やはり仮想現実でも俺の青春ラブコメはまちがっている。   作:鮑旭

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第7話 第25層攻略 part3

 2週間ほど前から、俺はゲーム攻略が難航しているこの現状を打開するために1つの手を打っていた。いや、手を打っていたなどと言うのは語弊があるかもしれない。今回俺が取った手段は非常に無責任で他力本願なものだった。

 まあ過程はともあれ、その成果は十二分に得られたと言えるだろう。彼らを目の前にして、俺はそう確信していた。

 

「我らギルド《血盟騎士団》は、攻略組への参加を希望する」

 

 大勢のプレイヤーを率い、暗雲が立ち込める攻略会議に颯爽と現れたヒースクリフは声高々にそう宣言した。唐突すぎるその展開に、集まったプレイヤーたちは呆気にとられ、会場である教会の講堂には水を打ったような静寂が広がる。数秒の沈黙の後、ようやく事態が飲み込めてきたプレイヤーたちは騒然としだした。

 

「おい、血盟騎士団なんてギルド知ってるか?」

 

「いや……ヒースクリフって名前も初耳だし……」

 

「でも、あのアスナさんが入ってるんだぞ? それなりに有名なギルドなんじゃないのか?」

 

 講堂の中央付近、10列ほど並べられた木製の長椅子に腰かけている俺の前に座るプレイヤーたちからは、そんな囁きが聞こえてきた。その声は困惑に満ちている。講堂奥の壇上に立つリンドや長椅子に腰かける他のプレイヤーたちも一様に、戸惑うような視線をヒースクリフへと向けていた。

 俺も一応、少し驚いたような表情を作って渦中の人物に視線を送っていたのだが、隣に座るキリトだけは何故か訝しむような顔でこちらを見ていた。キリトには今回の計画に関して何も話していなかったのだが、最近の俺の挙動と彼らの登場に関して何か思うところがあったんだろう。ここでキリトに追及を受けるのは面倒なので必死にそれから目を逸らしていると、再びヒースクリフが口を開き、ようやくキリトもそちらに顔を向けた。

 

「団長を務めるのはこの私、そして副団長はここにいるアスナ君だ。私を含めて団員は総勢18名。平均LVは39。装備も十分に強化してある。何も問題はないだろう?」

 

 ヒースクリフは会場のプレイヤーたちを見回しながら、隣に立つアスナ、そして講堂中央に整然と並ぶ団員に水を向けると、最後にリンドに対してそう問いかけた。ざわついていたプレイヤーたちもリンドの言葉を待つように再び静まり返る。

 ヒースクリフの言葉が事実なら、確かに彼らの攻略組入りには何の問題もない。むしろ攻略が難航しているこの状況では、諸手を挙げて迎え入れても良いくらいだ。

 

「彼らの実力は十分攻略組でも通用するレベルです。それは私が保証します」

 

 ヒースクリフの横に立つアスナが後押しするように口を開く。しかし、リンドは返答に悩んでいるようだった。まあ、予想通りの反応だ。数人ならともかく、これだけ大人数が一度に攻略組入りすることなど前例もない。しかもその大半が最前線で名前を聞いたこともない無名のプレイヤーたちなのだ。いくら現攻略組であるアスナの推薦があったとしても、頭の固いリンドが慎重になるのは当然だった。

 しかし、ここでリンドに渋られるのはまずい。最終的には血盟騎士団の攻略組入りは確実だろうが、その過程でリンド、ひいては彼の率いるDKBと対立するようなことがあれば今後の火種にもなりかねない。

 だから、こういう時は俺の出番だ。

 

「ちょっと待てよ」

 

 プレイヤーが皆押し黙る中、俺の発した声はよく響いた。先ほどまで壇上に立つリンドへと向けられていたプレイヤーたちの意識が、一斉に講堂の後方へと移る。そして椅子から立ち上がった俺を認め、皆一様に訝し気に顔を歪めた。

 

「ハ、ハチ……?」

 

 隣ではキリトがそう言って目を丸くしていたが、俺はそれに取り合うことなくヒースクリフへと言葉を続ける。

 

「問題ないわけねぇだろ。何の実績もない、あんたみたいなぽっと出のプレイヤーを信用なんか出来ると思ってんのか?」

 

