「ダイワスカーレットさん。
あなたがこれから行くべきなのはミーティングではない…病院だ!」
「びょ、病院!?アタシがですか!?どうして…!」
「スカーレットさん。君はここ最近、右目を負傷し、治療をしましたね?」
「え?ええ…。ご存じだったんですか。2月に少しあって…」
Kが右目を観察しはじめた段階で、富永もニュースで見たことを思い出していた。
「そうそう、目の怪我が原因で出走停止になってましたね。
そして怪我をしたのは…右目だった!」
「怪我をしたのは2月ですか。原因と症状は何でしたか?」
「はい…トレーニング中にウッドチップが目に入ってしまって…
それで角膜に傷がついてしまったんです。診てもらったら創傷性の角膜炎だと。
しかしそれはひと月ほどで治ると言われまして…
もう四月半ばなので2か月くらい経っていますよ?もう完治しているはずです…」
「ほう、角膜炎でしたか。しかし治ったのかというと、それはどうでしょうな。
スカーレットさん…君の右目には今、虫のようなものが映っているのでは?」
「っ!」
ダイワスカーレットは図星をつかれたらしく表情を変えた。
「それは君も気づいている通り本物の虫ではない。飛蚊症だ」
沖野が口をはさむ。
「飛蚊症…それなら俺も知ってますよ。視界にゴミみたいなのが見える奴でしょう。
スカーレット、お前…飛蚊症になっていたのか?」
「は、はい、実は…。
でもアタシも知ってますけど、飛蚊症ってそれほど珍しくないものですよね?」
「飛蚊症そのものはな。だが今回問題なのは『原因』、君が『急に発症した』ということなのだ。
それはつい最近発症したものだろう?君の様子を見せてもらったよ。
並走トレーニング中は一対一の勝負だというのにあたりを見回すことが多く、
トレーニング終了後もあたりをきょろきょろと見まわしていた。
それは飛蚊症の症状である視界にちらつく虫のようなものが気になっていたからだろう?
だが以前から飛蚊症であり、慣れている人間ならば症状をそれほど気にすることは無いはずだ」
「うっ…。その通りです…これが起きたのは5日前くらいからです。
右目だけに虫のようなものがちらちらするのが気になってしまって…」
「だから集中できてなかったのか…。気になるなら言ってくれればよかったのに」
沖野が渋い顔をしてそう言った。
「トレーナー、すいませんでした…」
「しかし問題はここからだ。なぜ飛蚊症が起きたのか、原因を突き止めなければならない。
悪い場合は網膜剥離に起因することもあり、そうなると失明の危険も出てくる。
すぐにでも眼科に行って調べてみるべきです」
その言葉を聞いた沖野がうなずく。
「そうですよね、走りにも影響が出ているようですし…
よし、今日の後半のトレーニングは中止して調べてもらおう。
俺も付き添うから、他のメンバーには自主練してもらうよう言ってくるな」
そうして眼科に移動した一行。
そこでKらはダイワスカーレットの右目を詳しく検査した。
「ふむ、やはりな…富永、これを見れば原因が分かるな?」
「は、はい!これは…!」
富永が検査した写真をダイワスカーレットらに見せ、状況を説明した。
「検査が終わりました。ダイワスカーレットさんの目は…網膜裂孔です。
悪化すれば網膜剥離に移行する可能性もある状態です」
【網膜裂孔】
網膜の一部が裂けたり、薄くなって穴が空いたりする症状。
老化による硝子体の変化、強度の近視による網膜の萎縮、
異物や激突などによる外傷などが原因で起こる。
そのまま放置すると硝子体の水分が裂孔に入り込み、
網膜剥離へと進行することがあるため、早急な対処が望ましい。
しかし網膜には痛覚がなく、小さい裂孔では自覚症状が少ないことも多いため、
網膜剥離まで進行してから初めて異常に気づくことも少なくない。
おもな症状としては視界にゴミや虫のようなものがちらつく飛蚊症の発症、
光が当たっていないのに光を感じてしまう光視症の発症などがある。
診断を受けて沖野が言う。
「網膜裂孔…!それはどうして起きたんですか!?前の怪我が原因ですか!?」
「うむ、原因そのものはそうだろう。
その怪我ではウッドチップが目に入ったと言っていたが、
その時に網膜にも損傷があったと考えられる」
「くっ、角膜炎だからそれを治せば大丈夫だと言われていたのに…!
