トレセン学園の一室、シンコウウインディのトレーナーの部屋。
多くのトレーナーと同じく、彼もまた多忙の日々を送っていた。
「ウインディの体調管理、トレーニング構築、研究、事務作業、いたずらの謝罪行脚。
毎日やることがいっぱいだなあ」
忙しいとは言いつつも、概ね前向きな出来事による結果であるため楽しそうな顔のトレーナー。
「しかしちょっと働きすぎなのかなあ、腕がやけに痛いや」
そう言って左腕を優しく撫でる。
その左腕には包帯が巻かれており、その下にはいくつかの歯形が付いていた。
今日もシンコウウインディとのトレーニングの予定なので、コースに向かうトレーナー。
すると、時間前にもかかわらずシンコウウインディが待機していた。
随分とやる気があるらしく、トレーナーとしてはうれしい限りである。
「おっ、ウインディ!もういたのか!」
「トレーナー!全く、子分のくせに親分を待たせるとはいい度胸なのだ!
…って、腕に包帯を巻いてるのか?どうかしたのか?」
「ああ、これは…」
トレーナーは自分の腕を見た。
包帯を巻いている理由はシンコウウインディに噛みつかれたからなのだが、
それを言うと責任を感じるかもしれないと思ってごまかした。
「くっ、この腕に触れるなよウインディ…!俺の腕には闇の力が封印されている…
この包帯はそれを外に出さないための『枷』なんだ…!
もし封印が解かれたら、世界は破滅してしまうかもしれない…!」
「そ、そうなのだ!?お前そんなにすごい奴だったのか!
…って、なんかギムレットみたいなこと言ってるのだ。
せいぜいウインディちゃんに迷惑かけないように努めるのだ。
さっさとトレーニングするのだ」
「つ、冷たい!」
シンコウウインディは少しあきれたような顔をしてスルーした。
元気そうだからまあいいか、と思ったのかその後包帯について触れることは無かった。
それから数日たっても、トレーナーの腕の調子は良くならなかった。
「はあ、腕は全然よくならないな。なんか熱も出てるみたいだし風邪でも引いたかな…?
なんかあちこち痛いし…でも関節痛みたいな感じ。
ウインディのトレーニングにつきあってるからダメージ受けちゃったかな?」
そう言って手足を軽く動かすと、あちこちの関節が少し痛むのだった。
それでも体調不良を押してトレーニングへと向かう。
「よ、よーし…今日は坂路トレーニングを…」
指導をしながらも、若干ふらついているトレーナー。
それに気づかないほどシンコウウインディは鈍くなかった。
「おい、トレーナー。お前、どう見ても具合が悪そうなのだ。
トレーニングはウインディちゃん1人でやっておくから、とっとと帰るのだ」
「え…?ウインディが1人で…!?」
「今のお前みたいなボロボロの奴が側にいたって足手まといなのだ!
お前みたいなのにいられるとウインディちゃんまで弱く見えるのだ!
それにほっといてウインディちゃんに移されてもメーワクなのだ!
だから邪魔なのだ!とっとと保健室でも病院でも行くのだ!!」
手をぶんぶん振って耳を絞りながら言うシンコウウインディ。
口が悪いのは単なる照れ隠しで、「具合が悪いなら休んで早く治してほしい」という意味だ。
「うーん…申し訳ないけどそうさせてもらうか…。
トレーニングメニューは渡しておくから、できる範囲でやってみてくれ。
すまないな、ちょっと保健室に行って診てもらうよ…」
トレーナーが差し出したメニューを荒々しく受け取るシンコウウインディ。
「全く手のかかるやつなのだ!
でも親分には子分の管理をする義務があるから仕方ないのだ!
…とっとと治して、とっとと戻ってこいなのだ!」
シンコウウインディはさみしがり屋なので1人にはしたくなかったが、
こう心配されているのに断るわけにもいかないな、とトレーナーはその場を後にした。
保健室に移動したトレーナーは、常駐の先生に診てもらった。
「あなた、熱が38度もあるじゃない…!仕事してる場合じゃないでしょ!」
「いやあ…最近ちょっと調子が悪いとは思ってたんですが…」
「ちゃんと睡眠はとってるの?」
「まあ5時間くらいは」
「短いわね…最低6時間は取りなさいな。
とりあえず解熱剤と風邪薬は出すから帰って寝ることね。
それで改善されなかったら病院で診てもらった方がいいわ」
「はーい…ありがとうございます…」
解熱剤を受け取り帰宅するトレーナー。
それを飲むと少し体温は下がったが、1日たっても2日たっても体調は改善されなかった。
貰った薬のおかげか、ふらつくほどではなくなったのでそのまま生活を続けるのだった。
数日後、トレーナーが買い物に出かけて帰る途中。
喉の渇きを覚えて自動販売機で飲み物を買うことにした。
「ふう…買い物するだけでも疲れるな。なかなか治らんし、風邪をこじらせちゃったか?