 そうやって喧嘩腰に話す俺に対し、この場に居た多くのプレイヤーは「あいつ、何出しゃばってるの?」という顔をしていたが、唯一ヒースクリフだけは不敵な笑みを浮かべていた。

 

「……ではどうすれば認めてくれるのかな? 一緒に狩りにでも行くかね?」

 

 力を見極めるために、一緒に狩りをする。それも1つの選択肢だったが、それでは不確定要素が多い。不測の事態に陥れば、彼らが攻略組に対して不信感を抱くようなこともありうるだろう。まあもしかしたらそれは考え過ぎかもしれないが、出来ることならこちらがある程度コントロール出来るような展開へと持って行きたい。

 だから俺はヒースクリフに対し、もう1つの選択肢を提示することにした。

 

「いや、もっと手っ取り早い方法がある……あんたが俺と決闘(デュエル)するとかな」

 

 俺が発した決闘という言葉に、再び周りのプレイヤーたちは騒然としだした。ヒースクリフも笑みは崩さなかったものの、少し驚いたように眉を上げる。

 SAOの中には、決闘システムというものがある。これを利用すればカーソルがオレンジになることもなくプレイヤー同士対戦が出来るので、これは度々腕試しなどに利用されるのだ。

 

「それは……私が君に勝てれば、というわけかな?」

 

「俺に勝てる奴なんか攻略組にもほとんど居ねぇよ」

 

 ヒースクリフの言葉に俺は鼻で笑って答え、挑発するように攻略組の面々を見回した。ゲーム内でのトッププレイヤーを自負する彼らは俺のその態度に不愉快そうに顔を歪めていたが、幸い誰も口を出すようなことはしなかった。

 

「だから別に勝つ必要はない。実戦で使える奴かどうかは見ればわかるからな。リンドもそれでいいだろ?」

 

 そこでようやく俺は壇上に立つリンドへと視線を送る。俺たちのやり取りを呆気にとられたようにただ眺めていただけのリンドだが、この場で最終決定権を持つのはこいつだ。

 急に話を振られたリンドは戸惑うような顔をして沈黙していた。そしてしばらく考え込むような素振りを見せていたが、最終的にはこの場の雰囲気に押されるようにゆっくりと頷いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 混迷を極めた今回の攻略会議は俺の提案によって一時中断することとなり、俺とヒースクリフの決闘を行うためにその場に居たプレイヤーたちは皆そのまま第25層の転移門広場へと移動することになった。

 会場となっていた教会を後にした俺とキリトも、他のプレイヤーと距離を取りつつ、煉瓦で舗装された大通りを転移門広場へと向かって歩いていた。その道すがら、キリトは近くにプレイヤーが居ないことを確認すると1つため息をつき、呆れたような声で口を開く。

 

「それで、今回はどこからどこまでがハチの企みなんだ?」

 

 何やら人聞きの悪いことを言っているキリトに対し、俺は苦い顔を向ける。

 

「何だよその言い方……。いつも俺が何か企んでるみたいじゃねぇか」

 

「最近アスナと2人で何かコソコソやってるなと思ってたんだよ……こういうことだったんだな」

 

 とぼける俺の言葉には取り合わず、キリトは1人で納得するようにそう呟いた。俺は否定も肯定もせずに黙々と歩いていたが、キリトは気にすることもなく再び俺に問いかける。

 

「で、さっきからアスナが凄い顔でこっち見てるわけだけど……もしかして、さっきのことはハチの独断なのか?」

 

「言うなよ……。今必死に目逸らしてんだから……」

 

 隣を歩くキリトの視線の先、20mほど前方を歩く血盟騎士団の集団の中からアスナがこちらを振り返り、恐ろしい形相で俺を睨んでいた。というか、攻略会議で俺がヒースクリフに突っかかっていった時から、ずっと俺を睨んでいる。その顔には「こんな展開聞いてないんですけど?」と書いてあった。

 今はアスナの立場上俺に話しかけてくるようなことはなかったが、後のことを考えると胃が痛い。まあ自業自得なのだが。

 

「まあ今さら止めはしないけどさ……アスナにも俺にも、後でちゃんと説明しろよ?」

 

「……ああ」

 