網膜の傷を見逃されていたなんて…!」
あのヤブ医者が、と怒りをあらわにする沖野に対して、Kは冷静に話をつづけた。
「さて、本当に見逃されていたのかどうか。その時の医師は何と言っていましたか?
どうするよう指示されましたか?」
沖野が当時の記憶をたどりながら答える。
「えーっと確かあの時は…ウッドチップによる損傷で角膜炎が起きている。
異物は取ったから、点眼薬を使用しておけばひと月ほどで治るだろう、と。
スカーレット、ちゃんと薬はつけていたんだよな?」
「はい、もらった薬は欠かさずつけていました」
「ふむ、その時の傷の状態を細かくは知りませんが、
おそらく私も同じような診断をしたでしょうね。
薬もちゃんとつけていたのなら特にいうことはありません」
「え、それじゃあ問題ないってことですか?でも現にこうして網膜が…」
「しかし、その時の医師の話は今のですべてですか?
こうも言っていたのではないですか?『傷が治るまでは安静にすること』…と」
Kがジロリ、と視線をダイワスカーレットに向けた。
「あっ!!」
沖野が思い出したように声を上げ、ダイワスカーレットの方に顔を向ける。
するとダイワスカーレットは顔を背け、体を小さく震わせる。
「スカーレット、お前まさか…治療中に何かやったのか?」
「……」
ダイワスカーレットは無言で汗を流している。
「私の見立てではこうです。スカーレットさんはウッドチップが目に入り角膜を損傷した。
しかし同時に網膜にも軽い傷をつけていた。
だが医師の診断ではそちらは微量であり、
角膜炎の治療をすれば同時に自然治癒される程度の軽い物。
だからそちらについてはスカーレットさんには伝えることは無く角膜炎用の点眼薬を出した…。
しかし医師からの指示に反し、君は治療中でも激しい運動をしていたのではないか?
幸い角膜炎の方は点眼薬の効能もあり無事に治癒されたが、
一方で網膜の傷は少しずつ広がってしまい…ついに網膜裂孔を引き起こした」
ダイワスカーレットは観念したかのように話し始めた。
「……そう、です。治療中にアタシ…勝手に自主トレをしてました。
お医者さんも、トレーナーさんも、安静にしていろと言っていたのに、それなのに…。
悔しかったんです。怪我がなければレースに出られたのにって。
それに…みんなに置いて行かれるのが怖かった…。
トレーニングを休んでいるアタシと、トレーニングを頑張るみんな…
これが大きな差になるんだって思って怖かったんです。
だから…だからアタシ…」
「君の気持ちは理解できる。
だが怪我をしたときに無理をすると、悪化して更なる怪我につながることがある。
もし今回のこれが悪化して網膜剥離を引き起こしていたら、最悪の場合失明になる可能性もある。
自分の体調と向き合い、それに合わせて適切な行動をする、
それもまたアスリートとしてあるべき姿ではないか?」
「はい…ごめんなさい…」
肩を落として謝るダイワスカーレット。
「スカーレット…」
ダイワスカーレットが己の行動を悔んでいる様子を見て、
沖野はどう声をかけたもんかな、と考える。
しかしひとまずはこの怪我が治るのかどうか、それが気になる。
「あの、先生。スカーレットの目は治るんですか?」
検査結果を見ながらKが言う。
「ああ、網膜裂孔だがまだ軽度な段階だ。
レーザー治療をすれば今日中に施術は済むし、これ以上悪化することもないだろう。
とはいえもちろん…約2週間。患部が安定するまでは、安静にしてもらうがな」
Kが鋭い眼光でダイワスカーレットに視線を向けると、
彼女はばつが悪そうにしながら、小さく「はい」と答えた。
「そうですか、よかった。ぜひお願いします」
あまり深刻ではないという説明を受け、沖野は安心したようだった。
そうしてKによる施術がつつがなく終了した。
「網膜裂孔はレーザーで患部の周囲を焼き固めることで進行を防ぐことができる。
他にやることは点眼薬を毎日つけることだけだ。
ただし稀にレーザーの効果が薄い体質の人もいるので1週間後に経過観察をしよう。
そこで問題がなければ2週間後に運動は解禁、一月後には治療は完了だ」
説明を受け、ダイワスカーレットが答える。
「わかりました、ありがとうございます」
ダイワスカーレットは少し遠くを見つめながら話し出した。
「アタシ、バカですね。焦ってるからって言いつけを破って勝手なことをして、
そしたら余計に問題が大きくなってこんなことになっちゃった。
安易に近道をしようとしたら、道に迷って怪我をした…そんな感じ。
何やってるんだろ、アタシ。負けず嫌いだから、余裕のない性格なんですね。本当情けない…」
自責の念に苛まれるダイワスカーレット。
沖野が声をかけようとすると、それよりも先に富永が声を出した。
「情けないなんて、そんなことないよ!
