もうゲーム内での名前で呼ぶのに慣れてしまって。あなたも、私のことをユキノと呼んでいいのよ?」

「勘弁してくれ……」

「そう。残念ね」

 

 そうして悪戯っぽく笑う雪ノ下を見て、平塚先生がさらに顔を引きつらせる。その後しばらく平塚先生は何やら1人で百面相をしていたが、やがて全ての感情を飲み込むように大きく頷いて次の言葉を口にした。

 

「まあ何はともあれ、元気そうで何よりだ。リハビリは順調だと聞いたが、退院してみて実生活で何か不便はないかね?」

「あ、なんか平塚先生がせんせーっぽいこと言ってる」

「私は正真正銘の教師だ馬鹿者」

 

 茶々を入れた由比ヶ浜にそう返しながらも、平塚先生は既に2杯目になるビールジョッキを豪快に傾けていた。教師とは……。

 

「ま、まあ特に不便はないっすね。むしろリハビリのお陰で前より動けるまでありますよ」

「ええ、私も同じです。こちらに帰ってきてから、何故かことあるごとに姉が私の世話を焼こうとするので、それが煩わしいといえば煩わしいですが」

「ははは。それくらいは大目に見てやれ。君がSAOに囚われたと知った時の陽乃は、かなり憔悴していたからな」

「ちょっと想像出来ないっすね……」

 

 そうは言ったものの、雪ノ下姉は元から少し歪んだタイプのシスコンだったし、納得と言えば納得かもしれない。甲斐甲斐しく妹の世話を焼くあの人を想像すると、少し鳥肌が立つけど。

 

「けど本当に、八幡たちが無事に帰ってきてよかったよ。一時期はSAOからの解放は絶望的だ、なんてニュースで言ってたから」

 

 ――来たか。

 戸塚が切り出したその話題に、俺は内心冷や水を浴びせ掛けられたような気分になった。しかし、想定していたことだ。SAOからの生還を祝うこの席で、その話題が避けられるはずはなかった。

 

「……まあ、そうだな。正攻法で攻略してたら、未だにゲームの中だっただろうし」

「じゃあ正攻法以外でクリアしたってこと?」

「一部のプレイヤーたちが、プレイヤーの中に紛れてた茅場晶彦を見つけ出して、倒したんだ。それでSAOはクリアされた」

 

 淡々と、他人事のように答えた。

 SAO内部の話をするのは、別にこれが初めてではない。警察の人間には覚えている限りのことを説明したし、無神経な報道関係者からの質問を受けたこともある。その度に無難な答えでやり過ごしてきたのだ。

 だから、表面上は冷静に答えることが出来たと思う。雪ノ下の方からこちらを案ずるような視線を感じたが、俺は意識して目線を逸らした。

 

「へえ。じゃあそいつらはまさに英雄ってわけだ」

「ああ。俺たちも含めて、数千人の人間を助けたんだ。本当に、すごい奴らだよ。……わりぃ、ちょっとトイレ」

 

 強引に話を切り上げ、俺は席を立った。

 少し、不自然だったかもしれない。そう思いながらも、しかしもうこれ以上あの話題について語ることは出来なかった。

 脳裏に過るのは、あの瞬間。無力だった自分。その温もりだけを残し、砕け散ってゆく彼女の身体。

 込み上げる嘔吐感を堪えながら、俺は歩みを速めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……あたし、何かまずいこと言った?」

 

 話の途中で急に席を立った比企谷に不審なものを感じたのか、川崎は微妙な表情を浮かべてそう口にした。原因に心当たりのない者たちは、しばらく困惑して顔を見合わせる。やがて彼らの視線は、沈痛な面持ちで俯いていた雪ノ下へと向かった。

 

「川崎さんは何も悪くないわ。けど、やっぱり下手に隠すよりきちんと話しておくべきだったわね」

「何かあったの?」

 

 話を促す戸塚の言葉に、彼女は小さく頷いた。そして慎重に言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開く。

 

「私たちと……いえ、特に彼と親しかった知人の1人が、まだ目を覚ましていないの」

「目を覚ましてない? あ、300人の未帰還者……」

「ええ」

 

 それとなく事情を察したその場の面々は、それぞれ神妙な顔をして俯いた。

 ナーヴギアと呼ばれるヘッドギア型端末によって、1万人もの人間を電脳世界へと閉じ込めた《SAO事件》。多くの犠牲を払いながらも、プレイヤーたちの尽力によって2年という時を経てゲームはクリアされ、生き残った人々は全員無事解放された――かに思われた。

 実際、大多数のSAO事件の被害者たちは解放されていた。しかしその明るいニュースによって世間が湧く中、何故か一部の被害者たちだけは目を覚ますことはなかった。ゲームクリアから2ヶ月ほどが経つ現在もその原因は解明されておらず、解決の目途は立っていない。

 

 《300人の未帰還者》

 未だナーヴギアを装着し眠り続ける彼らを、人々はそう呼ぶようになっていた。

 

「……ごめん。SAOでのことは、気軽に聞いていいことじゃなかったね」

「僕も、ごめん……。2人が生きて帰って来てくれて、舞い上がってたかも。けど、そうじゃない人も沢山いるんだよね」

 

 謝罪を口にする川崎と戸塚に、しかし雪ノ下は力なく首を横に振って返した。そして遠い目で、居なくなった比企谷の席を見つめる。

 

「どうせいつかは向かい合わなければいけない問題よ。それに、この場でSAOの話をするなという方が無理があるわ。彼自身、あまり露骨に気を遣われるのも嫌がるでしょうし」

「……全く、相変わらず難儀な奴だな。この2年で少しは変わったかと思ったが」

 

 ため息交じりに平塚が口を開く。しかしすぐに空気を切り替えるように、わざとらしく明るい声音で言葉を続けた。

 

「おおよそ事情は理解したよ。しかしそれは君たちが再会を喜び合ってはいけない理由にはならない。だから、そう暗い顔をするな。今日は祝いの席なんだからな。楽しくやろう」

「……そうですね」

 

 首肯した雪ノ下が表情を緩めたことで、その場の空気が少し軽くなった。

 

 この祝いの席で、彼の沈んだ気持ちが少しでも紛れればいい。雪ノ下はそう考え、今日この場に臨んでいた。例えそれが、ほんの気休めに過ぎないとしても。

 比企谷が心の内に抱える問題を、雪ノ下も多少は理解しているつもりだった。ゲーム内で親しかったあの人が目を覚まさないことに胸を痛めている……という単純な感情だけではないはずだ。SAOのクリアが懸かったあの最後の戦いの顛末を、雪ノ下はキリトから聞いていた。

 きっと彼は――自分を、責め続けているのだろう。

 

 トイレから戻ってきた比企谷は、何でもない風を装って再び席に着いた。皆それが痩せ我慢だと気付いていたが、誰もそれを指摘することはなかった。

 どこかぎこちない雰囲気を孕みながらも、その後は始終穏やかに時間が過ぎて行った。この穏やかな日常の中で、彼の傷が少しずつでも癒えていってくれればいいと、雪ノ下は願ったのだった。


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