関節も痛いし、そういやコロナやインフルってそういう症状もあったっけ。
やっぱ病院行った方がいいかなあ。まあとりあえず冷たいお茶でも買うか…」
そう思って財布を取り出した時、腕が痛んで落としてしまった。
派手な音を響かせ、小銭が辺りに転がっていく。
「げっ、やっちまった。面倒くさいなもう…」
トレーナーが落とした小銭を拾っていると、背後から近づいてきた1人の男。
黒いマントに身を包む屈強な男、その名はドクターK。
「向こうに行ったのは拾いましたよ、どうぞ」
「あっ、ありがとうございます。すいませんね、ちょっと不注意で…」
トレーナーは手渡された小銭を財布にしまう。
その時の彼の手は、少し震えていた。
それを見たKが言う。
「失礼ですが、あなたは体調が優れないのではないですか?
不注意ではなく、不調によるものとお見受けしますが」
「あー…体調はちょっと良くないんですよね。
そうか、うつしたら申し訳ないし私は帰りますね」
「ちょっとお待ちください。私は医者でね…少し診せてもらっても?」
「へえ、お医者さんなんですか。
黒いマントの医者もいるんですね…医者は白衣のイメージでした。
でも大したことないですから。たぶん風邪か何かでしょうけど、
保健室で解熱剤と風邪薬貰ってますし」
「保健室…?」
「おっと、私はそこのトレセン学園でトレーナーやってるもので。
保健室も結構充実してましてね、薬も簡単なものなら出してくれるんですよ」
「トレセン学園のトレーナーさんでしたか。
私も時々医者としてトレセン学園には行くことがありますよ。
確かにあそこの保健室は充実してますね」
「そうですか、学園に来てくださることもある方なんですね。
それじゃあウチの担当もお世話になることもあるかもしれませんが、その時はお願いします」
トレーナーが会釈をして帰ろうとするところを、Kが肩を掴んで引き留めた。
「うおっ…!な、なんですか?」
「少しお待ち下さい。あなたは今の自分を風邪だと考えていますか?」
「え…?さあ…たぶんそうなんじゃないですか?熱っぽくて体がだるいんで…。
でももしかしたらコロナとかかもしれませんね、後で病院に行ってみます」
「もし風邪ならあなたの左腕。それはどうしてそんなに痛むのでしょうね?」
Kがトレーナーの左腕を指さした。
トレーナーが財布を落とした時、不注意や単なる体調不良ではなく、
腕の痛みによるものであることを見抜いていたのだ。
「ああ、これですか。えっと…この腕はちょっと…前に怪我しちゃいましてね。
まあ体調不良とは特に関係ないですよ」
「本当にそうですかね?」
Kはそう言うとトレーナーの左腕に軽く触れた。
トレーナーは痛がり、すぐに腕を引いた。
「痛った!ちょっ、怪我してるって言ったじゃないですか!」
「高熱と気怠さ。そして一見関係ないように見える腕の痛み…
あんた、そのままそれを放っておくと死ぬぞ」
Kが鋭い目つきをしてトレーナーに言い放つ。
「え…し、死ぬ!?」
「そうだ、今すぐ病院に来てもらう。
今のお前はトレーナーではない…治療が必要な患者なのだ!」(ギュッ)
Kはトレーナーを半ば強引に病院へと移動させ、検査を行った。
「包帯を巻いてあるようですが、医師にかかったものではありませんね?」
「は…はい…自分で巻きましたけど…。
あの、本当に腕を見せなければいけませんか?