頑張りたいって思った君のその気持ち、僕にもわかるから。
僕はね、医者としてはまだまだ未熟で、このK先生の下で色々学んでいる最中なんだ。
でもさァ、K先生は本当に優秀すぎて、僕なんか毎日挫折させられてるようなもんだよ。
それに、一緒に勉強をしている…僕よりもずっと年下の人がいるんだけどね、
彼にも何度も負けたって感じさせられることがあって怖くなっちゃうよ。
そうするといつも思うんだ、『僕だけ置いて行かれてるんじゃないか』ってさ」
「でも思ったんだよ。置いて行かれるのに何の問題があるんだろう?ってね。
人の進むスピードは様々だ。すごいスピードで走る人もいれば、ゆっくりじっくり歩く人もいる。
そりゃあ速いに越したことはないだろうけど、
無理に合わせると疲れちゃうし、躓いたりするかもしれない。
だから僕は、『僕にあった速さ』で走っていく。
僕よりも速い人がいて、憧れるしそうなりたいと思うけど…
何よりも大切なのは最後に目標へたどり着くこと!
先に行かれたっていいじゃない、後から追いついてやればいいんだから!」
「今回、君のやり方は間違ってしまったかもしれない。
でも、君の考えまで間違いだとは思わなくていいと思うよ。
成長したい、負けたくないという気持ち、それはきっと大切なものだから。
君には目指す夢があるんだろう?
ならさ、今回のことは一度しっかり反省したらもう気にしないことだよ!
後ろを向いてると脚が遅くなっちゃうでしょ?
僕は、実はダイワスカーレットさんの大ファンだから…
目が治ったら、また前以上の素敵な走りを見せてほしいな!」
力強く励まし、ニッコリと笑う富永。
富永の熱い言葉を静かに聞いていたダイワスカーレット。
その目には光が灯り、元気を取り戻したようだった。
「…ありがとうございます先生。
そうですね。立ち止まるのも、後ろを向くのも、そっちの方が情けないですよね。
先生たちが治してくれたこの目で、ちゃんと前を向いていきます。
でもゆっくりは歩けないですよ?アタシ、負けず嫌いですもん。
誰よりも速く走って見せます!アタシはダイワスカーレット、1番を目指すウマ娘ですから!」
「その意気だよ!僕も応援してるからね!」
「頑張ります!次に出るレース、よければ招待状送りますから見に来てくださいね!」
治療を終え、ダイワスカーレットを送り届けて、帰路につく沖野とK、富永。
道すがら沖野がKたちにお礼を言った。
「K先生、富永先生、今回はありがとうございました。
担当ウマ娘の行動や不調に気付かなかったなんて、トレーナーの面目丸つぶれですよ。
先生のような方に会えて本当によかった」
「そんなことはありませんよ。
私が異常に気づけたのはトレーナーさんを信用しているからなんですから」
「俺を…?」
それはどうして、という表情をする沖野。
「ええ、今回私が気づけたのは私の医者としての長い経験によるもので、
トレーナーさんがすぐに気づくのは難しい。
うちの富永でも最初は理解していませんでしたからね。
しかし私が異常を異常と判断したのは、
トレーナーさんはウマ娘の体調管理をきちんとしているだろうという信頼からなのです。
だからあれが、おそらくいつもと違う何らかの異常であると推測できたわけです」
「そう言っていただけると救われますよ。
ははは、スカーレットの目の治療だけじゃなくて、
あいつのメンタル面も、俺のメンタル面まで治療してもらっちゃいましたね」