 俺が頷くとキリトはとりあえず満足したようで、それ以上の追及はしてこなかった。

 そして歩くこと数分。俺たちは目的の転移門広場に到着した。

 街の中心部に位置するその広場は円形になっており、煉瓦や石造りの建物が続く街並みの中、そこだけぽっかりと空間が開いていた。灰色の石材が敷き詰められた広場の中心には長方形の台座が配置してあり、その上には2本の石柱――転移門が建てられている。

 それを遠目に認めながら俺たちが広場の中に入ると、隣にいたキリトは戸惑ったように立ち止まって周囲を見渡した。

 

「……何かギャラリーが多くないか? どこから聞きつけてきたんだ?」

 

 キリトの言う通り、広場には攻略組以外のプレイヤーたちも大勢集まっていた。転移門は交通の要なので普段から人通りは多いのだが、それにしてもこの賑わいは異常だった。広場の半分をプレイヤーが埋め尽くすような勢いだ。

 疑問に思いながらもとりあえず広場の中を進んで行く俺たち。すると、広場の中で一際プレイヤーが集まっている一角があり、そこから何やら聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 

「サア、張っタ張っタ! 突然攻略組に現れた新星ヒースクリフと、風林火山のハチの決闘ダヨ! 今のトコロオッズはヒースクリフが高めで――」

 

「何やってんだあいつは……」

 

 呆れて声を漏らした俺の視線の先、そこでは数名の仲間を引き連れたアルゴが集まったプレイヤーたちを相手に何か商売のようなことをしていた。そのやり取りをよくよく聞いてみると、どうやら俺とヒースクリフの決闘(デュエル)をネタに特設の賭博場を設置しているらしい。かなり繁盛しているようで、アルゴはせわしなく動き回っていた。

 

「情報早過ぎんだろ……これ決まったの10分前だぞ……」

 

「さすが情報屋……侮れないな」

 

 呆然と呟く俺に対し、キリトはそう言って頷く。正直そんな簡単な言葉で済ませられるようなことではない気もするが、追及するのも面倒だ。俺たちはその場を横目で通り過ぎ、攻略組が集まっている場所へと向かった。

 先に広場へと到着していた他の攻略組と血盟騎士団のプレイヤーたちは、広場の中直径20メートル程度の空間を丸く囲むように並んでいた。そこが決闘のステージということだろう。既にヒースクリフはその円の中で静かに佇み、俺を待っている。

 

「……ハチ、無茶はするなよ」

 

「わーってるよ」

 

 キリトの言葉に軽く答え、俺は並ぶプレイヤーたちの間を抜けてヒースクリフの前へと立った。彼我の距離は10メートル弱。ゲーム内のシステムアシストの分を考えれば、十分一足一刀の距離だ。

 

「さて、準備は良いかな?」

 

「ああ」

 

 不敵な笑みを浮かべたヒースクリフが俺に問いかける。随分と余裕な態度だ。俺の方はというと内心ビビりまくりで心臓がバクバク言っていたが、それを悟られないようにゆっくりと頷いた。

 

「では取り決め通り、決闘の方式は初撃決着モードで。私から申請しよう」

 

 決闘の決着方法にはいくつかのモードがあり、普通は命の危険のないよう初撃決着モードで行われる。これはその名の通り、先に一撃有効打を当てたプレイヤーの勝利となるモードで、他にも小さな攻撃が蓄積してある程度HPが減ることでも勝敗が決まる。

 

 間もなくシステムウインドウを操作していたヒースクリフから決闘が申し込まれたので、俺は表示された決闘の詳細を確認してそれを受諾した。

 すると俺とヒースクリフの目の前にシステムメッセージが現れ、60秒のカウントダウンが始まる。不意打ちなどを防ぐためか、決闘が始まる前には準備時間が用意されているのだ。

 

 カウントダウンが始まった瞬間から広場にはピリピリとした緊張感が走り出した。攻略組や血盟騎士団の面々はもちろん、先ほどまで賭博場に集まって賑わっていたプレイヤーたちもいつの間にか息を飲むように押し黙り、遠巻きにこちらを見ている。