本当にこの熱と関係あるんですか?」
「大切なことです、見せてください。
私は医者ですので、どのようなものがあっても驚きませんし他言もしません」
「く…。わかりました…。」
トレーナーはしぶしぶ巻いた包帯を解いた。
その腕は赤く色を帯び、腫れている様子も確認できる。
そしてもう一つ…そこにあったのはたくさんの歯形。
彼の腕にはいくつもの歯形が付いていたのだ。
Kは無言でそれを見つめたのち、いくつかの検査に移った。
その結果を見てトレーナーに告げる。
「やはりな…あなたの高熱は風邪や新型コロナウイルスではありません。
その腕に起因する症状の一つでした」
「う、腕がどうして高熱と…?」
「あなたの腕は今…壊死性筋膜炎になりつつある。
これは進行が早い、今日この後手術を行います」
「壊死性筋膜炎…!?それはいったい!?」
「一言で言えば感染症です。
あなたの腕についた歯形…そこから感染したのでしょう。
そこから蜂窩織炎を発症し、それが悪化して壊死性筋膜炎に移行したのです」
【蜂窩織炎】
皮膚と皮下組織に生じる感染症。多くはレンサ球菌が原因菌。
皮膚が赤く腫れて熱感や痛みを伴う。発熱、悪寒、関節痛、倦怠感などが出ることも多い。
細菌はひっかき傷、刺し傷、手術、熱傷、真菌感染症、皮膚の病気など、
通常は皮膚にできた小さな開口部から侵入する。
ただし稀に明らかな傷のない正常な皮膚に起こることもある。
治療は通常は抗菌剤の投与を行い、2週間ほどで治る場合が多い。
重篤な症状や、抗菌剤の効果が薄い場合は原因菌を特定し、
ピンポイントで効果のある薬品を投与する。
膿瘍がある場合は外科的手術で排膿をする。
悪化すると壊死性筋膜炎やガス壊疽に移行することもある。
【壊死性筋膜炎】
筋膜に発生する感染症。
初期症状としてむくみ、疼痛、発熱、水疱、体調不良、赤い斑点が生じる、など。
好気性菌と嫌気性菌の混合感染によるものが多く、進行すると皮下組織の壊死を引き起こす。
四肢および会陰に好発する。患部は発赤して熱感を帯びながら腫脹し、重度の蜂窩織炎に類似する。
見た目と釣り合わない強い疼痛が生じることが症状として挙げられ、それが発見の手掛かりとなる。
しかし末梢神経障害などにより疼痛が少ない場合もあり、痛みでは発覚しない場合もある。
治療が遅れると患部に壊疽が起き、病状は急速に悪化する。
また、播種性血管内凝固(DIC)や敗血症を引き起こす場合もある。
発症すると数時間から数日で重症化するため、早期に積極的な治療を行わなければ非常に危険。
そのまま悪化すると命を落とす可能性も高く、全体の死亡率は3割ほどもある。
敗血症型の場合は7割が死亡する。
「その腕の状況、蜂窩織炎としては十分すぎる状態になっている、かなり痛むはず。
あなたが財布を落としたのもその腕の痛みからでしょう?」
「はい…。数日前から腕が痛みまして…」
「包帯を巻いていたようですし、高熱との関係性はともかく腕の痛みには気づいていたでしょう。
どうして病院に行かなかったんですか?」
「いやあ、その…仕事が忙しくて…」
トレーナーがへらへらと笑いながらそう言うと、
Kは真剣な面持ちでそれに答えた。
「それは嘘ですね。
あなたは私に対しても腕を見せたがらなかった、見せたくない理由があるのでしょう?
それはその傷が歯形だから…『人に嚙まれたもの』であることを、
他人に知られたくなかったからではないですか?」
「……」
どうやら図星のようだ。
トレーナーは目をそらし、無言で汗を垂らしている。
「それは誰に噛まれたものですか?暴行やDVなど事件性のあるものならば、
私は医者として警察に通報しなければなりません」
通報しなければならない。
それを聞いた途端、トレーナーはかなり慌てた様子になった。
「そ…それは困ります!そういうものではありません…!事件性なんて…!」
「ではなんですか?状態から言ってあなた自身のものではない。
犬や猫のような動物咬傷でもない。誰かを庇っているのですか?
被害者はあなたですからね。状況がわかれば、あなたが望まないなら通報はしません」
「そうですか…うう…くっ…わ…わかりました…言います…」
トレーナーは何度か咳ばらいをし、意を決したように説明をした。
「これはその…私のパートナーにやられたものでして…」
「パートナー…奥様や恋人…ですか?」
「いえ…あの…私の担当ウマ娘です…」
そう言った彼の頬は桜のように紅く染まっていた。
「ああ、担当ウマ娘…!どおりで小さい歯型だと思ったのです。
深さから言ってもおそらくは小柄な方のウマ咬傷だろうと…」
【ウマ咬傷】
ヒト咬傷の一種であり、ウマ娘による咬傷を言う。
ウマ娘の咬合力は一般のヒトに比べて強力であるため、
症状が重いことが多いので区別されるようになった。
ヒトに限らず生物の口内には様々な細菌が存在するため、
咬傷を放置すると危険な感染症になる場合がある。
Kはトレーナーの表情を見て大体のことは察したが、もう少しつついてみることにした。
「では、あなたは担当ウマ娘から暴力を受けている…と言うことでしょうか?」
「ち、違います!これはその…あの、そういうアレなアレでして…
彼女の愛情表現と言うか、趣味と言うか、マーキングというか、
ストレス発散と言うか…そういうアレです…!