「いえ…きっかけは与えましたが、彼女のメンタルを治療するのは我々ではありません。
信頼すべきトレーナーであるあなたももちろんそうですが…
彼女にはいるんでしょう?決して負けたくないと思う、そんな唯一無二のライバルが――」
目の治療を終えて部屋に戻ってきたダイワスカーレット。
部屋に入ると、部屋の中をうろうろしていたらしいウオッカと目が合った。
「お、スカーレット!戻ってきたのか!目、大丈夫だったか?」
「うん。あんまりひどいことにはなってないって」
「そうかぁ、よかったじゃねーか」
露骨には態度に出さないが、安堵した様子のウオッカ。
純粋に心配してくれていたらしいウオッカを見て、
ダイワスカーレットはむしろ落ち着かない気持ちになった。
富永の言葉で気持ちを入れ替えたはずなのに、ウオッカの前では素直な気持ちになれなかった。
「…笑いなさいよ。原因は、この前アタシが目に怪我をしたでしょ?
でもそれが治ってもいないうちから勝手に自主練したから悪化しちゃったんだって。
随分と間抜けな話よね。こんなことで何が優等生なんだか…」
やめた方がいいと頭ではわかっているのに、
素直になれず言わなくていいようなことを言ってしまう。
どうしてアタシはこんな感じなんだろうと思っていると、ウオッカが言った。
「笑わねーよ。別に遊んでてそうなったわけじゃねーんだろ?
俺はお前がいつも本気だってこと知ってるからよ、その…
いつでもまっすぐなその気持ちはカッコいいって思うぜ」
「ウオッカ…」
「今日は俺が勝ったと思ってたのにお前が体調不良だったんじゃ意味ねーよな。
怪我が治ったらまた勝負しようぜ!そん時、改めてぶっ飛ばしてやるからよ!
俺はお前に負けたくないんだ。だから…本気のお前とやると、すげーパワーが出せんだよ!
なんつーか、その…ライバル、だからなっ!」
照れくさそうに、ツンとしながらそう言ったウオッカ。
それを見たスカーレットは、
ウオッカは落ち込んでる自分のことを励まそうとしてくれている、とわかった。
なによウオッカ。アンタ、随分カッコいいじゃない…。
スカーレットは顔を背けて、少し目を拭いた。
「ん、どうしたスカーレット?」
「な、何でもないわよ!治療してもらった傷が疼いちゃったのよ!」
「へへっ、そういうことにしておくか」
「ふんっ、ちゃんと準備しておいてよね。これが治ったら、またアンタと一騎打ちしてやるわ。
その時はアタシがぶっちぎってやるんだから」
「お前こそ、万全の態勢で負けたからって泣きべそかかないようにしておけよ?」
「何言ってんのよ、勝つのはアタシよ」
「いーや、俺だね」
「アタシよ!」「俺だ!」
しばしの間、にらみ合う二人。
「「ぷっ、あはははっ!」」
そしてどちらともなく、しばらく笑い合った。
「はーっ、なんか笑っちまったぜ。スカーレットもいつも通りに戻ったみてーだな」
「ふふっ、そうね。…ありがと、ウオッカ」
「…ん。」
そして2週間後。その日のトレーニングコースには、
ウオッカと火花を散らして元気に走るダイワスカーレットの姿があった。
「アンタには負けない!」
「お前には負けねえ!」
「「はあああああ!!!」」
K先生は人当たりがよく丁寧な人なので、気心の知れた人と悪人以外には敬語で話すことが多いですが、患者に病状の説明を始めると急に敬語が消えることが割とあります。医療の話になると素が出ちゃうんでしょう。