 しばらくはお互い武器も手にせずに、ただ佇んでいた。徐々に減っていく数字を見つめながら、静かに時が過ぎるのを待つ。残り時間が30秒を切ったところで、ようやく俺は背中の槍を手にし、ヒースクリフも右手で鞘から剣を抜き放ち、左手で背中から盾を取り出した。しかし、互いにまだ構えは見せない。

 構えを見れば相手がどんな戦い方をするのか、ある程度のところまでは分かるものだ。だから対人戦に慣れた者ならギリギリまで構えは見せない。極端な話、お互いの間合いがぶつかり合う瞬間に構えが出来上がるのがベストなのだが、本物の武術の達人でもない限りはそんなことは不可能だ。

 もちろん俺にそれほどの技量があるわけもなく、無難に残り時間が5秒を切ったところで低く槍を構えた。ヒースクリフもほぼ同時に構えを見せる。半身になって左手の盾を前に突き出し、剣は胸元で垂直に構えている。

 

 残り2秒。そこで俺は深く腰を落とし、開始を待つことなく右足で強く踏み切って一気に間合いを詰めた。ヒースクリフへと迫りながら俺は決闘開始のブザーを聞き、それとほぼ同時に下段から突きを放つ。

 開始直後の強襲だったがヒースクリフは全く動揺することなく、難なく盾でその攻撃を受けた。しかし俺はそれに構わず、更に間断なく小刻みに突きを放つ。上段下段、さらには左右から弧を描くように迫り、揺さぶりをかける。雨のように浴びせかけられるその攻撃をヒースクリフは全て盾で器用に弾きつつ反撃の隙を伺っていたが、俺が剣の間合いの外から攻撃を加えているために、うまく攻勢に移れないようだった。そうしてしばらくこちらの攻勢が続いたが、結局俺はその状態で攻めあぐね、仕切り直すために大きく距離を取ったのだった。互いにそこで大きく息をつく。

 

 その間隙に、周りから大きな歓声が上がった。2人ともまだソードスキルさえ使っていない上に正直それほど高度なやり取りでもないのだが、プレイヤーたちはそんなことはお構いなしとばかりに騒いでいる。SAO内では皆慢性的に娯楽に飢えているので、恐らくはただ騒ぎたいのだろう。見世物にされるのは不本意なので、早めに決着を付けたい。

 

 次の一合で勝負を決める。そう決意して俺は槍を構え直し、今度はゆっくりと間合いを詰めるようにヒースクリフに近づいていった。相手も俺の意思を感じ取ったのか、剣を構えるヒースクリフには先ほどとは比べ物にならないほどの気が満ちていた。

 間もなく、互いの間合いがぶつかる。だがヒースクリフは動かない。カウンターを狙っているのだろう。一気に踏み込むのは危険だ。そう考えた俺は左方下段からの突きと見せかけたフェイントを挟み、次いで右方から渾身のソードスキルを放った。緑色のライトエフェクトを纏いながら相手に迫る刺突の一撃。盾で防げたとしても、正面から打ち合えばノックバックは避けられないだろう。しかしその攻撃を放つ刹那、俺が見たのは薄く笑みを浮かべたヒースクリフだった。

 

 絶妙な角度とタイミングで盾を前に押し出し、穂先を受けるヒースクリフ。そうして体勢を崩すことなく盾で刺突を横へと受け流すと、それと同時に右手の剣を上段に構えた。その剣に緑色の光が灯り、間を置かず俺へと振り下ろされる。必殺の一撃を空ぶってたたらを踏む俺に、それを凌ぐ術はなかった。

 

 周囲のプレイヤーが小さな悲鳴を漏らす中、そうして決闘の勝者を告げるメッセージが広場に大きく表示されたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第25層。その中心街の一角に居を構える居酒屋風の店。

 まだ日も沈んでいない時間帯だったが、その店は既にプレイヤーたちで賑わっていた。20名程度のプレイヤーたちがいくつかのグループに分かれて卓を囲み、杯を呷りながら賑やかに歓談している。

 現在のアインクラッドでは街中で戦闘用の装備を着用しているプレイヤーは少なく、基本的に普段着のような楽な恰好をして過ごす者たちが大多数だったが、彼らは皆自らの力を誇示するように赤と白を基調とした鎧を纏ったまま宴会に興じていた。