私もこのことは受け入れてますので…!彼女は悪くありません…!」
トレーナーはしどろもどろに答えた。
「そうですか。まあ人の関係性はそれぞれですから私から言うことはありません。
あなたが受け入れているのなら事件性はないようですね、それならばいいでしょう」
Kは軽く咳払いをして言った。
「しかしですね、程度と言うものがありますよ。『そういうこと』をするのは構いませんが、
血が出るような強い嚙みつきは今回のように感染症を引き起こすこともあります。
安全を考えない行為は、あなただけではなくパートナーまで傷つけることになりえます」
「いえその、そこまでのソレはしてないです…!不純異性交遊はしません…!
ただちょっと噛みたい、噛まれたいだけで…!」
「…あなた方の関係性がなんにせよ、程度は考えろという話です。
それに噛んだ方も噛んだ方ですが、異常を感じながら放置したあなたにも問題があるんですよ?」
「そうですよね、すいません…」
トレーナーは申し訳なさそうに頭を下げる。
その時ふと思った。
「…あっ。
あの子、私以外にも結構噛みつくんですけどやばいですか…?」
「あなた以外に?あなた、噛みつきは担当ウマ娘の愛情表現によるものだと…」
「それはそうなんですけど…元から他人にすぐ噛みついてしまう子なので。
その欲求を私で発散させてる感じでもありまして…それでも時々やらかします…」
「それは絶対にやめさせるべきですね。はっきり言いますが、
あなたのそれをもうしばらく放っておいたら死んでいた可能性が十分にあります。
それだけ咬傷と言うものは危険ですし、そもそも他人にやったら暴行になります」
「ですよねぇ…。説得はしてるんですけど完全にはやめてくれなくて。
本人が言うには『つい噛んでしまう』ということでなかなかやめられないみたいです。
場合によってはレース中の相手にまでやるのでどうにか意識を変えてもらいたいんですが…」
そう、シンコウウインディは出走したライバルへ走ってる最中に噛みついたことがあるのだ。
そのことは彼女の悪名を轟かせることになってしまっており、
トレーナーは真面目に活躍させることでそれを払拭しようと躍起になっている。
「レース中に…!?それはずいぶんと激しいですね。
そうですね、あなたの腕は今日中に手術をしなければなりません。
担当の子を立会人として呼んでいただければ私の方からも注意しますよ」
「お医者さんから言ってもらえればやめてくれるかもしれませんね、お願いできますか?
ただその…打たれ弱い子なので、なるべくやんわりと話してもらいたいんです。
この手術も彼女が原因だとはっきり言うと責任を感じて縮こまってしまうかも…」
「ふむ…配慮はしますが、保証はできかねますね。
私を悪役にして構いませんから、あなたがサポートしてあげてください。
あなたは大切なパートナーなのでしょう?」
「わかりました…。では呼んでみます」
トレーナーがシンコウウインディに連絡を取って手術の件を伝えると、
彼女はすぐさま病院に飛んできた。
「お前~!手術ってどういうことなのだ!!そんなに具合が悪かったのだ!?」
「ごめんな、ちょっとヤバめの病気だったらしくて。
でも手術すればちゃんと治るって先生が言ってたから心配しないでくれ」
「し、心配なんかしてないのだ!
でもお前がいないとウインディちゃん軍のしもべが減ってしまうのだ!
ちゃんと治してまたウインディちゃんのために働けるようにするのだ!
えっと…お医者さん、こいつのことよろしくなのだ」
シンコウウインディはそう言うとKに向ってペコリと頭を下げた。
「ああ、任せておきなさい。君の大切なトレーナーは私が助ける」
「なっ…!べ、別に大切なわけじゃないのだ!勘違いされると困るのだ!
こいつは子分だからいなくなられると困るだけなのだ~!」
「ふっ、そうか。それはすまない」
顔を赤くするシンコウウインディを見て、Kが少し微笑んだ。
「そうだ、まだちゃんと聞いてないけどこいつの病気ってなんなのだ?」
「彼の病気は壊死性筋膜炎。感染症の一種だ。
放置して悪化すると死ぬ場合もあるのでごく軽度な段階で見つけられてよかった」
「げっ、死ぬかもしれなかったのだ!?
全く…ウインディちゃんに仕えるという日頃の行いがいいから軽く済んだんだな!
ウインディちゃんに感謝するのだ!」
「ありがとうございます親分!」
「よし、そろそろ手術を開始する!
シンコウウインディさんは外で待機していてくれ」
「わかったのだ。手術よろしくなのだ…!」
「ああ!」
Kはサムズアップをしてから、トレーナーと共に手術室に入って行った。
ウインディちゃんを見たとき「ヒト咬傷は危険だ!(ギュッ)」と、噛まれたほうがこんな大変なことになったらどうしようと思った人が私以外にもいるはず。