 その特徴的な装備から分かるように、ここに集まっているプレイヤーたちは血盟騎士団のメンバーである。先刻晴れて攻略組入りを果たした彼らは、この居酒屋を貸切って祝勝会を開いていた。プレイヤーたちは未だ興奮冷めやらぬといった様子で、どの卓でも同じ話題について盛り上がっている。

 

「ハチとかいうあのプレイヤー、あんだけデカい口叩いといて結局あっさり団長にやられてたな」

 

「ああ。ドヤ顔で『俺に勝てる奴なんか攻略組の中にもほとんどいねえよ』とか言ってたくせに、ダサ過ぎだろ」

 

 店内中央の席に着く男たちはそう言い、嘲るように笑っていた。酒――SAO内においてもある程度の興奮作用がある――を呷りながら、話はヒートアップしていく。

 

「つーか俺、前からあいつ気に食わなかったんだよね。胡散臭い本出していい気になっててよ。なんか攻略組の中でも煙たがられてたらしいぜ」

 

「ま、そう言うなよ。あの咬ませ犬のお蔭で俺らも攻略組に認めて貰えた訳だし、逆に感謝しないといけないくらいだぜ?」

 

 男がおどけるようにそう言うと、それを聞いた男たちの笑いが重なった。そこで少し間をおいて、男たちは再び攻略組についての話題に興じていく。

 そんな明るい声が飛び交う店の中、壁際の席に腰かけていたそのプレイヤーだけは唯一浮かない顔をしていた。未成年の彼女の前にはオレンジ色のソフトドリンクが置かれている。

 

「……何も知らないくせに」

 

 悔しそうに呟いた彼女の右手は、強く握り締められていた。その声が誰かに届くことはなかったが、何か異変を感じ取ったのか、隣に座る大人しそうな男が心配そうに彼女の顔を伺う。

 

「アスナさん、どうかした?」

 

「いえ……何でもないです」

 

 そう言いながら、アスナはばつの悪い顔をしてそのプレイヤーから目を逸らした。

 アスナは本心ではすぐにでも後ろで騒いでいる団員の話に割り込み、彼のことを擁護したかった。しかしここにいる者たちがその話を受け入れる可能性は低く、なにより彼はそれを望まないだろう。それがよくわかっているアスナには、ただ口を噤んでいることしか出来なかった。

 隣の男はアスナのその様子にしばらく訝しげに視線を送っていたが、彼女がそれ以上何も口にしなかったので深入りするのはやめたようだった。しかし、次いでアスナの向かいに座る男、ヒースクリフが何かを察したように口を開く。

 

「アスナ君は少し体調が優れないようだね。今日はもういいから、帰って安静にしていた方がいい」

 

 その言葉にアスナが顔を上げると、ヒースクリフは穏やかな笑みを浮かべていた。ややあって、彼女はため息をついて頷く。

 

「……はい。そうさせて貰います」

 

「それなら僕が送って行きましょうか?」

 

 再びアスナに視線を送っていた隣の男がそう提案してくる。その表情に下心などは伺えなかったが、アスナは首を横に振ってそれに答えた。

 

「ありがとうございます。でも今は転移門からすぐの宿に泊まっているので、大丈夫です」

 

 そう言ってアスナは席を立つと、周りのプレイヤーたちに挨拶などを済ませてすぐに店を出て行ったのだった。

 ヒースクリフの言葉もあってか誰も彼女を引き止めるようなことはしなかったのだが、多くのプレイヤーが彼女の帰宅に落胆したのは明らかだった。血盟騎士団唯一の女プレイヤーであり、その端正な容姿からアスナはギルド内でも既にアイドル的存在になっていたのだ。

 そうして少し水を差されたように静まってしまったプレイヤーたちだったが、しばらくすると何事もなかったかのようにまた騒ぎ始める。

 そんな中、ヒースクリフはその輪の中には入らず、店の奥で1人静かに酒を楽しんでいた。手に持ったグラスを揺らし、大きな氷がカランと音を立てる。

 

「……今度は互いに本気で戦いたいものだ」

 

 その小さな呟きは、プレイヤーたちの喧騒の中に消えていく。隣に座っていた男が不思議そうに視線をそちらに向けると、その口元は至極愉快そうに歪んでいた。


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